小池さんが「すごいですよ、まあ、読んでみてください」と興奮していた。河出の編集者である。「与謝野晶子の再来だっていう人もいるくらいでね」とも言った。
小池さんは金井美恵子にポルノグラフィを書かせるほどの腕の持ち主で、いいかげんなことを言う男ではない。そうか、そんなに凄い歌人が出現したのかとおもった。「なんていうの?」「『サラダ記念日』っていって、俵万智っていう子が書いた」「子って、いくつなの」「23歳か、24歳」。「うちの長田洋一っていうのが見つけたんですよ」。
実は、この2、3年ほど前に俵万智が「八月の朝」という短歌群で角川短歌賞を受賞していたのは知っていた。たしか書店でその歌をさあっと見たはずだが、名前は忘れていた。そのライト・ヴァースな感覚がちょっと刺さってきたことだけを憶えていた。
この歌集には、半分くらいは「向きあいて無言の我ら砂浜にせんこう花火ぽとりと落ちぬ」「江ノ島に遊ぶ一日それぞれの未来があれば写真は撮らず」といった退屈な歌が並んでいる。
そして残りの半分には、「空の青海のあおさのその間サーフボードの君を見つめる」というような、牧水もどきの歌の隙間に湘南サーフィンの点景を挟んだような、あるいは「君といてプラスマイナスカラコロとうがいの声も女なりけり」といったような、擬古と日常が屈託なく付き合っている歌がけっこうある。
加えて「潮風に君のにおいがふいに舞う抱き寄せられて貝殻になる」「万智ちゃんがほしいと言われ心だけついていきたい花いちもんめ」「ハンバーガーショップの席を立ち上がるように男を捨ててしまおう」「男というボトルをキープすることの期限が切れて今日は快晴」といった、ポップス調というか、シンガーソングライター調というか、ユーミンや中島みゆきや、あるいは阿木耀子をおもわせる歌も少なくない。
だから、ここまではちょっぴり辛口にいえば、与謝野晶子というわけにはいかないのだ。
ところが、残りが凄い。
スパッと歌壇の慣習を打ち破った。晶子が登場したときの情熱や情念とはだいぶんちがうのだが、言葉の放ち方や捨て方は晶子を思わせる。だれにも真似のできないが、だれもが真似たくなる歌が、ある。
この時間君の不在を告げるベル どこで飲んでるだれと酔ってる 線を引くページ破れるほど強く 「嫁さんになれよ」だなんて 砂浜を歩きながらの口づけを 「冬の海さわってくるね」と歩きだす 今日風呂が休みだったというようなことを バレンタイン君に会えない一日を 手紙には愛あふれたりその愛は あなたにはあなたの土曜があるものね 「おまえオレに言いたいことがあるだろう」 愛ひとつ受けとめられず茹ですぎの さくらんぼ少しすっぱい屋上に ガーベラの首を両手で持ちあげて ため息をどうするわけでもないけれど 思い出はミックスベジタブルのよう 「この味がいいね」と君が言ったから カニサラダのアスパラガスをよけていることも |
これらは恋歌である。歌集に並んだ順で拾ってみた。やたらに有名になった「カンチューハイ」や「サラダ記念日」の歌だけではなく、巧みに、さらりと、口語をいかした短歌が揃っている。
ここには、ポップスや広告コピーでは追いきれない爽快な完結感があり、虚をついてくる。なかに「さくらんぼ少しすっぱい屋上に誰よりも今愛されている」といった「素直普遍」とでも名付けたい作歌も発揮されている。
しかし、晶子というなら、次のような歌があった。
たとえば、「たそがれというには早い公園に妊婦の歩みただ美しい」「何の鳥? おまえがサイコーサイコーと啼いて目覚める五月の朝だ」「陽の中に君と分けあうはつなつのトマト確かな薄皮を持つ」「そら豆が音符のように散らばって慰められている台所」。そして、「白よりもオレンジ色のブラウスを買いたくなっている恋である」。
これらにはうまさもある。高橋源一郎は俵万智の登場に驚いて、こう書いたものだった。「コピーが詩人たちを青ざめさせたのはつい最近のことだった。今度は短歌がコピーライターたちにショックを与える番だ。読んでびっくりしろ、これが僕にできる唯一の助言である」と。
ぼくはびっくりしたというより、だんだん気分がよくなった。寺山修司の登場のときのような気分であった。
それは次のような短歌を見つけたときに感じた。これらには語感だけではなく、タイプフェイスをも短歌にする感覚が横溢し、かつ、それをそのまま心情にデザインしてしまう巧妙がぶらさがっていた。
青春という字を書いて横線の 多いことのみなぜか気になる サ行音ふるわすように降る雨の中 異星人のようなそうでもないような |
短歌というものがどれほど自由なものであるかということは、いまさら俵万智によって示されたことではない。
そういうことはないのだが、その短歌を自身の日々の周辺から自由に取り出せたことは、俵万智の歌人としての存在の自由を鮮烈に告示した。
こうして、ぼくは小池さんの進言にはまり、俵万智の隠れファンになったのだが、ほんとうのところをいうと、俵万智は「カンチューハイ」を歌うより、すでに『サラダ記念日』に「夏の日」として収録された短歌群のうちの次のような歌を、これからはびしびしとつくってもらいたいとおもっている。
「食卓のビールぐらりと傾いてああそういえば東シナ海」「くだもののなべてすっぱい町なりき西安に朝の風は生まれる」「パスポートをぶらさげている俵万智いてもいなくても華北平原」「日本にいれば欲しくはならぬのに掛け軸を買う拓本を買う」「ハンカチを膝にのせればましかくに暑い杭州体温の町」。
これらはぼくに晶子がパリに行ったときの短歌を、しかも晶子ではない平成の晶子をおもわせた。
ちなみに、ぼくが当時選んだ(そのころ二重丸をつけた)『サラダ記念日』の中の「天」と「地」は次の歌だった。まあ、読んでみたまえ。いや、詠んでみたまえ。
一点に戻らんとする心あり 墨より黒きものは塗られぬ さくらさくらさくら咲き初め咲き終わり |