父の先見
ピカソ
天才とその世紀
創元社(知の再発見双書) 1993
Marie-Laure Bernadac & Paule du Bouchet
Picasso 1986
編集:高階秀爾(監修)
装幀:戸田ツトム・岡孝治
屈託はないが、天才的に傲慢だ。そのくせどんな才能からも貪欲な摂取をしたい。
謙虚なのではない。ピカソは文明技法に対する勘が冴えているのだ(勘)。すぐれたアーティストにありがちな性格だろうが、ここまでまるごと起爆できる男は、なかなか、いない。ボーダーレスで、リミナルな直観がすばやく動く侵略者なのである(喚)。
ピカソの造形力は動物がみずから次々に分化していくような造形力だ。動物だから、つねにクリティカルに、かつ複合的に分化する(坎)。そのたびに遺伝子変異がおこって、過剰な環境適用がおこる。しかも反動形成を厭わない。
ようするに、植物的ではないのである。ピカソの造形力の特徴がデフォルメーション(デフォルマシオン)にあるなどと、思わないほうがいい。
死ぬ前の自画像(1972)が凄い。ピカソは91歳で死ぬのだが、その前に描いた。この自画像を見ていると、とても安らかに大往生したとは思えない。目が巨きく見開いていて、左右の眼球の大きさが違う(捍)。顔貌の右側が「影まがい」になっている。さしずめ暗闘だ。
最後の最期になってこんなネクラの自画像を描くだなんて、なんという男だろう。ぼくがピカソに名状しがたい敬意と畏怖をもつようになったのは、この最後の自画像を見てからだった。
20歳のときの自画像(1901)はまだまだ青年らしいピカソだった。技法もセザンヌやゴーギャンと変わらない。「青の時代」を纏った棒っきれだ(竿)。ここからは、きっと何でも描けたのだろうが、いまだ何を描くか決めかねていた迷妄のピカソが見えてくる(甘)。あきらかに自信がもてないピカソだ。『盲人の食事』(1903)や『生』(1903)と連なったピカソだ。
多くのピカソ・ファンはなぜか「青の時代」が好きなようだ。たしかに『ラ・セレスティーナ』(1904)はいいけれど、それはぼくにはキーツ(1591夜)や梶井基次郎(485夜)だとも見える。盲人に憑かれていたことがそれを語っている。頑健なピカソは目が見えない男の触知感覚を描きたかったのだ。
想像上のハンディキャップを表現すること(撼)、それを気にした。ここにその後のヒントがある。
25歳のときの二つの肖像画がピカソの行く先を暗示する。ひとつはゴソルから帰った直後の自画像(1906)で、仮面のような表情と裸の上半身が描かれている。彫塑的野性が押し殺されているように蓄えられている(堪)。
もうひとつは『ガートルド・スタインの肖像』(1905〜06)だ。よくぞ難物で鳴るスタインの肖像画をあのように仕上げたと思う(莞)。アリス・B・トクラスとのレズビアンで有名なスタインに長時間のポーズをとらせたうえに、当初に描いた顔貌を塗り潰して、白皙のペルソナのように描きなおした。かなり異様な仕上がりだったが、スタインは「これは私の唯一の肖像画であり、そうあり続けるだろう」と言った。スタインもたいしたものだ。
ピカソは「肖(あやか)る」に徹した画家なのである(嵌)。ただ、その「肖り」は時代と相手によってそのつど好き勝手に変質した。それがピカソの人生そのものでもあった。
マラガの大きな白い家。ピカソは1881年10月25日にここで生まれた。
両親は純粋なアンダルシア人だ。母親のマリア・ピカソ・ロペスは漆黒の髪で、父親は赤毛の装飾画家だった。父親の職能のおかげで、絵の具は少年ピカソのまわりにいつもあった(管)。父親の装飾モチーフはたいてい鳥の羽と木の葉と鳩だった。ピカソはこの鳩に魅せられている。
13歳の初夏、父は息子をプラド美術館に連れていった。ベラスケス、スルバラン、ゴヤたちがピカソを襲った。大きな衝撃だった。ジョン・リチャードソンの全4巻の大著『ピカソ』(白水社)の第1巻「神童」を読むといい(2017年夏の時点ではまだ3巻までしか翻訳されていない)。
一家はよく引っ越しをした。ピカソもそうとうに引っ越しが大好きだ。死ぬまで引っ越しばかりしている。家と女を変えつづけ、できれば危ういほどに家と女を平衡進捗させること(関)、これは信条にすらなっている。
父親がラ・ロンハという美術学校の教師になったときは、バルセロナに移った。このころのバルセロナではカタロニア語が会話の主流だったが、そこにフランス人が交じって独特の文化をつくっていた。ピカソは欣喜してこの町の文化に身を任せ、ラ・ロンハの試験をやすやすと突破して、並み居る教師たちにそのデッサン力のすばらしさを刻印した(歡)。
ラ・ロンハではマヌエル・パリャレスと親友になり、互いに肖像画を競った。パリャレス以上の竹馬の友となったのがハイメ・サバルテスだ。ピカソは独創的な表現力の持ち主だと思われているが、こうした友人たちとの交流がもたらしものが途方もなく大きい。
ピカソは「画家にならなければピカドールになりたかった」らしい。マタドールではなくてピカドールだ。マタドールは闘牛士だが、馬に乗って槍で牛の肩を突き刺して威勢を弱めるのがピカドールだ。ピカソはピカドールなのだ。9歳で描いた『闘牛と鳩』にその気分が横溢している。
ピカドールのピカソは直観がすばやく、反動形成を厭わない侵略的なピカドールだった(貫)。
1900年、ピカソ19歳。友人のカルロス・カサヘマスとともに念願のパリに出た。パリにはそうとう感嘆している(刊)。感じたぶん、貪欲に吸収しまくった。とくにリュクサンブールとルーブルでアングル、ドラクロア、ドガ、ゴッホ、ゴーギャン、ロートレックに目を奪われ、ほぼ同じ目でエジプトとフェニキアのエネルギー溢れる美術的表現力を感受した。
それでもちっとも満足していない(乾)。クリュニーではゴシック彫刻に、ついでに浮世絵にも気を惹かれた。若いピカソでなくとも、これらの傑作に目を奪われるのはめずらしいことではないが、しかし、ここまで多様な表現体に目を奪われる好奇心と浮気心は(澗)、その後のピカソのハイパーヴィジュアル・サーカスの源泉とも手本ともなった。まもなくカサヘマスが恋に破れてピストルで頭を打ち抜いた(棺)。
クリシー街に部屋を借りて、ここで『青い部屋』(1901)を描いた。すぐに画商のアンブロワーズ・ヴォラールがピカソの小さな個展を開くと、そこにマックス・ジャコブがやってきて、二人は意気投合した。みんなで安カフェの「ル・ズュット」に屯(たむろ)した。
ジャコブはピカソがあまりに貧しい暮らしをしているので(自分も劣らず貧窮だったのだが)、二人で躯を寄せあうように住むことにした(敢)。部屋にはベッドとシルクハットは一つしかなかったから、二人で使い分けた。
ピカソの周囲ではこうした友人たちの接近と破滅と混乱が生涯にわたってつきまとっている。そういう奔放な連中がひしめいていた時代に生きたのだ。とりわけジャコブは青春のピカソを変奏した。
閉じない才能というものがある。開いているのではなく、ひたすら閉じない。開きっぱなしなのではない(函)。
閉じない才能は万能なのではない。万能の天才を示さない。つまりピカソはレオナルド・ダ・ヴィンチ(25夜)やベルナール・パリシー(296夜)なのではない。入ってくる技法と才能に存分に官能できて、これがすぐさま四肢と形姿に転用できる耽美的才能だ(感)。このあたりは、そう、さしずめ加藤唐九郎や北大路魯山人(47夜)といったところだ。
けれども唐九郎や魯山人とはちがって、入ってくる技法と才能に自分が官能するときのレセプターがとてつもなく柔軟なのである。だから刺戟が入ってくる注入口をいつもぎりぎりまで研ぎ澄ましていた(鹸)。それゆえ、入ってきたときの刺戟をその入力時のインターフェースごと(境界ごと)、外にあらわすことができた。それがピカソだ。
ピカソのキュビズムとは何か。答えは明瞭だ。『アヴィニヨンの娘たち』を作り上げること、これがピカソのキュビズムの突端だ。そうするにあたって、神話の娘たちの造形に、イベリア半島の彫塑、アフリカの仮面、オセアニアの模様などを引用し、まるで象嵌のごとくにあてはめた。そうすることが、ピカソのキュビズムの決断だった(慳)。
1907年の夏、ピカソはこれらの習作を数カ月かけて100枚以上の下描きで組み立てる(巻)。そのあいだ画室には誰も入れず、ほぼ完成したときに友人たちを次々に招いた。評判は悪い。ジョルジュ・ブラックは「これは麻を食べろ、石油を飲めと言っているようなものだ」と呆れ、互いに信頼しあっていたギヨーム・アポリネールさえ才能の偏極を惜しんだ。一人、若い収集家のカーンヴァイラーだけが褒めた(のちにヨーロッパを代表する大画商になる)。
どうも美術史家たちはキュビズムに撹乱されすぎている。ピカソは手当たり次第のキュビストにすぎない。手当たり次第だから、『パンと果物入れのある静物』(1908〜09)、『オルタの工場』(1909)はつまらない。セザンヌ風キュビズム、コラージュ風キュビズム、パピエ・コレ(貼紙)風キュビズムなのである。
それが『フェルナンドの顔』(1909)から『ヴォラールの肖像』(1910)に変位するにつれて、やっとピカソになっていく。解体が本気になる(嵌)。いよいよ「解体もどき」が始まった。
1914年に開戦した第一次世界大戦がピカソの周辺を変えた。友人たちはことごとく召集され(アポリネール、ブラック、レジェ、ドラン)、モンパルナスもすっかり勢いを失った。このヨーロッパ事情は芸術を変えた。スペイン人のピカソと病気がちのジャコブだけが召集されなかった。
寂しがり屋のピカソは半ば喚(うめ)いていた。そこへ3年にわたって熱い交歓をしてきたエヴァ(マルセル・アンベール)が結核で病没した。かなりの心の危機だったようだが(患)、そこを救ったのがジャン・コクトー(912夜)からの意外な声がかりだ。
1917年の春、コクトーはディアギレフのバレエ・リュスの舞台のための衣裳と装飾の下絵を頼んできた。それにはローマに出向く必要があった。そのローマで、ディアギレフはたちまちコクトー、ピカソ、サティらを独特の魔法にかけた。いちころだった(浣)。ディアギレフがゲイだったことが大きい。5月にシャトレ劇場で開幕した『パラード』は毀誉褒貶が入り乱れるすさまじい反響になる。
観客はバレエ・リュスの踊りというより、ディアギレフとコクトーとピカソが作り出した人物造形の奥にひそむ「奇妙なもの」に目を見張った(潅)。アポリネールがそれを初めて「シュル・レアリスム」と呼んだ。
バレエ・リュスはバルセロナでも上演された。パトリオットな愛郷心が強いピカソは張り切った。そこにはオルガ・コクローヴァがいた。ピカソは『肘掛け椅子に座るオルガの肖像』(1918)を描く。この絵は、「ピカソは自分からキュビズムを裏切った」と言われるほどに古典的様式をみごとに踏襲した油彩画だ。
オルガは最初のピカソ夫人になる。二人はボエティー街の広い2階建アパルトマンに居を構え、食堂を飾り付け(歓)、いっぱいの椅子を入れ、自分の絵とルソー、マティス、セザンヌ、ルノワールの絵をそこらじゅうに置いた。ただただみんなをぴっくりさせたいからだ。高級住宅が並ぶ8区、毛皮や高い衣裳が並ぶサントノレは目の前だ。二人は社交界の花形になっていく。
この時期のピカソは折り目のついたスボンを穿き、ステッキを持って歩いた。気取るのは大好きなのだ。アパルトマンには千客万来だったが、古い友人たちの足は遠のいた。軍隊から戻ってきたブラックは負傷していたし、アポリネールは死んだ。しかし、ピカソはどんどん大金持ちになり、どんどん鼻持ちならない男になっていった(羹)。
ピカソは様式を着たり脱いだりできることができた。たんなるモードチェンジではない。時代の様式そのものを着脱する(奐)。しかも自分で作った新たな様式も率先して脱ぐ。いわば守・破・離を徹底するのだが、そんなことがいつもできるなんて、よほどのことである。
当時、キュビズムに走るような画家たちは「ドイツ野郎」と蔑まれていたが、ピカソは進んでその汚名の先頭に立ち(寛)、そしてこれを自身で換骨奪胎し、さまざまに繕い(ブリコラージュ)もして、次の着替えに向かっていった。これも守・破・離だった(瀚)。あまつさえ、ときに同時期に別々の意匠に挑んでもみせた。
たとえば『海岸を走る女たち』(1922)と『ダンス』(1925)。二つとも女たちが描かれているが、まったく異なる画風になった。「はちきれる女」と「削られた女」の違いではない。そこに投入されたヴィジョンが違う(稈)。ピカソにあっては「守・破」のヴィジョンが技法をつくり、その技法が「離」をつくるのだ。まさに離れ技だった。
本書は、長らくピカソ美術館のキュレーションをしていたマリ=ロール・ベルナダックと美術ジャーナリストのポール・デュ・ブーシェが書いた。コンパクトではあるが、要訣を得た一冊だ。日本版の監修に高階秀爾さんが、翻訳に娘の絵里加さんが当たった。
かつて高階秀爾のピカソ論は1964年刊行の『ピカソ 剽窃の論理』(ちくま学芸文庫)で一世を風靡した。日本人でピカソを議論するのにこれを読んでいないのはモグリだ(翰)。ぼくも早稲田に入ってしばらくして夢中で貪ったおぼえがある。それから20年ほどたって美術公論社から増補版が出た。第9章「画家とモデル」が新たに書き下ろされていた(栞)。ここまでピカソの意表を抉ったピカソ論はその後もほとんどなかった。
高階の『ピカソの剽窃』は告発ではない。けれどもピカソが方法としての剽窃に長けていたことを、あたかも罪状を挙げるかのように詳細に列挙した。とくにドラクロワの『アルジェの娘たち』の改作についての突っ込みがいい。そうしているうちにピカソの深部に籠絡された(綣)。本望だろう。
列挙されたものはかなりある。モネの『キャピュシーヌ大通り』とピカソ『クリシー大通り』、ロートレックの『キャピュレット小母さん』とピカソ『宝石の首飾りをつけた遊女』、ベラスケス『宮廷の侍女たち(ラス・メニーナス)』とピカソの同名作品の連作、ドラクロワの『アルジェの女たち』と同名作品の連作(1954~1955)、クラナッハの『婦人像』とピカソ『クラナッハによる婦人像』、グレコの『画家の肖像』とピカソの『グレコによる家族の肖像』‥‥等々。
ピカソは剽窃を決して隠さない。伏せては開け切っていく(緘)。模倣、見立て、モンタージュ、添加、変形、コラージュ、パロディ化、本歌取り、アッサンブラージュをやり尽くし、その方法的冒険をあからさまに誇り続けた(鉗)。『ティツィアーノの「ヴィーナスと音楽家」』、『レンブラントの「レンブラントとサスキア」』、『ダヴィッドの「サビニの女たち」』など、その諧謔的変形とその転戦ぶりには恐れ入る。
その後、クラウス・ヘルディングが『ピカソ アヴィニヨンの娘たち』(三元社)を書いた。高階のような毒気はないが、穏やかにピカソの「ミメーシス」に介入していた。
ピカソの剽窃は「擬」(もどき)なのである。「ほんと」と「つもり」の両方にまたがる「擬」だ。したがって、フェイクやミミクリーではあったとしても、シミュラークルではない。激越に見えていて、俳諧やシャンソンやコスプレなのだ。
しかし、これを強調しておきたいのだが、この「擬」は美術史上においては「おおもと」へ戻るための方法だったのである(觀)。その方法にはエーリッヒ・アウエルバッハの『ミメーシス』よりも、ガブリエル・タルド(1318夜)の『模倣の法則』がある。ピカソは世阿弥(118夜)に近かったのである。
シュルレアリスムはピカソを悦ばせなかったし、凌駕しなかった。しょせんアンドレ・ブルトン(634夜)たちはピカソの一部にすぎず、ピカソを瞠目させるはずのアポリネールは早々に死んでしまった。
キュビズムもシュルレアリスムもピカソを屈服させなかったとしたら、何がピカソを動顛させたのか。それは明白だ。女たちである(嫻)。
ピカソの恋は火のようだ。聖火と淫火がまじっている。22歳のときに「洗濯船」で出会ったフェルナンド・オリヴィエとは、毎日数十枚のデッサンをする恋になった。ぼくも少しだけだが、ガールフレンドができるとその肖像をスケッチする癖があったものだが、何かが足りずに歓心を買えなかった。
きっとピカソにあっては絵と恋と女と生とが同義語だったのだろう(奸)。手慰みなのではない。余技でもない。いつも全力投球なのだ(湲)。こういう画家は、いまはなかなかいない。とくに日本ではこういうフルヴァージョンの放蕩が認められたためしがない。
1927年に僅か17歳のマリー=テレーズ・ヴァルテルを見染めた。ラファイエット百貨店近くの路上だ。ピカソは45歳だった。まるで拉致だ。
激しい恋に堕ちた。深い美貌と官能的な肢体に参った。たちまち蕩けるような日々か連打されるのだが、当然、夫人オルガとの関係は悪化する。そこへ世界恐慌がやってきた。マリー=テレーズはマイアという娘を産んだ(『人形を持つマイア』1938)。
ピカソの日々は最悪になっていく(樌)。友人のサバルテスに懇願して自分を助けてほしいと頼んだ。サバルテスはすぐやってきて、ピカソの死にいたるまで傍らで幇助をしつづけた。友情ではなく、友助。扶けられることを親友の心にとどくものとして発酵させていくのも、ピカソ持ち前の才能だった。ピカソはとうてい一人では生きられない(閑)。
ピカソは、気にいった女はことごとく犯せるものだと思っていたようだ(姦)。実際にもそうしたのだろう。傍らで観察しつづけていたマリー・テレーズがずばり言っている、「ピカソは女を犯してから描く」と(蚶)。
本人はもっとあからさまに、こう言っていた、「妻を替えるたびに、前の妻を焼いてしまうんだ。私が若さを失わないのはそのせいだろう」。
女を描くピカソこそ、ピカソの芸術的生理なのである(肝)。その真骨頂はおそらく『泣く女』(1937)にある。黄色と紫と緑。まるで補色を組み合わせたような禍々しい色づかい。赤い帽子に挿している青い花。黄色い顔色に眼窩からは涙が紫の影をもつ。
モデルはドラ・マールだった。描きおえて、「女は苦しむ機械だ」とピカソは言った(蒄)。
1936年の夏、ピカソはムージャンにいた。ポール・エリュアール夫妻、写真家のドラ・マール、編集者のクリスチャン・ゼルヴォス夫妻、画商のポール・ローザンベール、そしてマン・レイ(74夜)が一緒だった。みんながみんな、ヒトラーとスペイン戦争を話題にした(啣)。ファシズムが近寄っていたのだ。翌年はフランスで万国博覧会が開かれる予定だった。スペイン館がピカソに何かを制作してほしいと依頼していた。
そこへ惨(むご)たらしいニュースが届いてきた。将軍フランコの要請でドイツの爆撃機がバスク地方の小村ゲルニカを全滅させたというのだ。スペインはついに狂った。
1カ月後、ピカソはたちまち『ゲルニカ』(1937)を完成させた(喊)。45点のクロッキーにもとづいて構成され、ついに闘牛がミノタウロスに変じ、ミノタウロスがミノタウロマキアに逆上した。『ゲルニカ』はかつてない構想によって黒・白・灰色をベースにしたので(諌)、見る者には「悲しみ」と「悔恨」が溢れ出した。
大戦はフランスを真っ暗にした。しかしピカソは『ゲルニカ』以降、戦争そのものを一度も描かなかった。『鳥をくわえる猫』(1939)などでお茶を濁しただけだ。好きな鳩をいろいろな形にしただけだ。
政治的な思想も深めなかったし、何かの反対意志を述べたこともなかった。それでも共産党には入党した(看)。そういう戦争中のピカソについて、エリュアールは「ますます激しく、ますますきちんと振る舞おうとしていた」と言っている(扞)。
こういうピカソの在りかたには、あえていうなら山田風太郎的なものがある。ピカソはヴィジュアルな「不戦日記」を綴っていたのだったろう(斡)。マリー=テレーズの娘のマイアは「私の父は人間の苦悩の熱狂的なファンなのよ」と言う。
戦後のピカソはあまりにも多能だった。また、周囲が勘弁してほしいと思うほどに、奔放で、好き放題だった。1945年、版画家フェルナン・ムルロと出会うと、一気呵成に版画にとりくみ、当時の伴侶としていたフランソワーズ・ジローの顔をさかんにそこに入れこんだりしていた。ドローイングも乱発しつづけた。乱発だが、やたらにうまい。
版画やドローイングをするピカソはまるで牧神だ(侃)。すべてを懐妊させていく牧神だ(濫)。ロザリンド・クラウスの『ピカソ論』(青土社)がその秘密を解こうとして、遂に達しなかった。そりゃそうだろう、ピカソに勝るエクスタシーがない者にはピカソは牛耳れない。
老いてなお矍鑠としていたピカソは、もともと小太りで頑丈な骨格だった。胸がそうとうに厚い。自慢の胸だ。ミシマのような「つくり」などする必要がない。
そのせいか縞々のTシャツが気にいっていた。ミシマは縞のTシャツでは過ごせない。ピカソはまるで陽気な海賊か、ピカレスクなのだ(漢)。あっけらかんを見せたかったのだ。
ピカソは何を手遊び(てすさび)しても自在になれた(憾)。実はピカソには超越技巧なんて、ない。描くもの、作るもの、遊ぶものに応じた才能を、そこに、そのぶん、それらしく、充足させるのが格段に巧みだったのである。
これって、何なのか。これが天才というものなのか。20世紀の食べ尽くしというものなのか(奐)。多くの評者がその謎を説明しようとしたが、うまくいかなかった。アリアーナ・ハフィントンは『ピカソ 偽りの伝説』(草思社)で、ピカソがつねに苦しまぎれであったこと、晩年は死の恐怖に脅えていたことなどを詳細に報告して、その生涯が偽りに彩られていたことを証そうとしたが、それはピカソの表現力のおもしろさの謎をなんら説明するものではなかった。
かつて「遊」の編集部にいた西岡文彦君も『ピカソは本当に偉いのか』(新潮新書)でそのへんに突っ込もうとして、やはり周辺の美術事情との関連で解説するしかなかった。あらためてジョン・リチャードソンの『ピカソ』全4巻を検証したほうがいいだろう。
ピカソは平和主義者ではない。ピカソは社会活動には興味がもてなかった。ピカソが好きなのは「混合」であり(丱)、「混淆」なのだ(蚶)。すべてはスタイルで、またすべてのスタイルからの逸脱だった。
つまりはピカソは「擬」(もどき)なのである。全身がアブダクティブで、全霊がコンティンジェントな「擬」なのだ(還)。すべての欲動とすべての表現とすべての決断が「擬」なのだ。
生涯、およそ1万3500点の油彩画と素描画、約10万点の版画、ざっと3万4000点の挿絵、300点ほどの彫刻と陶芸品を遺した。やはり、こういう男はなかなかいない。ただただ、83歳の誕生日に写真家のブラッサイが贈った一冊『語るピカソ』(みすず書房)を読むばかり(完)。
⊕ ピカソ─天才とその世紀 ⊕
∈ 著者:マリ・ロール ベルナダック、ポール デュ・ブーシェ
∈ 監修者:高階秀爾
∈ 訳者:高階絵里加
∈ 発行者:矢部文治
∈ 発行所:株式会社創元社
∈ 造本装幀:戸田ツトム、岡孝治
∈ 印刷所:図書印刷株式会社
⊕ 目次情報 ⊕
∈ 第1章 スペインの神童
∈ 第2章 モンマルトルと熱狂の日々
∈ 第3章 キュビスムの革命
∈ 第4章 名声に向かって
∈ 第5章 天才の孤独
∈ 第6章 彷徨と苦悩
∈ 第7章 輝かしい日々
∈ 資料編 創作と生涯
⊕ 著者略歴 ⊕
マリ・ロール ベルナダック
1950年生まれ。1981年よりピカソ美術館学芸員。著書に写真集「ピカソ美術館」(RMN 1985年)『ピカソ美術館カタログ』(RMN 1986年 共著)などがある。
ポール デュ・ブーシェ
1951年生まれ。1978年から1985年にかけて『オカピ』(バイヤール・プレス)の記者をつとめる。若者向けの多くの著書がある。