ミシェル・フーコー
知の考古学
河出書房新社 1979
ISBN:4309706118
Michel Foucault
L'Archeologie du Savoir 1969
[訳]中村雄二郎

 編集工学研究所はいくつかのアーカイブをつくってきた。最初はプリントメディアの大冊『情報の歴史』(NTT出版)で、これはのちに電子化して「CRONOS」というデータベース・システムにした。
 その後、いくつかの試作(デモ)をへて、まとまったものとしては京都の歴史文化の事象・図像・テキスト・詩歌などを縦横に貯蔵でき、連想検索に工夫を凝らした多層構造をもつ京都デジタルアーカイブ「MIYAKO」をつくった。3×3の連想ボタンと「時の車」「四季床」「語り部」機能などがついている。語り部は3人まで使えて、ユーザーもこの機能をつかえば、いろいろ長老や関係者にヒアリングしたものを自由に取り出せる。語り部が入ったアーカイブは世界初である。
 いまは密教アーカイブ「KUKAI」のプロトタイプを仕上げている。知をマルチメディアに動かすことはなかなかおもしろい。

 ミシェル・フーコーが『知の考古学』で書いたことは、主として3つある。
 第1にはアルケオロジー(考古学)という方法とは何かということであり、第2にはこのアルケオロジーには「アルシーブ」の使い方というものがあるはずで、アルシーブの奥にひそむ無意識的にさえ見える構造(システム)を取り出すことが重要であるということだった。そして第3に、言説編成体として知をつかみ、知を取り出せるようにしておくということである。
 フーコーがフランス語で「アルシーブ」といわれているのがアーカイブにあたる。資料集成体あるいは「知の貯蔵庫」というものだ。
 歴史の研究者たちは、当然なことに膨大あるいは特定の歴史資料にいつも当たってる。しかしフーコーに言わせると、その当たり方は歴史の起源や因果関係を調べ、そこにたった一つのオーダーを探すというような作業に陥っていることが多い。
 そうではなく、それらの資料を縦横無尽に動きまわり、その資料と資料のあいだに沈みこんでいた社会や文化の動向に無意識的ともいうべき構造(システム)を見出せるようにすることが、フーコーの「知の考古学」にとっては最も重要なことなのである。

 このことをもっと徹底して説明するために、フーコーは資料の最小単位としての「エノンセ」(言表=発言行為)に注目した。
 エノンセとは、その資料がどこで語られ記録されたかという、資料が出現し定着したときの状況を含む単位である。資料のトポグラフィックでコンテクスチュアルな状況をそのつど部分的に刻んだものといってよい。このエノンセがいつも歴史の中から出入りして見えてくれば、資料はたんなる個別の資料ではなく、「言説編成体」(フォルマシオン・ディスクルーシブ)の中の動的関連力をもった部分として生きてくる。
 言説編成体などというと、なにやら恐ろしい名称のように見えるが、言説(ディスクール)を形づくり、それを収めるための様式性や模式性のことだとおもえばよい。
 たとえば、「免疫は非自己によって自己をつくる」という科学者の言説があったとする。どこかでこの文章を読んで気にいった者がこの文章を自分の話のなかや著述に引用した。それを聞いていたり読んだりした者が、また別の文脈(コンテキスト)の中でその文章を使う。それがまた次の文脈に組みこまれる。
 こうして、一つのエノンセは次々に新たなエノンセを得て、場合によってはまったく異なる文脈の中に入っていく。いま、新たな者がこの最後の文脈の中の「免疫は非自己によって自己をつくる」を読んだとき、その背景をすべて知ることは不可能であろう。
 歴史の中の知というものはすべからくこのようになってしまった状態にあると見るべきなのである。

 フーコーが『知の考古学』を書いたのは1969年だった。43歳である。24歳でフランス共産党に入党し、リール大学で心理学担当の助手をへて精神疾患の研究にとりくんでいたフーコーは、スウェーデンのウプサラ大学、ポーランドのワルシャワ大学をへて、その間の思索研究の成果を『精神疾患と人格』(1954)、および『狂気の歴史』(1961)に著した。
 しかしフーコーは、そこに狂気という独得のエノンセがまきちらした記録をどのように歴史として捉えたらいいのかという問題があることにも直面していた。
 36歳のときジル・ドゥルーズと知りあい、クレルモン・フェラン大学の心理学教授となったフーコーは、これまでの視点をちょっと変えて『レーモン・ルセール』(1963)では一人の奔放だが屈折した文学者の複雑なテキストからそこにひそむ構造を探り、『言葉と物』(1966)では古典主義時代の「知」の構造化を試みた。そこへチュニス大学に転籍する話が入ってきた。
 大学を移ったちょうどそのとき、パリのカルチェ・ラタンに火が噴いた。五月革命である。学生たちと警官隊は激突し、大学は次々に封鎖された。学生を支援することを決意したフーコーは、紛争後に外務省からチュニス大学を放逐され、ヴァセンヌ大学に転職する。『知の考古学』を著したのはその直後の時期にあたっている。

 1984年に、おそらくはエイズが原因で58歳で死んだフーコーの思想をふりかえってみると、いっさいの「自己の領分」を見出そうとしなかった思想を貫いたことがよくわかる。
 フーコーは主体(スジェ)というものの「外」に立ちたかった思想家だった。別の言い方をすれば虚偽の主体の介入を認めたがらなかった。フーコーは、近代以降の社会を呪縛しているのは主体の過剰な根拠化にほかならないことを見抜いていた。
 そこで、まとめていえば、人間というものはおおむね次のような主体化の軸に頼りがちになると考えた。

(1)医学や人文科学のなかでの人間の主体化(これは「真理との関係」で主体化を強化した)
(2)狂気や病気や犯罪を排除しようとしておこなわれる主体化(いわば「権力との関係」における主体化である)
(3)性的な欲望を通して試みられる主体化(すなわち「道徳との関係」における主体化とみなせよう)

 この、何かに隷属的になりたがる主体性を、どうしたら「生の様式」に引き戻せるか。それも「知」をつかって、どうするか。これがフーコーの課題だった。
 フーコーはそれには、従来のものではない「思考の場」のようなものが必要だと考えた。のちにエピステーメー(知の枠組)とよばれたもので、あえて図式的にいえば「コード化された知」と「つねに反映的な知」とのあいだにリミナルに、かつ多岐的に広がる場というものである。
 フーコーはこのエピステーメーに向かって知を解放したかったのだが、これに意外にも手こずっていく。

 エピステーメーの枠組を確定する試みは、さっそく『言葉と物』で実験される。ぼくがいちばんおもしろがった著作であるが、一般には『知の考古学』とともにたいていの読者が面食らう錯綜感があるらしい。
 『言葉と物』で抽出されたのは、16世紀のルネサンス後期のエピステーメー(ドン・キホーテの悲劇の問題)、17世紀後半からの古典主義のエピステーメー(ベラスケスの表象の問題)、18世紀以降の近代のエピステーメー(科学からサドにおよぶ問題)である。フーコーはこれらの時代に特有なエピステーメーから、「類似」(適合の類似、模倣の類似、対比の類似、共感の類似)、「タブロー」(表の空間性)、「標識」(外徴・概念・関係であらわさるもの)といった特質を巧みに取り出して、これらを今日的につなぐにはどうすればよいかを考える。
 ここまではまことにすばらしい。編集工学がデジタル・アーカイブに取り込んできたものも、まさにこういうものである。
 ただ、ひとつ難点があった。それは、これらのエピステーメーが歴史的にも主題的にも不連続でありながら、メタレベルあるいは方法的には連続しているということを、さてどのように説明しきればよいかということだった。ぼくの見方でいえば、その相互にわたる編集方法のしくみが突きとめにくかったのである。

 しかしフーコーは『言葉と物』では、この方法論的な気づきを禁欲したままに叙述をおえた。
 ぼくにはこの禁欲こそがおもしろかったのであるが、世評は冷たかった。たとえば映画監督ゴダールは、「ぼくがフーコーを好きになれないのは、この時代は人はこのように考え、ある時期からはこのように考えるようになるといったことばかりを言うからだ」と揶揄してみせた。
 矜持が高いフーコーにとって、こうした批判は我慢がならなかったようだ。かくてフーコーはその方法の提案に取り組むことを決意する。それが知のアルケオロジーという方法なのである。

 知のアルケオロジーには、編集工学的な方法と重なるところがいくつもある。また似ていないところもいくつもある。
 すでに述べたように、知の構造にアルシーブ(アーカイブ)を下敷きにしようとしているところは共通する。そもそもフーコーは大の図書館好きで、知の構造は図書館や文書館によってこそ象徴されるべきだという見方をもっていた。この点では編集工学はフーコーと完全に一致する。
 「言説編成体」という掴まえ方にも近いものがある。編集工学ではしばしば「エディトリアル・オーケストレーション」という言葉をつかってきた。その言説編成体を構成する単位をエノンセやディスクールに見るのも、大筋は共通点があるのだが、ここには少し違いもある。編集工学では言説というより「情報」という掴まえ方をする。情報はむろん言説も含むが、そこには仕草も調度の置き方もメロディやリズムも入っている。しかも、その情報を認知しようとするときの手続きや道具性(さらに知に対するアフォーダンス)をも知の構造の範囲に入れる。
 その他、あれこれの見方の違いもあるのだが、それをこえて『知の考古学』こそはぼくに勇気をもたらした一冊だった。それは、一言でいえば「方法は思想である」ということ、そのことを声高らかに言ってもいいのだという勇気である。

 が、ぼくは「方法は思想である」を、フーコーに沿ってつくりはしなかった。ぼくはヨーロッパ人ではなく日本人であり、そうであるがゆえにフーコーの提案している方法があからさまな「ヨーロッパという方法」であることがよく見えた。ぼくはこれに対してあくまで「日本という方法」を思索したかった。

 フーコーの「知」は一から十までがヨーロッパの知で埋め尽くされている。フーコーはその知を「ヨーロッパという方法」としての知に変えようとした。その試みの大半は、その後のフーコー・ブームを見ればわかるように、大きな影響力をもった。
 実は、ぼくは『遊』第2期を編集していたころに、さかんに「松岡さんの考え方はフーコーに似ている。けれど、どこかが違う。その違いがうまく説明できない」と、いろいろの連中から言われていた。
 当時のぼくはフーコーをそれほど読もうとはしていなかった。それというのも、たいした理由ではないのだが、当時は『エピステーメー』という雑誌が登場してきて、それを『遊』と同じく杉浦康平がデザインをしていたのだが(『遊』は表紙まわりだけが杉浦さんだったが、『エピステーメー』は全面的に杉浦事務所がデザインをしていた)、このような場面ではエピステーメー議論の本拠地であるフーコーやその周辺に、すぐ浮気をするわけにはいかなかったのである。
 もっとも、『遊』と『エピステーメー』がいつまでも対立構造のなかにあるのもつまらないとおもって、あるとき二誌の合同編集号をつくって、表1から読むと『遊』、表4から読むと『エピステーメー』になるような、“遊ピステーメー”を出そうと提案してみたのだが、杉浦さんはすぐに賛成したけれど、『エピステーメー』の中野君はまったくとりあげてくれなかった。

 そういう事情はともかくとして、その後、フーコーを読むようになったことと、ぼくが日本の歴史思想や芸術文化に深く分け入ることが一緒の時期になり、たちまちフーコーの方法とぼくの方法との違いが見えてきた。それはヨーロッパ思想と日本思想の違いから来ているわけではなかった。

 おそらくは、すべての合理と不合理の知を渉猟したかに見えるヨーロッパの歴史観を、新たな「方法」によって批判しなければならなかったフーコーに対して、知の構築をしそこねてきた日本を、あえて「方法」と捉えなおすことによって知を抽出する立場との違いなのである。
 つまり、日本は古代から近世にいたるまで、「知」を意識しないで(あるいは意識できないままに)、いわば結果としての知をあれこれ演じてきたのであって、それゆえそこに一挙に「日本という方法」を見出すことには全く新しい意義があるとおもわれるのだが、もともと知の構築をめざしてきたヨーロッパから、その過誤や乱脈を方法によってのみ覆すのは、あまりにもたいへんな仕事なのである。しかしフーコーはそれに挑戦した。
 それに対して、ぼくはそのヨーロッパ化された世界知を使いつつも、日本という共同知が方法によってこそつながってきたことに注目したわけなのである。その違いであった。
 いま、『知の考古学』を読んだころのことを思い出してみると、フーコーからヨーロッパを差っ引いて読もうとしていた自分が思い出される。

 ところで、ぼくがパリのフーコーの家を訪れたのは1978年のことである。
 スキンヘッドのフーコーはとっくりの白いセーターを着ていた。精悍で、笑顔がめちゃくちゃ魅力的だった。ただし通訳を頼んだS君のフランス語ではぼくの日本語がほとんど通じなかったため、当初予定していたインタビューはあきらめ、われわれは雑談に興じた。
 やがてフーコーはぼくを誘ってどこかへ遊びに行こうと言い出した。ぼくがどうしようかと躊っていると、フーコーは「みんな一緒なんだよ」と言って、別室に声をかけた。このとき記憶にまちがいがなければ別室から出てきた男ばかり数人のうちに、かの『ぼくの命を救ってくれなかった君へ』のエルヴェ・ギベールが交じっていた。浅黒い褐色の男もいた。
 それで、ワーッと威勢よくみんなで出掛けようということになったのだが、S君が勢いに押されたのか、ヤバイと思ったのか、時間がないと言い出した。S君がいなければ雑談もできないぼくも、これで諦めた。

 もし、あのまま遊びに行っていたら、どうなっていたか。そこは当然にゲイの溜まり場のようなところだろうし、そこで何がおこっていてもおかしくなかっただろうから、ぼくのその後はどうなっていたかはわからない。この話をすると、みんながみんな「へえ、そうだったんですか。それは危なかったですね」と言う。
 そうなのかもしれない。しかしその一方でフーコーを、このような局面がありうるという立場によって、すなわち「男たちの真の友情」とはどのようなものなのかという立場によってフーコーを見ることも、ますます重要になっているようにもおもわれる。
 フーコーは実に多くの男たちと「真の友情」を結んだとおもわれる。教員試験仲間のジャン=ポール・アロン、作曲家のジャン・バラケ、映画作家のエリック=ミハエル・ニルソン、そしてロラン・バルトとも愛しあい、別れた。エルヴェ・ギベールは、フーコーのそうした「真の友情」がときにそうとう乱れたものになっていたことを暴きもした。しかし、フーコーのゲイの日々はいまこそ読み替えられるべきである。

 フーコーの最後の大きな著作は『性の歴史』三部作となった。そこでは、一言でいえば「自己からの離脱」が謳われている。
 その三部作が綴られている最中の1980年、ロラン・バルトが自動車事故で死に、ルイ・アルチュセールが妻を絞殺して精神病院に収容された。フーコーはそれらのことについても、自身のゲイの日々のことについても、なんら詳しいことを書かなかったが、4年後の死の直前に綴った『自己への配慮』を読むと、そこからは深々と男のフラジリティともいうべきが伝わってくる。
 長くなったが、もうひとつ、最後に加えておきたいことがある。フーコーは自分の仕事のすべては「知の道具箱」をつくることだったと言っていたということだ。その道具を、どうぞみんなで使ってくれれば、それでいいんだと思っていたということだ。
 そういうミシェル・フーコーが、いまとなっては格別にいとおしい。せめてアーカイブ(アルシーブ)を継ぐばかりである。

コメントは受け付けていません。