父の先見
日本の名著・近代の思想
中公新書 1962
桑原武夫という人は、フランス革命や百科全書の研究にも深い造詣を示したが、俳句を詰(なじ)った第二芸術論などに有名なように、一方ではかなりやんちゃなこともする人だった。
それゆえ、なかなかその研究者としての評価が定まらないきらいがある。しかし、京都大学の人文科学研究所のアクチベイトをはじめ、桑原が発動し、指揮し、組織化していった文化プロジェクトの質量は、いまおもうとその後の誰も追いつけないものがあった。追いつけないどころか、桑原が付けた目や打った手は、そうか、こういうことが「底のある文化」というものなのかと得心できるものばかりなのである。
そればかりか、桑原によって育てられたすぐれた研究者は、その動向も数も多い。それを“最後の京都アカデミー”とか、“最後の京都ロマン”とよぶ者もいるが、いまの京都にはその京都アカデミーや京都ロマンすらなくなっている。
本書は、そうした桑原が育てた「底のある文化」のうちのごくひとつを示すもので、とくに“桑原プロジェクト”を代表するものではないが、つくづくその目配りの深さに感心させられる。
本書を編むにあたって、桑原は河野健二・上山春平・樋口謹一・多田道太郎を編集委員に抜擢し、さらに加藤秀俊・川喜田二郎・松田道雄ら10人を執筆陣に加えた。
採りあけだ近代の名著は50冊。よく熟慮されている。この時期(1960年代当初)に、山路愛山『明治文学史』、竹越与三郎『二千五百年史』、福田英子『妾の半生涯』、戸坂潤『日本イデオロギー論』、タカクラ・テル『新文学入門』、坂口安吾『日本文化私観』などを入れるのは、そうとうにバランス感覚と独創感覚がよくないとできない選択である。ことに狩野亨吉を入れたのが卓見だった。
通して、いちばん古いのが福澤諭吉の『学問のすすめ』、いちばん新しいのが丸山真男の『日本政治思想史研究』である。ちょうど真ん中に大杉栄の『自叙伝』が位置している。
選書にあたっての基準はいちいち示されていないが、桑原は序文に重要な指摘をした。
第1には伝統についての視線のことで、こう書いている。「伝統主義という言葉がある。ながくつづいた伝統には、つづくだけの理由がある。その理由の探求を怠って、これをいっきょに清算しようとするのは無理であり、またできることでもない」。
第2にはその伝統の守り方への警告で、「わたしたちの人生の規範は伝統のなかに示されており、それを護持さえすればよいという意味なら、伝統主義は危険な保守主義であって、わたしたちは容認しがたい」と書いた。
第3に、過去を見る見方である。桑原は端的に言う、「過去は現在に近いほど大切だとする歴史観が必要なのである」と。
第4に、その現在に最も近い過去として「明治」を採りあげるにあたっては、「フランス革命といえどもそれほどの断絶を志向しなかった明治」における近代国家への転換を、どのように文化として受けとめればいいのかという問題があるとした。これについて桑原は、祖父母たちがおこした文化革命がその後の日本にどのように定着していったのかをちゃんと見るべきだと言う。そしてかれらを云々するのではなく、祖父母に代わって、われわれ自身がその展開に責任をもつべきだと指摘する。
第5に、「わたしたちは明治から1945年までの日本人の思想的苦闘のことを、どれだけ知っているであろうか。かえりみて恥ずかしく思わぬ人は少ないであろう」と結び、そのことを知るうえでも、近代の思想遺産を眺めるにはそこに多様性こそが用意されていなければならないとした。
まさに、そうである。いま読んでもまったくうまく書いてある。過不足がない。
では、そうした桑原のもと、本書が採りあげた50冊のうち、いったい何がおもしろいのか、どの解説がいいかという話にもなるのだが、そういうことは書かないことにする。50冊には、急いで読まなくともよさそうなものはあるものの(たとえば竹越与三郎・津田左右吉・原勝郎・中野重治・野呂栄太郎・山田盛太郎・大塚久雄など)、いずれも互いに屹立しあっている。その程度には厳選されている。ぼくも長い日時をかけることになったが、だいたいは読んだ。
その読書体験からすると、近代の思想文化に向かうにあたっては、一度は時代の流れにそって読むことを勧めたい。本書の50冊でいうのなら福澤諭吉や中江兆民あたりから入り、内村鑑三、志賀重昂、宮崎滔天というふうに進む。明治大正の著作には時代の刻々の変化に劇的なほどに対応しているものが多いからである。どのように西洋が入ってきたか、どこで誰がその西洋思想と食い違うのか、どこで日本の歴史や思想を持ち出そうとするのか、中国を意識するのはどの時期か、なぜなのか、そういうことが手にとるように見えてくる。
いずれにしても、本書のようなブックガイドはたくさんあるようでいて、信用できるものは少ない。とくに日本の近代に関するガイダンスは微妙に危なっかしいものが少なくない。大幅にデタラメなものもあるが、そういうガイドにかぎっておおげさな衣装を着ているものだ。
ぼくもその手のものは数多く触れてきたが(たとえば松本三之介『明治思想史』のようなもの)、ぴったりした案内には出会えないでいる。そういう意味からも本書はコンパクトであるにもかかわらず、よく配慮されている。ただし、本書を読んでみることと、原典をどう読むかは、まったく別のことになる。ぼくもどこで本書と交差したかは、もはや憶えていないほどになっている。
考えてみれば、読書はそういうものだ。きっとこの「千夜千冊」もそうなのだろう。ぼくはぼくの記憶と感情と問題意識で毎日一冊ずつを綴っているけれど、それを諸君がどう読むか、原典にどうあたるかは別問題である。共感もあろうし、反発もあろう。ちょっとだけ刺激をうけたということもあっていいし、ぼくがこういうことをしているという作業に関心が向くこともあろう。ウェブ上で「千夜千冊」に言及してくれている発言もどんどんふえている。
けれども結局は、読者というものは自分で書物と接する以外ではないはずなのだ。それは決断というより、どのように相手の景気に触れるかということなのである。
近代日本の名著を読むということも、同じことである。その時代の景気とその時代人の意識の景気に触れるしかない。
そこで話をまた戻すことになるが、桑原武夫という人は、この文化の景気をつくること、その景気に触れさせること、そこに新たな若手のプロフェッショナルを次々に参加させることに、すこぶる長けていたアカデミシャンだったということなのだ。いまは日本のアカデミーはほとほとつまらないが、こういう時期であればこそ、ときどきは桑原武夫が培った“最後の京都アカデミー”のことを思い出すべきなのだろう。