父の先見
科学が正しい理由
青土社 1999
Roger G. Newton
The Truth of Science 1997
[訳]松浦俊輔
欧米ではというか、キリスト教文化圏ではというか、いつもその"陣営"をどうよぶかをそのことを言おうとおもう瞬間に迷うのだが、まあそれはともかく、西側の合理が好きな科学的な知識人のあいだでは(と言っておくことにするが)、「20世紀は啓蒙主義とロマン主義という二つの対立する文化のあいだで科学が継承されてきた」というふうに捉えるのが"常識"になっている。
インディアナ大学の物理学の教授をしてきた本書の著者も、あきらかにこの立場にたっている。
この立場というのは「科学は啓蒙主義やロマン主義の犠牲になってはならない」というものだ。著者はそこで、このような啓蒙主義とロマン主義のあいだに挟まれて必要以上に苦悩する科学を「正しい姿」に戻したいと心底から思っているらしく、本書をそのような目的で書いた。
著者は「科学が正しい」とみなせるには、科学者自身がもっと鮮明な立場に徹する必要があると主張し、いくつかの立脚点をあげている。
第1には、コンヴェンショナリズム(規約主義)に立つというものだ。
これは、科学が提案した約束事(コンヴェンション)は科学を進めるための約束事であって、それ以外でもそれ以上でもないという立場である。なぜ物理学者のロジャー・ニュートンがそんなことを主張するかというと、オッペンハイマーらの原爆研究このかた脳死問題や遺伝子操作にいたるまで、科学は社会的政治的な影響によって発展しているのではないか、とくに20世紀は、という疑念の議論が絶えないからだった。
第2に、科学が使う道具の意味をもっと正確に知ることである。著者はまず「モデル」という道具をあげ、次に一部の科学者や大半の文化派の連中にとっては意外におもえるだろうが、アナロジーとメタファーも科学の重要な道具であることを説明する。
第3には、これはちょっと面倒な議論になるが、たとえば「複雑性の科学」などで話題になっている発現特性が旧来の科学ですぐに説明できないからといって、それをもってこれまでの科学の「正しい姿」を訂正する必要がないという立場である。
ぼくとしてはこの議論には与せないものがあるのだが、著者はこの立場を頑固に守ることが「科学の正しさ」を維持するには不可欠だと考えている。むろん、このような著者の立場を徹底することは最近は人気のない「科学は還元主義である」ということを自白することにつながる。
が、著者にとって科学はなんといっても安定していなければならないのである。
そこで第4には、科学が扱っているのは一般的事実であって、どんな個別的事実でもないということをあきらかにしておきたいと考える。
こんなふうに言うと、科学がいかにもつまらないもので、都合のよい現象のみを扱っているように見えるだろうから、著者はすぐに第5に、一般的事実から出発しつづけるからこそ、たとえば数学が「不定」という要素を導入できたり、量子力学が「確率波」という科学にまで達することができたのだという説明をする。これはカール・ポパーが「反証可能性」を持ち出したのに対して、あくまでも「検証可能性」だけで科学を進めてもなんら問題がないという立場を説明している。
第6に、著者は「理解」にはいくつかのレベルがあるということをあきらかにする。ここはゴードン・ケインの『素粒子圏』を援用して、理解には「記述的理解」「入力と機構の理解」「理由の理解」という3つの科学的な理解があるという説明をする。この3つを、文化系の連中、とくに啓蒙主義者とロマン主義者はごっちゃにしているのではないかという非難でもある。
ぼくのように科学を編集的手続きとして見ている者にとっては、 あらためて強調するほどのことでもないとおもうものの、実は科学における理解の意味をいちばん理解していないのが科学に従事する"先生"たちなのだ。
このようにひとつずつ科学の"正しい"立脚点をあげていく著者にとって怖いのは、マイケル・ポランニーが「誰もが科学のごくわずかな部分しか知らないので、その妥当性や価値を科学が判断することはできないはずだ」というものである。
これはいわゆる「暗黙知」の領域の議論とともに科学の横暴な権威の前にたちふさがるには有効な意見であるのだが、著者はこのポランニーの疑問にはぶつからない。科学というもの、べつだんわからない部分があるからといって、それで「正しさ」がなんらの損傷をうけるものではないという立場なのだ。
すなわち、科学は科学というシステムの中において徹底したコヒレンシーを保てばよろしいのであって、科学の中には見えない領域が広がっているというのは、蒸気機関車が通信能力をもっていないとか、ミキサーでDNAが調べられないと言っているようなものであって、とうてい議論の対象にすらならないという立場なのだ。
というわけで、本書は科学を少しでも立派にしたい人にとってはまことにうってつけの一冊であり、しかもこれは推薦してあげておいていいことだろうとおもうのだが、さまざまな科学の成果を実にうまく引例して話をすすめているので、一種の最新の科学理論入門書としても一級品になっている。
だからこの本は科学を知りたい読者にも向いている。ほんとうのところをいうと世の中で「科学を教えている先生」にこそ読ませたい。いろいろな場面で実感してきたことなのだが、「科学がいいものだ」と偉そうに、あるいは慎ましく教えている連中ほど、世の科学書を読まない連中なのである。それだけならまだしも、自分が専門としている科学領域以外のほとんど何も知ってはいないのが、ほとんどの科学者の平均像なのだ。
つまりは、大半の科学者は自分が携わっている僅かな領域を"科学している"だけであって、科学一般を考えたことがあるわけではないということである。
それゆえ、ポパーやファイヤーアーベントや村上陽一郎を読むべきは多くの科学者自身なのであるが、めったにそういうことはおこらない。本書がどこかイライラしているのもそのへんだ。きっと科学が正しいワケの説明が、大半の科学者によってなされていないという苛立ちがあるためなのだろう。
そういう意味では、本書は科学者が科学者自身に向けたとっておきの"虎の巻"である。しかし、読んでいてどこか「言いくるめられている」という気分がするのも拭えない。また、啓蒙主義とロマン主義を避けなければ科学でいられないというのも、実は警戒しすぎである。そんなものを恐れる必要はない。
湯川秀樹さんはぼくにこう言ったものだ、「ぼくが本当にやりたかった科学は谷崎のようなもんです」と。呆気にとられたぼくを尻目に湯川さんは続けた。「そうや、女の足の指を舐めるような科学やね」。
それにしても日本の科学教育の現場はどんどんつまらなくなっている。なんとかしてほしい。こんなことをおもうのは、ぼくが科学のギョーカイにいないためだろうか、それとも"科学していない"せいだろうか。