才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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セクシーな数学

グレゴリー・J・チャインティン

岩波書店 2003

Gregory J. Chaitin
Conversations with a Mathematician 2001
[訳]黒川利明
編集:吉田宇一
装幀:後藤葉子

 最近のラグビーではアンストラクチュラルなプレーが注目されていますね。積み重ねられてきたゲームセオリー(セットプレー)にもとづいた攻守ではなく、あえて非構造的なプレーを展開して、次のトライシーンの可能性に結びつけていこうというものです。オールブラックスのキック展開やフィジー・ラグビーのアンスト・ワインディングなどが有名なのですが、そういうプレーが決まっていくゲームを観戦していると、ついつい魔法を見ているかのようにうっとりします。スコットランドのフィン・ラッセル(スタンドオフ)のアンストラクチャーなパスワークなど、しばしば酔わせます。
 ラグビーの話から急に数学の話にとびますが、一般に数学では構造性が重視されてきたのだけれど、実は「構造のなさ」に注目する数学も登場しているのです。その先陣を切ったのはゲーデルの不完全性原理で、数学は不完全性を内部で飼っているという発見でした。やがて20世紀半ばに向かって生命体のしくみを解読する試みが次々に成果を見せるようになると、生物こそがアンストラクチュラルな進行を随所で見せていて、それがさまざまな創発的分化になっていることがわかってきた。
 生物は「情報」をコピーしたり、解釈したり、ときに引っ越しや誤読をしながら進化と分化をくりかえしてきたので、その情報の組み立てにあたっては、目的をもった構造をめざしているというよりも、ランダムで非構造的なきっかけを活かして、それが次の段階でエピジェネティック(後成的)な生体の構造になっていることが多かったのですね。加うるに、そこに創発的なるものが芽生えるということがわかってきたのです。
 これで、コンピュータをつかって生命の秘密を探求しようとしていた研究者たちが色めきたった。ランダムネスを計算するモデルやカオスを発生させるモデルをとりこんだ試みも出てくるようになります。アンストラクチャーに関心がもたれたのです。アンストラクチャーな局面こそ、何かが創発していく可能性が高いからです。しかし、そのプロセスを理論にするには、かなり難しい数学的なテクニックが必要でした。

フィン・ラッセルのパスプレイを集めた動画。相手のバランスを崩すような「ひらめきパス」を次々と繰り出し、試合にアンストラクチュラルなシーンをつくりだし攻めこむ。

上図はパスの選択肢の数だけ、アンストラクチャーなシーンがおきる可能性をあらわしたもの。フォワードとバックスの全てにパスの可能性があり、ライン上に出されるパスの長短は、パスコースからは判別がつかない。一度放たれたパスから始まる“ふるまい”はエピジェネティックなものとなる。下図は上図の選手のパスルートをエピジェネティックの模式図と照合したもの。
図版制作:大泉健太郎

 こうしたとき、本書の著者グレゴリー・チャイティンが13歳のときだったようですが、なにかにピンときた。ゲーデルの不完全性原理とチューリングの計算不能性理論を組み合わせたアルゴリズムをうまく組み合わせれば、ひょっとして生命体が情報を変換させながら創発をおこしている現象を説明できるのではないかというひらめきでした。1970年直後のことらしい。
 そのひらめきに発したチャイティンらの成果はあれこれの試行錯誤をへて、いまでは斯界で「アルゴリズム的情報理論」とか「熱力学的認識論」とかと呼ばれています。ゲーデルとチューリングから新しい情報理論をつくろうというストリームです。チャイティンはそれを「セクシーな数学」の凱歌だと誇りました。そもそも「情報」のふるまいがセクシーきわまりないのだから、それに立ち向かう数学もセクシーになるというお見立てです。まあ、そうでしょう。情報の編集はセクシーです。

 チャイティンはニューヨークとブエノスアイレスで育った数学者です。両親は東欧からの移民の血を引いていて、父君は舞台演劇にかかわったり映画監督をしたりしていたらしい。息子にクリエイティヴであるとはどういうものかということを教えたようです。
 ただし本人は芸術に惹かれながらも、どちらかというと物理学(とくに熱力学や量子力学)に関心のある少年だったらしく、長じてはコンピュータにとりくみ、アルゼンチンIBM社でプログラマーとしての技を磨きます。そしてプログラマーをしているうち、コンピュータの本質と数学の未来を考えるようになった。何を考えたのかというと、次のような問題意識でした。
 コンピュータが、ヒルベルトの超数学(ヒルベルトの23の問題提起)をきっかけに、チューリングとノイマンの才能によって計算マシンに仕立てられていったものを母型としているのなら、コンピュータは自分の中で動いているプログラムを成立させているアルゴリズムの限界に気がついて、いつしか自身の停止をもたらすはずなのだが、そのようにコンピュータがなるということ(=コンピュータ・プログラムが停止せざるをえなくなるということ)を、さて、どのような条件で説明すればいいのか、そこを突き詰めて考えたいという、そういう問題意識です。
 かくしてチャイティンは、ゲーデルの数学的不完全性に、情報のふるまいがもつランダムネスに、自律的システムの特徴である「構造のなさ」に、さらには情報がもともと内包していたであろうアルゴリズムの秘密に向かって、セクシーな闘いを開始していったのです。

チャイティンは、1960年代半ばからゲーデルの不完全性定理を独自の方法で証明し、19歳のときに論文を出版した。量子力学や古典物理学に現れるランダム性が、初等算術の領域にもあることを示した。図版上は、1992年ウィーン工科大学での講演時のもの。ランダム性を関係線にあらわし純粋数学と物理学の近さを語った。図版下は、1981年、量子コンピューティングをテーマとしたIBMとMITが後援の「Physics of Computation Conference」の集合写真。前列左2番目に白シャツで寝そべるチャイティン、後列右から9番目にファインマンなど、著名な科学者が写っている。

 本書はふむふむ、なるほどという一冊です。広い知見や深い洞察を書いてはいません。そこは期待しないほうがいい。そのかわり、自分がゲーデルとチューリングに溺れた経緯(いきさつ)や、数学のもつエレガンスやセクシャリティや、超数学や量子力学やAIについての話題や、生命がもたらした「構造のなさかげん」の大事さを、気楽に書いたり喋ったりしています。
 たとえば、数学が美しいのではなく、ある種の証明のプロセスが美しいのだとか、数学は音楽同様に愉快なものだが、ただそれは多くの人々にとっては「聞こえない音楽」なのだとか、数学にはさすがに狂気はいらないけれど、ときに狂気をつかう勇気が必要だろうとか、エッシャーよりもルネ・マグリットの絵のほうがずっと数学的ですとか、数学者には物理学者ほどのユーモアがないかもしれないとか、すぐれた数学は啓発的であるとか‥‥云々。
 こんなふうに気楽な話が多いのですが、一貫しているのは「数学が灰色になるところがおもしろい」と言っているところです。これは、そのまま受け取ると「数学の曖昧性」を称揚しているように感じるかもしれないところでしょうが、そうではなくて、数学の純粋性を求めれば求めるほど灰色になるということを言っています。
 灰色になるのは、ゲーデルが示唆したように数学にはランダムネスを管理しきれないところがあるからなのですが、ところがそのことを証明するにはアンストラクチャーな展開をもつ数学を扱う方法を発見するしかなく、そのようにならざるをえないところ、つまり不確定なことや不確実なことを証明しようとする数学は、そのことを言明しようとする数学的プロセスそのものに逆理(パラドックス)を孕まざるをえないところがあるのだということになって、そこがチャイティンにとっては灰色で、おもしろいところだったのです。
 でも、この灰色が曲者です。なんだか「中途半端」のようでもあるし、「やつし」のようにも見えかねない。でも、そうでもないんですね。

 第9章「数学の基盤についての1世紀にわたる論争」(これが本書の最終章)に、灰色の醍醐味について述べられています。チャイティンがIBMのワトソン研究所にいたときの講演記録です。灰色の数学に関心をもちたいなら、ここだけでも読まれるといいと思います。
 カントールが無限集合を発明したこと、それに対して哲学者のバートランド・ラッセルが「自分を含まないすべての集合を想定したとき、この集合が自分自身の要素であることを説明できるか」という問題を投げかけたこと、このラッセルのいじわるな質問が数学にひそむエピメニデスの逆理(いわゆる「うそつきのパラドックス」)の一般化をもたらしてしまったこと、そのため数学界が時ならぬ苦境に立たされたこと、そこでヒルベルトが超数学を持ち出して助け舟を出そうとしたのですが、それが公理的手法に回帰しようとする形式主義を重視するものだったので、数学界は「完全性の呪縛」に突入していったことが順に述べられて、そこにゲーデルが登場してこの呪縛を解いたというところから、灰色の数学の乳酸菌のような醍醐味が説明されます。

アインシュタインと散歩するゲーデル(上図)。プリンストン大学での出張講演を機に知り合い、生涯続く交友をむすんだ。交わしあいの中でゲーデルは一般相対性理論の解のひとつ「ゲーデル解」を発見する。宇宙項を導入してでも不変なる宇宙を描きたがったアインシュタインとは逆に、「ゲーデル解」は時間を過去に遡る可能性を示して驚かせた。下図はアルベルト・アインシュタイン賞を受賞するゲーデル。アインシュタイン本人がゲーデルに賞を手渡している。

ゲーデル数の図。ヒルベルト以前の数学は、自己言及を含む命題を扱う困難があった。鏡の中の鏡を覗き込むように、いつまでも対象が定まらずに立証も反証もままならなかった。しかし、ゲーデルは単純な算術操作によって数学の大問題を証明してみせた。定数や関係性、そしてセルフを「」に入れ、そこに背番号ならぬ「ゲーデル数」を割り振った。

 あらためて言うまでもないことですが、ゲーデルは、数学が完全でありうることは証明できないということを、つまり数学は残念ながら不完全にできているということを、算術の基本だけをつかって証明してみせたのです。
 これがゲーデルの「不完全性定理」ですが、チャイティンはこの巧妙な不完全性の証明には、今日にいうプログラミング言語にあたるようなものが操作されていること(LISPっぽいものと書いている)、および多くの関数の再帰定義が駆使されていることを指摘し、しかし、当時はコンピュータもプログラミング言語もなかったので、そこがやっぱり魔法のようなことだったと述べます。
 しかし、この最終章が躍如するのはこのあとからで、ゲーデルの証明で話はおわらない。ゲーデルの証明操作に触発されたであろう若きアラン・チューリングが静かに登場して、この魔法じみた手続きは、ほれほれ、こんなふうに単純な機械的な手続きによって成立しますよと言って、のちの汎用デジタルコンピュータの母型になるチューリング・マシン(万能計算機)をさっさと提案したのですが、チャイティンは、このことこそカントールの無限集合以来の1世紀にわたる数学的衝撃の本質が灰色の醍醐味に向かっていたことの証左だったね、それは数学界にとって最もセクシーなことだったねと述べるのです。 
 この経緯のどこがセクシーかというと、チューリングはチューリング・マシンの原理を発表した直後、このような万能計算機にできないことがあるとすれば、それは何かと問うて、それはこの計算機が「自分を停止できるかどうかを決めることができない」ということだと答えてみせたところでした。チャイティンはこの「停止問題」に感染して、このセクシーな数学的事態の進展の顛末をさらに説明するには、アンストラクチャーな数学を構想していくしかないだろうと結論づける気になっていくのです。
 これはヤバイ冒険を決断したものです。もともと数学者には変人が多いのですが、チャイティンも、やっぱり少し変わった数学者です。

チューリングは、1912年にイギリスの中産階級の家に生まれた。10歳の頃に『Natural Wonders Every Child Should Know』という1冊に出会い、科学にのめり込む。文系素養を重んじた当時のパブリックスクールでは異端児だった(左端)。

ケンブリッジに進んだチューリングは、マックス・ニューマンの講義で耳にした「数学的な手順はすべて機械でこなせる」というアイデアに心奪われ、高速で動作する電子式の万能コンピュータの製作を夢見るようになる。三枚目写真は第二次大戦後に英国立物理学研究所(NPL)で完成させた自動計算エンジン(ACE)。官僚主義、部門間分裂の狭間のアンコントローラブルな状況下での偉業だった。

数字の書かれたテープ、読み取り・書き換え可能なヘッド。単純な構成ながら、チューリング・マシンはあらゆる計算を完結できる。そのように想定された機械をして解けない問題があった。ゲーデルの不完全性定理が姿形を変えた、いわゆる「停止問題」である。著者のチャイティンは、ゲーデルの試みの過程に潜んでいた、今のプログラミング言語に通じるセンスを明るみにした意義深さを強調している。

 では、ここからはおまけの話。ふりかえって、構造に加担するか、非構造をおもしろがるかは、何が異なっているかというと、これはリクツではなくて、数学のセンスにかかわっています。思想のセンスにかかわっています。どちらがいいかということはないけれど(構造がわからなければ非構造もないので)、構造重視を続ける考え方でいくか、非構造的な考え方を入れていくかによって、当然ながらセンスの違いは出てきます。
 とくに生命のふるまいや複雑系の現象を相手にするには、非構造を感知する数学センスは絶必です。それなら、そのセンスっていったいどういうものかと言われると、チャイティンも説明できてはいない。他の数学者もあらためて問われると、ちょっと説明に困るでしょう。そこで、ここではぼくなりの隠し玉による別の例示をして、お茶を濁しておくことにします。こうなります。
 いわば記録が構造的で、記憶は非構造的なのですよ。その記憶もインプットは構造的になる可能性を用意できるけれど、アウトプット(想起)するときは非構造的になるでしょう。生物史でいえば、光合成をする植物が構造的で、自分でタンパク質をつくれない動物が非構造的です。
 レヴィ=ストロース(317夜)が構造的なら、そうですね、サルトル(860夜)やロラン・バルト(714夜)がアンストラクチュラルです。不穏な例ですが、あえて物理学者の例でいえば、ボーアが構造的で、ボーム(1074夜)が非構造的、坂田昌一が構造的で、南部陽一郎が非構造的なのです。またまたあえてアーティストでいえば、ピカソ(1650夜)やキリコ(880夜)や岡本太郎(215夜)が構造的で、菱田春草やボッチョーニやイサム・ノグチ(786夜)が非構造的なのです。
 もっと端的なことをいえば、柳生宗矩(829夜)が構造的で、宮本武蔵(443夜)の『五輪書』が非構造なんですね。「さかゆる拍子」と「おとろえる拍子」の両方があるのが、アンストラクチュラルなんです。
 こんな例示で何かが伝わったかどうか、はなはだ心もとないですが(いや無責任かもしれませんが)、念のため言っておくと、構造的なほうにも非構造的なほうにも、編集性はあったりなかったりします。まあ、おまけです。

素粒子を物質の窮極の構成要素とする考え方が支配的だった1955年、坂田はハドロン(強い相互作用をもつ素粒子)が3つの基本粒子(陽子,中性子,ラムダ粒子)とそれらの反粒子とで組み立てられているだろうと予想し、坂田モデル(上図)を提唱した。
南部陽一郎はなにも存在しないと考えられていた真空が自発的に相転移を起こし対称性を失う原理を発見した。(下図)はその模式図。対称性が破れると、破れと同数の質量のない粒子が現れる。

(上図)はキリコの《通りの神秘と憂鬱》。複数の消失点が組み合わさった建造物の間を少女が駆けてゆく。(下図)はボッチョーニの《都市の夜明け》。建設中の建物の間を馬と男たちが吹き流されてゆく。

 ところで本書にはときおり、チャイティン自身が若いときから影響を受けてきた本が紹介されていて、読者にも奨めています。参考になるだろうから、口なおしに列記しておきます。カッコ内に日本の出版社名を入れていないものは、原著しかない本です。あしからず。

 ラプラス『宇宙の体系』(岩波文庫)、アインシュタイン&インフェルト『物理学はいかに創られたか』(岩波新書)、ジェームズ・ニューマン『数学の世界』(河出書房)、ナーゲル&ニューマン『数学から超越学へ』(白揚社)、ポリヤ『いかにして問題をとくか』(丸善)、エリック・テンプル・ベル『数学をつくった人びと』(東京図書)、ノバート・ウィーナー『サイバネティックス』(岩波書店)、ファインマン『物理法則はいかにして発見されたか』(岩波現代文庫)、G・H・ハーディ『一数学者の弁明』(みすず書房)、ダグラス・ロバートソン『新たなルネサンス』、ウラジミール・タシッチ『数学とポストモダンの源流』、マーク・リドレー『協働的遺伝子』、リリー・ケイ『誰が生命の本を書いたか』、ロジャー・ペンローズ『皇帝の新しい心』(みすず書房)、ジョン・ホーガン『科学の終焉』、ブライアン・グリーン『エレガントな宇宙』(草思社)、レベッカ・ゴールドシュタイン『精神肉体問題』、デービッド・オーバーン『証明』、ノーレットランダーシュ『ユーザーイリュージョン』(紀伊国屋書店)、リー・スモーリ『量子重力への三つの道』、そしてチャイティン自身の『数学の限界』(SIBアクセス)と『知の限界』(SIBアクセス)と『ランダム性を求めて』。

TOPページデザイン:佐伯亮介
図版構成:寺平賢司・梅澤光由・大泉健太郎
齊藤彬人・中尾行宏


⊕『セクシーな数学 ― ゲーデルから芸術・科学まで』⊕
∈ 著者:グレゴリー・J.チャイティン
∈ 訳者:黒川利明
∈ 装幀:後藤葉子
∈ 編集:吉田宇一
∈ 発行者:山口昭男
∈ 発行所:岩波書店
∈ 印刷:理想社
∈ カバー印刷:半七印刷
∈ 製本:松岳社
∈ 発行:2003年
⊕ 目次情報 ⊕
∈∈ 日本の読者に
∈∈ まえがき
∈∈ 序文
∈ 1章 算術におけるランダム性
∈ 2章 わが生涯の理由
∈ 3章 どうやって数学者になるか
∈ 4章 ゲーデルとボルツマン、そして私の関係(講演)
∈ 5章 セクシーな数学
∈ 6章 創造的生活 科学対芸術
∈ 7章 神は、純粋数学でもサイコロを振る(講演)
∈ 8章 数学、科学、そしてファンタジー
∈ 9章 数学の基盤についての一世紀にわたる論争(講演)
∈∈ おわりに
∈∈ 参考文献
∈∈ 訳者あとがき
⊕ 著者略歴 ⊕
グレゴリー・J.チャイティン(Gregory J. Chaitin)
1947年生まれ。13歳で独創的なアルゴリズム的情報理論のアイデアを発見。18歳で学術論文を提出。20歳の頃には、IBMに入社し、大学でも講義をおこなうなどの早熟ぶりを発揮。ゲーデルの不完全性定理、あるいはチューリングの停止定理の情報理論的な扱いを発見して以来、その研究に従事。
⊕ 訳者略歴 ⊕
黒川利明(くろかわ・としあき)
1948年生まれ。1972年東京大学教養学部基礎科学科卒業。(株)東芝総合研究所、日本IBM基礎研究所を経て、現在、(株)CSKフェロー。専門はソフトウェア科学。著書に、『ソフトウェアの話』(岩波新書)、『作品としてのプログラム』(岩波書店)、『LISP入門』(培風館)他、訳書にチャイティンの『数学の限界』、『知の限界』(いずれもエスアイビー・アクセス)がある。