才事記

土佐日記

紀貫之

角川文庫 1960

 承平4年(934)、貫之は土佐守としての4年の任期をおえて京に旅立つ。12月21日から翌2月16日までの舟旅で、ちょうど55日にわたる。
 貫之はこの55日間の出来事を(たった一行の記録という日も少なくないものの)、とりあえずは1日ずつ記録にのこした。それが『土佐日記』である。いや、記録にのこしたのか、あとから書いたのかはわからない。当時は「具注暦」というものがあって、貴族や役人は漢文で日記日録をつける習慣をもっていた。貫之もそのような漢文日録をつけておいて、それをあとから仮名の文章になおしたのかもしれない。あるいは道中から和文備忘録を綴っていたのかもしれない。
 そういうことがいろいろはっきりしない『土佐日記』だが、なかでも問題は、なぜ貫之は日記を仮名の文章にしたのかということである。なにゆえに「男もすなる日記といふものを女もしてみむとてするなり」という擬装を思いついたのか(実際には『土佐日記』は仮名のみの表記だが、ここではわかりやすくするために漢字仮名交じり文にする)。

 女性の文章に仮託したため、もうひとつ、ふたつの擬装にも徹することになった。
 冒頭から、「ある人、縣の四年五年果てて、例のことどもみなしをへて、解由などとりて、住む館よりいでて、舟にのるべきところへわたる」というふうに、自分のことを「ある人」とした。ある女が眺めている「ある人」の旅の道中というふうにした。挿入した歌も貫之がつくっていながら、別のある人の歌の引用に見せたりもしている。
 二重の擬態装。三重の仮託。
 漢字と仮名。男と女。それに加えて、日記と創作。地の文と歌の紹介。貫之は何をどのように考えてこんなことに走ったのか。そんなことは無自覚だったのか。
 仮に無自覚であったとしても、このことはその後の日本文芸に、日記であって物語であるような新たな文芸様式の試みを次々に創発させたのである。「千夜千冊」でとりあげた例でいえば、『和泉式部日記』など、まさに日記であって物語であった。あのような様式は、貫之がすべて創発したものだったのである。だとしたら貫之が無自覚であるはずがない。

 貫之が『土佐日記』を綴ったのは、どうやら60歳すぎ、あるいは70歳に近いころで、最晩年のことだった。
 それまでに『古今和歌集』の編集責任者などの大役を担っていながら、貫之は老年になって遠い土佐守に任ぜられた。約5年間の任期。その帰途を日記に仕立てた。それまでも赴任や遥任はあった。しかし貫之は土佐の帰途だけを日記にした。そこには理由があるはずである。何の魂胆もなくて、いわばトランスヴェスタイトともいうべきスタイルをとってまでして、不思議な女装文章にしたとは考えにくい。
 ひそかに歴史にのこそうとしたのか、それとも『土佐日記』にはいくつもの象徴的な和歌が織りこまれているのだが、そのように和歌を織りこむ日記和文様式を通して、後世に何かを託す気があったのか、どうか。
 こうしたことをずっと考えてきたので、ここではそのことにふれてみたい。

 貫之は紀望行の子で、紀友則とは従兄弟どうしにあたる。生年ははっきりしないが、おそらく貞観10年(868)か、その5年後までのあたりであろう。
 その貫之の名が最初に記録に見えるのは、寛平5年(894)以前の是貞親王の歌合や有名な「寛平御時后宮歌合」のときだから、だいたい20歳そこそこか、20代半ばのことだった。そうだとすると、このころは菅原道真の絶頂期で、道真が遣唐使の廃止を提案したときにあたる。このとき貫之は、若くして宮廷の歌合に招かれるほどの、かなり知られた歌人になっていたわけである。
 道真についてはここではふれないが、道真は親政を敷いた宇多天皇に抜擢されて、続く少年天皇・醍醐の右大臣をつとめた官吏で、漢詩の達人だった。それとともに、時代が漢詩主流文化から和歌主流文化に移行するのを支えた文人でもあった。その道真がかなり深く編集にかかわったとみられる『新撰万葉集』という興味の尽きない和漢詩歌集があるのだが、この上巻がやはり寛平5年あたりに成立していた。
 『新撰万葉集』は和歌と漢詩を並べたもので、しかも他には見られない独得の真仮名表記をとっていた。
 和歌と漢詩を並べるとはどういうことかというと、たとえば和歌に「奥山に紅葉ふみわけなく鹿のこゑきくときぞ秋はかなしき」とあれば、それに合わせて漢詩は「秋山寂々として葉零々たり、麋鹿の鳴く音数処に聆ゆ‥」というふうに、七言絶句にして併記した。それなりに実験に富んだ手法を駆使するものである。
 ところが、このように漢詩と和歌をやすやすと対同的に並べることができた才能の持ち主でもあった道真が、貫之が昇殿するようになった寛平5年前後を最後に、突然に左遷された。この道真の没落は菅家そのものの没落であり、紀家の貫之にとっても他人事ではなかった。紀家も大伴家も、のちの歴史が証したように、すでに藤原一族によって追い落としを仕掛けられていたからだ。しかし、貫之は歌人としては宇多天皇に認められている。しかも和漢並立の才能を誇る時代は、道真とともに後退しつつある。
 貫之をめぐっては、まずはこういう「家の消長」と「歌人としての栄光」と「和漢の並立」という、そのひとつひとつだけでもかなり歴史的な意味をもった事情が互いに重なりあうような、そんな出発点があった。

 こういう背景をもった貫之が、晩年に風変わりな諧謔と隠者の趣向を発芽させたような『土佐日記』を、女装型仮名文として書いてみせた事情の奥行を考えてみると、そこにはそれ以前から貫之が計画したか、ないしは計画したかった"あること"が浮かびあがってくる。
 その"あること"とは、貫之の「日本語計画」ともいうべきものである。
 はたして「日本語計画」などと言っていいかどうかはわからないけれど、まあ、それに近いおもいはあったであろう。そのおもいを溯っていくと、その発端は宇多天皇が好んだ屏風歌の制作や御書所預(みふみどころのあずかり)の仕事に従事していたあたりに胚胎し、『古今和歌集』の真名序と仮名序の併置となってはっきり浮上した。
 貫之が仮名序を書いたことは(真名序は紀淑望だとされているものの、当然、貫之のディレクションがあった)、日本文芸における倭語から和語への進捗をもたらしたのであるが、そんなことをおもいつけた意図を推理するには、そのころ貫之がどんな位置にいたかという日本語表現環境を知っておかなければならない。

 急いでたどってみよう。まず惟喬親王サロンがあった。この和風文化の前駆体ともいうべきサロンに、祖父の従弟の紀有常や有常女を妻とした在原業平がいた。遍照・小町などを加えて、後の世に六歌仙時代といわれる。
 けれども有常も業平も、また惟喬親王も、ありあまる文才や詩魂がありながらも、もろもろの事情で失意の裡に王朝文化を飾りきれなかった。
 そうしたあとに宇多天皇が即位する。途中、阿衝の紛議などがあり、それまで自在に権力をふるっていた藤原基経の横暴に懲りた宇多天皇は、いよいよ関白をおかずに親(みず)から政務をとって、前代の摂関政治に代わる親政を敷く。これが寛平・延喜時代の開幕である。ここで菅原道真・紀長谷雄らの学者文人が登用され、宮廷行事のなかに「歌合」(うたあわせ)が採りこまれた。歌合の登場がまことに重要だ。
 歌合は「物合」(ものあわせ)に付随して始まったもので、前栽の花々や菊や美しい小箱を合わせて優劣を競っていた宮中や院の遊びに、興をさらに募らせるべく和歌が添えられたのが最初であったとおもわれる。
 だからこの時期の歌合はまだまだ揺籃期というべきで、のちの歌論めいた真剣な評定評釈の水準には至らないのだが、そのかわり、むしろその場の雰囲気や趣向にあうこと、あわせることを当意即妙に見せるのがおもしろがられていた。
 宇多天皇もなかなかの文藻の持ち主だったので、この和歌の歌合は捨てたものじゃないということになり、それまで漢詩のずっと下にいた和歌の地位向上にも関心をもった。寛平5年以前の后宮(きさいのみや)歌合は実に百番二百首をこえる大規模な歌の宴となっている。
 この歌合の場に若き貫之が列席できていたということが、すべての魂胆のスタートだったにちがいない。

 一方、さきほども書いたように、道真らは『新撰万葉集』を編んで漢詩に対する和歌の対同を遊び、ここからも和歌の向上がはかられた。
 こうして貴族たちが挙って和歌にしだいに関心を寄せていくことになってきたのであるが、もちろんその段階では、誰も「和文」を持ち出すまでには及んでいなかった。
 延喜元年(901)のこと、貫之は御書所預に選ばれて、禁中の図書を掌ることになった。
 これは宮廷の図書室長のような職掌についたということである。そして、このときあたりから貫之のライブラリアンとしての編集能力が、つまりはエディターシップの才能が開花した。それはまた歌合を重視しはじめた宇多宮廷サロンにとっても必要な才能だったはずである。誰もエディターシップをとろうとしないサロンなど、古今東西充実したためしがない。歌合は「場のサロン」であって、「和語のクラブ」であるべきだった。
 やがて宇多天皇は落飾して、帝位を13歳の醍醐に譲る。けれども宇多院が文化の帝王であることは変わらず、各地への遊幸にも熱心だったし、歌の宴も煽っていた。なかでも『万葉集』以来の勅選歌集を和歌でこそ編纂したかった。この『古今和歌集』の計画には若き醍醐帝にもすこぶる心惹かれるところがあったらしく、そこで編集委員に選ばれたのが紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠峯の気鋭の4人だった。
 編集室は「御書所」か「承香殿の東なるところ」、帝から期待された編集方針は「古質之語」に学ぼうとするところとなった。勅命が下ったのは延喜5年のことだった。

 ここで貫之が持ち前のエディターシップを和歌の場を背景に、いよいよ「文」にも発揮する。『古今和歌集』の編纂はその絶好の機会を貫之に与えたのである。
 むろん『万葉集』以降の和歌秀歌の選抜もたいそう苦心の作業ではあったけれど、これは「詔して各家集ならびに古来の旧歌を献ぜしむ」という第一編集段階と、それらを選抜分類して部立(ぶだて)をつくる第二編集段階とに分業できたので、どちらかといえば協同的なスタッフワークができた。「夜の更くるまでとかう云ふ」ような喧々諤々の議論もあった。
 しかし、序文はどうか。これは貫之一人の才能に頼られた。
 ここで貫之は、かねておもうところのあった仮名による和文の序の執筆に走る。貫之は綴った。おそらく一気呵成であったろう。
 これが、「やまとうたは人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」「世の中にある人、ことわざしげきものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひだせるなり」で始まる、あの有名な仮名序となった。
 世阿弥『花伝書』や芭蕉『奥の細道』の冒頭に匹敵する画期の一文だが、むろん世阿弥や芭蕉がこの仮名序に倣った。

 仮名序の内容はここでは措いておく。
 問題は貫之が満を持したかのように、仮名の文章を漢字の文章に対同させたことである。
 漢詩と和歌は比べられてきた。たえず対同されてきた。そういうことは道真もうまかった。しかし、漢文に対する和文の対置はまだ誰も試みたことがない。貫之は勅撰和歌集という絶好の機会を千載一遇として、一挙に書き連ねてみせたのだ。漢文の真名序は貫之の意向を配慮して、淑望が書いた。
 貫之の仮名序は真名序と対応していただけではない。部立とも対応した。いや、おそらくは部立を編集するうちに、はたと仮名序の必要に至ったのだとおもう。
 ぼくはいまなお感心するのだが、春・夏・秋・冬・恋・雑のあいだに賀・離別・羈旅・物名・哀傷を、なんとまあ巧みに挿しこんだものである。編集名人だ。
 さらに雑体と大歌所歌は張出番付のように扱った。そこに約一千首がもののみごとに配当された。きっと部立のマスタープログラムは貫之が、歌の選抜振り分けはみんなの協同作業であったろう。
 ともかくもこうして貫之は、前代未聞の「和文・仮名つかい」による大和歌(和歌)の収容を成就した。
 ぼくはこの計画実行こそが日本語の将来を変えたのだとおもっている(もう少し先のことでいえば、真言僧による日本語の研究と「いろは歌」や「五十音図」の確立も大きかったし、琵琶法師らによる『平家物語』の編集も大きかったが、なにより貫之の快挙こそが先頭を切ったのだ)。

 こうして貫之の「日本語計画」は発進した。
 それは、中国的なるものに日本的なるものを対置するという方法を、「文」において初めて成功させた快挙であった。すでに漢風あるいは唐風の建築様式を朝堂院大極殿のモードにして、皇族貴族の住まう建物を檜皮葺(ひわだぶき)高床式の寝殿づくりの和風モードとしたり、漢詩に和歌を対同させることなら、先人たちがあれこれ試みてきたことだった。
 しかし、漢文に和文を対置すること、さらにその和文をそれ自体として自身の文体をもって自己進化させることなど、誰もトライはしていなかった。だいいち古今集以前の時代では、まだ仮名文字の感覚がどのように世に伝わるかの見当すらついていなかった。いってみれば貫之の幸運は、ちょうど万葉仮名から草仮名への移行期にぴったり立ち会えたということでもあったのである。
 このことは貫之がどのように「書」を書いていたかということに関係がある。
 われわれは伝貫之の書を『高野切』や『寸松庵色紙』で見ることができるのであるけれど、それらは「書」の書風の出来栄えとしてもさることながら、それは当時、いったいどのように仮名文字の連鎖によって日本人のあいだにコミュニケーションが成り立つのかという「日本の言の葉」の伝達実験でもあったというふうに見ることもできるほどの、大きな試みでもあったのである。
 このことは貫之を語るときにいつも忘れられすぎてきたことなので、いささか注意を促しておきたかった。分かち書き、散らし書きという書き方そのものが、日本語計画のいったんに入っていたというべきなのだ。

 さて、貫之の『古今和歌集』のその後を追っているとキリがなくなるので、話をここで一気に結論に飛ばすことにするが、貫之は延喜10年には少内記、3年後には大内記、延喜17年には従五位下を授けられたのち、加賀介や美濃介に任ぜられた。いずれも遥任で、現地には行かなかった。
 こうしてしだいに官位が上がっていくなか、貫之が実際に何を考えていたかということは史料からは窺えない。しっかりは窺えないのだが、だいたい見当がつくのは、和歌サロンの中心をつねに占めつづけていたことである。おそらくは堤中納言藤原兼輔と藤原定方のサロンにいたことだろう。つまりは延喜・延長の20年あまり、貫之は時の和風文化の進捗を内側から観察できる最も心地よい場所にいたはずなのである。
 では、この間、貫之は何を感得したか。それがどのように『土佐日記』になったのか。
 いや、貫之はろくなことを考えもしなかったと、突き放したのは正岡子規だった。ただ凡庸な歌を詠んでいたにすぎないのではないかと突き放したのだ。与謝野鉄幹も似たようなもので、貫之は「ますらをぶり」を失っていったとみなした。
 子規と鉄幹が貫之と古今集をバカにしたことで、日本文芸史はながらく貫之の本意が奈辺にあるかを見失うことになった。いまはそのミスリードを詰ることはしないけれど、これは二人の早合点であり、その早合点が、またかえって明治の写生リアリズムの歯車を動かしたのでもあった。が、このことはそのくらいの話にしておこう。

 多少とも貫之の心に迫ったのは藤原定家で、これは貫之の歌詠みに対する評釈にすぎないものではあるけれど、「心たくみにたけ及びがたく、言葉つよく姿もおもしろきさまを好み」と見て、しかしながら「余情妖艶の躯をよまず」と注文をつけた。「たけ」とは崇高なさまをいう。
 文句ばかりがついたわけではない。香川景樹は貫之によって「大和歌の道」がふたたび「古に復る」ことになって、今に及んだのだという評価で、それがいわゆる桂園派となった。その桂園派の歌にいちゃもんをつけたのが子規だったのである。
 こうして約40年前になって、やっと目崎徳衛がそれまで誰も書いていなかった伝記『紀貫之』を書いて、貫之の和歌サロンにおける充実に光をあてた。もう少し突っ込んで、きっと貫之は歌宴にひそむ孤心ともいうべきを感得していたはずだというのが、大岡信が書いた話題の『うたげと孤心』の見方であった。
 乱暴に貫之をめぐる毀誉褒貶を紹介してみたが、それらが細かくはどうあれ、どちらかといえば貫之の胸中は察せられずに放置されてきたといったほうがいい。しかし、ぼくは貫之はひそかに計画を練っていたと考えたかったのである。

 かくして貫之は都から遠く離れた土佐に行く。和歌には遠い遠国である。しかも5年にわたった任期となった。いよいよ都に帰ることになった貫之は、ここで最後の計画の着手をおもいつく。
 いろいろ考えてきたことである。それをひとつの計画に集約してみたい。
 まずは歌日記というものをつくってみたい。第1には、その衝動だった。第2には、和文で綴りたい。漢文日記を和文に換えて、そこに和歌を盛りこみたい。第3には、仮名で綴ってみたかった。すでに歌合日記というものが歌合にともなって記録されていたことがある。「亭子院歌合日記」などの記録が残っている。これが女手による仮名になっていた。貫之はそれを思い出していた。
 こうして船旅が始まり、その備忘録がのこり、これを構成しなおし、和歌を整え、虚構をおりまぜて日記のスタイルができあがったのである。仮名の歌日記とするには書き手が女である必要を感じたので、おそらくは都に帰ってきてからのことだったろう。あるいは船旅をするうちにそのような策を練っていたものか。
 貫之が『土佐日記』で試みたことは、たしかに擬装である。それも二重三重の擬装であった。
 しかしながら考えてみればわかることだとおもうが、日本人が日本文字をどのようにつくったかといえば、これは漢字を柔らかくくずして草仮名にしたり、漢字の一部を取って片仮名にしたわけである。"中国的なるもの"を意識して、初めて"日本的"なる檜皮葺き白木の建築様式に気がついたわけだった。唐絵があって初めて倭絵をつくれたわけなのだ。
 実は擬装は「日本」をつくりだすための、「日本」というのがおおげさならば「くにぶり」(国風)をつくりだすための、必要不可欠とはいわないが、きわめて有効な世界像装置だったのである。おそらく貫之はそこに気がついた。そして「言霊さきはふ国」に、いまだおこっていない和語和文和字の表象様式をつくりだしたいと考えたのである。
 『土佐日記』とは、そのための装置だった。
 ただし、決して重たい装置にはしなかった。メモリーを軽くし、エンジンを日記共用型にして、さらに読みやすいインターフェースのようなものを加えて、その後の誰もが真似しやすいものにした。貫之の計算である。
 これは、女手の台頭や女房文化の台頭を予感させる時代になっていたことを、すでに貫之が正確に読んでいたことをあらわしてもいた。貫之は、そのあたりの出来具合がなかなかたいしたものだとおもうところなのであるが、自体を百年も三百年も制するアイディアに気がつきながら、それが世間に静かに定着していくべき初期条件がどうあればいいのか、そのことがよくよく考慮できる才能だったのだ。

 こうして『土佐日記』は「男もすなる日記」の重要性を伝えつつも、それを「女がしてみむとてする」という場合の可能性を拓き、女が綴るのだから女文字である仮名でありえていいのではないかという試作性を促し、かつまた自分のことを「ある人」に託する創意創作の手法もありうることを暗示して、さらには諧謔や冗句を交えて、そのような大胆な試みがそれほど困難ではないことすらをも、告知したわけである。
 なんだか「千夜千冊」にしてはだらだら長いものになってしまったが、言いたかったことは、この一作によって「日本語計画」がみごとに実行に移され、その後の日本の表現世界の多くがこの一作をなぞることから始まったということだ。
 終わりに一言。
 残念ながら『土佐』の内容にまったくふれることができなくなってしまったが、この日記が仕込んだ世界像装置には、「影みれば波の底なる久方の空こぎわたるわれぞわびしき」の一首に象徴されるような、水中と空中を映しあわせた"鏡像装置"も、ひそかに作動していたということを申し添えておきたい。
 似たような鏡像装置として、次の数首もある。その前後を読みこんでいくことも、実は『土佐日記』のたのしみでもあった。貫之、ひょっとして日本のルイス・キャロルでもあったのか、どうか。

  水底の月の上より漕ぐ舟の
          棹にさはるは桂なるらし
  ひさかたの月に生ひたる桂河
          底なる影もかはらざりけり
  ちはやぶる神の心を荒るる海に
          鏡を入れてかつ見つるかな
  桂河わが心にもかよはねど
          同じふかさにながるべらなり