父の先見
エンディミオン
岩波文庫 1949
John Keats
Endymion-A Poetic Romance 1818
[訳]大和資雄
春のオードも秋のオードも、
『エンディミオン』も『ハイピリオン』も、
『イザベラ』も『レイミア』も『憂愁のオード』もいい。
だが、痛ましくも25歳で夭折した。
全貌を語るには、あまりに短い。
その墓に刻まれたのは、
「その名を水に書かれし者、ここに眠る」だった。
なんとすばらしい墓碑銘であることか!
今夜は、どんな先入観ももたずに、
ジョン・キーツを感じてほしい。
美しきものはとこしへによろこびなり
そのうるはしさはいやまし
そはつねに失せ果つることあらじ
A thing of beauty is a joy for ever;
Its loveliness increases; it will never
Pass into nothingness; but still will keep
A bower quiet for us, and a sleep
Full of sweet dreams, and health, and quiet breathing.
Therefore, on every morrow, are we wreathing
A flowery band to bind us to the earth,
Spite of despondence, of the inhuman dearth
Of noble natures, of the gloomy days,
Of all the unhealthy and o'er-darkened ways
Made for our searching:
誰だっていつ春を知ったのか特定できないように、振り向くとそこに春のオードのようにキーツがいた。リーダーズ・ダイジェスト社の月球儀を見ているうちにアルテミスやエンディミオンやセレーヌに惹かれたのだから、まあそのころだろう。
周りの友人や詩人たちがワーズワスやランボー(690夜)やエリオットや鮎川信夫を喧しく言うのが嫌いで、俺はキーツだ、ジュール・ラフォルグだ、リルケ(46夜)だ、西東三鬼なんだよと思いながら、ちらちら、ちらちら、ルナティック・キーツに出入りしていた。
キーツを本気で読むようになったのは日夏耿之介に翻弄されてからである。ただ読んでみると、日夏の酔いで読みつづけるのはむりで、もっと淡々とブリティッシュ・ロマンティシズムと遊んだほうがいいと感じた。出口保夫や伊木和子の評伝や詩論、ノースロップ・フライのキーツ論なども通過してみたが、オードのキーツであれ、ルナティック・キーツであれ、ますますキーツを「掬えばいい」のだと思えた。ロマンティシズムの波濤に浮沈するキーツを水を掬うように、掬うのである。
森に型を並べる者なきエンディミオンもまた
やつれ 青ざめ 畏れかしこむ顔で
山狩りの兄弟たちのあいだに立つてゐた
ジョン・キーツの人生はたった25年だった。親友ジョセフ・セヴァンによる「死の床のキーツ」(1821)という独特のスケッチがあるが、見るにも痛ましく、美しい。いや痛ましいのではなく、傷ましい。夭折したから痛ましいのではない。その短い日々の試行錯誤がしばしば胸をふさぐのだ。だからついつい悼みたくなる。
馬丁の子だった。小柄だった。1795年にロンドンのシティの「スワン・アンド・フープ」という宿屋を兼ねた貸馬車屋に生まれ、国教会のサクラメント(秘蹟)による洗礼を受け、弟とともにエンフィールドのクラーク学院の寄宿学校に入った。写真で見るとちっぽけだが好ましい学舎だ。8歳のときに父親が急死すると、母親フランセスはまもなく再婚し、すぐに別れ、キーツらを連れて祖母と同居した。
翌年に祖父が死に、5年後にその母親も結核で病没した。肉親の死というものはそのときは強弱淡濃さまざまであっても、やはりその家族に生まれた者を変えていく。
1814年、祖母のはからいでキーツは外科医の助手として奉公に出た。それなりに医療的な仕事の充実を感じもしたのだろう、地方病院の学生になっている。けれどもそのころからチャプマンが訳したホメロスの神話詩やスペンサーの『神仙女王』を耽読してみると、どんどん自分がそわそわしてくるのがわかった。このざわめきは何なのか。
さらに、のちに親しくなるリー・ハントが編集する週刊誌「エグザミナー」を愛読しているうちに、ついに詩作に傾倒するようになっていた。ソネットやオードを書いた。医者になっているわけにはいかない。こういうキーツはいとおしい。
いまただちに われらは運命を賭して
わが先触れの思想を荒野に送る
1817年の春がきた。キーツはワイト島へ1週間ほどの旅に出る。この年代の海島への旅は、多感で感傷するのにはうってつけだ。次々に詩が書けた。さっそく処女詩集『キーツの詩集』(Poems by John Keats)を刊行した。
翌年はスコットランドへ旅に出た。またまた感傷を極めることになった。英語圏の連中が大好きなセンチメンタル・ジャーニーだ。ヘイスティングに旅をしたときは年上のイザベラ・ジョーンズに出会い、すっかり心を奪われた。なんだか謎めいた人妻だったが、ふいに恋に落ちた。「陥恋」とはそういうものだ。ぼくにもそんな淡い「陥恋」は遠い日々のなかに未成就のままにちらちら散っている。
同じ年、すこぶる寓意的になりたくて叙事詩を夢中で書いた。ギリシア神話をふくらませた『エンディミオン』(Endymion)だ。4巻4000行。けれどもこれが思わぬ不評で、こっぴどく叩かれた。傷心したキーツはスコットランドからアイルランドに渡り、ブリテン島の最高峰ベン・ネヴィスの山頂に立った。何かの気概が零れ落ちた。
またまた恋の相手があらわれた。ファニー・ブローンである。彼女は人生を伴走してくれそうだった。『レイミア』を書いた。ただ、途中から体調がおかしくなっていた。旅を切り上げ帰郷してみると、弟が結核で亡くなった。キーツの家は結核に呪われていた。自身もしばしば喀血した。少々お茶目なファニーと婚約したかったけれど、延期した。
神秘の扉を開く畏るべき者よ
ドライオビの偉大なる子よ
見よ 額に木の葉を巻きつけて
誓ひの礼拝に来り集ふ群衆を
キーツは演劇も音楽も好きな青年だ。例のドルリー・レーン劇場ではもっぱらフェアリー・テイルズを楽しんだ(「例の」というのは、この名前がエラリー・クイーンの探偵の名になったからだ)。モーツアルトやベートーベンにも親しんだ。そんなことから音楽詩『イザベラ』も書いた。
社交的でもないが、引きこもりでもない。だから紹介があればシェリーやワーズワスにも出会った。かれらはすでにロンドンで名が知れていた。
バイロンに対しては羨望と落胆が入り交じって距離をおいていた。この気分、わからないではない。むしろダンテ(913夜)こそ手放せないと思った。そのうちミルトンっぽい無韻の詩が書きたくなっていた。哲学も織り込みたい。この思いが叙情詩『ハイピリオン』(Hyperion)となっていたのだが、なぜか途中でスタイルを変えたくなった。これ、よくあることだ。
こうしてリノベーション・ポエムとしての『ハイピリオンの没落』(The Fall of Hyperion)が成稿しつつあった。ところが、これもなぜだか未完におわった。キーツは自身の作品の中でも変容しつづける。
そんな時期、体がどんどん辛くなっていた。肺病だ。病状は日に日に悪化し、医者が温かいところへの転地を勧めた。やむなく寒冷のイギリスを去ってイタリアに行くことにした。ローマのスペイン広場に移った。
オードが書きたくなった。1819年、冴えわたる『秋に寄せて』(To Autumn)、『ギリシアの古壷のオード』(Ode on a Gredian Um)などを連続的にものした。自信があった。
が、結核はひどくなるばかりだった。あれほど望んでいたファニーとの結婚はできそうもない。1821年2月23日、25歳で死んだ。墓には「その名を水に書かれし者、ここに眠る」(Here lies one whose name was writ in water)と刻まれた。
ああ 魔法のやうな眠りよ
ああ 快い鳥よ
心の撹乱の海を蔽ひ懐(いだ)いて
つひにそれを静かに平らかにする鳥よ
ああ 無制限なる制限
監禁されたる自由よ
O magic sleep!
O comfotable bird,
That Broodest o'er the troubled sea of the mind
Till it is hush'd and smooth!
O unconfin'd
Restraint! imprisoned liberty!
これがキーツのあまりにも短い生涯だ。むろんこんなに線状的なものではなくあれこれ輻湊はしているのだが、やっぱり傷ましい。
しかし、キーツの詩を味わうとなると話はべつである。その心と人付きあいと詩作表現の変転を見ていると、話はべつになる。そこには憂鬱と永遠とが、逡巡と投企とが、身体の衰弱と言葉の生命力とが、同意と反意とが、それぞれ二層の水流のようにぶつかっている。
この混淆する多層の流体は分かちがたい。分かちがたいにもかかわらず、そこからはキーツが慄然と舞い上がる。
かくてエンディミオンは
樹蔭に眠つて蘇生した
ふつう、キーツはイギリスの初期ロマン派を代表する詩人というふうに称えられてきた。先駆したのはウィリアム・ブレイク(742夜)だ。
つづいて第1世代のワーズワス(1770~1850)、コールリッジ(1772~1834)、スコット(1772~1832)から、第2世代のバイロン(1788~1824)、シェリー(1792~1822)、キーツ(1795~1821)が続いた、というふうに英文学史はまとめてきたのだが、これでは何もかもが一緒くたになる。これではいけない。寝覚めの悪い英文学史がそうしてきただけではなく、切った貼ったが得意なノースロップ・フライですらそんなふうにする。フライはキーツの中にいささか東洋思想を見いだして「無」(empty)の切片のあることを指摘できたにもかかわらず、ロマン主義の潮流についてはごくごく常識的なのだ。
少年を「哲学者」と呼んだワーズワスと、その少年を「盲目者」と呼んだコールリッジだって、同じロマン派でもずいぶん違うのである。バイロンとキーツもむろん同日には語れない。8歳年上だったバイロンに対するキーツの感情は憧憬と反感はそうとうに葛藤していたのだし、ぼくは1819年の『春のオード』をキーツのひとつの絶顛と見ているが、このオードは控えめに言ってもバイロンとはアンビバレンツであり、ちゃんと言うならバイロンとは”真っ向クリティカル”なのである。
というわけで、キーツとロマン派を十把一からげにするのはいただけない。キーツの浪漫は、むしろ「負の包摂力」なのである。ネガティブ・ケーパビリティ(negative capability)なのである。
その眼は実に兄思ひの妹の情愛の宿だ 家だ
その涙よりももつと天に近いものを 私は求めえようか
でもその涙をお拭ひよ
すつかり懸念を去つておしまひな
そもそも英語文化圏におけるロマンティシズム(romantisism ロマン派・ロマン主義)という括りが、ひどく安易だった。いまなお、そうだ。
ロマンス(romance)とはもともとラテン語と対比される地方語のことで、17世紀の半ばくらいまでは中世の騎士道精神のようなものをさしていた。それがしだいに古典ギリシアの合理主義に対する反発の感覚用語として使われるようになり、そういう気持ちになることを「ロマンティック」と言うようになった。しかし、ロマンティック(romantique)という言葉を初めて意図的に使ったのは、英語圏ではなくて、フランス語のルソー(663夜)の『孤独な散歩者の夢想』だった。
それよりなにより、ロマン派のおおもとはフランスでもイギリスでもなく、当然にドイツなのである。
ぼくにはドイツ・ロマン主義というと、たちまち「ゼーンズフト」というドイツ語が響いてくる。「憧憬」という意味だ。ここでは詳しいことは言わないが、イエナの風土を背景にしたドイツ語がこの憧憬思想をつくりあげた。シュレーゲル兄弟、ノヴァーリス(132夜)、ゲーテ(970夜)、シラー、シュライエルマッハー、ホフマン、フィヒテ(390夜)、シェリングらが創製し、それをヘルダーリン(1200夜)らに渡していった。
しかもそこには、早くもゲーテによる安易なロマン主義に対する批判も組み込まれていた。こうした動向にイギリスがやっと反応したわけである。だからブリティッシュ・ロマンティシズムは「後追い」なのである。そこを見る必要がある。そして「後追い」だからこそ、日本でいえば有明や白秋(1048夜)や朔太郎(665夜)のようにキーツが出現できたのだ。
夏の風よりそよやかなものは何だろう。
開いた花のなかに一瞬とどまっては、
花陰から花陰へとたのしげに飛びまわる
小さな虻の羽音より 心なぐさまるものは何だろう。
What is more gentle than a wind in summer?
What is more soothing than the pretty hummer?
That stays one moment in an open flower,
And buzzes cheerily from bower to bower?
イギリスの詩人がドイツから採り込んだものは、けっこうある。大約すれば、ほぼ次の5つだろう。
1に「人間形成」や「教養」だ。これはわかりやすいが、意外かもしれない。イギリスにはてっきりヒュームやロックの哲学があると思っているからだ。しかし、その影響はもうちょとあとのことで、イギリスはリベラル・アーツとしての「人間」ををゲーテが得意とするビルドゥング・ロマンスに学んでのである。
2には「漂泊」と「中世趣向」であろう。ティークの『フランツ・シュテルンバルトの遍歴』やノヴァーリスの『青い花』が代表する。地上では彷徨、地下では探索だ。それがそのまま英国化していった。3には「カトリシズム」というものだ。これも少し意外かもしれないが、よく知られるように、1808年にシュレーゲルがカトリックに改宗したことがロマン主義のきわめて大きなメモリアルな事件だった。イギリス詩人はこれにもろに影響を受けたのである。
4には当然のことながら「メルヘン」で、これも説明するまでもなく、大人たちが天下国家のようにフェアリーテールを論じた。キーツも『聖アグネス祭前夜』にその思いをこめた。イギリスが自国のメルヘンに気がつくのはピーター・パン(1503夜)のあとからだ。そして5には「イロニー」をあげたい。英語圏ではロマンティック・アイロニーと言われるが、ドイツ的にはゼンティメンターリッシュを含む。これは英語でセンチメンタルになった。キーツにもむろんイロニーがあった。ちなみに日本浪漫主義でイロニーに注目したのが保田與重郎(203夜)だった。
あなたは何か天性の神々の御気にさはる罪を犯したのですか
あなたは使いに出されたペイフォスの鳩を捕つたのですか
あなたの致命の弓を
ダイアナ(シンシア)の女神にとつて神聖な
鹿の群にむかつて引いたのですか
キーツの詩的事情に入る前に、もう少しだけイギリスのロマン主義の動向が周辺各国から受けた影響と反発の事情を説明しておくと、啓蒙思想とフランス革命とナポレオン戦争の関与が大きかった。英国ロマンティストたちはアメリカの独立戦争についてはピンとこなかった。しょせんプロテスタントのやったことだったからだ。
かれらが大いに感じたのは、ドイツからのロマン主義の風をべつにすると、フランス革命を強く批判したエドマンド・バーク(1250夜)の『フランス大革命の省察』(1790)なのである。ワーズワスやコールリッジがすぐさま呼応した。バークの本は3万部売れ、イギリスの愛国的ロマン主義を高めた。トマス・ペインやウィリアム・ゴドウィンに続いて、グラスミアの詩人ワーズワスはバークの影響をうけ、意気揚々と赤い軍服を着ると義勇兵になっていった。
けれども次の世代のバイロンやキーツはフランス革命の成果が、すぐにジャコバン主義やナポレオンによってあっけなく覆されたのを見ていたので、この思潮には乗らずじまいだったのである。キーツは「ナポレオンに自由主義者たちが味方しているようだが、自由の生活に最大の害を及ぼしたのは彼だと考えざるをえない」と手紙に書いた。
ナポレオンの社会情熱を愛国の気運溢れるロマンと挫折に解釈していったのは、英国第2世代ではなかったわけである。それをやってのけたのはもっぱらフランスの次世代の、スタンダール(337夜)、バルザック(1568夜)、ユゴー(962夜)、デュマ(1220夜)などだ。
もうひとつには、当時の首都ロンドンがもたらすものに、ロマンティストたちはどうやら官能できなかったということがある。
微風が忍び入り
私の魂にこよなく柔らかな眠気を催させ
さまざまの幻を私の目の前に形づくり
さまざまの色や翼や
絢爛たる光のあらわれる光景を見せた
キーツが生まれたころのロンドンは80万人都市だ。これに匹敵するのはバグダッドと江戸と大都(北京)くらいのものだった。キーツが死ぬときにはさらに膨れ上がって138万人の過密都市になっていた。たった25年の変貌はあまりに異常だった。
こういうロンドンに、ワーズワスもバイロンもキーツも面と向かっては詩情詩魂を向けられない。ロンドンはどろどろだったのだ。
もともとロンドンは旧都市部のシティに対して、西のウェストエンドと東のイーストエンドに向かって発展してきた都市である。ウェストは中流以上の豊かな者たちが住み、イーストは下層労働者たちが多く屯(たむろ)した。そのぶん、キーツが育ったシティは空洞化をおこしていた。
シティの中心は繁華街チープサイドにあったものの、近くのメアリー・ボウ教会の鐘の音が聞こえる地域の住人は「コックニー」というふうに揶揄されていた。キーツらも「コックニー詩人」と揶揄された。
そんな人口ばかりが過剰になりつつあったロンドンのシティの一角の馬丁の家に、キーツは生まれ育ったのである。その生まれた年をシンボリックな表題にして「1795年1月」という詩を書いたメアリー・ロビソンは、こんなふうにロンドンを描いた。「歩道は滑り 人々はくしゃみをし 貴族は毛皮にくるまり 貧乏人は震える 名うての美食家は珍味をあさり 屋根売りの詩人は飢えている」。
キーツならずとも、バイロンもシェリーもロンドンも見ていると詩情は湧いてこない。だから「ロマン」を創成してくれなくなったのだ。
それから動乱の眩暈のうちに呑み込まれ
そして私は眠つてしまつた
母を喪した2年後の17歳のとき、ジョージ・ゴードン・バイロンの『チャイロル・ハロルドの巡礼』が刊行された。反ロンドンの詩だ。キーツはこの詩に颯爽たる風濤を食らった。すぐさまクラーク学院をやめ、外科医ハモンドの見習いをしながらソネットを書いた。スペンサー風だったり、バイロン風だったりしたが、いまひとつ納得できなかった。
自分の才能に自信がもてなかったキーツを励ましたのは、週刊誌「エグザミナー」のリー・ハントと、三人の友人だ。画家のベンジャミン・ヘイドン、芸術肌のジョン・レノルズ、のちにキーツの臨終の肖像を描く画家のジョセフ・セヴァンである。ヘイドンはハントが紹介してくれた。自分こそラファエロやミケランジェロを継ぐという自負が漲っていたヘイドンに、キーツは目をまるくする。ハントはオックスフォード出の自信家ハーシ・ビイシュ・シェリーも紹介した。
シェリーは、理想美を追求する詩人が幻滅と絶望の果てに死ぬという『アラスター』を発表して、それなりの評判をとっていたが、キーツにはどうも好めない。シェリーが「風変わり」を名物にしていたのも付き合いきれなかった。妻ハリエットを自殺させ、のちに『フランケンシュタイン』(563夜)を書くゴドウィンの娘メアリーを娶ったのだ。
これらの友人知人、自信家奇人らとの行き来のなか、キーツは外科医や薬剤師の道を捨て、しだいに詩人に徹しようと決意する。1817年、22歳で処女詩集を出した。評判は芳しくなかったが、くよくよしてはいられない。ヘイドンに誘われて訪れた大英博物館の「エルギン大理石彫刻群」を見て、勇気が湧いてきた。パルテノンの遺跡には古代ギリシアが想像を絶して脈動していたのである。
ぼくはキーツが大長編叙事詩『エンディミオン』を書けたのは、エルギン大理石の彫刻群がまじないをかけたからだろうと思っている。
アポロの両足が踏んだあらゆる所をめぐつて叫び
遠い大昔に大きな合戦のあつた場所には
真鍮の喇叭がめざめて仄かに鳴り響き
そして芝生からは
かつてオルフェウスの眠つた場所に
いたるところ子守歌が聞こえてくるのだ
では、その『エンディミオン』であるが、この叙事詩はギリシア神話にもとづきながら、キーツがどこまでぎりぎりの想像力を言葉にあらわせるかに挑んだものだった。もともとの神話のプロットはこういうふうになっている。
青年エンディミオンはラトモス山で羊の群を飼っていた。ある日、そのエンディミオンが眠っている容姿を天界の月の女神が見た。この女神は時代によってディアーナ(ダイアナ)とも、アルテミスとも、セレネーとも呼ばれる女神だ。二頭立ての馬車に乗っていた。
降りてみると眠っているエンディミオンの容姿はあまりに美しい。たちまち恋に落ちた。それから毎日毎夜、女神はエンディミオンの傍らで時を過ごし、さらには激しく接吻をし、ついには激しい交情にまでおよんだ。こうして何年にもわたってこの交情が続いた。エンディミオンのほうは毎夜毎夜、夢の中に美しい女性があらわれては至福の時を与えてくれているとばかりに思っていた。
やがて女神は、時とともに年齢を加えるエンディミオンに耐えられず、ゼウスにこの青年を不老不死にするように頼んだ。ゼウスは願いを聞き入れたが、エンディミオンに「永遠の若さ」を与える代償として「永遠の眠り」につくようにさせた。大満足の月の女神は夜ごと月から下って、エンディミオンを抱擁した。おかげで二人のあいだに50人もの娘が生まれた‥‥。
これほど速やかに
われらの魂が結びつくものは
ほかに何もない
生命(いのち)そのものが この愛の力で養はれ
かくてわれらは
ペリカンの子のやうに育てられる
神話の伝承はさまざまに分岐する。エンディミオンの物語もそうである。
エンディミオンが眠っているのはペロポネーソスとも、カーリアのラトモス山ともされたし、系譜的にはエンディミオンはゼウスの息子アエトリオスとアイオロスの娘カリュケーとのあいだに生まれたとも、ゼウスそのものの子ともされてきた。
エンディミオンに妻がいたという話もある。水のニュンペーもしくはイーピアナッサ、あるいはアルカディア王アルカスの娘のヒュペリッペーだ。そうだとすると、50人の娘をもうけたのは月の女神ではなく、エンディミオンと妻によるものだったということになる。
このようなエンディミオンの神話に、キーツは一心不乱にとりくんだのである。あきらかにエルギン大理石のせいだった。これこそがキーツの「ネガティブ・ケーパビリティ」だった。叙事詩のなかでは月の女神の名前はシンシアにした。
キーツの『エンディミオン』に懸ける意志はただならない。友人の手紙には「この創作力というものは、誰にもあるというわけにはいかない。これを頼りにして僕はわずかな内容の物語をもとに4000行を書き、それを詩で充実させなければならない」と書いている。たいへんな気合だ。
たいへんな気合だが、第1巻を書き始めてみると何かが容易ではない。キーツは気分を変えるために、サザンプトンからソレント海峡をわたってワイト島に行くことにした。海からの鋭気をもらい、宿屋ではシェイクスピア(600夜)に行きつ戻りつして詩稿を重ねた。けれどもなぜだか、なかなか詩の埒があかない。あきらかに「負」が足りなかったのだ。
マーゲートに転じ、弟のトムと待ち合わせてカンタベリーに赴いた。さらにヘイスティングに数泊していると、そこで謎めくイザベラ・ジョーンズと知り合った。たちまち交情してしまった。さてはイザベラが月女神シンシアであったのか。
エンディミオンはあたりを探し
茂みのなかに蔽はれた花々の寝所を揺すつた
それから草原に身を投げ出した
なんといふやさしい舌が
どんな囁きをした者が
エンディミオンの憂鬱な憩ひを妨げたのか
イザベラがどれほどキーツをとろけさせのか、よくわかってはいない。かなり教養のあった夫持ちの女性だったようで、敬虔なカトリック信者のアイルランド人だった。
キーツの「負」をロマンに変えたのは、この夫人だった。けれどもキーツがイザベラ夫人とどんな夜を過ごしたのか、資料はまったくない。伝記や評伝もそこはお手上げた。むしろ中世伝説などの話を青年キーツに語って聞かせたという話ばかりが残る。出版界の事情にも通じていたようだけれど、そうした話を自慢するほうではなく、青年に夢を見させる能力だけを見せたとおぼしい。
ぼくは残念ながらそういうありがたい経験がないけれど、20歳そこいらの青年が妙齢な夫人にどう甘えられるのか、ましてあんなイギリスの時代である、とても容易なことではなかったろうと思う。わが学生時代、小林哲子と村松瑛子と出会い、その部屋に招かれたことがあるのだが、あまりに想像甘美になってしまい、ただただもぞもぞと退散したことを思い出した。
それはそれ、ともかくもキーツは年上のイザベラに参って、『エンディミオン』の創作意欲をあきらかに掻き立てられた。イザベラのイメージをエンディミオンがニンフに出会う場面に投影させている。しかもその描写はどこかヘイスティングの風景に似ていた。
『エンディミオン』はギリシア以来の西欧に培われた美の感覚をどのように「象徴の構築」にすべりこませていくかという狙いのものである。それをキーツはエンディミオンの「眠り」と「再生」の物語にあてはめ、それを見守る月の女神のシンシア(ダイアナ)の空想とともに語らせようとした。
これは、けっこう重畳的で重層的なリプレゼンテーションになる。ぼくならそれこそネガティブ・ケーパブルな複式夢幻能になると思いたくなるが、むろんキーツにはその手の方策は浮かばない。そのかわり、「天上界の澄明」をそこにどうしのばせていくのかが、キーツの課題になったのである。
ここでキーツは悩んだ。その「天上界の澄明」はシンシアにもおこっているのか、エンディミオンにのみおこっているのか、それとも二人の恋情を超えたものにすべきなのか。
迷ったキーツはエンディミオンを地下世界に旅立たせてしまった。エンディミオンを地下世界に導いたのは一匹の蝶だった。
金色の蝶々だ
その翅の上には
きつと不思議なことが書いてあるにちがひない
エンディミオンの精神は地下深く潜り、さらに海底に進み、魔法が司る世界と交わっていく。
叙事詩としてはやりすぎな彷徨と探索に突入していってしまったのだが、それがキーツ独特の無謀なロマンティシズムというものだったのだろうと思う。キーツが『エンディミオン』のなかで主人公に託しつつ、次々に自分を変身させざるをえなかったこと、痛いほどよくわかる。。
おそらくキーツは、自身が複合するエンディミオンそのものとなって、ギリシア的で単性的なエンディミオンを突き抜けていったのである。そんなことをすれば叙事詩は完成しない。案の定、評判はよくなかった。けれどもキーツはそれでもかまわなかったようだ。
そして、どうなったのか、ファニー・ブローンとの恋にめざめ、残り少なくなった命が燃え尽きないことのみを求めて最後の「世界でいちばん美しい詩」を書き続けようとした。
これでキーツへのお誘いはおわりだ。
オードと『エンディミオン』を読んでいただきたい。それでも何かを掴めなかったのなら、キーツ・レッスンともいうべき映画をご覧になるのがいい。
2009年、ジェーン・カンピオンが監督した『ブライト・スター いちばん美しい恋の詩』という映画が封切られた。キーツとエンディミオンを重ねた映画だった。カンピオンは『ピアノ・レッスン』の監督だ。キーツを長身の美声年にしたことを除いては、キーツに宿ったエンディミオンとファニー・ブローンとの淡くて切なくてギリギリになっていく心情をうまく描いていた。カンヌ映画祭で衣装デザイン賞をもらった。
カンピオンはキーツをエンディミオンに冒された者として描き、ファニー・ブローンを月女神シンシアの月明(げつめい)のように描いていた。ブローンの恋の映画にしたかったのではない。行方知らずになったエンディミオンの魂をシンシアが反映させている映画なのである。
なるほど、ブリティッシュ・ロマンティシズムとはこのように鏡映的に描けばいいのかと、大いに得心した。諸君もそう感じたのなら、やはりオードとエンディミオンに入っていくのがいい。われわれは十年に一度は「その名を水に書かれし詩人」とともに、ロマンの生死をさまようべきなのである。
赦したまへ 空の月よ
御身の銀の光の豪華にもまして
私がひとつの思ひを貴び重んずることを
いつも空想をさまよい歩かせよ、
たのしみは 決して落ち着いてはいない。
⊕ 『エンディミオン』 ⊕
∈ 著者:ジョン・キーツ
∈ 訳者:大和資猛
∈ 発行者:緑川亨
∈ 発行所:株式会社岩波書店
∈ 印刷・製本:法令印刷
⊂ 1949年7月15日発行
⊗目次情報⊗
∈∈ 序文
∈ 卷一(地上の卷)
∈∈ 序歌「うつくしきものはとこしへによろこびなり」
∈∈ ラトモスにおける牧羊神パンの祭典
∈∈ 牧羊神パンに寄する讃歌
∈∈ エンディミオンの戀愛煩悶
∈∈ 幸福は何處にあるか?
∈ 卷二(地下の卷)
∈∈ 愛に寄する序歌
∈∈ エンディミオンの地下漂白
∈∈ ヴィーナスの豫言
∈∈ 夢にシンシアと逢ふ
∈∈ アルフィーアスとアレシュウザ
∈ 卷三(海底の卷)
∈∈ 月に寄する序歌
∈∈ 海底の月光
∈∈ 海底におけるエンディミオンの漂泊
∈∈ グロオカスとシラ
∈∈ 海神ネプチュンの宮殿
∈∈ 卷四(天空の卷)
∈∈ 英國の詩神に寄する序歌
∈∈ エンディミオンと悲しみの印度少女
∈∈ おゝ悲しみよ(印度乙女の歌)
∈∈ 天空を翔けるエンディミオン
∈∈ ラトモス歸還と靈化
∈∈∈ 解説
⊗ 著者略歴 ⊗
ジョン・キーツ
1795年生まれ。イギリス・ロンドン出身の詩人。ロマン主義の詩人として知られる人物であり、1817年に処女詩集『詩集』を発表。病により25歳の若さで亡くなり、墓石には彼の遺言により「その名を水に書かれし者ここに眠る」と刻まれている。