才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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「いき」の構造

九鬼周造

岩波書店 1930

 碁敵の別役実に勧められて読んだとき、つまらなかった。こんなことで「粋」が説明されてたまるもんかよと、すぐに思った。早稲田小劇場が生まれる前後のころである。
いまとなってはそのときの読感を正確に思い出せるわけではないが、薄っぺらなんじゃないかとか、和の美学の頓珍漢のほうに入りこんで理屈っぽいという感じだったのだろうと憶う。それまでぼくが生意気に感じてきた「粋」とは違うのだ。
それがいつだったか、九鬼の『偶然の諸相』を読んで、格段の新鮮なものを感じた。あいかわらず定言的偶然とか因果と目的によって偶然を分類しているところなど、少しうるさいのだが、ここまで「偶然」にこだわることが一筋縄ではないというのか、只事ではないと気がついた。
そこで、岩波の全集をとりよせてあれこれ拾い読んでみると、おお、おお、なんだ、胸が詰まるほどに、いい。最初に『風流に関する一考察』や『日本詩の押韻』を読んだのだったと思うが、これはどうも日本人がなんとなく了解していながら、ついに誰一人として説明を省いてきたことにさしかかっている。
気持ちがしゃんとした。

 ふたたび『「いき」の構造』に戻った。目に活字が入ってくるところがまったく違っていた。ぼくは何も読んではいやしないのだと愕然とした。
たとえば着物の「抜き衣紋」。本式ではなくちょっと略式に結った「髷ぐあい」、舌ざわりなどの「さはり」‥。こういうものが粋の意味体験をつくっていて、それが心の糸にふれるということ、だからこそ三味線の一の糸の「さはり」が粋に聞こえてもくるということ‥。
そういうことか。
こんなことが書いてあるとは思わなかった。そしてそのうえで、ぷいっと「赤勝の京紫よりも、青勝の江戸紫のほうが“いき”と看倣される」なのである。うーん、京紫と江戸紫のちがい、ねぇ。
もっと感服したのは、これはもっとあとになって気がついたのであるが、浮世絵で粋を持ち出すのなら鈴木春信は欠かせないだろうに、九鬼は春信の「いき」については触れてはいない。どうしてだろうと思っていたところ、草稿にはちゃんと春信のことを書いていたと安田武が言っていた。
ということは、本番で春信をきっぱり捨てたのだ。こういうことをする人だったのである。

 これでは何も読めていなかったと言われても仕方がない。
いつもこういう体験をするのも困ったことだが、一冊の本というもの、読み方ひとつでどうにもならなくなってくる。帯の締め方、筆の持ち方、「かな」か「けり」かの選び方なのだ。『「いき」の構造』については、ぼくはあきらかに失敗の巻。もっとも、だからこそ再読が身に染みた。
白状すれば、ぼくにはそのころもっと決定的な欠陥もあった。東京には来ていたものの、「江戸」がほとんどわかっていなかったのである。たとえば「婀娜(あだ)は深川、勇みは神田」なんて、そんなカッコいい風情があつたことが、まったく見えていなかった。
実は「浮世」も「浮世絵」もわかっていなかった。
さきほどの春信云々を引きとっていうのなら、『「いき」の構造』には「意気地や媚態の霊化が粋なのである」と書いてあるところがあるのだが、春信のあの時代の絵では、たしかに浮世絵のもつ意気も媚態も、まだ霊化までには進んでいなかったのだ。
それにしても、媚態の霊化、なのである。
こういうことがわかるまでに、ざっと二〇年くらいの損をした。とくに九鬼がパリで詠んだ「ふるさとのしんむらさきの節恋し、かの歌沢の師匠も恋し」という歌が、なんともせつないと思えるにいたるまで――。でも、それが損じゃなかったのだ。

 では、あたらためて九鬼周造を評価しておきたいのだが、この人はよほどの人である。異例の人である。
まずわかりやすくは、おおざっぱな文化地理上のことだけをいうと、東京は芝に生まれて江戸の花柳界や俗曲によく遊んだうえで、ドイツではリッケルトやフッサールやベッカーに影響をうけ、フランスではベルグソンに学んで、その文化の風土にひそむ感覚、たとえば“シック”を哲学したのち、天野貞祐や西田幾多郎に誘われて京都帝国大学に招かれ、その後はずっと京都に暮らした。二度目の夫人は祇園の芸者である。
ようするに九鬼は、「江戸の鉄火」と「ヨーロッパの形而上学」と「京のはんなり」を、その土地からもその言葉からも吸いこんでいた。

 次は血の遍歴のこと。
周造の父は九鬼水軍の流れをくむ九鬼隆一で、近代日本の最初の文部官僚であって、最初の駐米特命全権公使だった。フェノロサと岡倉天心の東京美術学校の開設を後押した。
母は祇園出身の星崎初子(はつ・波津)。アメリカ滞在中にその初子が身ごもったので、隆一は同行していた若い天心に付き添わせて、日本で出産できるようにはからった。けれども横浜までの船旅はあまりに長い。どうやら二人は交わるようになり、これがスキャンダルとして発覚し、天心はつくったばかりの東京美術学校の校長の座を追われた。
もっともそれがため天心は孤立しながらも奮起して、大観・春草らと日本美術院をおこすのだが、この事件によって九鬼夫婦は別居する。そのスキャンダルの渦中で生まれた周造は、幼年期を天心に“父”を感じて育っていった。母の初子はやがて発狂、精神病院に入っていく。

 さらに九鬼その人の境涯について言っておく。そのほうが九鬼のいう「いき」がよくわかる。今度は知の遍歴だ。
日露戦争のさなか、九鬼は一高に入って天野貞祐・岩下壮一・和辻哲郎・谷崎潤一郎と知り合い、最初は植物学をめざしていたのだが、やがて哲学に向かい、東京帝大の哲学科に入る。途中、キリスト教の洗礼をうけ、岩下壮一の妹に痛恨の失恋をして、大学院に進んでいく。卒業論文がすでに九鬼らしい。名付けて「物心相互の関係」というものだった。
しかし、大学院は途中で放棄、九鬼は颯爽とハイデルベルク大学に留学して、リッケルトや新カント派に師事をする。ところがその哲学があまりに「同一性」を確信しすぎていることに苛立って、フランスへ飛んでサルトルにフランス語を習い、かつベルグソンを知ると、直観的な純粋持続の可能性こそ思索を深めるものだと了解して、むしろ「異質性」の重要性に向かうようになる。

 ヨーロッパで九鬼がしきりに考えたことは、「寂しさ」と「恋しさ」とは何かというものだった。
「寂しさ」とは他者との同一性が得られないという感覚、「恋しさ」は対象の欠如によって生まれる根源的なものへの思慕である。これらはすなわち「異質性」への憧れを孕んでいる。つまりは清元なのである。
九鬼はそのような感覚が「何かを失って芽生えること」「そこに欠けているものがあること」によって卒然と成立することに思いいたり、ついに東洋的な「無」の大切を知る。
ふたたびドイツに戻ってハイデガーをしばしば訪れるようになるのは、この大切な「無」をめぐる東西の橋梁を求めてのこと、このあたりから九鬼には何かのミッションが芽生えていた。

 九鬼はこうして、人間という存在がすでに何かを失ってこの世界に生をうけているという「被投性」をもっていることに深い関心を寄せた。
では、どうすれば生きられるのか。何かに出会う必要がある。出会ってどうするか。恋をする。どのように恋の相手に出会えるか。そして恋だけを持続できるのか。そんなことばかりを考えた。こんな思索がのちにやがて、ぼくが瞠目した「偶然性」の問題にとりくむあの九鬼周造になっていく背景になっている。

しかしここまでのことは、九鬼周造という一個の存在が「二人の父のあいだ」と「不在の母」によってこの世に投げ出されていたという「血の事情」を、どこかで暗示するような「知の行方」そのものだったように思われる。

 8年におよんだヨーロッパの日々を終えて日本に戻った九鬼は、いまのべたように、「寂しさ」を本質的に抱えた者こそが、その喪失感覚がゆえに何かに出会うことで、きっと新たな異質の快感を得るのではないかという期待をもちはじめる。
その期待の思いを結実させようとしたのが、帰国後1年にして書きあげた『「いき」の構造』なのである。どうだろうか、これで何が「いき」になったのか感得できるのではないだろうか。
そもそもヨーロッパでは、哲学においてすら、恋愛の基底に自己同一性や自己発見をおいている。せっかく「無」に到達したハイデガーの哲学ですら西欧の論理に邪魔をされ、来たるべき相手を求められないものになっている。
そこでは美の堪能が塞がれている。
九鬼はそれがおかしいと考えていた。男女の関係はもっともっと自由でなければならないのではないか。そこからはもっと新たなものが創発してもよいのではないか。そう考えた。それが見えれば、恋愛によって精神と肉体を分断する必要はなく、結婚と結びつける必要もない。
では、その美の堪能をどこに求めるべきか。それでいて「無の堪能」にもなるものを、では、どこに求めるか。
日本の美が浮世の片隅において磨きに磨いた「いき」こそが、あるいはその「いき」の感覚を交わしうる相手との出会いこそが、美の堪能であって、無の堪能だったのである。九鬼の新たな哲学は、いや存在学は、こうして一気に「婀娜な深川、勇の神田」に向かっていく。

 九鬼が持ち出した「いき」は、既存の男女の関係を超越する自由のための根拠の概念であり、そのアクティヴィティだったようだ。だから九鬼は、「いき」は恋愛をさえ越えるものではないかと考えていた。
この結論は、かなりおもしろい。「いき」がそういうものなら、ぼくだって粋がりたい。けれども多少残念なことに(そして、そこが最初にぼくが感じた『「いき」の構造』の読感印象だったのかもしれないが)、九鬼の「いき」論は“論理”であろうとしたそのぶん、どうも「いき」の本来からずれていったようにも見える。ハイデガーだって、ヘルダーリンの詩には「無」と「美」の両方を見いだしていたはずなのだ。
ただしすぐさま付け加えなくてはならないが、九鬼その人は「いき」の何たるかを、これ以上のかたちでは身につけるのは不可能であろうとおもうほど、身につけていた。けっして論理で生きている人ではなかったのである。
そこが哲学者としての九鬼周造が「異例の人」であったという理由になってくる。

 さて九鬼の言葉によると、「いき」の契機は「媚態」「意気地」「諦め」によって成立しているという。
それらは、わが国の道徳的理想主義と宗教的非現実性によって支えられ、前者は武士道によって、後者は仏教によって育まれてきたという。九鬼はこの見方にもとづいて「いき」の説明に緻密に入っていこうとしてしまう。
先にも書いたように、九鬼にとっては人間が「自己」であるのは「寂しさ」や「恋しさ」のせいである。けれどもそのような自己はいまだ「一元的の自己」であって、それを脱するには異性との出会いによって二元的な関係に入らなければならない。
それを九鬼は「可能的関係」とよぶ。
この可能的関係は、当初はきっと互いの「媚態」のうちに予想しあったものである。もし、両者が媚態を感じつづけ、可能的関係を持続できれば、人間はかなり自由になれるはずである。
しかし、ここで異性との「合同のこと」を求めすぎると、そこから媚態がたちまちなくなっていく。そこで媚態をぎりぎりにさせつつ、共同的な二元関係を感じあっていくには、いくら男女が快楽を交わそうとも、そこには適当な「距離」が必要になる。この媚態と距離との両方をキリリと表象しているのが、どうやら「いき」なのだ。
わかったような、虫のいいような、男女の身体性を度外視したような、いかにも男っぽい説明に聞こえるのだが、しかしこれらがそもそも「寂しさ」を決定的な端緒として生じていることに気がつくと、やはりこの説明には初期の九鬼周造がまるごと表出されているということになる。

 次の「意気地」は、一言でいえば媚態のテンションを持続させ、距離をおいても媚態が朽ちないために、そこにさらに磨きをかける「心の強み」のことをいう。こう説明している。

 「意気地」は理想主義のもたらした心の強味で、媚態の二元的可能性に一層の緊張と一層の持久力とを呈供し、可能性を可能性として終始せしめようとする。

 この「心の強味」としての意気地は、おそらく養って絞って削って身につくものだろう。だから九鬼は、日本においては意気地が生まれてきたのは武士道によっていると見た。
もっとも九鬼のいう武士道は、新渡戸稲造や奈良本辰也が解説してきた武士道とはずいぶん異なっている。献身や礼儀の武士道ではなくて、とうてい実現することのない理想を求める心意気を武士道とよんだ。そこを九鬼は、「無際限」の中に「真無限」を求めよ、というふうに書いた。
けれども男女のあいだに、こんな武士道を重ねていくなんて、これはよほどのことである。まず、できまい。そこで九鬼は、むしろ「いき」の振舞や「いき」な存在をまっとうしようとする心意気こそが、意気地をつくっていくとみなしていった。ふつうは、これを「はり」(張り)という。
かくて「いき」を心意気にしつづける最後の契機として、九鬼は「諦め」を持ち出した。
これは諦念というよりも「恬淡無碍の心」というもので、意気地や張りの対極にありながら、それを対角線で重ねるものである。それゆえにこそそこを、大胆にも「諦めと意気地とは、無力と超力として、唯一不二」とも書いてみた。つまり二つは反しあうようでいて、どこかがつながっているひとつの覚悟というものなのだ。そうそう、春信をきっぱり諦めるのも、張りのうちなのだ。

 エッセンシャルには、『「いき」の構造』の構成要素はこういうものなのだが、こんなぼくの拙(つたな)い要約でもなんとなく予感ができるだろうように、このような「論理」だけでは、なかなか「いき」は説明しきれない。
九鬼もそれは重々わかっていて、そこで随所に具体例を入れていく。それが抜き衣紋や江戸紫の例だった。しかしぼくが読み返してさらに気がついたのは、「いき」を「苦界」(くがい)と結びつけていること、そこにこそこの時期の九鬼周造の最も哀しい「いき」の存在学が吐露されていたということである。
端的には、次のような文章に九鬼が最も言っておきたい「いき」の発生がひそんでいる。

 「いき」は『浮かみもやらぬ、流れのうき身』といふ「苦界」にその起源をもつてゐる。

 苦界。そこは遊郭であって、この世に戻るために出遊してきた彼岸の場所である。芸も身もやりとりする曲輪であって、心は売れない岡場所である。
流れているから、止まり、抜けられないから、何かを抜いてみせる意気の帳場である。冬でも黒塗の下駄を裸足で履いてみせ、野暮を蹴散らし、左褄(ひだりづま)とって、まるで瞬時だけにしか恋が生きない伝法を引き立たせる花街なのである。
九鬼は、結局、そのようなところでしか「いき」は授受できないのではないかと考えていたふうなのだ。

しかし、それでは九鬼の哲学者としての行方を、あまりに「小指の反り」のような極点へ向かわせてしまうのではあるまいか。西田幾多郎や和辻哲郎や友人たちが心配しはじめたのも、当然だった。けれども九鬼はすでにミッションを意識していたようだ。敢然と、こう言い放ちたいというところまで、進みすぎていた。

 私は端唄や小唄を聞くと、全人格を根底から震撼するとでもいうような迫力を感じる。

 この言葉はのちの『小唄のレコード』から採ったものだが、まさに九鬼の気持ちはそこまで進みすぎていたようなのだ。
友人知人たちが、それならおまえがいるところは、すでに都であることをもぎ取られた京都なんじゃないか、京都に来たらどうだと思ったのも当然だった。

 ここから先、九鬼周造は一気に異例の人となり、伝説の人となっていく。
最初の妻を捨て、二度目に選んだのは祇園の芸妓の中西きくえであった。失った母を近づかせたとはいえないだろうものの、京都帝国大学の教授としては、かなりきわどい選択だ。祇園から人力車で帝大に乗り付けているという噂も、しきりにとんだ。
むろん、そんなことは覚悟のうえのことである。
こうして九鬼は「偶然性」の解明にとりくんでいく。「もののはずみ」や「たまたま」の問題にとりくんでいく。「ふと」や「それから」の世界に入っていく。いったいそんな覚束(おぼつか)ないものばかりをあげて、どうしてそこまで真剣に賭けられるのかというほどに。
それは『「いき」の構造』にはまだ残っていた原因と結果をめぐる「因果の理屈」さえ打擲しようというほどの、そういう「せつなさ」がいっぱいの考察である。ぼくにはそういう覚悟が痛いほど伝わってきた。満州事変は悪化して、日本はどんどん泥沼に突っこんでいった時期である。昭和10年、1935年、そういうときに九鬼周造は『偶然性の問題』という結晶を発表する。

 ここまでくると、その九鬼周造独得の偶然の存在学をあえて説明するのは、どうもその香りが伝わらない。
それほど九鬼自身が自分が遣った言葉をも、その葩(はな)から揮発させていくような気分になっている。実際にも、そこには重たい言葉もひしめいていて、それを引用しなければその九鬼の推理の説明もつかないのだが、その言葉をすぐに揮発させ、投企しなければ、やはり九鬼の推理を感じさせることはできないという、そういうものなのだ。
そこでかえって、次のような文章こそが、その偶然の存在学を告示しているようにぼくには思われる。『日本流』にもそこを引いたのだが、また引いてみたい。

 松茸の季節は来たかと思ふと過ぎてしまふ。その崩落性がまたよいのである。(中略)人間は偶然に地球の表面の何処か一点へ投げ出されたものである。如何にして投げ出されたか、何処に投げ出されたかは知る由もない。ただ生まれ出でて死んで行くのである。人生の味も美しさもそこにある。

 これが、偶然であり、「いき」なのである。
未練はもたない。鼻緒が切れれば、紬(つむぎ)の袖だって破るということなのだ。
しかし、そんなところへひたすら突進していく哲学などというものが、あっていいのだろうか。それが芝とハイデルベルクとパリと祇園を学んだ末の結論なのか。
そうなのである。よござんすか。
九鬼周造はそれを断固として選びきったのである。それが哲学というものなのだ。そしてこの人は、その後、『日本的性格』や『風流に関する一考察』のほうへと、どんどんと一人で歩いていってしまったのである。そこは「逢ひ見てののちの心にくらぶれば」の方角、だからこそ「昔はものを思はざりけり」の、その「ざりけり」の哲学の彼方というものだった。
それを九鬼の大好きな言葉でいえば、「可能が、可能の、そういうふうになるところ」という彼方だ。そこはもとより寂しくて、恋しいところではあるけれど、だからこそ、どこよりも「いき」で、「粋」(すい)なところなのである。
では、諸君、こんな文章で終えてみる。

 私は秋になって、しめやかな日に庭の木犀の匂を書斎の窓で嗅ぐのを好むやうになつた。私はただひとりでしみじみと嗅ぐ。さうすると私は遠い遠いところへ運ばれてしまふ。私が生まれたよりももつと遠いところへ。そこではまだ可能が可能のままであつたところへ。

参考『「いき」の構造』は岩波文庫が入手しやすい。そのほかの九鬼周造の著作はけっこうあって、ほぼ岩波の『九鬼周造全集』全11巻に入っているが、甲南大学の九鬼周造文庫にはまだ未発表の草稿もある。全集以外では『「いき」の構造』を除くと、田中久夫が編集解説をした『九鬼周造エッセンス』がよくまとまっている。その田中久夫に『九鬼周造・偶然と自然』(ぺりかん社)がある。安田武と多田道太郎の『「いき」の構造を読む』(朝日選書)は、対談だが、いまのところ九鬼の「いき」をめぐって最も多様な視点の検討を披露している。そのほか坂部恵が『不在の歌・九鬼周造の世界』(TBSブリタニカ)を書いているが、入手しにくい。