西行
山家集
岩波文庫 1928
ISBN:4003002318
[校訂]佐佐木信綱

 おととい、銀座の一隅で話をした。「文化パステル」という銀座を拠点にした変わった会の主催で春の特別講演会と銘打たれていた。福原義春さんの紹介だった。ぼくはちょっとパステルなというか、散りはじめた桜の風情を枕に山本健吉と丸山眞男を引きながら、「稜威の消息」をめぐって話した。外は小雨だった。
 その朝、家を出てタクシーで銀座に向かうと、あちこちの桜が小雨のなかで明るく悄然としている姿が窓外を走っていた。ああ、今年の東京の桜も終わったなという気分だったので、桜と稜威をつないでみたかったのである。
 桜が咲き始めるころは、今年も桜が咲いたか、どこかに見に行くか、どうしようかなと思い、桜が真っ盛りのころはその下で狂わなければなあ、去年もゆっくり桜を見なかったなあと感じ、そのうち一雨、また二雨が来て、ああもう花冷えか、もう落花狼藉かと思っていると、落ち着かなくなってくる。寂しいというほどではなく、何かこちらに「欠けるもの」が感じられて、なんだか所在がなくなるのである。何かが欠けたのか。そうではないようだ。求めていた面影が少し遠のいたのだ。ぼくの所在は面影にあるのだから、そこが遠のくと何かが欠けたと感じるのだ。
 そういう欠けた気分になると、決まって思い出されるものがある。西行の歌である。ふだんは思い出さない。何かが欠けているような気分になると、そこに西行が「雨にしをるる」とか「梢うつ」「惜しき心を」というふうに声をかけてくる。これは日本人における「所在」というものだろう。
 
  梢うつ雨にしをれて散る花の 惜しき心を何にたとへむ
 
 いまや東京では、雨の日の自動車がアスファルトに散った桜の花びらを轢きしめていくのが、なんともいえぬ「哀切」である。もともと自動車のタイヤの音は、驟雨や霧雨や雨上がりのときが最も美しい。
 かつて松濤の観世能楽堂の近くに住んでいたころ、小型テープレコーダーをONにしたまま手にぶら下げて、あのあたりをよく歩いた。しばしば眼をつぶって歩いた。このテープを再生してみて、意外なことに自動車が雨のアスファルトをしびしびと走っていく音が一番きれいだった。それがいまでは「雨と桜とタイヤ」という取り合わせに、心が動くようになっている。

 桜が人の心を乱すのは世の常のこと、いまさら言うべきこともないはずなのに、ちょっと待て、いま何かを感じたのでちょっと待て、と言いたくなるのはおかしなことである。それも、開花から落花まで僅か一週間か十日ほどのことなのに、そのなかで桜への思いはめまぐるしく変わる。そのくせ結局はいつも何もできないうちに、花はいよいよ無惨とも、平然とも、婉然とも、はらはら散っていく。
 せいぜい十日あまりのことだったのに、何かがまた終わってしまい、何かが欠けていくと感じてしまうのだ。こうして、その年にたとえどれほど花見をしようとも、たとえどれほど桜の宴を催そうとも、花は花が散ったところからが、今年も「花の所在」なのである。だから西行を思い出すのもきっとそのころからのことになる。
 
  風に散る花の行方は知らねども 惜しむ心は身にとまりけり
  散る花を惜しむ心やとどまりて 又来む春の誰になるべき
 
 王朝期、花といえば桜のことをさすようになった。万葉期は梅だった。万葉集で詠まれた植物は、①萩、②梅、③橘、④菅、松、⑤、⑥浅茅で、桜は一〇位なのである。その桜が平安から鎌倉にかけて一挙にふえた。日本列島の植生のせいではない。桜をたくさん植樹したからでもない。歌人の「心ばえ」が桜に向かったのだ。そしてなにより、西行のせいでもある。
 窪田章一郎によると、西行には桜の歌が二三〇首あるという。植物では次の松が三四首、第三位の梅が二五首というのだから、桜への傾倒は断然である。西行自身も「たぐひなき花をし枝に咲かすれば桜に並ぶ木ぞなかりける」と詠んで、すなおに桜を筆頭にあげた。
 西行が自選して俊成に贈ったという『山家心中集』は、その書名を誰がつけたのかはまだわかっていないのだが、俊成の筆と推定されている冊子の表題の下には「花月集ともいふべし」と書かれている。西行はついついそういう花と月の歌ばかりを俊成に選んだのである。
 芭蕉は『西行上人像讃』で、「捨てはてて身はなきものとおもへども雪のふる日はさぶくこそあれ」という西行の雪の歌に、「花のふる日は浮かれこそすれ」と付けてみせた。まさに芭蕉の言うとおり、西行は花にばかりあけくれた。西行がいなかったなら、日本人がこれほど桜に狂うことはなかったと言いたくなるほどだ。ぼくはあまり好きな歌ではないのだが、「ねがはくは花の下にて春死なんその如月の望月のころ」という有名な歌が、西行のよほどの桜好きをあらわしている。

 西行は桜を詠んだ。年々歳々、桜の季がくるたびに、西行は乙女のように花と戯れ、翁のように花の散るのを惜しんだ。そのくらい桜を詠んだ西行だから、咲き初めてから花が散り、それがまた葉桜にいたって若葉で覆われるまで、ほとんどどんな風情の桜も詠んでいるのだが、そのなかでぼくがどの歌の花に心を動かされるかというと、これは毎年、決まっている。
 花を想って花から離れられずにいるのに、花のほうは今年も容赦なく去っていくという消息を詠んだ歌こそが、やはり極上なのである。ぼくはそういう歌に名状しがたい感情を揺さぶられ、突き上げられ、そこにのみ行方知らずの消息をおぼえてきた。
 
  散るを見て帰る心や桜花 むかしに変はるしるしなるらむ
  いざ今年 散れと桜を語らはむ 中々さらば風や惜しむと
 
 これが西行の「哀惜」ないしは「哀切」というものだ。面影を惜しむということをしている。哀しくて惜しむのではなく、切って惜しむ。そのことが哀しむことなのである。これは「惜別」という言葉が別れを哀しむのではなく別れを惜しんでいることを意味していることをおもえば、多少は理解しやすいにちがいない。
 こうして西行の花は、一心に「花みればそのいはれとはなけれども心のうちぞ苦しかりける」というものになっていった。おそらく西行にとっての桜の心はこの一首の裡にある。桜を見るだけで、べつだん理由などはっきりしているわけではないのに、なんだか心の内が苦しくなってくる。そう詠んだ歌である。その「いはれなき切実」こそが西行の花の奥にある。
 西行にとって「惜しむ」とは、この「いはれなき切実」を唐突に思いつくことなのである。それが花に結びつく。月に結びつく。花鳥風月と雪月花の面影がここに作動する。なかで花こそは、あまりにも陽気で、あまりにも短命で、あまりにも唐突な、人知を見捨てる「いはれなき切実」なのだ。

 西行はなぜ「いはれなき切実」に生きたのだろうか。生涯の事蹟には審らかではないことが多く、奇妙奇ッ怪な西行伝説も各地にいろいろのこるのだが、総じては実際の日々に「いはれなき切実」が出入りしていたのだと思われる。
 出自は武士だった。佐藤義清といった。秀郷流武家藤原氏の血をうけて、代々の佐藤家は衛府として何の愁いもない日々をおくっている。西行も十六歳で徳大寺家に仕え、保延元年(一一三五)の十八歳のときは左兵衛尉の官位をもらい、二年後には鳥羽上皇の「北面の武士」に取り立てられた。清盛や文覚と同じ職分である。
 ところが二三歳で出家する。妻子は捨てた。都の北麓の鞍馬山あたりに隠棲して円位を名のり、その後は西行と称して諸国をめぐる漂泊の旅を続けた。高野山に入ったり、奥州を歩いたり、四国讃岐の善通寺にいたこともわかっている。けれどもなぜ出家を決断したのかは、わからない。失恋説、友人急死説、政界失望説、仏道発心説などが議論されているが、はっきりしない。
 ひたすら歌を詠んだ。それだけは、はっきりしている。ただし、人知れず詠んだのではない。西行の出家遁世のニュースは都ではリアルタイムに注目され、その歌もほぼリアルタイムに届いていて評判を集めつづけた。『新古今和歌集』に九四首が採られているのだが、これは新古今集中で一番多い採用だった。

 西行の遁世の主な動向は中央がキャッチしていたし、西行も都のめまぐるしい変化をほぼ知っていた。そういう御時世だった。三九歳のときに保元の乱がおこり、天皇家も摂関家も割れて、これに新興の源氏と平家が微妙に分かれて天下二分の乱になった。後白河側が勝利をおさめると、西行もよく知る崇徳上皇は讃岐に流され、そこで死んで怨霊となった。西行は讃岐の地を訪れて「よしや君 昔の玉の床とても かからむ後は何にかはせん」と鎮魂の歌を詠んでいる。
 こういう腥い話は西行の桜の話にはふさわしくないと思うかもしれないが、そうではない。これもまた「いはれなき切実」に編み込まれていたことなのだ。
 五九歳になって伊勢の二見浦に住むことにした。日本の祖霊の面影の地だから安住もしたいと思ったが、すぐに源平の争乱が始まって、津々浦々どこにも血と炎と死が絶えることがなくなった。
  
  死出の山越ゆる絶え間はあらじかし 亡くなる人の数続きつつ

 源平の動乱は平重衡を奈良に追い、東大寺に火を放つことになった。焼け落ちた堂塔伽藍を復興するべく、勧進の聖に重源が立った。プロジェクト・リーダーになった。けれども大仏を造像する鍍金(メッキ)のための金がなかなか調達しきれない。思いあぐねた重源はすでに遁世していた西行を訪ねて、奥州の藤原秀衡に協力を願い出ることを頼んだ。西行と秀衡は旧知なのである。
 斯界の長老に頭を下げられては断れない。西行は四十年ぶりに奥州へ行く。六八歳のときである。「年たけてまた越ゆべしと思ひきや 命なりけり小夜の中山」。奥州へ向かっての途次、まさか年老いてから夜半の中山を越えるなどとは思いもしなかったと詠んだ歌だ。
 このとき西行は鎌倉に立ち寄って、頼朝とも会っている。存外、そういうことは平気だったのだ。驚いたのは頼朝のほうだったろう。館に招いて歌のことやら流鏑馬のことやらの教えを乞うたと、『吾妻鏡』は書いている。
 そのほかいろいろ生涯のエピソードがあって、それらは『西行物語』として案外早くにまとまっているのだが、さあ、それで西行の歌が沁みてくるかといえば、そういうことではあるまい。

 それなら、どんなふうに西行の歌を味わうか。ここでいささか大仰な西行学を披瀝すると、もともと西行には「心を知るは心なりけり」という見方があった。歌において「有心」とは風情に心を入れることで、それを「心あり」とも評するのだが、西行はそれでは満足しなかったのである。「心は心だ」というのは同義反復か自同律のようなものではあるけれど、しかし西行はそのようにしか言いあらわせないものがあることを早くから見定めていた。ぼくはこの「心は心だ」という認知論を高く評価するのである。『山家集』に次の二首がある。
 
  心から心にものを思はせて 身を苦しむるわが身なりけり
  惑ひきて悟り得べくもなかりつる 心を知るは心なりけり
 
 これなのだ。ここに西行の根本があったのではないかと思う。心のことは心にしかわからないと言っているのではない。ジャック・ラカンではないが、心は心に鏡像されていると見抜いたのだ。試みにこの二首をつなげてみるとよい。「心から心にものを思はせて→心を知るは心なりけり」。これが西行の見方の根本にあることなのである。これはまさに今日の認知科学がやっと到達した見方に近い。西行はそれを端的に喝破していた。
 このように心を心に見て、その心を心で知ってみるというのは、そもそも何が「うつつ」で何が「夢」かの境界を失うことを覚悟することでもあった。いいかえれば、つねに境界に消息していく生きかたに徹するということだった。そこを西行は「見る見る」という絶妙な言葉の重畳をつかって、次のようにも詠んでいた。「見る見る」は今日にいう「みるみるうちに」の「みるみる」ではなく、まさに見たうえで見ているのである。目で見て心で見たのである。
 
  世の中を夢と見る見るはかなくもなほ驚かぬわが心かな
 
 はかなくたって驚かない。はかないのは当たり前なのだ。そういうふうに見定めた。ここでは夢と浮世は境をなくし、花と雨とは境を越えている。「世の中を・夢と見る見る・はかなくも・なほ驚かぬ・わが心かな」。
 また西行学を持ち出していえば、「わが心かな」で結ぶ歌は、西行の最も西行らしい覚悟を映し出している歌だった。以下、『山家集』に「わが心かな」を拾ってみた。五首目の「梢まで咲くわが心かな」はまさに春信の浮世絵にすらなっている。
 
  花と聞くは誰もさこそはうれしけれ 思ひしづめぬわが心かな
  日をふれば袂の雨のあしそひて 晴るべくもなきわが心かな
  涙川さかまく水脈の底ふかみ 漲りあへぬわが心かな
  逢ふまでの命もがなと思ひしは 悔しかりけるわが心かな
  色そむる花の枝にもすすまれて 梢まで咲くわが心かな
 
 ここまでくると、西行の「いはれなき切実」や「わが心かな」をすべて表象しきっているのは、次の一首にとどめをさすというべきである。
 次の一首がどういう歌かをあかす前に、ここで五年前のことに一言ふれておきたい。その日、ぼくはふと思いついて「未詳俱楽部」を結んだのであるが、その最初の会合を箱根芦ノ湖の畔に呼びかけたのだった。その時その所に集まってほしいと、ただ招待状にそう書いた文面を縁に、全国から三八人が集まってくれたその山道に、小雨のなかを箱根に特有の高根桜が小さくキリリと咲いていた。
 初めて出会う面々が、一〇部屋に分かれて荷を下ろし顔を合わせる刻限を思って、ぼくはその部屋に一首ずつ西行の桜の歌を色半紙に認めておいた。その夜は満月だったのである。
 すでに紹介した歌のほかは、次の歌と、そして一首。
 
  月見れば風に桜の枝なべて 花かと告ぐる心地こそすれ
  雲にまがふ花の下にて眺むれば 朧に月は見ゆるなりけり
  おのづから来る人あらばもろともに 眺めまほしき山桜かな
  あくがるる心はさても山桜 散りなむのちや身にかへるべき
  花も散り涙ももろき春なれや 又やはと思ふ夕ぐれの空
 
 この一〇首の桜の歌の頂点に立つともいうべき歌が、ぼくにとっては次の極上の一首なのである。この「胸のさわぐなりけり」という歌こそが西行のすべての桜の絶巓に散る歌である。もはや何も言うことはない。たんに胸がさわぐのではない。「さめても胸のさわぐなりけり」なのである。
 
  春風の花を散らすと見る夢は さめても胸のさわぐなりけり

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