父の先見
江戸商売図絵
青蛙房 1963 1995
企業という言葉はつまらない。ビジネスマンもよくない。ましてCEOやCFOにはぞっとする。商いや商売や商人がいい。呉服屋に育ったせいだろうが、そんな好みがあるせいか、ついにビジネスとは相性がよくないまま、ここまできた。
ついでにいうと、社名に屋号や家号が使われなくなったことがつまらない。清水組や藤田組や間組といった社名もヤクザとまちがわれないようにするためか、とんと使われなくなった。フジタ工業より藤田組のほうがずっとよかったし、百貨店のMATSUYAだって松屋のほうがよかった。CIやロゴマークのデザインも気にいらないものが多い。へなへなだ。そこで提案だが、暖簾に染めてもたないマークやロゴなどは社名にしないと決めてはどうか。
写植や電子フォントが発達するのはいいのだが、書き文字いわゆるレタリングが一気に衰退していったのも寂しいかぎりで、映画タイトルも特色を失った。せめて看板を取り戻しなさい。
本書の著者は日本画の絵師であり、江戸文化の研究者である。こういう人の仕事の仕方は根っから江戸っぽい。もともと徳川社会には一人で文章を綴って絵を描いて、おまけに薬を調合して、これらをすべて小売する者までいたものだ。
その絵師で江戸文化の研究者の三谷さんが、黄表紙・読本・絵本・合巻・人情本・狂歌本などのおびただしい江戸のメディアを渉猟して、徳川後期社会の「商売の世」を再現した。だいたいは文化文政の世だとおもえばいい。再現だから、絵はすべて原画の模写である。ただし原画の背景や文字を省いて、解説を別途につけた。原画で人物や文物が重なって不足しているところも、ちゃんと描き足してある。話題になった。
本書が好評だったため、その後も三谷さんは『江戸庶民風俗図絵』や『彩色江戸物売図絵』や『江戸吉原図聚』などを次々にものして、吉川英治文化賞で労(ねぎら)われた。80年代後半から日本に江戸ブームがおとずれるのだが、その基礎のひとつを築いたのが三谷さんだったのである。いまでは文庫になっていつでも楽しめる。
三谷さんを偲んで、いくつかの江戸の商人(あきうど)の日々を紹介したい。身のまわりのことがいいか。当時の屋号もたくさん書いておきたいが、これはキリがないので割愛する。
紅屋というものがあった。紅花を練りかためたもので、口紅にした。なかでも冬に製した紅は寒紅(かんべに)といって、寒中の丑の日に売り出された。白粉屋(おしろいや)は髪油や紅を一緒に商ったりもするが、白粉専門店もあった。なかで松金油というヘアオイルが流行した。
いったい江戸の町人たちはどのように髪結(かみゆい)を利用したかというと、店を出している内床(うちどこ)、道端で開いている出床(でどこ)、家々をまわる廻り髪結のどれかを選んだ。ヘア・メークアップというのは昔も今も客の希望に従うものだが、江戸時代では髪結師のほうがファッショナブルだった。たとえば江戸市中の廻り髪結は広袖・下馬・盲縞(めくらじま)・黒の股引・下駄ばきという出で立ちで、これなら堅気ではないモードだから三尺帯が相場なのに、あえて角帯をしめた。おかみさんたちはこういうお兄さんがやってくるのを心待ちにしたわけである。
女の髪結も独特だった。寛政期、さる鬘屋(かつらや)の女房が、役者の山下金作の金作鬘という女形のヘアスタイルに似せて芸者の髪結をしたのが評判になって、それならというので200文で女髪結をしはじめてみたところ、おおいに流行した。その女髪結が木綿の青梅縞に帯・前垂れを縮緬繻子(ちりめんしゅす)したのが美しく、女たちはそういう髪結の女房に憧れた。
紅屋に対して紺屋があった。藍染め屋である。もともと日本は王朝時代から「紅と紺」なのだ。林屋辰三郎さんにも『紅と紺と』という本がある。こうした染屋や生地屋のたぐいは全国にあったわけではない。京阪にあって江戸にないものもある。素瀘屋(いろや)と悉皆屋(しっかいや)と白皮屋(しろかわや)は江戸にない。
京阪では弔いのときの親族は無紋の麻裃を着る。衣服は白絹で、色は白か水色。女性も白麻布の衣服に白綸子の帯である。用意のない家はこれを素瀘屋から日借りした。ところが弔い以外の行事や紋日や節会ではたいてい染め模様が必要になる。これの注文を生地から染めまで、小物から草履まで揃えるのが悉皆屋で、これは京都にしかない。わが家もその伝統を継ぐほぼ最後の商いをやっていた。とても気の長い商売で、手形は台風手形(210日後の支払い)だし、客が何々の八掛(はっかけ)といえば、それに合わせてすべての衣装調度一式がすぐにピンとこなければならなかった。白皮屋は大坂だけにある商いで、なめし皮を作った。
京阪になくて江戸だけにある商売もある。献残屋(けんざんや)は武家が進物したり町人が献上したものの残りを扱って売るのが仕事で、上り太刀・熨斗鮑(のしあわび)・枯魚(ひもの)・昆布・葛粉・片栗粉・唐墨(からすみ)・雲丹・胡桃のたぐいは、この献残屋によって流通した。ようするに買い物文化だけではなく贈り物文化が江戸の経済文化を回していたわけである。
菜屋(さいや)も江戸名物で、鯣(するめ)・焼き豆腐・蒟蒻(こんにゃく)・慈姑(くわい)・蓮根などは菜屋でなくては手に入らない。何でもスーパーやコンビニに置くというのは、実は価値観を低下させるばかりなのである。
本書には説明がないのだが、江戸後期の商売模様を楽しむには当時の通貨や流通のことを知っておくといい。喜田川守貞の『守貞漫稿』を読むとだいたいのことがわかる。
貨幣には東の金貨、西の銀貨、庶民の銭、地域紙幣としての藩札があった。金貨は大判を別格にして、小判が1両、その4分の1が1分、1分の4分の1が1朱である。つまり16朱が1両になる。この金貨は江戸を中心に東国で流通する。一方、大坂中心の西国では銀貨が売買や決済に使われた。こちらは丁銀と豆板銀があって秤で量って料金にした。貫・匁・分・厘・毛という単位で、これを見ると当時の金銭感覚が質の感覚ではなく、量の感覚だということが伝わってくる。
庶民のほうはめったに金貨も銀貨も使えなかった。もっぱら銭をまわした。寛永通宝なら銅の10文銭が、万延年間なら鉄の4文銭などがよく流通した。
金貨と銀貨の交換率もむろん決まっている。金1両が銀60目になる。志ん生の落語をテープやCDで聞いていると、よく「えー、四貫相場に米八斗などといいまして」という説明がよく出てくるのだが、これが金1両が銭4貫文にあたることをあらわしている。それで米が8斗買えたというのだ。天保の江戸相場では金1両が銀62匁になっていた。ついでに落語の『時そば』で16文という値段が出てくるが、これでも徳川社会が4の倍数を好んだことがよくわかる(4音一拍)。寛永通宝で波銭とよばれた4文銭が便利になったためだった。
興味深いのは、大判は通貨というより貯蓄用で、小判も上級武士か豪商しか扱わなかったので、ほとんど通貨とはよべず、藩札も藩内だけで使われていたということだ。しかも両替には秤が必要なのだが、その秤は指定の家格でしか扱えず、江戸では守随家が東国33カ国を、京都では神(じん)家が西国33カ国を仕切っていた。
いまは銀行が証券にも保険にも手を出せるようになったのだが、規制緩和は実は町をほろぼす政策でもあるのだ。
町を滅ぼすといえば、物売りも町の殷賑だったということも忘れられてきた。
芝居の『おさん茂平』の大経師屋意俊で有名な暦売り、「吉原の眠らぬ床に宝舟」と詠まれた宝舟売り、節分どきの赤鰯売りや柊売り、糸立て筵の筒を三杯ずつ両天秤にぶらさげた苗売り、端午の節句にあわせた菖蒲太刀売り、竹箒のような藁苞(わらづと)の弁慶に小さな丸い虫籠をいくつもくっつけていた蛍売り、お盆の前の「とうろうーや、とうろ」の灯籠売り、近江商人の手代たちが菅笠をかぶって出向いた蚊帳売り、鬼灯(ほうずき)や薄(すすき)も必ず物売りが持ってまわったものだった。
ぼくが好きなのは粋な女たちによる扇地紙売りというもので、夏になると扇の地紙を振り売りをした。恰好は縞の帷子(かたびら)、紅麻の襦袢、ときに晒しの浴衣(ゆかた)姿に当世風の帯をしめ、白地の手拭を襟に巻いて大きな加賀骨扇をかざして足袋・雪駄というもの、手拭をちょっと口に含んで「地紙、ぢがみい~」と呼び声を出した。「手ぬぐひをくはへた声の地紙うり」という川柳がある。
物売りは俗に「一文商い」といわれたように、貧しい商いではあるのだが、それなのに圧倒的人気があった。その種類もおびただしく多い。三谷さんには『彩色江戸物売図絵』というものもあって、すべて独自の彩色がしてあるが、見ているだけでイナセな声が聞こえてくるほどその特徴をとらえている。高荷を積んだ木綿売り、文房四宝の筆墨売り、深川名物の花輪糖売り、炎暑に氷水を運んだ冷水売り、「てふてふとまれよ、なのはにとまれ」の蝶々売りなど、なんでもあった。
それぞれ独特の衣裳と意匠を凝らしていたのは、見かけと中身を合致させるのが物売りだからいうまでもないことで、これが本当のブランドというものだったのである。