父の先見
アジア史概説
学生社 1973
一冊の書物が誕生するにあたっては、それなりの小さな苦難や意外が付きまとう。
本書についてもその壮大な内容を浴びるにあたって、どのような苦難や意外がそこに付きまとったかということを知ると、もっと内容が身に染みてくる。『アジア史概説』の誕生の苦難と意外は、その時代背景から見ると看過できない大きさをもっていた。
いまぼくの手元にある本書は、1973年に学生社から刊行された同名の著書が中央公論社によって文庫化されたものである。
そのころ学生社は尾鍋輝彦の『西洋史概説』を出していて、これと一対にするために宮崎市定の『アジア史概説』が選ばれた。しかし、宮崎はこれを書き下ろしたのではなかった。すでに1947年に人文書林という版元から出された正続2冊の旧版『アジヤ史概説』があって、これに手直しを入れて原稿とした。
ところが実は、この人文書林の旧版『アジヤ史概説』は、さらにそれ以前の稿本を元にしたものだった。この稿本はもともと『大東亜史概説』となるはずだったもので、時の文部省が『国史概説』と一対にするべく企画し、その要請にもとづいて執筆するようになっていた。けれども、あらかたのその執筆がおわったところで敗戦となり、幻の一書となっていたものなのである。
宮崎市定の研究の第一人者の礪波護によると、事情は次のようなものだった。
1942年7月、文部省の教学局で『大東亜史概説』編纂の計画が持ち上がった。
文部省の狙いはこれを上梓したら、大東亜共栄圏の各国語に翻訳して、その国の民衆に読ませようということにあった。そのため東京帝大の池内宏、京都帝大の羽田亨らが編纂責任者となって、鈴木俊・山本達郎・宮崎市定・安部健夫の4人に執筆が委嘱された。
文部省の意向による大東亜とは、ビルマ以東の領域をさす。また叙述の内容としては、世界で最も古い文化をもつ日本を扇の要の中心において、皇国の文化が朝鮮・支那からアジア各地へ光被していくような歴史書を期待した。
いくら戦争中とはいえ、宮崎らがそんな逆立ちしたようなアジア史が書けるはずはない。4人は鳩首を揃えて苦心のあげく、叙述の範囲をビルマ以東にかぎらずにアジア全域に広げ、また日本を扇の要とするのではなく最古の文明を西アジアにおいて、それがしだいに東に広まって、最後の日本に執着して最高度の完成度を結晶させたというふうな執筆プランにすることにした。
この答申に対して、文部省は大東亜の範囲が広がるのならいくら広がってもかまわないという、甚だおめでたい回答だったらしい。西アジアが発祥点で日本が終着点であるということにも、まったく反論をしてこなかった。いささか拍子抜けしたと、のちに宮崎は感想を述べている。
ともかくもこれでスタートを切った『アジヤ史概説』は、全体を4時代4部として、各人が一部を管理して多くの執筆者を動員して第一次原稿を書いてもらい、それをもとに4人が第二次草稿を仕上げるという手筈をとった。
第一部の上古から中国古代までを担当した宮崎の第二次草稿が、こうして1944年に完成したのだが、日本はそのまま激戦に突入、出版どころではなくなり、翌年には敗戦を迎えて、出版企画そのものが雲散霧消してしまったのである。
敗戦後、戦争責任を問う動きが激しくなった。しかし宮崎はタイプ化された草稿を決して提出することなく、ひたすら手元に隠しつづけた。
ほとぼりが収まってきた1947年、安部健夫が連れてきた人文書林が宮崎の草稿を入手して、『アジヤ史概説・正篇』が出版された。本文庫版の緒論から第3章にあたる。続篇は安部が書く予定だったのだが、病気に罹ってしまった。そこで宮崎がかつての断片をもとにしながらも構想を新たに一気に執筆した。これが旧版『アジヤ史概説・続篇』で、そのまま学生社版となり、さらに本文庫の第4章から第7章にあたるものになった。ここは、『大東亜史概説』とはまったく離れて執筆されたのである。たしかにいま読んでも、この部分は文体も展開のつながりも、前半とは少しちがっている。
しかしさて、ここからが宮崎市定という史学者の凄いところを案内する話になるのだが、前半部分が『大東亜史』のために書かれたとはいいながらも、またいくぶん差別的記述が残照したままであるとはいえ、その全容を動かす記述はいま読んでもまったく遜色のない堂々とした宮崎史学になっている。このことこそが、本書を読むに、深く考えさせられる価値になるところなのである。
さて、このような前歴を知ったうえで本書の中身をどう伝えるかというと、きっとアジアという大陸が自身の歴史を自己記述したらどうなるかというような、いわば“地球上で最も大きな歴史教科書問題”に立ち向かうということになって、とうていぼくにはそんな芸当はできそうもない。
そこでごくごく蓮っ葉な感想を言うにとどめるが、まず言っておきたいのは、内藤湖南の支那史論がもはや堅くて読めないと感じる世代ばかりが蔓延(はびこ)っている以上、本書こそは現代日本人のアジア史ステーションとしたほうがいいということだ。
ステーションという意味は、これが正しいアジア史だという意味ではない。このような宮崎市定の記述にしばし浸ってアジアの歴史を一挙に通過する無数の列車に乗るために、この一書というテキスト体験をステーションとしてみたら、ここから派生するどんな問題にも濃くも薄くも、速くも遅くも自由に飛び乗れるようになるのではないか、そういう意味である。
そもそも宮崎史学の特徴は「交通」なのである。交通史観あるいは交渉史観という評判もある。
宮崎にとってはヨーロッパと西アジアは同時に見るべき歴史の屏風であり、インド・中国・ベトナム・日本も同時交通的に眺めるべきパノラマなのである。宮崎には「地上人類の知能はほぼ平均しており、先進国つねに先進国たらず、後進国つねに後進国たらず、先進国の優位は交通によってたちまち後進国の奪い去るところとなるのである」というような根本的な視点が貫いている。
この動く視点が、ここをステーションとしてもびくともしないほどのアジア史中央駅をつくっている。
実際にも、本書のいたるところに高速アジア交通のドップラー・エフェクトともいうべき事象例が示されている。それはヘレニズムの移動とか大乗仏教の波及といったおおまかなものではなく、王奔の纂奪と儒教貨幣経済とペルシア文化の交錯であり、西突厥の主権制度と高句麗の政治保護感覚と南シナ海の航海感覚の乗り入れであり、オスマントルコのカリフの愛したミニアチュールと中国屏風と日本の漆器の乗り換えや着替えぐあいといった、まるでそこを指で押してそのまま指にくっつけた事象を高速に1000キロ、5000キロを移動させるような、それらをまた別の指が触知するような、そういうドップラー的な動く視点なのだ。
宮崎は本書の結語に、こんなことを書いている。「インドと日本の世界史上の位置ははなはだ似たものがある」というふうに。
このことを、ではわれわれはどれほど説明できるかということを考えてみるとよい。たとえば徳川幕府とムガール帝国がどのような近世をもったのか、インドにとっての喜望峰の航路の出現と、日本における太平洋航路の出現がどういう意味をもたらしたのか、そういうことを考えてみるとよい。そうすれば、イギリス領インド帝国の成立と明治維新がたった10年のちがいで、何か似たような出来事を体験していることも見えてくる。
これは一例である。しかし、本書は随所にこのような一例を孕ませている。宮崎市定がつくったアジア・ステーションに発着する列車に、一度は飛び乗ってみることだ。