父の先見
サラダ記念日
河出書房新社 1987
小池さんが「すごいですよ、タワラマチ。高校の国語のセンセイなんですが、まあ、読んでみてください」と興奮していた。河出の編集者である。「与謝野晶子の再来だっていう人もいるくらいでね」とも言った。小池さんは金井美恵子にポルノグラフィを書かせるほどの腕の持ち主で、いいかげんなことを言う男ではない。そうか、そんなに凄い歌人が出現したのかと思った。「なんていうの?」「『サラダ記念日』っていって、俵万智っていう子が書いた」「子って、いくつなの」「23歳か、24歳」。「うちの長田洋一っていうのが見つけたんですよ」。
この2、3年ほど前に俵万智が「八月の朝」という短歌群で角川短歌賞を受賞していた噂は聞いていた。たしか書店でその歌をさあっと見たはずだが、名前は忘れていた。そのライト・ヴァースな感覚がちょっと刺さってきたことだけを憶えていた。
この歌集には、半分くらいは、「向きあいて無言の我ら砂浜にせんこう花火ぽとりと落ちぬ」「江ノ島に遊ぶ一日それぞれの未来があれば写真は撮らず」といった退屈な歌が並んでいる。そして残りの半分の半分には、「空の青海のあおさのその間サーフボードの君を見つめる」というような、牧水もどきの歌の隙間に湘南サーフィンの点景を挟んだような、あるいは「君といてプラスマイナスカラコロとうがいの声も女なりけり」といったような、擬古と日常が屈託なく付きあっている歌がけっこうある。
加えて「潮風に君のにおいがふいに舞う抱き寄せられて貝殻になる」「万智ちゃんがほしいと言われ心だけついていきたい花いちもんめ」「ハンバーガーショップの席を立ち上がるように男を捨ててしまおう」「男というボトルをキープすることの期限が切れて今日は快晴」といった、ポップス調というかシンガーソングライター調というか、無責任というか、ユーミンや中島みゆきや、あるいは阿木燿子をうんと平坦にしたような歌も少なくない。
だから、ここまではちょっぴり辛口にいえば、とうてい与謝野晶子というわけにはいかないのだ。ところが、残りがおもしろい。スパッと歌壇の慣習を打ち破った。晶子が登場したときの情熱や情念とはだいぶんちがうのだが、とくに社会や国土や精神のたたずまいについては晶子の筆鋒はほとんど見られないのだが、言葉の放ちかたや捨てかたはちょっと晶子を思わせる。だれにも真似ができるわけではないが、だれもが真似たくなる歌が、ある。まず「中」の出来の歌から――。
この時間君の不在を告げるベルどこで飲んでるだれと酔ってる
線を引くページ破れるほど強く「信じることなく愛する」という
「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの
砂浜を歩きながらの口づけを午後五時半の富士が見ている
「冬の海さわってくるね」と歩きだす君の視線をもてあます浜
今日風呂が休みだったというようなことを話していたい毎日
バレンタイン君に会えない一日を斎の宮のごとく過ごせり
手紙には愛あふれたりその愛は消印の日のそのときの愛
あなたにはあなたの土曜があるものね見て見ぬふりの我の土曜日
「おまえオレに言いたいことがあるだろう」決めつけられてそんな気もする
愛ひとつ受けとめられず茹ですぎのカリフラワーをぐずぐずと噛む
さくらんぼ少しすっぱい屋上に誰よりも今愛されている
ガーベラの首を両手で持ちあげておまえ一番好きなのは誰
ため息をどうするわけでもないけれど少し厚めにハム切ってみる
思い出はミックスベジタブルのよう けれど解凍してはいけない
「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日
カニサラダのアスパラガスをよけていることも今夜の発見である
すべて恋歌である。歌集に並んだ順で拾ってみた。やたらに有名になった「カンチューハイ」や「サラダ記念日」の歌だけではなく、たくみに、さらりと、口語をいかした短歌が揃っている。会話をそのまま歌にしているようなのだが、ポップスや広告コピーでは追いきれない爽快な完結感があり、虚をついてくる。なかに「さくらんぼ少しすっぱい屋上に誰よりも今愛されている」といった素直普遍とでもネーミングしたい作歌も発揮されている。
しかし晶子というなら、次のような歌があった。たとえば、「たそがれというには早い公園に妊婦の歩みただ美しい」「陽の中に君と分けあうはつなつのトマト確かな薄皮を持つ」「そら豆が音符のように散らばって慰められている台所」。そして、「白よりもオレンジ色のブラウスを買いたくなっている恋である」。これらには晶子が平成の渋谷東急本店通りを歩いていたら、ひょっとするとこんなふうに詠んだかもと想像させるものがある。
うまさもある。高橋源一郎は俵万智の登場に驚いてこう書いた。「コピーが詩人たちを青ざめさせたのはつい最近のことだった。今度は短歌がコピーライターたちにショックを与える番だ。読んでびっくりしろ、これが僕にできる唯一の助言である」と。
ぼくはびっくりしたというより、だんだん気分がよくなった。ここにはシラブル麻薬の効果のようなものもある。それは寺山修司の登場のときのような気分であった。それとともに俵万智には、「言葉のシラブル」とともに「文字の律動」をつかまえる冴えがあった。それは次のような短歌を見つけたときに感じた。これらには語感だけではなく、タイプフェイスをも短歌にする感覚が横溢し、かつ、それをそのまま心情にデザインしてしまう巧妙がぶらさがっていた。
青春という字を書いて横線の多いことのみなぜか気になる
サ行音ふるわすように降る雨の中遠ざかりゆく君の傘
異星人のようなそうでもないような前田から石井となりし友人
短歌というものがどれほど自由なものであるかについては、いまさら俵万智によって示されたことではない。そういうことはないのだが、その短歌を自身の日々の周辺から自由に取り出せたことは、俵万智の歌人としての存在の自由を鮮烈に告示した。
こうしてぼくは小池さんの進言にはまり、俵万智の隠れファンになったのだが、ほんとうのところをいうと、俵万智には「カンチューハイ」を歌うより、すでに『サラダ記念日』に「夏の船」として収録された短歌群のうちの次のような歌を、これからはびしびしとつくってもらいたい。
食卓のビールぐらりと傾いてああそういえば東シナ海
くだもののなべてすっぱい町なりき西安に朝の風は生まれる
パスポートをぶらさげている俵万智いてもいなくても華北平原
日本にいれば欲しくはならぬのに掛け軸を買う拓本を買う
ハンカチを膝にのせればましかくに暑い杭州体温の町
この5首はぼくに晶子がパリに行ったときの短歌を、しかも晶子ではない平成の晶子をおもわせた数首だった。ちなみに、ぼくが当時選んだ(そのころ二重丸をつけた)『サラダ記念日』の中の「天」と「地」は次の歌だった。これはまったく無責任な期待だが、俵万智はいずれ薄墨色の歌を詠んでいくといいのではあるまいか。
一点に戻らんとする心あり墨より黒きものは塗られぬ
さくらさくらさくら咲き初め咲き終わりなにもなかったような公園