才事記

理科年表を楽しむ本

上西一郎

丸善 1996

 ぼくの書棚は、いまは赤坂稲荷坂の編集工学研究所と松岡正剛事務所、および麻布の自宅に分かれている。5万冊ほどあるかとおもう。30年近くの蔵書がたまりにたまってこうなったのだが、仕事場ではスタッフや来客も見られるようにした。
 こんなふうになっていると、書棚の編成も容易ではない。できれば1年に一度の改変がのぞましいのだが、それを全貌におよぼすのは困難だ。おまけにその書棚空間のあちこちにはスタッフの机や椅子や会議用テーブルがあり、そこはかれらの住処やアトリエの風情をもっている。ときには書棚にスタッフの持ち物や書類や小物が、ばあいによってはコーヒーカップがおかれていたりもする。だから、ときどき珈琲色に汚されたりもする。多くの書物は日々の仕事の現場に交じっているわけなのだ。
 それでも立派な書庫をつくるという気分にはなれない。状況に応じて書棚構成をつくり、その書棚と書籍に接すればいいので、純粋な図書幾何学的な空間のようなところで静謐に書物に接したいとは、ちっとも望んでいないのだ。むしろ苛酷な条件のなかで書籍をあれこれ工夫をして配置していく苦闘をたのしんできた。
 そのぶんいろいろな不都合もおこる。「しまった」もおこる。そのひとつが書棚と書籍の関係にいくつもの死角が生まれ、こんなところにこんな本がいたかという仕打ちをしてしまうことである。
 3年ほど前は、ぼくの書斎にすべての辞書・事典のたぐいが集中していた。いまはそれがジャンルごとに分散した。辞書や事典というものは、何かの都合でパッと見るためにある。その瞬間に引けない辞書や事典は億劫だ。そのため長らく書斎の中にレキシコグラフィック・ディスプレーを試みてきたのだが、それが分散してみて、まったく見なくなってしまったものがいろいろ出てきた。『理科年表』がそのひとつである。数年ごとに買い替えることもしなくなったし(いま手元にあるのは1995年版だった)、ほとんど開かなくなってしまった。
 
 今夜の話に入る前に、最初に質問をひとつ。『理科年表』がどこで編集されているかは御存知だろうか。文科省? 理科学会? それとも国際規格をつくっているどこか? いや、東京天文台(1988年から国立天文台になった)である。年度ごとに刊行されている。発行発売は丸善がうけもっている。
 天文気象から物理化学まで、ありとあらゆるデータが表形式で収まっているのだが、年度ごとに変化するデータが多いというほどではない。だからしょっちゅう見るものではない。理科現象の基本をおさえるデータブックなのである。何かのきっかけでちょっと調べたいことや確認したいことがあるとき、『理科年表』は何十年も務めてきた執事のように正確な応接をしてくれる。
 最近のぼくは邪険な理由ではないものの、あれほど誠実だった『理科年表』を見なくなってしまったのだが、あるとき本屋の片隅に「理科年表読本」(丸善)というシリーズの数冊が並んでいるのを知った。『地震』『くもった日の天文学』『地球から宇宙へ』『太陽系ガイドブック』『数の不思議』などというシリーズだ。なかに『理科年表を楽しむ本』があった。
 かつての立派な執事への敬意をこめて買ってみた。パラパラ見ていると、けっこうおもしろい。「夕方の西の空の月はどんな形か」「北極星は北の空の中心にあるか」「南半球では春の次に冬がくるか」「地球は一定の速さで公転しているか」といったヘッドラインがずらっと並んでいて、その問いに簡潔な答えがついている。そして、そのように答えられるのは『理科年表』にこんなデータが載っているからだという“おまけ”の解説がついている。なんだか「かたじけない」という気分になった。
 そのうち丸善から第2弾が出版された。今度は『理科年表をおもしろくする本』というもので、もっと示唆に富んでいた。かつてのロゲルギスト・グループのエッセイをおもわせた。ぼくはその一人の高橋秀俊さんにはずいぶん影響をうけたのだ。「自転車ダイナモとエネルギー変換」「変化する光速」「原子スペクトルで銀河の速さを知る」なんてエッセイは、その昔日のロゲルギスト・エッセイを髣髴とさせただけでなく、あの時代の科学エッセイでは書けなかった新たな科学データにもとづいていた。

 データというものは、いくら詳しくともその意味がわからなければ、すべて死に体である。そこでデータ(data)を意味が読めるカプタ(capta)にする必要がある。欧米にはいまデータ・サイエンティストという職能が生まれつつあるが、これはデータをカプタにする役割をもつ。
 カプタという名称は型破りな心理学者のR・D・レインによる用語で、データを「いろいろ解釈できる意味情報」にしたものをいう。データが編集可能体になったものがカプタである。したがって、写真や図版を説明するキャプション(caption)もカプタ状態になっている。
 データはさまざまな情報を処理できるように形式化され、符号化されている。たいていは数値化されているけれど、単語や概念、記号式のもの、文節的なもの、アルゴリズムの断片、暗号化されたものなどもデータになりうる。しかし、これらは放っておけば自分からは何も語り出しはしない。だから、データはカプタに向かっていく。
 実は編集工学というのは、このようにデッド・データをライブ・カプタにしていく方法を研究開発するのがもともとの仕事だった。けれども、そのためにはまずは正確で豊富で多様なデータがなければならない。『理科年表』はその基礎データ集で、この本はそのカプタ集なのである。
 本書もエッセイの段落ごとに『理科年表』との照応を示してくれている。けれどもこれを読んだときも、ぼくは書棚の一角に忘れ去られた『理科年表』を覗きにはいかなかった。ごめんな、東京天文台、ごめんね、理科年表。