才事記

上方芸能列伝

澤田隆治

文春文庫 1996

 大阪商船に勤める父をもつ澤田隆治は昭和30年に朝日放送に入社して、ひたすらお笑いの道をプロデュースしてきた。藤田まことの「てなもんや三度笠」、ダイマル・ラケットの「スチャラカ社員」、数々の芸人を網羅した「花王名人劇場」は、その代表番組である。
 その澤田のテレビ時代の工夫の数々もむろんおもしろいのだが、澤田が見てきた上方芸人の動態やそれに対する冷めた見方はもっとおもしろい。

 どこがおもしろいかというと、たとえばの話、澤田は昭和21年の13歳のときにエンタツ・アチャコを『東京五人男』(斎藤寅次郎監督)で見るのだが、初めて見るエンタツ・アチャコの笑いよりも古川ロッパの印象が強烈で、いまもってエンタツ・アチャコのシーンが思い出せないという。その感想をもって、エンタツ・アチャコの歴史に入っていく。
 そうすると、ふつうは見えてこないエンタツ・アチャコが見えてくる。秋田実がエンタツを担当し、そのため長沖一がアチャコのラジオ番組、これはぼくも子供のころのたのしみだったのだが「アチャコ青春手帳」「お父さんはお人好し」などを担当することになったことに、その後のエンタツ・アチャコの芸の分かれがあったというような視点である。こういう見方はおもしろい。
 なぜなのか。そこからダイマル・ラケットも見えてくるからだ。ダイマルはエンタツに憧れて芸人になった漫才師である。ということは、よくよく見るとダイマルの動きにはエンタツがいるということなのだ。

 本書は、そうした上方芸人の“知財カタログ”の趣きをもっている。
 花菱アチャコの秘密は色気である。その体には長谷川一夫が棲んでいる。そのアチャコは曾我廼家五郎に傾倒していた。ということは、アチャコの作劇感覚は五郎の踏襲なのである。澤田はアチャコによってテレビのお笑いの演出を教えられたという。

 もうひとつ例をひく。
 上岡龍太郎はなぜ東京で売れたのか。上岡は大阪と東京のギャップを利用した。大阪では上岡の人気は、ちょうど反対の極にいる坂田利夫とはくらべものにならないほど、低い。アホの坂田が目いっぱいのサービスで笑いをとっているのに対し、カシコの上岡はサービスしないことを売りものにする。相手がサービスしても、それを断ち切るようなところがある。
 これはたいして大阪ではウケない。ところが東海道を東へ東へ進んだ東京の文化というものは大阪とちがって、気取っている。そこで、そのころコテコテの大阪弁まるだしだった板東英二・笑福亭鶴瓶・島田伸助の相手として東京にあらわれた上岡は、そのヘソまがりぶりでウケたのだ。実は上岡龍太郎一人では、誰も見向きもしなかったはずなのである。
 このように見てくると、上岡龍太郎は上方芸能の何かを喪失することで東京でウケたということになる。その喪失したものは何か。それが「ボヤキ」というものなのである。
 ボヤキの元祖は都家文雄である。ついで人生幸朗がこれを継いだ。風刺をしながらボヤいてみせる。そこには攻撃はない。そのボヤキを忘れて上岡龍太郎は東京で成功をした。まあ、そんなふうに澤田の目は読んでいくわけである。

 本書でぼくが知らなかったのは、高田浩吉のことだった。澤田は高田浩吉にかなりの思い入れがあるらしく、そうとうの資料を集めて高田分析にのぞんだらしいのだが、あとがきによるとその十分の一も書けなかったらしい。それでもぼくには珍しい。
 詳しいことは省くけれど、どうやら「てなみんや三度笠」で藤田まことを抜擢できたのは、美男俳優・高田浩吉のパロディだったようだ。そうか、なるほどと膝を打つ話だ。
 そのほか、本書ではミスハワイ、ルーキー新一(天才的なコメディアンだったらしい)、吉本興業会長の林正之助、正司敏江・玲児、曾我廼家五郎八、横山やすし・きよしがフィーチャーされる。いずれも、ぼくが知らなかったエピソードに満ちていて、笑いが尋常ではない苦悩によって生まれていることを知らされた。