和泉式部
和泉式部日記|上・中・下
講談社学術文庫 原作=1004頃 1980
ISBN:4061584731
[訳注]小松登美

 世間では何事も「はかどる」ことが美しい。「はかがいった」「はかばかしい成果だ」とほめられる。仕事も家事も勉強も「はか」がいくことを努力目標にする。
 能率がいいことが「はかどる」で、ふつうは「捗る」と綴る。ハカは進みぐあいのこと、進捗度のことをさす。かつてそういうことを意味するハカという、人生や仕事を見る単位があったのである。「果」とか「量」とか「計」などとも綴る。
 そのハカがいかなければ、どんくさい。能率も悪いし成果も乏しい。これはハカなしで「はかなし」ということになる。ところが王朝文化では、「はかなし」という風情も尊重されたのである。もっとも最初のうちは弱々しいことや頼りにならないことが「はかなし」だった。「いとはかなうものし給ふこそ、あはれにうしろめたし」(源氏・若紫)といえば、たいへん幼くていらっしゃるのが、どうしようもなく先が気がかりですという意味になる。粗末で充ちていないという意味もあった。「九月二十日余りのほど、長谷に詣でていとはかなき家に泊りたり」(枕草子)は、長谷寺に参詣してたいそう粗末な宿に泊まったという意味だ。
 こうした「はかなし」に新たな方向をもたせたのが、和泉式部だった。ハカがなくてもいいでしょう、はかどらなくてもいいでしょうというのだ。むしろ頼りなく、空しいことにこそ独得の価値観を認めたのである。「はかなし」が美しい。「はかなき無常」の発見ともいうべきものだった。無常とは「常ならないもの」のことをいう。

 いつごろだったか、唐木順三の「はかなし」の議論に誘われて『和泉式部日記』をちらちら読みはじめた時期があった。やや懐かしく、やや心もとなかった。「夢よりもはかなき世の中を嘆きわびつつ明かし暮らすほどに、四月十余日にもなりぬれば、木の下くらがりもてゆく……」。このあまりに有名な冒頭に引きこまれ、そのまま読みこんでいくのは、まるで自分が少女になって大人の女の熟した気分を覗き見るようで、不思議に落ち着かないフラジリティなのである。
 男の読後感なのかもしれない。いつもそうなのだが、女房たちの王朝文芸を読むと、だんだん自分が内股で歩いているような感触がやってくる。体がそうなるのではない。気分の体癖のようなものが、なんだか女っぽくなってくる。きっと『源氏』を訳していたころの谷崎や舟橋もそういう気分になったことだろう。
 いいかえれば、男がすなるものを女がしてみているのか、女がすなるものを男がしているのか、わからなくなるわけだ。わからなくなるというより、そうした衣ずれを伴う倒錯のような感覚が虚実皮膜のあわいに入っていく。そういうと難儀のようだが、ようするに自分がなまめかしくなっていくのが実感できるのだ。
 だからぼくが唐木の読み方をまねたのも実のところは最初のうちだけで、“内股の意識”になってからは、しだいにべつの関心に移っていった。和泉式部の文芸的実験性への関心である。こういうことは読書にはよくあることで、最初の読みちがいが次の読み当たりを導くものなのだ。
 
 だいたい『和泉式部日記』は、これをざっと通読したからといって読んだことにはならない。そこで二度目からは、頻繁に出てくる歌に佇んで読む。ぼくもいつごろからかは忘れたが、歌に佇み、少しずつ数珠つなぎに読んだ。行きつ戻りつもした。
 佇みかたも、ちょうど同じ散歩道でもちがった立ち止まりかたがあるように、その時その場で変わっていく。木蓮があれば木蓮に、夾竹桃があればそのわさわさと風にゆらめく実況に、佇んでいく。それにもかかわらず、この日記が日本の古典のなかでも群を抜いて独創に満ちていて、しかもおそらくは何度そこに入っても、どの歌の前後を拾い読んでも、つねに格別の示唆に富んでいることは断言できる。なんといっても傑作なのだ。そして、この作品こそが日本文芸の反文学の原点なのである。
 原点だというのは、べつだん厳密な意味ではない。けれども、この日記が日記でありながら「記録」のためではなく、「歌」のために綴られたものであること、および日記でありながら、「私は」というべきところを「女は」というように三人称で綴ったこと(これは画期的だった)、ようするにあとから当時の歌を偲んで綴られたことに、ほとほと瞠目させられるのだ。
 歌が先にあり、あとから一四七首を偲んで並べ替え、それを編集した。そういう日記であった。反文学だというのは、歌から出て歌に出て、文から出て文に出て、歌でも文でもあるような偲びの世界をつくったということである。

 日本の歌というものは、いたずらに文学作品として鑑賞するものではない。もっとその気になって読む。歌人のほうだって、ここにおいてそこを偲んで詠んでいた。ここにおいてそこを偲ぶのは、その歌が「ひとつの世」にひそむ「夢・うつつ」のあいだを通して贈答されているからだ。「ゆめ」(夢)から「うつつ」(現)へ、「うつつ」から「ゆめ」へ。そのあいだに歌が交わされる。贈り、返される。その贈答のどこかの一端にわれわれがたまさか佇めるかどうかが、歌の読み方になる。
 そのような歌の読み方があるのだということを、歌を下敷きにして綴った擬似日記をもって和泉式部が教えてくれた。リアルタイムの日記ではなくて、あとから拵えた日記なのだ。『和泉式部日記』とはそういう擬態なのである。そういう文芸実験なのだ。それが、歌を偲んで歌をめぐる物語を綴るということだった。かつての『伊勢物語』がそうであるように。
 けれども『伊勢物語』が男の歌を偲ぶのに対し、『和泉式部日記』は女の歌を偲んだ。そして、どういうふうに偲べばいいかということを告げた。まことにもってたいした実験だった。
 
 和泉式部が日本の歌人の最高峰に耀いていることも言っておかなくてはならない。こんな歌人はざらにはいない。
 わかりやすくぶっちゃけていえば、与謝野晶子は和泉式部なのだ。「黒髪の乱れも知らずうち臥せばまづかきやりし人ぞ恋しき」「竹の葉に霰ふるなりさらさらに独りはぬべきここちこそせね」、そして「願はくは暗きこの世の闇を出でて紅き蓮の身ともならばや」。この三首、どれが式部でどれが晶子かわかるだろうか。
 晶子ばかりではない。樋口一葉も山川登美子も、生方たつゑも円地文子も馬場あき子も、和泉式部をめざしたのだったろう。きっと岡本かの子も瀬戸内寂聴も俵万智も、ユーミンも中島みゆきも椎名林檎も、その後の和泉式部なのである。恋を歌った日本人の女性で和泉式部を詠嘆できない者がいるとはぼくにはおもえない。

 男たちも和泉式部にはぞっこんだった。鴨長明が『無名抄』で和泉式部と赤染衛門をくらべ、人柄はいささか劣るものの歌ではやっぱり式部だと書いたことも、さすがに長明ならではの判釈である。
 昭和になって和泉式部を最高の歌人と見たのは、昭和十一年から十七年まで書き継いだという保田與重郎の『和泉式部私抄』(新学社)だったけれど、歌としてすでに与謝野鉄幹や吉井勇や萩原朔太郎や窪田空穂が、つづいて谷崎潤一郎や唐木順三や寺田透が深々と傾倒していった。それほど和泉式部の歌には才能がほとばしっている。
 それなら、長明の評価このかた、式部の歌の最高位がゆるがなかったかというと、そうともいえない。世の中にはむろん多様な風評はいろいろあるもので、紫式部が和泉式部より赤染衛門の歌を優位においたという説に加担する者も少なくない。なにしろ嫉妬深い紫式部の御意見だ。「和泉式部といふ人こそ、おもしろう書きかはしける。されど和泉式部はけしからぬ方こそあれ、うちとけて文はしり書きたるに、そのかたの才ある人、はかない詞の匂ひも見え侍るめり云々」。
 和泉式部の手紙などは趣きが深く、走り書きなどには天性の才能を感じるが、品行がふしだらである。歌もなかなかうまいけれど、古歌の知識や理論があるわけではなく、他人の歌の批評をさせるとたいしたことはない。口にまかせて即興するのが上手だということだけだ。そう言うのである。
 この紫式部の意見をひっぱって、いまだに式部に難癖をつけようとする者もいる。ただし、これはたいてい和泉式部の生きざまに呆れているせいである(唐木順三のように「はかない詞の匂ひ」に深く注目すると評価が変わる)。
 
 世間が和泉式部の生きざまに呆れるのは、その男遍歴による。大半は誤解なのだが、世間というものはそのように型破りの女を批評するものだ。当時すでに身持ちが悪い女という噂もたっていた。御伽草子には「浮かれ女」(遊女)ともしるされた。品行がふしだらというよりも、おそらくは男好きのする女であったのだろうという、そんなまことしやかな見方も出まわった。
 式部は御許丸とよばれた少女時代から多感な娘であったようで、父の大江雅致が冷泉天皇皇后の昌子内親王(朱雀天皇皇女)に宮仕えをしたころには、父にともなって女房として昌子に仕え、すでにいくつかの浮名を流していた。幼くしてコケットリーで、察するにかなりの美人になったのでもあろう。
 が、彼女の名誉のために言っておくが、男遍歴といっても、最初は結婚である。相手は、その宮仕えのころに出会った橘道貞で、道貞がのちに和泉守となったので、結婚後に和泉式部とよばれた。
 二人のあいだには小式部が生まれた(のちに百人一首にとられた歌「大江山生野の道の遠ければ」を詠む)。道貞は出世街道を進んでいた。道長にも気にいられるようになっていく。その一方で夫が遠国によく出掛けて留守がちだったこともあって、道貞とはしだいに疎遠となり、別居同然の日々になっていく。そこへもってきて昌子内親王が亡くなった。式部の心が乱れていたころ、新たな男、為尊親王が近づいた。
 これが弾正宮である。冷泉天皇の皇子だった。『大鏡』には幼少時より容姿がとりたてて「かがやく」ほど美しかったとある。この式部と弾正宮の仲のことは『栄華物語』にも出ていて、式部の浮気というより、「かろがろ」としていて「御夜歩き」が好きなプレイボーイ気味の弾正宮のほうが積極的だったとおぼしい。蛍狩りの帰途に笹の枝に蛍をつけて贈るようなキザな公達なのである。
 式部の心はかなりぐらりとする。ひそかに弾正宮の好きな蘇芳の小袿を着け、弾正宮の好きな真名磐の香を焚きしめた。これでは二人の噂はいやがうえにも広まっていく。そのため弾正宮為尊の妻は悲しみのあまり出家した。ところが弾正宮は流行の病いで二六歳であっけなく死亡する。昌子の死、夫との離別、新たな恋人の死――。これらがわずか一、二年のあいだに連打されたのである。
 
 式部はこうした自分にふりかかる人の世のはかなさと男女の浮き沈みに、激しく動揺をする。中世、こういう世の中を「宿世」といった。式部に「はかなさ」をめぐる無常の美学が透徹し、日本文芸史上で最も「はかなさ」の言葉を多用しているのも、こういう事情と背景による。
 それとともに男女のはかなさにも宿世を感じて心を揺らした。式部に男の接近と男との別離を暗示的に詠んだ歌がやたらに数多いのはそのせいである。式部と親しかった赤染衛門もそういう式部の心の浮沈に同情し、いくつかの歌を贈っている。
 そこへ登場してきたのが敦道親王である。弾正宮の弟で、やはり冷泉院の皇子、大宰帥だったところから帥宮とよばれた。
 帥宮はすでに二人以上の妻をもっていたが、正妻の関白道隆の三の姫は異常なふるまいもする。あどけないのか、どこか幼児的なのか、しばしば奇矯なことをする。来客があると急に御簾をまくって相手の顔を見たり、ふしだらな着付けで乳房が出そうな恰好をすることもあった。帥宮はほとほと困っていた。
 そのころの式部はまさしくコケットリーな風情だったのだろう。成熟した女が心の奥に沈んでいた。帥宮はたちまち式部に夢中になった。おそらくは式部が六つくらいの年上だった。式部も帥宮がたずねてくるのを待つ身となっていく。「薫る香によそふるよりはほととぎす聞かばや同じ声やしたると」と式部が詠めば、「同じ枝に鳴きつつをりしほととぎす声はかはらぬものと知らずや」と返ってきた。二人のあいだに、待つ身と逢う身を交わらせる後朝(朝帰り)がうちつづく。

 こうして、『和泉式部日記』は、この帥宮との約十ヵ月におよぶ人を憚る恋愛を語った歌日記になった。歌が先にあり、それをのちに偲んで綴ったものだった。先にも書いたように、擬態としての日記にしてみせたのである。なぜ日記にできたかといえば、帥宮が突然に死んでしまったからだった。またまた早すぎる二七歳の死であった。
 弾正宮につぐ帥宮との死別。美貌の兄弟の唐突の死。式部はよほど離別や死別に見舞われる宿命の女性なのである。
 恋した兄宮と弟宮があいついで死ぬとはよほどのこと、まさに「無常迅速」としかいいようがない。式部は帥宮のために一年にわたる喪に服し、おそらくはその直後であろうが、その思い出を歌日記に綴っていく。日記には載ってないが、帥宮を慕う挽歌数十首はその構想といい、その複雑な構成といい、和泉式部畢生の最高傑作になっている。
 
 人の世のはかなさだけが式部の歌や日記をつくった原因ではなかった。そこには、この時代特有の「王朝文化」というものがある。華麗で異様で洗練された「女房文化」というものがある。和泉式部は、赤染衛門・清少納言・紫式部・伊勢大輔についで藤原道長の後宮に出仕したれっきとした女房である。彼女らと同じ世の「後宮文化」のなかにいた。
 この「王朝文化」「女房文化」「後宮文化」の事情を理解するには、余計なことながら、少しだけでも時代背景を知る必要がある。とくに天皇家の血筋と藤原道兼・道長のシナリオを多少は知らなければならない。

 そう想うと、ああ千年かと溜息が出るのだが、いまからちょうど千年前が一〇〇一年である。長保三年になる。一条天皇の時代にあたる。すべてはこの一条の世の文化がどのように用意されていったかということにかかわっている。このとき、花山天皇を欺いて一条の世を政略的に用意した摂政藤原兼家が死に、子の藤原道長が十二歳の彰子を強引に入内させていた。和泉式部は二七、八だったろうか。あるいはもう少し若かったかもしれない。
 一条の世とは、日本の女流文芸が頂点に達した時期である。そこには複雑な血筋の蛇行があった。もともとはこの流れの劈頭に村上天皇がいた。醍醐天皇の皇子で、摂関をおかずに親政をしいた。いわゆる「天暦の治」にあたる。村上天皇に二人の皇子がいて、その皇子の冷泉と円融が十世紀末に次々に天皇になった。このあと、天皇譜は冷泉系と円融系が代わるがわる立つことになり、冷泉・円融ののちは、次が冷泉系の花山天皇、次が代わって円融系の一条天皇、また冷泉系に戻って三条天皇が立ち、そのあとは円融系の後一条天皇と後朱雀天皇になっていった。
 ここで冷泉系は後退していった。藤原兼家と道長は勢いをえた円融系のほうの一条天皇の外戚なのである。
 日本の天皇家は、天智系と天武系をはじめ、桓武・嵯峨時代の二所朝廷といい、この冷泉・円融系の対立といい、さらには日本を真二つに分断した南北朝といい、実はたえず乱れてきた。そのため、系譜のどちらに立って王朝社会を支援するかということが日本公家社会史の起伏をつくってきた。兼家と道長親子にもそのシナリオが強烈に発動した。それが藤原文化というものであり、そこに後宮文化の血の本質がいやおうなく動いた。
 もっとも抜け目のない藤原一族は、不比等・仲麻呂の時代から権勢ルーレットの赤にも黒にもチップを置いてきた。兼家も娘の超子を冷泉天皇に、詮子を円融天皇のほうに入れて、両系の天秤をはかっている。ところが、超子からは三条天皇が生まれたが、超子が早く死んだため、冷泉系は伸び悩んだ。
 逆に詮子は一条を産んで、七歳で天皇に即かせた。兼家の摂関家の地位はここで不動のものとなる。このシナリオを完璧に仕上げていくのが藤原道長で、彰子を入内させて一条天皇の中宮とし、一条の世を望月のごとくに完成させた。道長政治の確立である。それとともに円融=一条=道長の女房後宮文化が確立した。つまりは、一条と道長のサロンこそが日本の女流文芸を熱情させた。王朝ハーレムの爛熟である。
 
 和泉式部は負の札を引いた冷泉天皇系に仕えた一家に育っている。父も母も式部自身も、冷泉天皇の中宮昌子内親王に仕え、夫の道貞もその太后大進に就いた。式部は冷泉系だったのだ。
 その道貞が時代のなりゆきとはいえ、道長のほうに引かれていった。式部は夫に惹かれつつも(ちゃんと夫を愛していたようだ)、自分のところから遠のいていくその運命のいたずらを儚んだ。和泉式部は冷泉系と円融系(一条)の交点にさしかかって、前半は冷泉に、後半は道長に呼ばれて、清少納言や紫式部にまじって女房となっていった女性なのである。これは清少納言や紫式部の女房生活とはまったくちがう立場であった。心の血がゆらめいている。中心がない。
 しかし、そうなればなったで、式部は後宮文化を生き抜かなければならない。式部は帥宮の喪に服したあと(寛弘五年十月)、召されて一条中宮彰子の女房となる。娘の小式部も一緒に出仕した。すでに中宮のもとには紫式部や伊勢大輔が古参のごとく侍っていた。式部があれこれ揶揄されたのは当然だったのだ。
 このように見てくると、式部が「擬態としての歌日記」をつくれたのは、帥宮が死んで後宮に入るまでの、ごくわずかなあいだだけだったということがわかる。そのわずかな時間だけが式部の“文芸実験”にゆるされた時間だったのだ。しかし、その実験こそ日本の文芸の反文学の原点になった。
 
 式部が日記をつくるのは、「夢よりもはかなき世の中」を自分の歌が示していると感じられたからである。そこに帥宮との相聞がある。恋の歌の贈答がある。行きつ戻りつがある。寄せては返す無常というものがある。そこを式部は、最初は自分のところに忍んで逢いにくる帥宮の「せつなさ」を中心に描きあげる。
 省略も効かせた。主語を三人称にもした。しかし、それなら歌そのものだけでもよかったのに、そうはしなかった。すべてを削いだわけではなく、すべてを活かしたわけでもない。そこが和泉式部の実験だったのである。言葉が心であるような贈答の場面だけを浮上させたのである。よほど考えてのことだったろう。三人称のつかいかたは、こんな感じだ。
 
  晦日の日、女、
    ほととぎすよに隠れたる忍び音をいつかは聞かむ今日し過ぎなば
  ときこえさせたれど、人々あまたさぶらふほどにて。つとめて、もて参りたるを見   給うて
    忍び音は苦しきものをほととぎす木高き声を今日よりは聞け
  とて、二、三日ありて、忍びてわたらせ給ひたり。
 
 和泉式部は自分の恋心の高まりを抑える歌で綴る。日記のクライマックスは互いに手枕を交わして後朝を迎えるあたり、あるいはさらには霜の朝に帥宮が式部を紅葉に誘うあたりだろうか。さすがに歌の調子も高まる。
 
  露むすぶ道のまにまに朝ぼらけ濡れてぞ来つる手枕の袖(宮)
  道芝の露におきゐる人によりわが手枕の袖も乾かず(式部)
 
 これがたった一度の頂点だったようだ。式部は南院に誘われ、先にも書いたように道長のハーレムに出仕する。ただし『和泉式部日記』はそこまでのことは書いてはいない。帥宮に請われて車で出掛ける場面の問答でおわっている。帥宮が死ぬ前の歌世界でおわったのである。あえて日記をおえたのだ。これは『和泉式部日記』が面影を偲ぶことを本懐としている以上は当然だった。
 日記はそこでおわったが、式部はその後も波乱の人生をおくる。そして、詳しい説明をするのはよしておくが、ここから、謡曲や和泉式部伝説にうたわれた“伝承の和泉式部”となっていく。それが藤原保昌と結婚し、保昌とともに丹後に下向する和泉式部の後半生の物語というものになる。
 保昌は道長の家司で、式部より十数歳の年上である。けれども式部にとっては、中宮彰子との日々や保昌との日々が華やかであればあるほど、帥宮との日々が幻のごとく心を覆ってきただけだったようだ。保昌との結婚生活などたのしいはずはない。
 和泉式部は帥宮との日々の追想によって生きた女なのである。面影の追想とはいえ、それは二人が交わした歌をフーガのごとく追想するということで、歌を偲べば体も燃えたが、残るのはやはり歌だけなのだ。しかし、その歌も「面影の偲び」の中だけにある。追想と連想の中だけにある。実在としての歌は、ない。
 それは、式部の気持ちに戻っていえば、帥宮との恋そのものがありえぬ日々の出来事だったということである。しょせんは「はか」のない日々だったのだ。帥宮との日々だけではない。式部が見た後宮文化そのものが「はかなさ」であり、もはやありえぬ日々だったのである。
 日本文芸は、このあと三〇〇年をへて世阿弥の複式夢幻の能楽を獲得する。それは世阿弥ならではの極上である。が、ぼくには『和泉式部日記』がはからずもそれを先駆したとも見えている。唐木順三に言ってみたかったことである。こんな歌がある。
 
  思はむと思ひし人と思ひしに思ひしごとも思ほゆるかな

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