父の先見
短歌一生
講談社学術文庫 1987
「吹かれて歩き、歌をついばんで、帰る」と上田三四二は綴って「余命」という随筆を結んだ。三四二はこういう言い方が似合う歌人である。
三四二は短歌を「日本語の底荷」だと言った。短歌だけではなく俳句も底荷であると言う。つねに俳句に理解を示した歌人でもあった。底荷というのは船の底に積まれる荷物のことで、バラストという。運賃には関係がない。が、これによって船は嵐のなかでも暴風のなかでも航行できる。
バラストに対応しているのはマストである。帆である。かつてもいまも、短歌をマストにする運動も歌人の矜持もあったけれど、三四二は短歌をあくまでバラストとみなしてきた。「短歌は帆となって現代の日本語という言葉の船を推し進める力を持たない」とも書いている。たしかに、現代の日本語を推進しているのは短歌や俳句ではなく、詩ですらなくて、ポップミュージックや吉本興業やガキの言い回しであろう。
三四二は、短歌がそういう目に付く役割をもたなくとも、「現代の日本語というこの活気はあるがきわめて猥雑な船を、転覆から救う目に見えない力」となればいいのではないか、そういう磨かれた言葉のためのバラストになればいいと考えている。こういう人を貴色というのである。
ぼくは上田三四二の歌もさることながら、むしろ文章を味読するのが好きだった。
詩歌のもつ価値を照らす言葉に衒いがないからである。『この世この生』という昭和59年度の読売文学賞をうけた一冊に、「遊戯良寛」がある。修善寺に病を患った漱石が良寛を想ったことを端緒にして三四二の良寛像を淡々と綴ったものだが、これを読んで上田三四二の何たるかがよく得心できた。
手鞠のように地面に向かって突きつづけること、それが上田三四二にとっての歌なのだ。
『この世この生』は明恵・西行・道元・良寛の4人をとりあげているのだが、もう一人書きたかった人物がいたようだ。寂室元光である。近江永源寺に入って「五山、近江に動く」と言われたほど、その器量を慕って京都の五山僧や貴族や武士が挙(こぞ)って永源寺を訪れたという人物だが、日本漢詩史上でもぼくがとくに好きな漢詩を綴った詩僧でもあった。
その寂室元光を書きたかったというのが、またいかにも三四二らしかった。が、当人はこの年は春頃から血尿が出て、夏には2度目の癌研に入院して、この志をまっとうできなかった。
本書はそうした自身の約束を果たせなかった三四二が、やむなく過去の随筆を五つの章に分かって、まさに来方行方を眺望しようと編んだもの、「物に到るこころ」という副題が付けられた。
医者でありながら、つねに大病に冒されつづけた三四二の、まさに短歌一生が綴られ、配されている。
上田三四二の「短歌はどういうものであるべきか」というより、「どうあってほしいか」ということをめぐっての文章は、しばしば凛然とした一輪の花のような美しさを感じる。
たとえば、短歌の言葉は手拭だというのである。手拭をしぼるときに最後の一しぼりを加えると、きりっとなる。生け花の根じめを見ても、上手の手になったものはきりっとしている。短歌もそういうもので、言葉を手拭のようにしぼらなければならない。
しかし、ここで大事なことは言葉は手拭のようにふだんは実用の言葉なんだということである。花も野に乱れ咲き、勝手に枯れているものなんだということである。それを短歌にしたり生け花にするには、実用の言葉をしぼることなのだ。
たとえば、短歌は焼き物だともいう。土も釉薬も自分のものではないが、作っているうちに得分が出てくる。けれども、最後はこれが窯に入って火を浴びて出てくるところが本当の得分なのだ。その得分を見て、また作歌の本来に戻っていかなければならない。
こういうことがわかってくるには、ともかく窯から出て人目に晒されてきた秀歌をたくさん読むことである。そうすると、どんな歌が「うつり」のよい歌であるかがだんだんわかってくる。その「うつり」が発止と言葉になっているかどうか、そこが見えてくれば歌は見えてくる。
こういう話が、まるで包丁から刺身が次々に生まれるように、とくに構想など立てずに、ふっと出て皿にのっている。
上田三四二は「怨念」という言葉を嫌う。こういう言葉を散らかしているから、日本がおかしくなっているという。怨念ではなくて「浄念」といえばよいのにと、呟く。
この呟きをいたずらに拡声してはならないのであろうとおもう。怨念ではなくて浄念と言ったときに、声を張り上げない。三四二は歌は訴えであるとは言うのだが、その訴えはその「物の心」と当分であってほしいのだ。
こういう三四二の歌は処女作にすべてがあらわれている。「朝日うけて白くかがやく霜柱の林はもろし こもごも倒る」というもので、霜柱のフラジャイルな林立が目の高さで歌われている。京大の医学生のころの歌らしい。
それから三四二は医者の道を歩むのだが、自身の体調こそがつねにフラジャイルで、大患を何度もくぐりぬけながら、短歌を詠み、文章を綴ってきた。そこにはたえず「いのちとかたち」が問われていた。
その三四二がついに66歳を綴じて語ったことは、歌とは「時にただよふ」という、この一事であったとおもう。これはどのように「さま」を詠むかということに尽きている。
昭和49年、上田三四二は那智の滝に来て、こんな歌を詠んだ。この「さま」こそが短歌なのである。