才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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ヴィルヘルム・マイスター

ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ

岩波文庫 2002

Johann Wolfgang Goethe
Wilhelm Meisters 1796~1829
[訳]山崎章甫

 惟うにヴィルヘルム・マイスターを語るということは、ドイツにおける精神の修養の過程をあますところなく語るということで、ドイツ人の修養を語るとはまさにゲーテを語ることなのである。ゲーテを語ることはドイツの感情そのものを語ること、ドイツの感情はその最もドイツ的な時象を語ることにほかならない。
 そのドイツ的な時象を語るにはゲーテやシラーの疾風怒濤を語らないかぎりは、何も始まらない。すべてがゲーテで始まったとは言わないけれど、近代ドイツを語ることは大ゲーテに出自する。
 ドイツ観念論が絶頂期に向かうなかで、一番の天才だったろうシェリングが、一八一一〜一四年に『世界世代』という野心的な歴史観の企てを綴ったことがある。神の時代から自分が属する現在までを通観したものだが、未完のままになっている。
 この本でシェリングは「自分が属する現在」を示した。どういう現在かというと、カント『純粋理性批判』(一七八一~八七)、フィヒテ『全知識学の基礎』(一七九四)、ゲーテ『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』(一七九六)、ヘルダーリン『ヒュペーリオン』(一七九七~九九)、ヘーゲル『キリスト教の精神とその運命』(一七九八)、シェリング『超越論的観念論の体系』(一八〇〇)、シラー『崇高について』(一八〇一)、ヘーゲル『精神現象学』(一八〇七)、フィヒテ『ドイツ国民に告ぐ』(一八〇八)、ベートーヴェン《運命交響曲》《田園交響曲》(一八〇八)といった著作や作品が集中した、あの「ドイツ的現在」のことをいう。それが世界世代なのである。
 数年後、ドイツ・ロマン派の旗手となったフリードリヒ・シュレーゲルは、この世界世代的現在をつくったのは、フランス革命とフィヒテの知識学とゲーテの『ヴィルヘルム・マイスター』によるものだったと強調した。
 のちに〝解釈学の父〟と呼ばれることになるヴィルヘルム・ディルタイは、カント以降のドイツの精神潮流(つまり世界世代によるドイツ的現代)が一七七〇年~一八〇〇年のあいだに頂点に達したと述べた。
 まあ、そうだろう。ディルタイを継承したヘルマン・ノールはそれを「ドイツ運動」と名付け、のちの哲学史はこの時代を「ドイツ観念論の時代」と総称した。これまた、そうだろう。そう言うのがふさわしい。そうだとすると、ゲーテはこれらすべてを覆っていたわけである。ゲーテの存在はそれくらい大きい。

 ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテは一七四九年に生まれて一八三二年まで生きて、八二歳の長寿をまっとうした。十七歳でライプツィヒ大学の法学部に入ったときは、ヴォルテールの『寛容論』やライプニッツの『人間知性新論』が学生たちの話題になっていて、二五歳で書いた『若きウェルテルの悩み』がベストセラーになったときは、ワットの蒸気機関やトマス・ペインの『コモンセンス』やアダム・スミスの『国富論』がニュースになっていた。
 このあとカントの『純粋理性批判』やルソーの『告白』やフィヒテの『全知識学の基礎』といった瞠目すべき著作が連打されるのだが、ゲーテが『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』を世に問うたのは、一七九六年の四七歳のときである。その直後、ゲーテはナポレオンが祖国ドイツに侵攻してきた馬上の雄姿をイエーナやワイマールで見ていた。そのナポレオンさえゲーテの前に出たときは「私はあなたのファンである」と言った。
 長寿だったからゲーテがドイツ観念論の時代やシュトゥルム・ウント・ドラングやロマン派の時代を覆ったのではない。おそらくヨーロッパの史的言語に早くから堪能だったことが、ドイツ人ゲーテを世界精神化したのだと思う。シェリングの言う「世界世代」の先駆けになれたのだと思う。少年期からギリシア語、ラテン語、ヘブライ語、イタリア語、フランス語、英語のリテラシーにふれ、やがて習熟していった。

 もう二つほど、ゲーテをませさせたことがある。ひとつは小さな頃から物語や伝説のたぐいを片っ端から読んでいたことだ。なかでもフェヌロンの『テレマックの冒険』とデフォーの『ロビンソン・クルーソー』がお気に入りで、このあたりに独自者が教養と経験を身につけて未知の世界を克服していくというビルドゥングス・ロマン(教養小説・自己形成小説)の母型があったとおぼしい。
 年上の女性に憧れる傾向をもっていたことも気になる。十四歳のときに近所の料理屋のグレートヒェンという年上の娘に初恋をした(失恋もした)のは有名な話だが(グレートヒェンはのちの『ファウスト』第一部のヒロインの名になった)、ライプツィヒ大学にいたときも、通っていたレストランの娘ケートヒェンに惚れた。やはり二、三歳年上のお姉さんだった。年上に惚れっぽいのは、べつだん珍しいことではないけれど、ゲーテにおいては特段なのである。
 カール・アウグスト公の招請で滞在することになったワイマール公国でも、二六歳のゲーテは七つ年上で七人の子どもがいるシュタイン夫人と十年にわたって深い交際に陥った。年上の女性に惹かれたからというのではないが、遠いもの、高いもの、孤高を容れざるをえないことがゲーテをゲーテたらしめたのである。

 ぼくは、ゲーテを語ろうとはしてこなかった。こういう言い草は不遜とも奇異とも聞こえるかもしれないが、ゲーテをしてゲーテに語ってもらうのが好きだったのだ。読んでいさえすれば、それで充分だった。とくにエッカーマンが記録した『ゲーテとの対話』(岩波文庫・全三巻)で、ゲーテの語るところにひたすら耳を傾けているのが好きだった。ニーチェがルター訳聖書とショーペンハウアー『意志と表象としての世界』と『ゲーテとの対話』の三冊だけで、その思索の始点と終点をいつも決めていたというのがよくわかるほどに、納得できた。
 ただしぼくはニーチェとは異なる読み方をした。ゲーテの語りに最初に耳を傾けていたのは高校時代のことだったけれど、そのころ併読してみた『ツァラトストラかく語りき』や『この人を見よ』は痛くて尊大で辛くて高邁、陶酔的でありながらチクチクとしていた。それにくらべると、ゲーテの言葉を読んでいるのは音楽のような浄感があった。真実というものがあるとすればなるほどこういうものなのかと感じさせた。
 それほどに『ゲーテとの対話』は、芸術者というものが何を見聞して何を表意しなければならないのか、そのことを連日連夜、ほぼ十年にわたって細部におよんで語りつづけた記録だった。こんな記録はほかにない。ドキュメンタル・モニュメントとして特筆すべきである。
 さてそれはそれ、わが昔日のことは菫色の往時の片隅にそのまま日光写真のように放置して、今夜は坐りなおしてゲーテをちょっぴりナマに語ることにする。
 
 その時代はエステティックなモードからいえばロココだったのである。ゲーテが十六歳で故郷のフランクフルトを出てライプツィヒ大学で法律を学んでいた一七六五年あたりのことだ。
 ライプツィヒはそのころ「小さなパリ」と言われていて、このプチ感覚はロココの本質だった。それはフランスから移入された瀟洒な文物主義というもので、なんでもプチにしさえすれば流行した。『情報の歴史を読む』(NTT出版)にも第五〇三夜のゾンバルト『恋愛と贅沢と資本主義』(至誠堂・論創社)にも書いておいたことだが、そのころフランスでは「贅沢」と「小物」が流行して、ゾンバルトによればそれが資本主義の起爆点にも成功の原資にもなった。
 これがドイツに入ってプチ・フランス主義となって蔓延しはじめていた。ライプツィヒはそのショーケースのような町だ。
 ゲーテはそんなライプツィヒで喀血して体を壊し(結核だったようだ)、親戚の敬虔なクレッテンベルク嬢の感化によってアルノルトの『分派教会と異端者の歴史』を読んだのである。教会がしてきたことは、ひどかった。ゲーテは教会信仰を捨て、代わりに心の宗教に向かう。そのため一七七〇年にアルザスの風光に包まれたストラスブールの大学に入った。ドイツを感じた。ここでプチ・フランス主義を脱却することがゲーテの課題になっていく。
 ゲーテが自身に負わせた課題は、ドイツ精神をフランス擬古主義の文学的植民地から脱却させようというものだ。これはどこか、本居宣長が「漢意」を排して「古意」を思索しようとしたことに似ている。ゲーテにとってはフランスが漢意、ドイツ精神が
古意だったろう。ちなみに宣長とゲーテはまったくの同時代人だ。
 
 翻って、「ドイツ精神はフランスから独立すべきだ」とゲーテに決断させたのはヨハン・ゴットフリート・ヘルダーだった。
 ゲーテより五歳年上にすぎないが、ケーニヒスベルク大学で神学を修め、カントにも学んで早くから大知識人の器量を発揮した。ホメーロスとシェイクスピアをドイツにもたらし、民族文化の比較を可能にした。ぼくはヘルダーの自然と民族の個性を謳歌する人間史が大好きなのだが、ゲーテこそはヘルダーに全身を揺さぶられた最初のシンパサイザーだったのである。
 ここに勃興したのがいわゆる「疾風怒濤」(シュトゥルム・ウント・ドラング)というものだ。ヴォルテール流のプチ老成したフランス文芸思想を批判して、根源的自然の内在力を引き受けるような文芸や歌謡を奨励するもので、とりわけドイツ的個人の天才的才能の発露を期待した。「もう外人はたくさんだ」という叫びでもあった。こうしてヘルダーとゲーテを筆頭に、ドイツ詩人の意情の個性が沙羅双樹のごとく開花する。ゲーテはこれを「疾風怒濤」とはせずに「ドイツ文学革命」とよんだ。
 この時期、ゲーテが牧師の娘と恋をして、自分の才能を選ぶためにこの娘を捨てたことは、その後のゲーテ生涯の自責になって、のちのち『ファウスト』のグレートヒェンとなっていくのだが、それはいまは問わない。ともかくゲーテは娘を捨てて、ドイツの法精神の昂揚のためフランクフルトで弁護士を開業した。その一方で自由のために闘う篤実剛毅な中世騎士を主人公とした戯曲『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』を書き、他方では恋に自殺する『若きウェルテルの悩み』(岩波文庫ほか)を小説にして、その名を一躍とどろかせたのだった。法と文学の両刀づかいである。

 デビューは鮮やかだった。自身の才覚に無窮も感じただろう。だからふつうなら、これでゲーテは大作家に終わっても文句は言えまいにそうしなかったのは、次の究極の体験が待っていたからだった。
 一七七五年、ゲーテは人口一万人に満たないワイマール公国の宮廷に入る。二六歳だ。若くしてドイツのどんな市民生活からも得られぬ全局的な活動の舞台を与えられたのである。それを出世とよんでいいのかどうかわからないが、九ヵ月後には枢密院に議席をもつ顧問官となって、若き大公カール・アウグストと奔放な遊楽を享受した。
 それならそのまま遊びほうけてもよかったのに、この若き文豪はまたしてもそうならない。アウグストを英明な君主たらしめるために、あらゆる知識と政務の提供をすることにした。そこで研究着手したのが、のちの自得自若な自然科学観を形成する解剖学や植物学や色彩学への放電だ。鉱物学・地質学・動物学への投身だ。学知によって英明のパースペクティヴを息づくものに仕立てあげようと試みたのである。これは凄かった。ゲーテの原型思考がみごとに発揚された。ドイツ語で「ウル」(ur-)と言う。ウルの魂だ。そのウルをもって広範囲な領域にとりくんだなんて、のちのキュビエかラマルク以外には見当たらない。
 なかでも「形態学」の着想と構想が卓抜だった。ゲーテの科学はのちの科学史でも話題になった『色彩論』をはじめ、いずれも集中的な推理力によって独創された成果であるけれど、そのすべての下敷となったのが「内に秘められた原型(Urform)がしだいに形を変容させて成長する」という形態学思考というものだ。
 ぼくがこのようなゲーテの思考方法に惹かれたのは「遊」を創刊する直前のことである。なんと凄いことを構想するものかと引きずりこまれた。だから「遊」の第一期にひそんでいる視線の一部はいくらかゲーテから受け継いだものだった。そのことをたちどころに喝破してくれたのは、発生学者の三木成夫さんである。三木さんは「シュタイナーにならないゲーテ主義者」だった。
 
 ゲーテは三二歳で貴族に列せられ、ついで宰相となっている。自信を高揚させることも自分の欠陥を洞察することもともに得意なゲーテにとっては、宰相としてのワイマールの日々は極上無比だったろう。
 ゲーテの意情には「内なる王国理念」のようなものがあったのだろう。生まれ育ったフランクフルトは神聖ローマ帝国皇帝の戴冠式が必ずおこなわれていた町である。少年ゲーテはヨーゼフ二世の戴冠を目の当たりにして胸打ち震える昂揚を感じている。ワイマール公国はそのミニモデルだった。
 こうしてゲーテは生涯の大半をワイマールに暮らす。晩年になってからのことだけれど、エッカーマンにも何度もワイマールという国のすばらしさを説いている。ゲーテを慕い、ゲーテを包んだシュタイン夫人の慈愛のようなものも大きかったのだろう。どこで読んだか忘れたので正確な数はさだかではないが、たしかゲーテが彼女に送った手紙だけでも一七〇〇通をこえていたはずだ。
 しかしそのようなゲーテでも、この理想主義的な活動の日々を抜け出さざるをえない日がやってくる。これが有名なイタリア旅行である。一七八六年九月からの約二年だ。ここでいよいよ『ヴィルヘルム・マイスター』の書き継ぎが始まった。これも本当かどうかは確かめてないが、このイタリア旅行はワイマールの誰にも知らせずに、旅立ったらしい。
 のちに名著『イタリア紀行』としてまとまった体験については追走したいことがいくつかあるが(たとえばリルケやロレンスやタルコフスキーとの比較など)、ここでは省く。なかで二つだけあげるなら、「原」と「変成の形態学」の概念を発見したこと、ゲーテ自身がヴィルヘルム・マイスターとして圧縮遍歴を体験したことだろう。
 ゲーテはイタリアで「普遍」と「原型」を本気で探した。異国に赴いて「普遍」と「原型」を探しだすには、エキゾチシズムに溺れてはいられない。ゴーギャンがそうであったように、その土地の奥の深みと向き合っていく。それをゲーテは二年でやってのけた。モルフォロギーはメタモルフォーゼとなって動き出したのだ。
 そのことをミハイル・バフチンは『イタリア紀行』でゲーテがブレンナー峠にさしかかったときの観察をあげて、褒めちぎったものだった。「アルプスの雲の変容と天気の変化は山塊のもつ引力による」とみなした個所である。たしかに『イタリア紀行』はそうしたメタモルフォーゼの自然観察に満ちている。ぼくが好きな花崗岩についても、ゲーテは岩石を地球の空間的配列から見つめたうえで、花崗岩にひそむ時間の堆積が原初の空間の記憶にあたっているのではないかというような指摘をしていた。
 
 ゲーテは、自分自身が全人的人格に達するための主人公をつくりあげる作家だった。そのマスタープログラムが、大作『ヴィルヘルム・マイスター』である。ふつう文学史ではビルドゥングスロマン(Bildungsroman)と名付けているが、たんに教養小説というふうに理解しないほうがいい。「人格を形成するロマン」の〝形成する〟に重点がある。その形成もまるで森の大樹が成熟していくかというほどに長い。
 執筆はとんでもない長丁場になった。五十年以上をかけている。作品は、『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』とシラーの激励で再開して完成させた『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』に分かれて発表された。
 修業時代の主人公は裕福な商人の子で演劇を志している青年ヴィルヘルムである。旅まわりの一座とともにさまざまな地で多様な人物と多彩な体験をする。遍歴時代ではヴィルヘルムは息子のフェーリクスと二人で各所を訪れる。バフチンがさすがに「クロノトポス」(時の場)という用語を発明したように、ゲーテは主人公に交差してくるクロノトポスの結び目ごとに物語を発明していくのである。
 けれども制作には長い年月がかかったわけだから、そこにはさすがのゲーテにも構想のためらいと表現の変更とがあった。静かに苛烈な恋もしたかった。
 
 ワイマールに戻ったゲーテが、意外にも寂寞を思い知らされたということを、文学史家たちはどう見ているのだろうか。政務から退き、交友こそ絶たなかったものの、ひたすら普遍の人間であろうとしてワイマールの一隅に蟄居したことは、大才ゲーテの生きる計画のシナリオのどこにメモってあった予定表なのか。さすがにエッカーマンもこのことについては質問をしていない。
 おそらくはどこにもなかったシナリオが、ここで発露したのだと思いたい。それは、クリスチアーネ・ヴルピウスという造花の花売り娘にゲーテの情感が血流のように注がれたことにあらわれている。ゲーテはこの少女を引き取って、ちっぽけな擬似時空のようなものをつくりあげた。いっさいの前歴を捨て、栄光を脇に押しやり、少女に賭けたのである。これがロリコンなら話はまだわかりやすいのだが、どうやらそんなものではない。やはりのこと、それはヴィルヘルムの人格の形成の結び目のひとつであり、かつまたこの少女を居住させた擬似時空体験を『ローマ哀歌』というまことに格調正しい様式の詩に昇華することだったのである。
 ゲーテは、ナボコフにも川端康成にもならなかったのだ。それどころか途中で勃発したフランス革命のさなかには、対仏作戦の連隊長として二度にわたって従軍するとともに、戻ってからはワイマール宮廷劇場の総監督として、今度はあらゆる演劇的古典性の完成のために一身を捧げはじめた。その渦中に『ファウスト』と『ヴィルヘルム・マイスター』が書き継がれていったのだ。まったくもって想像を絶する精神と肉体のモルフォロギーである。そうしたなかで注目せざるをえないのは、ゲーテがどんな渦中においても少女というものを憧憬しつづけていたということだ。
 
 ゲーテにおける少女がどういうものなのか、覗きたいのならやっぱり『ファウスト』を読むべきだ。『ヴィルヘルム・マイスター』はそのあとでないとわからない。
 ファウストがメフィストフェレスに魂を売ったという話ではない。壮大な生命観の賛歌をめざした話である。ファウスト博士が自身の罪業を負い、「悪」と戦う活動精神の悲劇を描いているのであって、メフィストフェレスは悪魔というより、つねに「悪を欲することによってかえって善をなしている人格」なのである。この逆倒のメフィストフェレスを受信することこそ、『ファウスト』の読法の本懐になる。のちに手塚治虫が想像力の源泉としたものだった。
 それなら、ファウストは自身の活動の善と悪とをどこで分けているかといえば、まさに少女グレートヒェンに接しているときにおこす補償の気持ちによってしか、内なるメフィストフェレスとの分別が叶わなかった。
 グレートヒェン(Gretchen)は本名がマルガレーテという貧しい父なし子で、立派なことも器用なこともできないのだけれど、愛することだけを知っているという、そういう少女だ。それでグレートヒェン(いつかめざましく成長する少女)と愛称されて、ファウストの前に現れる。少女に慕われたファウストは、そのときはただ忽然と活動力を失っていく。ファウストは活動こそが生きがいの精神ロボットなのである。グレートヒェンには愛だけがある。ファウストはその愛によってメフィストフェレスとの契約を破れるはずなのだが、その愛の前には活動がおこらない。アニメーション(アニマ・モーション)がエマネーション(流出)につながらない。
 かくしてブロッケン山頂で開かれている「ワルプルギスの魔女の祝宴」の夜、誤って赤子殺しという罪を犯したグレートヒェンの幻影をファウストははっきり見たはずなのに、その決定的瞬間に活動を何らおこせなくなっていく。このためグレートヒェンは獄門に送られる。このときファウストが何を考えたのかが『ファウスト』全巻のテーマになっている。
 ゲーテはファウストの罪を厳正に描いた。その罪とは、すでに壊れてしまった相手の姿がそこにあることを知っているという、そのことなのである。ファウストの罪はゲーテの罪である。失意を知っていながら放置していたことが罪なのだ。ゲーテにとっての少女もまた、フラジリティの極北だった。かくして『ファウスト』の最後は、こういうふうになっている。「永遠的なものは女性的なるものである、そこへわれらをひいて昇らしめよ」。

 ふりかえって、主人公ヴィルヘルム・マイスターは、失恋の末に演劇に身を投じた青年だった。ずたずたになった魂の回復のために一座に交じり、結社に入り、多様な体験を通過して、他者を知る。そのうち魂の回復はこの他者との共働性の中にしかないことを知る。しかしそのためには、時象の総体をできるだけ小さくしながら受け止めて、ともに働く者たちとのあいだで意情をこそ共有しなければならない。青年はそれを知るためにのみ修業と遍歴を重ねてきた。
 グレートヒェンは男装の少女ミニョンであり、ミニョンと組んでいる老いた竪琴師は、ゲーテがイタリア旅行で出会った老人の「原型」なのだ。ぼくはこれを最初に読み進んだとき、すぐさま『華厳経』の入法界品を思い出し、マイスターが五三人の善知識を訪ね歩いた善財童子に見えたものだった。けれども善財童子の目標は解脱であって覚醒である。ゲーテがヴィルヘルム・マイスターに託した目標はそういうものではなかった。それはあえていうなら華厳よりも華厳禅に近く、華厳禅よりも曹洞禅に近い透体脱落だったのだ。
 ゲーテが『ヴィルヘルム・マイスター』や『ファウスト』を書いたテーマを、多くの文学史では「人間にひそむ普遍性の探求だったとみなしている。それはそうかもしれないが、ぼくは「普遍性についてのドイツへの導入」もしくは「普遍性についてのドイツからの回答」だったと思いたい。
 もう一度、天才シェリングが提示した「世界世代」という歴史観に戻ってみれば見えることだが、ゲーテの青年期から晩年までは、カントからヘーゲルに及んだドイツ観念論とノヴァーリスからベートーヴェンにおよぶドイツ・ロマン主義が時代を貫いていた時期だ。そのあいだヨーロッパはアメリカとの戦争、フランス革命、イギリス産業革命を通過し、続いてナポレオンによる制覇を受け入れざるをえなかった。その渦中、ドイツはなんらイニシアティブがとれなかったのである。一八〇六年にはナポレオンがイエーナを占拠し、ゲーテも町の連中の右往左往の手助けに走ったものだった。
 こうした経緯は、ゲーテに「どこにでもあてはまる普遍性」など要求しない。むしろ「ドイツにこそひそむ普遍性」を追求させた。革命や断罪は求めなかった。王国を思い描いたのだ。楽観主義だろうか。そうかもしれないが、この「大いなる楽観」をゲーテが保証しつづけていたことが、フィヒテやシェリングやヘーゲルやノヴァーリスやシュレーゲル兄弟をして、世界世代にさせたのだった。ぼくはそう思っている。

 加えて指摘しておかなければならないことがある。一言ですむ。それは『ヴィルヘルム・マイスター』の主題はおそらく「諦念」であろうということだ。日本流でいえば九鬼周造が「いき」とよんだものに近い。
 この諦念は晩年のゲーテがさしかかった近代ヨーロッパ社会では、無視されるか唾棄されつつあるものだった。けれどもゲーテはこの諦念を大きくしようとした。そして人間が遠ざかる真実に、たとえ一瞬でもいいから夜陰にきらめく稲妻のような光を投げかけることを希んだのだ。この諦念は日本語に訳せば「無常」というものでもあるが、ゲーテの無常はひどく巨きなものだったのである。ゲーテはヴィルヘルム・マイスターを無常のマイスターに昇華させたのだった。
 ぼくはこのことが、のちのドイツ観念哲学やドイツ・ロマン主義の系譜を、キルケゴールやショーペンハウアーやニーチェの思想を、カフカやグラスの文学を支えていったのだと思う。のちに『ファウスト博士』という作品も仕上げてみせたトーマス・マンは『ヴィルヘルム・マイスター』がわれわれに告げているのは、いいかげんに個人主義的人道主義を捨てて、共働体で出会った者たちとの連帯をはかってほしいということだったのではあるまいか、と書いた。かくしてヴィルヘルム・マイスターは一から十までがドイツ最大の無常凱歌だったのである。