才事記

マルテの手記

ライナー・マリア・リルケ

新潮文庫 1979

Rainer Maria Rilke
Die Aufzeichnungen des Malte Laurids Brigge 1910
[訳]望月市恵

 久しぶりにパリに行って、慌ただしく仕事(平家物語についての講演)をして帰ってきた。同行した者たちから「松岡さんはまるで心ここにあらぬという感じでパリにいましたね」と口々に言われた。みんなでパリの街をあれこれ動いていたときの印象らしい。ある女性からは「まるで死に場所を探しているようだ」とも言われた。
 パリを歩くと困ってしまう。そこがボードレールやヴァレリーの街であり、ナタリー・バーネイやジャン・コクトーやココ・シャネルの街、ベンヤミンの街であることが困るのだ。東京の下町を歩いても、そうならない。永井荷風も葛西善蔵も辻潤も見えなくなるほど光景が様変わりしているからだ。パリはほとんどが元のままだ。
 往時の景観がよく残っているはずの京都を歩いていても、こういう気持ちはおこらない。それにぼくは京都ではエトランゼになりえない。パリはそうはいかない。自分でも意外なのだが、神経を尖らせて歩く。それでもこの程度のトポスの記憶ならまだしもかなり軽症なのである。ここに紹介するライナー・マリア・リルケのパリは、あまりにも鮮烈すぎて魂を直撃してしまっていた。
 
 日本人にはあまり知られていないようだけれど、リルケはプラハの人である。明治八年(一八七五)に生まれた。軍人であって鉄道屋の父はリルケの母と離婚すると、少年リルケをザンクト・ペルテンの陸軍幼年学校に放りこむ。悲しい日々だったらしい。やむなく陸軍士官学校までは進んだが、ここで挫折した。
 リンツの商業学校に通いつつ詩作をはじめ、恋をし、恋人を失い、もの思いに耽った。プラハ大学で法律と芸術を習ううちに、またまた悲しくなって『ヴェークヴァルテン』(「人生と小曲」または「いのちとうた」)という詩集を自費出版した。少女がこの名をもつ草に変身して恋人を路傍で待つという伝説に因んでいる。リルケはこの詩集を貧しい人々にちょっぴり配ったり病院へ送ったりしてみた。
 それからミュンヘンに行き、ベルリンに転居した。『家神奉幣』『夢の冠』『降臨節』(いずれも河出新書『リルケ詩集』)を出版し、それを自分で祝って『わが祝いに』を書いた。
 これらはいずれも寂しすぎる詩だった。ついでロシアに旅行した。ツルゲーネフに惹かれたからだ。『初恋』(角川文庫・岩波文庫)のウラジーミルにわが身を重ねたのだ。そのとき二十世紀がやってきた。二五歳だった。
 ロシアはひたすら荒涼とし、ひたすら広聊としていた。とうていウラジーミルの感傷にはいられない。クレムリンの復活祭の日の鐘の音を聞くうちに、これが自分の復活祭だと感じた。リルケはこのあとも鐘の音について何度も綴っているのだが、この言葉の音感のようなものには凍てつくように鋭いものがある。ただその音を共有してくれる者がなかなか見つからない。
 それでもロシアには新たに感じるものがあった。のちにリルケはイタリアを「かつて神がいた国」と名付けるのだが、ロシアは「やがて神がくる国」だったのである。この独特の直観はついに『時祷詩集』(新潮文庫『リルケ詩集』)という大作になる。暗闇ですら会える神との逢着を歌っていた。『時祷詩集』は辛くて途中で何度か放棄したほどに、痛哭で神々しい。
 
 リルケが少しは人間の温度と出会うのはロシアから帰って、彫刻家のクララ・ヴェストホフと結婚してからだ。ヴォルプスヴェーデに住んだ。彫刻家との結婚はリルケを少し変えた。クララは弟子をとるアーティストだったが、クララとともに出会った芸術家たちとの交流のほうに惹かれて、それがのちのちまで尾を曳いた。それならヴォルプスヴェーデにそのまま住めばよいだろうに、リルケはパリに行く。すべてを残してパリに芸術と孤独を求めに行った。
 それがマルテのパリなのである。マルテとしてのリルケは、今度は寂しさよりも厳しさがほしい。四年にわたってロダンのアトリエに出入りして、芸術家の苦悩にふれた。内面に入ってみた。リルケ自身にロダンを勝るものだってあったろうに、自分より大きい厳しさが必要だったようだ。セザンヌのアトリエにも出入りした。図書館に通ってロダン論も書いた。リルケの姿勢は、日本の志賀直哉、有島武郎、武者小路実篤らの白樺派に飛び火した。
 ロダンやセザンヌに感得した言葉は『形象詩集』(弥生書房)という結晶になる。眼の力が一本の樹林を持ち上げ、それを天の前に立てると形象が生まれていくというような、リルケにしか彫琢しえない詩群だ。美術批評にはまったく見当たらない炯眼が輝いた。安部公房は二二歳のときにこの詩集を耽読して創作に向かい、「ポーは文学だが、リルケは世界だ」と唸ったものだった。
 けれどもリルケには、一連の詩篇を書き上げることは、一連の投影を了えたことに当たっていた。もっと大きな体験がほしい。そこで徹底してみたのが、パリを生命の行方として凝視することだった。
 こうして『マルテの手記』が綴られた。詩というよりも小説であり、物語というには詩魂が透徹されすぎていた。第一行目にして、こうなのだ、「人々は生きるためにみんなここへやってくるらしい。しかし僕はむしろ、ここでみんなが死んでゆくとしか思えない」。
 
 『マルテの手記』のパリ観察は、デンマークの貴族の家に生まれた無名詩人マルテが見たことになってる。リルケはデンマークの詩人たち、たとえばヤコブセンやヘルマン・バングが好きだったので、デンマーク生まれの若者を自分の分身にした。
 しかしマルテにとってのパリは、死ににくるための街なのである。実際にも手記に登場してくるパリは、そこがノートル・ダム・デ・シャンであれオテル・ディユ病院であれ、明るいはずのチュイルリー公園ですら、なんだか死に方の見本のような細部観察で成り立っている。
 リルケは似たような感想を、新たな恋人となったルー・アンドレアス・ザロメへの手紙にも書きつらねている。とくに「パリは困難な都会です。ガレー船です」というセリフは有名だ。パリはリルケにとってもマルテにとっても「いとわしいもの」で、つねに「行きあうすべてのものたちからたえず否定されている」ような街だったのである。こういうところがぼくのパリ散歩にも響いているのだが、さらに困るのは、マルテことリルケの姿勢があまりに過敏で真摯であるということだ。
 そもそもこの手記は「僕は見る目ができかけているのだろうか」という疑問の萌芽から始まっている。そのうえで、細部にいたるまで心を観察するという手記になっている。できるだけ正直に、できるだけ偽りなく――。

  ぼくは見ることを学んでいる。
  何が原因かはわからないが、
  何もかもがこれまでより深くぼくの中に入りこみ、
  いつもはそこが行きどまりだった場所でも、
  立ち止まることがない。
  ぼくには自分でも気づかなかった内側がある。
  何もかもがいまやそこに入っていく。

 そこには国木田独歩の日記『欺かざるの記』(抄録=講談社文芸文庫)のような日本人はいない。あくまでヨーロッパの、オーストリアの、ブレーメン地方の、陸軍幼年学校や士官学校が育てた青年の、そのような人物によるパリにおける赤裸々な手記だ。もっと俯瞰的なことをいうのなら、リルケが見たパリは二十世紀がその後に作り出すすべての資本主義都市の行方を見定めたものだった。

 明治四四年(一九一一)、リルケはイタリアに遊んで、ホーエンローエ公爵夫人の招きをうけてアドリア海に臨むドゥイノの館に滞在した。哲学者のルドルフ・カスナーと知りあい、アンドレ・ジッドを紹介された。
 それから一九一四年まで四度にわたってドゥイノの館に滞在しているあいだに、連作詩『ドゥイノの悲歌』(手塚富雄訳・岩波文庫)を書きはじめた。ついに何かの霊感や天啓に誘引されたのだ。
 連作は戦火で中断されるのだが、人間の無力とはかなさを謳った「嗟嘆」の連作詩はその後も書きつづけられ、リルケ独自の全一天使の歌となっていった。
 ドゥイノ滞在中に第一次大戦がヨーロッパを覆ってきた。リルケは少年時代のように逃げるのはやめた。応召してオーストリア軍に加わった。ところが軍隊はリルケを弾き出した。軍隊で動くには、リルケは病弱すぎた。ミュンヘンに行った。戦争の四年間をミュンヘンで、できるだけ創作に携わらないようにして、たとえば翻訳に従事するようにした。リルケはこの戦争から弾かれた時期を「旱魃期」と名付けている。
 たんなる翻訳ではない。翻訳のレパートリーを見て、ぼくは驚いた。ゲラン、ポオ、ジッド、ヴァレリー、そしてミケランジェロだ。たしかにリルケは「僕は変化する印象だ」と綴っていた。けれども、その変化はつねに懸崖に向かっていたではないか。そうでなければ、翻訳にこんなような顔ぶれを選ばない。あまりに鋭い相手ばかりになっている。とくにヴァレリーには本気でとりくんだようだった。大正十三年(一九二四)には、そういうリルケのもとへヴァレリーが訪ねている。
 いったいなぜここまでリルケは突きつめるのか。とことん挑むのか。手を抜かないのか。言葉の錬磨のためなのか、あるいは精神の凡庸を嫌ったのか、それとも持ち前の気質というものなのか。
 ヴァレリーに傾倒したのは、詩人には「雷鳴の一撃」があることを確信できたからだった。それが夜におこることを確信していたからだ。ノヴァーリス、ヘルダーリン、ワーグナー、そしてヴァレリー同様に、リルケは夜の覚醒にのめりこむ。「夜の散歩」「夜の詩圏から」「強力な夜に抗って」などの詩がある。こんなぐあいだ。

  この本来の夜の中へ
  ニセモノの粗悪な模造の夜を引っぱりこみ、
  それで満足しなかった者がいただろうか。
  私たちは神々を、
  発酵したゴミ溜めのまわりに放置している。
  なぜなら神々は誘いかけてくれないからだ。
  神々は存在するだけで、
  存在以外のものではない。
  過剰な存在でありながら、香りを放たず、
  合図も送らない。
  神の口ほど沈黙したものはない。

 ところで、どうしても気になることが、ひとつある。それはリルケが別れた母親を憎悪していたということだ。そのことを何度も書いている。なぜそんなふうになったのか、理由はほとんど説明していない。
 この感覚はぼくにはない。母は「いとしきもの」である。リルケがルー・ザロメを思慕し、また思慕されるのはよくわかるのだが、そこに母への憎悪が介在していたとすると、ぼくにはリルケを議論する資格がまったくないことになる。もっともリルケがそうであれば、ぼくにはリルケの内面体験を読むことが、ときにショーペンハウアーやニーチェを読むとき以上の、かけがえのない感情的な律動になりうるのでもあった。
 かくして、もしもリルケを読んでいなかったら、ぼくはとっくにニーチェにもジル・ドゥルーズにも愛想をつかしていただろうと思うのだ。そして、パリではもっと陽気にはしゃいでいたことだろう!