馬渕和夫
五十音図の話
大修館書店 1993
ISBN:4469220930

 読むとは声を出すことである。
 分かるとは声を自分の体で震わせることなのだ。分かるは、声を分けることなのである。言葉や文字の本質から声を抜いてはいけない。多くの言語学者や書家たちは声を忘れすぎている。空海はこれを一言で「声字」(しょうじ)と言ってのけた。
 日本の文字。日本のボーカリゼーション。
 すべては高野山や比叡山で考え抜かれたことだった。ということは、日本語という独自のシステムを構成していった功績のかなりの部分に、真言僧や天台僧がかかわっていたということになる。日本という秘密のまことに重大な胎盤が密教僧によって充血していったということになる。

 ぼくには日本のことや日本語を考えるときに、いったんふと契沖に戻ってみることがしばしばある。そういうなか、契沖が浄巌と深く交流していたことが気になっていた。
 この交流は、歌学者であって国学者の嚆矢であった契沖がそもそも仏教学者であって、しかも高野山に十年にわたって学んだ悉曇学者であったことを示している。
 浄巌は当時の真言宗第一の学者である。その浄巌とほぼ同時期に高野山にいた契沖は、真言僧たちの悉曇学の深さを知ってたちまちこれに取り憑かれたのであろう。やがて自ら悉曇学を拓くうちに和字や和音に関心をもっていく。その最初の成果が元禄8年(1695)の『和字正濫鈔』になる。
 ここに「契沖の五十音図」ともいうべきものが登場するのだが、いろいろ調べてみると、その半ば以上の成果を悉曇学から貰っていた。悉曇学とは日本の国語史を代表する文字と声の学問である。声字音義の学問だ。けれども、その対象はあくまで梵字であった。その梵字と漢字の関連を考えようとする学問だった。
 それが仮名の発達によって悉曇学にも仮名との対応関係が追求さ れるようになる。そうなると、そこには「国語」や「和音」が浮上する。契沖が考えたことは、そこだった。契沖は悉曇学からこそ歌学と国学を冬虫夏草のごとくその主柱をのばしたのである。あえていうのなら密教が歌学と国学を準備した。
 このように五十音図の歴史においても、契沖のところがひとつの大きな分水嶺だったのである。

 五十音図の発生は従来から『金光明最勝王経音義』と『孔雀経音義』の二つにルーツがあると言われてきた。山田孝雄の名著『五十音図の歴史』(1938)が最初にあきらかにしたことだ。
 いまのところこれ以上古い五十音図は見つかっていないので、たしかにここにルーツがある。15年ほど前は、それでもこの表図を夢中になって眺め回していた。
 けれども、その後にいろいろのことを知ってみると、醍醐寺所蔵の『孔雀経音義』の巻末図は40字しか並んでいない音図で、母音の順も「キコカケク」「シソサセス」というふうになっているし、『金光明最勝王経音義』は漢字に和訓をあてはめたもので、五十音図の原型ではあるけれど、五十音図ではない。もっぱら濁音借字に重心がおかれているところも、かなり不完全である。実際にも当時は「五音図」とよばれた。またその一方で「いろは表」の原型も提示されていた。
 これらを声字音義システムとしての五十音図に一挙に引き上げたのは、明覚である。1056年(天喜4)の生まれで1101年(康和3)に没しているから、ちょうど『源氏物語』が書かれて読まれ出したころにあたる。天台僧だった。
 明覚には『反音作法』『梵字形音義』『悉曇大底』『悉曇要訣』『悉曇秘』『梵語抄』というふうに、著作がかなりある。そうとうの大学者だったとみてよいだろう。しかし、明覚にはどこか"かぶせ音素"とでもいうべき処理があって、いまひとつ五十音図は確定しきれないままのところがあった。

 明覚を批判し、発展させたのが興福寺の兼朝と高野山東禅院の心蓮である。とくに心蓮は『悉曇口伝』『悉曇相伝』で新たな一歩を踏み出した。
 心蓮でおもしろいのは、日本語の音の発生のしくみを順生次第・ 逆生次第・超越次第などに分け、これをさらに本・末に組み合わせているところ、さらに発音には口・舌・脣の3つがあると説いているところで(これを「三内」と名付ける)、こういう発想は世界の言語学を見てもない。密教的というか、日本的というか。
 心蓮は梵語の発音を漢字や日本語の発音と結びつけようとして、新たな五十音図に挑戦したのだが、そこにはまだオとヲの発音のちがいなどを明確にする方法が出きっていない。こうして五十音図の完成はまた先にもちこされることになった。

 そもそもひるがえってみると、日本にはずっとボーカリゼーションの悩みというか、文字と音(声)をめぐる多様な選択というものがあった。
 ひとつは倭人(先住日本人)が古来からもってきた発音の仕方である。次に中国朝鮮から渡ってきた発音法があった。これは文字をまったくもっていなかった日本人にとっては青天の霹靂のようなもので、ともかく文字というものの組み合わせで自分のオーラルな言葉を表示できることに心底驚いたのだが、その渡来の文字がほかでもない漢字であったことで悩むことになる。
 漢字にはもともと中国人の発音(読み方)が備わっていた。しかし日本人の言葉とその発音は、当然のことだが、ぴったり合いそうもない。おまけに中国人の漢字の発音にも大きくいっても二つの流れがあった。それを漢音と呉音というのだが(さらに唐音がある)、その二つが仏教とともにどっと入ってきた。「正」をセイと読むのが漢音(北方系)、ショウと読むのが呉音(南方系)である。これは紛らわしい。
 そこで日本人はいろいろのことを決める。工夫する。

 まず、中国の発音法(読み方)のうちの漢音を「正音」とし、呉音を「和音」とした。
 ついで、それまでの日本語(倭語あるいは大和言葉)の発音に近い漢字の読みを探して、たとえばアには麻や安や阿を、ソには素や曽や蘇をあてることにした。万葉仮名の登場である。
 もうひとつ、中国の漢字による漢文の読み方にも工夫した。漢文を中国人のように読むには中国語を使う以外はない。これはできないので、漢文を「反切」という方法によって和風に読めるようにした。ある漢字の音を比較的やさしい別の2文字に分解して示せるようにしたのである。
 こうして日本人は、漢字から二つの読み方を引き出すことに成功する。ひとつは、漢字を中国の発音にちょっとは近いけれどあくまで日本的な読み方をする「音読」と、もうひとつは従来からの倭語の読み方をその漢字にあてはめて読む「訓読」である。こうして「音」はオンともネとも、オトとも読めるようになった。

 こうした工夫をどうするか、とくに仏教界にとって大きな課題だった。なにしろ僧侶は日々読経をしなければならず、そのたびに漢字の読みには苦労する。
 仏教界はボーカリゼーションの規則と例外をつくることに躍起になっていく。朝廷にとってもそれは見過ごせない。なぜなら当時の仏教は鎮護国家のための仏教であったからだった。
 そこへ空海と最澄が入唐して、新たな密教体系とともに文字と発音のしくみを持ち帰ってきた。それが空海が将来した中天音(中央インド系の発音)と最澄が将来した南天音(南インド系の発音)である。これを漢音・呉音にうまく適合させなければならない。
 が、そうそううまくはあてはまらない。たとえば今日の真言密教で『理趣経』を読経するときに、たとえば「一切如来」のところを「イッセイジョライ」と読むのは、真言では珍しい漢音読みなのだが、そういう個別的な工夫もいろいろ組み立てられた。
 密教僧はこうして漢字の読み方を工夫精通しつつ、新たな「真言」とは何か「真音」とはなにかということに取り組んでいく。
 このときに梵語が浮上した。

 もともと仏教(とりわけ新しい密教)はインドのどこかで次々に発祥したもので、そこにはサンスクリット語やパーリ語が君臨していた。それを仏教が中国に入るにつれて漢訳されたわけで、日本ではその漢字だけによる漢訳経典をテキストにした。
 けれども、そこにはインド伝来の「奥のボーカリゼーション」もある。実際にも玄奘の漢訳では、「ギャーティ・ギャーティ」などのダラニの部分は漢訳しないでそのまま音写した。こういうことに最初に気づいたのが空海である。空海はすぐさま梵語や梵字の研究に入っていく。
 この密教的な梵字梵語研究がやがて「悉曇学」というものになるのだが、その悉曇学が充実していったころに、他方で日本語の文字と発音の確立が時代的なテーマになってきたわけである。そこには日本人が初めて"発明"した日本文字である平仮名と片仮名の定着が待っていた。

 いささか話がややこしくなったかもしれないが、空海以降、こういうことが一斉に、かつ同時におこったとみればよい。一方では仮名の登場が、他方では梵語の研究が、また別のところでは条例や官職に使用する漢字の意味の把握などが、さらに別のところでは和歌と漢詩の比較が一挙に進んでいったのだった。
 おそらく日本語の将来にとって、こんなにすごい時代はほかにない。明治維新にも森有礼が日本を英語やローマ字の国にしようという動きがあったけれど、これは外国語にあわせて日本語や日本をつくるようなもので、比較にならない。さいわいにも、潰された。それを言い出したのはアメリカのホイットニーという言語学者で、彼は森のその提案を聞いて、ほとほと呆れて次のように言った、「とんでもない。一国の文化というものはその国の国語でつくらなければなりません!」。
 こんな体たらくの明治初期にくらべると、三十六歌仙や菅原道真や紀貫之や小野道風の時代は、まさに言葉と文字と発音(声)と書に関するすべての多様な事情を睨みつつ、新たな日本語の文字システムと発音システムを起爆させる必要があった時代なのだった。
 このとき、密教僧たちの、とりわけ真言僧たちの独特の研究が次々に芽吹いたわけなのである。
 兼朝から心蓮への、そのあとの寛海から承澄への、さらには承澄から信範への、その弟子の了尊への五十音図の精緻化の努力は、そういう時代背景の波動のなかに位置づけられる。

 本書はこうした五十音図の歴史を倒叙法的に簡潔にのべたものであるが、著者が専門とする韻学史の視点がぞんぶんに生かされていて、そこがおもしろい。
 しかも問題を五十音図だけに絞っている。五十音図は、ぼくも試みに学生や知人たちに尋ねてみてショックをうけたことがあるのだが、多くの日本人が"明治以降の産物"だとおもっている。ひどいときには、欧米の言語システムに合わせて作成されたものとさえおもわれている。
 そうではない。五十音図は奈良平安の苦闘を通過した日本人がつくりあげた文字発音同時表示システムなのである。つまりは空海の声字システムのひとつの到着点なのだ。
 その道程には冒頭にあげた契沖をへて本居宣長にまで及ぶ国学の発生も含まれる。また、その後は大槻文彦や吉田東伍や山田孝雄の考究も含まれる。五十音図とは日本を考えるための歴史上最初のソフト・プログラムだったのである。
 ついでにもう一言言っておくが、このようなプログラムを日本人は五十音図以外にもうひとつ用意した。それが「いろは歌」というものである。「五十音図」と「いろは歌」、その奥に何重もの対比と相克と離別を繰り返した「真名」と「仮名」。このことを語らないで、どうして日本を問題にできるだろうか。

参考¶馬渕和夫は大正7年生まれの国語学者。『日本韻学史の研究』(臨川書店)の大著や『悉曇学書選書』(勉誠社)や『古語辞典』(講談社)の編纂があるほか、『上代のことば』(至文堂)、『奈良・平安ことば百話』(東京美術)などの啓蒙書もある。

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