才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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ルー・ザロメ回想録

ルー・アンドレーアス・ザロメ

ミネルヴァ書房 2006

Lou Andreas-Salome
Lebensru ckblick 1951
[訳]山本尤

ロシア生まれの知の女神ルー・ザロメ。
長らく男の体を受け付けなかった遊女? とんでもない。
ニーチェを虜にし、絶望させ、発奮させて、
かの『ツァラトゥストラ』を書かせた魔性の女。
年下のライナー・マリアを一目惚れさせ
詩人リルケを作った女?
それなのに、東洋学者アンドレアスと
結婚したルー・ザロメ。
そしてフロイトに会って精神分析医になった転身の晩年。
こんな噂ばかりが話題になってきた。
はたして、そうなのか。
この稀代の女性を、ぼくならこんなふうに見る。
私たちの初めての体験は、特筆すべきことに、
神の喪失なのである。

 フォン・ヴァイツゼッカー(756夜)の『神・自然・人間』に、晩年のルー・ザロメをヴァイツゼッカーが称賛しきっているくだりが出てくる。「精神の領土において神秘的な巫女の生活をおくっていた」「優美な、徹底した、何かを希求するような感情移入の才能に恵まれ、えてして才媛にありがちな男まさりのところはなかった」「新科学を深く理解していながら、しかも自分自身を失っていないまことに稀有な人物だった」というふうに。
 すでに乳癌にかかり、片方を切除していたルー・ザロメである。しかし彼女はそうした身体の損傷を、加齢とともに淡々と受容したようだ。乳癌であることがわかったとき、こう言ったとも伝わっている、「ニーチェは、結局は正しかったのね。だって私も悪い胸をもつことになったんですもの」。いいセリフだ。
 ヴァイツゼッカーの印象記からは、長らく巷間に噂されてきたルー・ザロメの、奔放で常軌を逸したような姿は微塵も見られない。むしろ卓越し、徹して静かに世界を凝視している女性の姿になっている。けれどもその最晩年でさえ、世の中はルー・ザロメのことをあいかわらず「ハインベルクの魔女」とよんでいた。ハインベルクというのはゲッチンゲンの街をはるかに見下ろす丘のこと、ルー・ザロメが深い死を迎えた土地のことだ。

 ルー・ザロメが亡くなって14年後の1951年、多くの友人と知人と恋人をもった彼女の最後の友人であるエルンスト・プファイファーによって、『回想録』が出版された。
 その、屈託もなく時の流れを無視したような書きっぷりに、多くの読者はさまざまに戸惑った。韜晦、あるいはミスティフィケーション。美化、あるいは目くらまし。今夜とりあげる本書はそういう一冊として迎えられた。しかし、本書こそがルー・ザロメの最後の著書なのだ。
 それから半世紀がたっているのに、これまで本書の邦訳も試訳もなかったのはまことに意外だ。以文社の『ルー・ザロメ著作集』にも一部が収録されただけだった。本書はやっと2年前に邦訳されたばかりなのである。評判が悪すぎて翻訳されなかったのだとは思えない(文章はとうてい上手とは言いがたいけれど)。
 察するに、あまりにも難解か中途半端だと思われたのだろうが、難解で中途半端な著書なんて世の中にいくらもあるのにそれらの多くは邦訳されてきたのだし、ましてこれはルー・ザロメの回想録なのだ。日本にルー・ザロメを受容できない何かがあるとも思えない。
 まさかこんなことは関係はないだろうけれど、ひとつ気になることがあるとしたら、リリアナ・カヴァーニが『善悪の彼岸』(1977)でニーチェとルー・ザロメをとりあげて、この時期が日本でルー・ザロメが“復権”する大きなチャンスだと思われたのだが、しかしこのときも刊行が見送られたのは、この映画がいまひとつだったことだろうか。ドミニク・サンダのルー・ザロメはよかったのに、リリアナ・カヴァーニがいささか演出過剰になってしまっていた。
 もっともぼくには、この女流監督の気持ちがよくわかる。両性具有をもって鳴るカヴァーニはルー・ザロメになりたかったのだ。そうだとすれば、ルー・ザロメはシモーヌ・ヴェイユ(258夜)平塚雷鳥(1206夜)シドニー・コレット(1153夜)などと同様に、あるいは白洲正子(893夜)同様に、まさに女性こそが女性特有の両性具有の叡知をもって心底理解すべき女性なのである。

 今夜は毀誉褒貶かまびすしいこの“稀代の人物”が、いったいどういう女性であったのか、どんな哲学の持ち主だったのかを伝えたい。そしてニーチェ(1023夜)フロイト(895夜)が、またパウル・レーやウェデキントやハウプトマンやラインハルトたちが、ルー・ザロメの独特な、説明しがたいほどの魅惑によってどのように変貌したのかを、女性ならぬぼくの目から書いておきたい。
 だから傍目八目だと思ってもらって結構だが、幸か不幸かルー・ザロメがあまりに知られていないということをもって、多少は免除してもらえるだろう。書くにあたっては本書『回想録』とともに、ヴェルナー・ロスの『ルー・アンドレアス-ザロメ』(リーベル出版)やハインツ・ペータースの『ルー・サロメ 愛と生涯』(筑摩書房)をタネ本にした。後者のペータースのものはアナイス・ニンの序文がついた力作で、著者がリルケ研究を出発点にしていたのが奏功した。なかなかよく書けている。
 ちなみにアナイス・ニンは、「ルー・ザロメは自分のなかの“女”に抵抗しつづけたのではないか」と言っている。従来の風評からしてとくに珍しい見方ではないけれど、ヘンリー・ミラー(649夜)らを鼓舞しつづけたアナイスの言葉としては、ずっしりとくる。
 では、おおいにルー・ザロメに堪能してもらうことにするが、その前に一言。ぼくはルー・ザロメを長いあいだ“ルー・サロメ”と憶えてきたし、そうも発音してきたのだが、最近は各書がルー・ザロメと濁音表記するようになったので、ここでも渋々それに従うことにした。でも、ほんとうはルー・サロメというふうに称びたい。なんといっても彼女は、あのバプテスマのヨハネの首をヘロデ王に所望したサロメにこそ近隣する者なのだから‥‥。そのサロメなら、マグダラのマリア、ヤコブの母マリアとともに、磔刑のイエスに香油を塗るためにキリストの墓に赴いていた。ルー・サロメもその香油を誰かに塗ろうとした女性だったのではあるまいか。

私たちが生まれてくることで、
世界と世界のあいだに裂け目をつくって、
二つの存在様式が分けられる。

 ルー・ザロメが生まれたのは1861年のセント・ペテルブルグだった。近代ロシア史的にいえば農奴解放がされ、そろそろナロード・ニキの運動がおこりかけている時期になる。父親は黒いクラヴァットがやたらに似合う将軍で、軍人としてロマノフ王朝に長年にわたって仕えた。だからルー(洗礼名はルイーズ)が生まれたときは、ごたいそうにもロシア皇帝アレキンサンドル2世からの祝福状が届いた。母親はロシア正教を篤く信仰する女性で、この神様を大切にする気持ちは娘のルーに移植されている。
 しかしルー自身は体の隅々までがお父さんっ子で、3人の兄たちもルーには寛大だったので、彼女にとっては「男性」というものはどんなときにも決して自分を傷つけるはずのない保護者であった。当時の軍人の娘というのはそうしたものなのだ。また、娘にそのように思わせるほどに、そのころの軍人は(まして将軍は)、威厳も威儀も徹底していた。ノーブレス・オブリージ(身分相応の義務と律義の発揮)をまっとうできたのだ。
 それゆえ、そのぶんルーが別の何かに傷つけられることがあるとするのなら、それは神様との関係となったはずである。この世の者は父親以外に対抗できるはずはない。
 幼いころのルーは街頭にさまよう老人たちがどうなるかを心配するような子だったようだ。それで、周囲の召使いなどにそうした貧しい者たちの行方や消息を尋ねると、たいていはあの人たちは路頭に迷って凍りついてしまったなどと聞かされ、ルーはそのたびに泣きじゃくっていたらしい。この話には、ルー・ザロメの“何かの原点”が見え隠れする。強い父親に絶対の保護をうけている少女は、神様がなぜ何もしてくれないのかを悲しく思う少女になっていたのだ。

父グスタフ・フォン・ザロメとルイーズ

 実はルー・ザロメの最初の著書は『神をめぐる戦い』という。信仰と愛との葛藤をテーマにしたもので、作中人物の一人は仏教に接近することで、ニルヴァーナ(涅槃)という非ヨーロッパ的覚醒をうるという話になっている。ルーは自分が少女時代に神への信仰を失ったか、迷ったかということを、ずっと自分の哲学的課題にしてきたわけなのだ。

 ところで学校でのルーは、友達にはほとんど関心がもてなかったようだ。ぺちゃくちゃお喋りばかりして、肝心なときには何も言わない友達など(今の日本の少女たちがそうなっているが)、ルーには何もおもしろくない。
 私立の英語学校にも行き、そこではいろいろな国の子とも出会うのだが、それでもルーはちっともお喋り会話に熱心になれなかった。8歳のとき胸がときめいたのは、ロシア皇帝副官のフレデリック男爵ただ一人というありさまで、むろん遠くからジョニー・デップを見つめるように眺めていたのだが、それで十分。ほかにはナロード・ニキの運動やテロ行為に走る若者がいることに胸をときめかせた程度なのだ。
 ルーにとっては、セントペテルブルグは海市だったのである。しょせんは蜃気楼だったのだ。ルーのほうがそこをずっとはみ出た想像上のコスモポリタンなのだ。だからペテルブルグの市長がある女性テロリストに暗殺されたときは、その暗殺者ヴェラ・ザズリッチの写真を机の抽斗(ひきだし)にこっそりしまっておいたほどだった。そんなルーだから、恋愛や結婚は想像のなかで十全に発育するだけで、とうてい現実のものとはなりえない。そのころモスクワあたりではプラトニックな共同生活をする「仮想結婚」がはやったことがあるのだが、ルーの身の上にいつか現実としての男女の関係をもつときがきたとしても、ルーとしてはそこにも「仮想」が介在してほしかった。
 これでは、まるでニコライ・チェルヌイシェフスキーの『何をなすべきか』そっくりではないか。この小説は結婚した夫婦が男女の交わりなどにまったく関心をもたず、妻がたまさか別の男と情事に耽っていても、二人の仲を邪魔しないように静かに身を引き思索を続けるという主人公の心境を描いた筋書きのものなのだが(明治の文豪たちが憧れた小説でもあるが)、少女期のルーは“こういう男”にこそなりたいほうだったのである。
 つまりは、ルー・ザロメは偉大なる祖国ロシアの理想精神に生きていて、そしてできれば、神様と本気の交流をもちたいとひたすら思って育った「少年少女」であったわけなのだ。

空想されたものをまったく別なものと思うという能力は、
人間のなかに何かを引き起こす。

 そのような少女ルー・ザロメの前に、一人の男が出現する。ルーは長じて17歳、写真を見てもらえばわかるように背がすらりと高く、シルバー・ブロンドの髪がゆれ、目鼻立ちのはっきりとした、けれども胸が平べったい華奢(きゃしゃ)な乙女になっていた。ついでに書いておくが、いろいろの証言を総合すると、彼女の容姿のなかで誰もが最も印象的で魅力的だったと感じたのは、紅(あか)くて、ふっくらとした柔らかそうな下唇であったようだ。
 そういう17歳のルーの前に中年の男があらわれた。男は37歳のオランダ系改革派教会の牧師で、ヘンドリック・ギロートという。ルーはちょうどコンファメーション(堅信礼)に備えた宗教教育をうけている時期だった。
 コンファメーションというのはプロテスタント特有の儀礼で、幼児洗礼を受けた者が成人して信仰告白をするというものなのだが、これを教えるヘルマン・ダルトンという牧師がルーに「神の遍在」を強く刷りこもうとすると、ルーはこの教条的で神学的な説教じみた強制に対して、自分の少女時代の神様をなんとしても護らなければならないという気持ちが高まり、ついにはコンファメーションなど受けたくないと言い出していた。そんな、どこにでもいるような神に気持ちを告白するくらいなら、教会なんて必要ないとさえ思ったのだ。
 ドルトンがなぜこんな小娘などに反論されるのかと腹をたて、半ば役目を放棄しそうになったとき、そこへあらわれたのがオランダ人の血を引いた37歳のギロートだったのである。世間をぞんぶんに弁(わきま)えた話し上手で、ネフスキー通りの小さな教会を任されていた。

ヘンドリック・ギロートとルイーズ

 ギロートの姿と話は多くの女性をとりこにしていたようだ。すでに2人の子の父親ではあったのだが、ギロートはファウスト的熱情をもって教会に君臨していた。
 そこへ、ルーはある日に行った。そして、ギロートが説教壇に上って話をはじめたとたん、突然にすべてを理解した。この人こそ私を救う人である、たったいま私の孤独が終わったのだ、というふうに。『回想録』にはこう書いている。「紛れもない本当の人間が、空想のなかの人間を押しのけて姿をあらわした」。
 ルーはさっそく手紙を書き、その後は親に内緒でギロートの家を訪れる。最初に訪れたとき、その後のルー・ザロメの運命の方向がほぼ決まっていたと思わざるをえない。ギロートは手を広げ、ルーはその胸に駆けこみ、そのまま溢れる涙にかきくれた。
 一言でいえば、ギロートとの出会いがルーにもたらしたものとは、厖大な「知性の武器」が手に入ってきたということだろう。娘時代の青色のノートブックがのこっているのだが、そこにはルーがギロートに示唆されて読んだのであろう多くの書物のタイトルが並んでいる。宗教史・哲学・論理学・形而上学から、デカルト、パスカル、ライプニッツ、ゲーテ、シラー、カント、キルケゴール、ルソー、ショーペンハウエル‥‥。
 これは、ルー・ザロメがついに祖国ロシアでは得られなかった「ヨーロッパの知性」と出会ったことを示している。きっと思いがけない解放感だったろう。その後のルーの知性の多くがここで開花の端緒を迎えたのはまちがいない。しかしこのことは他方では、ギロートにとっては、ルーの知を解放しきってしまうことはルーを失うことだという怖れとなり、ルーにとってはこのまま知の世界に邁進することがギロートと離れることになるかもしれないという怖れを抱かせた。
 知をめぐる男と女のあいだでは、こういうことはよくおこる。たとえば半井桃水と樋口一葉(638夜)も、ハイデガー(916夜)ハンナ・アレント(341夜)も、そういう師と弟子の関係だった。
 こういうときは往々にして、年上の男が巧妙な先手を打つものだ。ギロートはルーを激しく抱擁し、結婚を申し入れた。ルーは驚いた。「またもや世界が崩壊してしまうわ!」「これでいっさいの無垢は退場してしまうんだわ!」。こうして、何か、とてつもなく恐ろしいことがおこることになったのだ。
 むろんルーはこの唐突な申し入れを拒絶した。それでは「仮想」はなくなってしまうからである(それなのにのちにルーはアンドレアスと結婚し、実に43年にわたる仮面の夫婦を肯んじたことについては、のちに述べる)。
 ギロートの申し入れを拒絶したのは、ルーの純情のせいだけではない。ルーをとりまく身近な事情も押し寄せていた。すでに病床に伏せっていた最愛の父親が、ここにおいて亡くなったのだ。地上のシンボルと世界の衝立の崩壊だ。やはり恐ろしいことはおこったのだ。罰(ばち)があたったのだ。ルーは、もはやギロートに会うわけにはいかないと心に決める。
 けれどもペテルブルクの有名人である将軍の娘ルー・ザロメが、どこかに隠れることなどできはしない。ルーはチューリヒ大学に逃げることにする。最初の海外脱出だ。1880年9月、ルーは母親ともに、当時、“世界で最も国際的な小都”とよばれたチューリッヒに入った。

掴んだものは、それが正当になされたのなら、
いずれにせよ核心にもって行かなければならないと、
私には思われた。

 ここまで「千夜千冊」としてはやや詳しすぎるほどに、ルー・ザロメの前段の「めざめ」を紹介した。こんな調子で続けていては、このあとの華麗で深甚な有為転変などとうてい書ききれないが、それを手短かに綴ってもなんとかルー・ザロメの激しい感覚哲学が伝わるべく、あえてそうしてみた。
 言っておきたかったのは、つまりはルー・ザロメは「神」に恋していた少女であり、教会や男が用意した行為には「神」など感じられない乙女だったということだ。そのことはルー・ザロメがのちに「神との合一」と「存在との合一」を切断するために費やした厖大な思索を生む原因にもなっている。『回想録』はそのことを綴った一冊なのである。だから難解だといえばやはり難解ではあるのだが、しかし、そのこと(「神との合一」と「存在との合一」を切断すること)を書き了えたいと思いつづけていたルーにとっては、『回想録』は少女期からの宿題であり、ギロートとの袂別以来の課題でもあったのである。

 チューリッヒに来てからのちのルーのことは手短かにしていくが、まずは美術史教授のフリードリッヒ・キンケルとの出会いと、キンケルが紹介したマルヴィーダ・フォン・マイゼンブーク(1816~1903)との出会いが大きかった。
 とくに、すでに女性解放運動の旗手として名高く、『ある理想主義者の回想』も刊行していたマイゼンブークがルーに与えた影響は、その後のルー・ザロメの活動性をかなり左右した。このマイゼンブーク女史こそ、ワーグナーを、パウル・レーを、ニーチェをルーに引き合わせたのだし、ルーの世間が眉をしかめるような行動をふっくら包んだのだ。
 マイゼンブークは「女性が女性を覆ってあげるときになくてはならないもの」のすべてをもっていた。こんなところで忠告をはさむのも変だけれど、大胆な行為に出たい女性は、どこかでマイゼンブーク的なおばあさんと昵懇になっておくべきだろう。

 胸がときめく男と女の出会いはたいていが偶発的である。その発端は思いがけないことが少なくない。この場合は、マイゼンブークがニーチェの病気を心配してイタリアのソレント(ナポリ湾)の自分のもとに来て、ゆっくりしてはどうかと勧めたのが発端になる。
 ニーチェはこの招待に応じて、二人の少壮の友人を連れてきた。その一人がパウル・レーだった。マイゼンブークはニーチェらに自分が創設しようと思っている芸術と科学に関する男女同権の学校の相談をした。その学校をローマにつくりたいというのである。ニーチェは学校には関心を示さず、レーが興味を示した。レーは普仏戦争で負傷したあと、もっぱらショーペンハウエル(1164夜)の信奉者になっていて、ニーチェが「これまで知ったかぎりの最も大胆で最も冷静な思想家」とよんでいたような、そういう新しい哲人の様相をもっていた。31歳である。
 やがてマイゼンブークがローマでその準備に入ったころ、何か機会があったらなんでも手伝いと思っていた20歳前後のルーがそこにやってきた。ニーチェは来なかったが、レーはすでに駆けつけていた。そしてどうなったか。いっぱしの男なら誰だってそうなるのだからちっとも不思議なことではないが、レーはたちまちルーにぞっこんになったのだ。

 二人がローマ見物をしたり(サン・ピエトロ寺院が定番だったようだが)、夜な夜な散歩をくりかえし、どのように昵懇になっていたのかは、省く(事実もあまりはっきりしない)。それよりレーは持ち前のペシミズムと理想主義から、奇妙な計画をルーにもちだしていた。
 自分とニーチェとあなたの3人で、「聖なる三位一体」が可能になりそうだ、ついては3人で1年か2年ほど暮らしてみないかというのだ。ルーは陽気に笑って聞いていただけだが(むろんルーはニーチェの哲学的業績についてはある程度は知っていたのだが)、レーはこのことをニーチェに手紙で告げていた。「すばらしい理想的な女性と知り合った、君も来て一緒に暮らそう」と。
 レーの思想はすでにニーチェに影響力をもっていた。その内容は、このあとニーチェのニヒリズムや永劫回帰のヒントになる苗床だった。しかしニーチェが一筋縄でないことについては、まだレーは気が付いてはいない。
 ニーチェとルーとの邂逅はすぐにやってきた。マイゼンブークから行く先を聞いたニーチェが、二人が熱心に語りあっていたサン・ピエトロ寺院に前触れもなくニョッとあらわれたのだ。わざとらしいニーチェは「どんな星のめぐりあわせで、ぼくたちは出会ったのでしょうね」など歯の浮いたようなことを言う。ルーは「チューリヒからよ」とあっさりかわしたようだが、内心では「この強烈な個性は何だろう」「この孤独感は何だろう」という興味も湧いていた。のちに『作品にあらわれたニーチェ』に綴ることになるのだが、そこにもあるように、このときルーはニーチェに対して「沈黙の秘密を守る世界の番人」のような印象をもったという。
 ニーチェはニーチェで、まだ会いもしないルーを狂気のように想像して、レーに自分がルーにプロポーズをする意志があることを伝えてほしいと、あらかじめ手紙で頼んであった。

ニーチェはパウル・レーと私の計画を聞くやいなや、
三人目の仲間になると言い出したのである。三位一体である。

 事態は最初から、異常にこんがらがったのだ。レーはルーを独占したいのに「聖なる三位一体」計画のひっこみがつかなくなり、ニーチェはルーにありったけの愛の永遠哲学を投入したいのにレーが邪魔になり、ルーはルーでこんな変てこりんなことを母も世間もゼッタイに認めるはずがないことを、さあ、どのように切り出すかを腐心した。
 ふつうならば、話はここで木っ端みじんに砕けていくだろう。そうでなければ誰がこんなばかばかしい計画に世界が関与するなどと思えるか。ところが、このときばかりは奇蹟のような方向に事態がすすんでいった。いいかえれば、みんなで一緒に事態の推移をつくっていくしかないというほどに、これは説明不可能な世界状態だったのだ。

1882年、左からルー、パウル・レー、フリードリヒ・ニーチェ

 こうして、かの有名なモンテ・サクロ(聖山)の一件になっていったのである。スイスの絶景に、なんとルーと母とレーとニーチェの4人が旅行することになったのだ。かくて、ここで新たな謎がひとつ加わることになる。モンテ・サクロの山上に行ったのはルーとニーチェだけだったのだ。のちにニーチェは「あのときのことを思い出すだけで気が狂いそうだ」と書くほどに。

 では、モンテ・サクロでいったい何がおこったのか。このことは今日まで誰も証していないことになっている。ルーがニーチェにキスをしたとも、ニーチェがルーを抱こうとしたとも、ルーがニーチェの頬をひっぱたいとも、なんともわからない。なぜならニーチェは「ぼくの生涯で最も美しい夢をみることができた」とも書きのこしたのだ。
 真相はさっぱりはっきりしないのだが、事態はさらに混乱と誤解を含んだままに続いていく。ニーチェはタウンテンブルクにルーを招いて数週間をおくりたいと言い出し、妹のエリーザベトにルーを招待することを承諾させる画策を始めた。レーはニーチェがあまりに乗り出していくことに友情を壊さずブレーキをかけるにはどうするかと悩んで、あれこれ言い出した。
 こんなことで事態が進捗するとは思えないが、だからこそルーは直観がはたらいたのだろうか、いっさいはバイロイトの音楽祭に行ってワーグナーを聞くことだと決めた。当時、ワーグナーはいっさいの根源の現象を暗示していたからだ。かくて1882年の7月の最後の1週間、バヴァリアの小さな都邑バイロイトに、登場人物がほぼ顔を揃えることになる。なんといっても主賓の一人がマルヴィーダ・フォン・マイゼンブークなのだ。

私の経験不足の子供っぽさにとって
当たり前のことと思われた多くのことは、
異常なこととされたのだ。

 またまた話が詳しくなってしまったが、ニーチェが『ツァラトゥストラはかく語りき』を書くにいたった直前の状況を知るには、このくらいのお膳立てが必要だったともいえる。
 ワーグナーの最後の力作『パルジファル』が演奏されるなか、ここで最も劇的な対立を演じるのは、21歳のルー・ザロメとニーチェの妹の36歳のエリーザベトである。この二人ほどことごとく対照的な女性の組み合わせはないだろう。このあと、エリーザベトは兄をたぶらかすルーをことあるごとに咎め、ルーは持ち前の一貫性をもってそのいっさいの根源はニーチェが自由恋愛や限定結婚などという勝手の夢想をしたからだと反撃した。
 しかし、驚くべきはそうしたなかでも、ニーチェがルーを熱愛しつづけたばかりか、ルーの感情的思想にひらめきのようなものを感得しつづけたこと、ルーもまた、男と女をまたいで思想的高揚がありうることをニーチェとのあいだにおいてもなお確信しつづけていたこと、そのことだ。そこには、ルーが『神をめぐる格闘』に書いた宗教的高揚とエロス的高揚との相同性が躍如していた。
 ただし、この世紀末の瞠目すべき知的ゲームにはプレーヤーが多すぎた。老女マイゼンブークが見守るなか、ワーグナーの呪縛から離れようとするニーチェはレーの哲学に影響をうけつつルーを熱愛し、レーはニーチェを介在させてなおルーを超越的な愛によって包もうとし、エリーザベトは断乎として兄だけを守ろうとし、ルーのほうといったら、レーには妹のように扱われたいと思いつつ、これらのいっさいのプレーヤーからあらゆるエネルギーを吸い上げていたのだ。これでは二進(にっち)も三進(さっち)もいくはずがない。
 こうしてルーはこれらをすべてほったらかしにすることを決断し、ただレーとの同棲だけを選び、ニーチェは絶望して『ツァラトゥストラ』にとりくんだのである。わずか一週間の逆上的執筆だった。しかし、ツァラトゥストラは苦い言葉をのこしている。「友を許すより、敵を許すほうがずっとやさしい」。

英雄的時代は終わりを告げたのである。
人間の性情が検査の対象になり、
その独自の研究から離れてしまった。

 ルーとレーが同棲したのはビスマルク時代のベルリンだった。そこでもルーは奔放な交友関係を広げていた。いや、周囲が黙っていなかった。社会学者フェルディナンド・テニエスが近づき、心理学者ヘルマン・エビングハウスが求婚した。
 ルーには、男がすべてを賭けて構成する思想にたちまち感応できる知性と感性がそなわっていたのだ。これでは、その道を究めようとした男が次々に参ってしまうのは当然である。だから、もしもこうしたルーにとっての唯一の弱点があるとしたら、それはひとつには「寡黙」というものだ。男性にひそむ寡黙はこのような高速反応型のルーにはわからない。もうひとつは「異国」というものだ。ロシア的精神やヨーロッパ的知性が及びえないもの、ルーにはそこは未知なのだ。
 偶然ではあろうけれど、あるときこの二つを持ち合わせた男がルーを攻略することを思いつく。それがフリードリヒ・カール・アンドレーアスなのである。
 アンドレーアスはオランダ領東インドのバタヴィア(ジャカルタ)の生まれで、そこで6歳までをすごし、一家とともにハンブルクに引っ越し、ジュネーヴの寄宿学校で古典を鍛えられたあと、エルランゲン、ゲッチンゲン、ライブチヒの諸大学でラテン語・ギリシア語・フランス語をマスターするとともに、ペルシア語とスカンディナビア語の研究に向かっていったというような、まさに異国のエキゾティシズムを一身に浴びていた。そして、そのうえアンドレーアスは寡黙だったのだ。
 こういう男に女性が何を感じるかといえば、神話性と野獣性の深部における合一だ。ルーはそのことに驚く。

アンドレーアスが円熟していたのか、
それとも荒々しい気性だったのか、
私にはわからない。

 問題はなぜアンドレーアスがルーの前にあらわれたのか、どのように口説いたのか、なぜルーがそれをあっさり受け入れて婚約を承諾してしまったのかということなのだが、これらについてはいっさい事実関係が詳らかになってはいない。ルーも詳細を綴っていない。
 わかっているのは、この婚約がアンドレーアスによって用意周到に計画された電光石火の早業であったこと、そのためアンドレーアスは自分の胸にわざわざナイフを突き立ててみせるというような乾坤一擲の演技を辞さなかったこと、ルーが結婚初夜の交わりを拒否したということ、アンドレーアスには家政婦マリーとのあいだに二人の庶子がいたということ、アンドレーアスはルーよりも背が低くて、しかも小肥りだったということである。
 なんだか寡黙な男性にありがちな手立てばかりを連発したようだが、、まあ、こういうことはあまり真似しないほうがいい(笑)。ともかくもルーは、かくしてルー・アンドレーアヌス・ザロメとなったのだ。

1886年、アンドレーアスとルーの婚約時の写真

 ルー自身は、アンドレーアスとの結婚がこんなにもあっといまに成立してしまうとは思っていなかった。結婚生活を許容したのが失敗であることはどうみても歴然としていた。そのころ、ヨーロッパの知的女性にはイプセンやハウプトマンの演劇が大流行していたのだが、ルーも自分がうっかり「ノラ」や「野鴨」を演じるはめになったことを悟った。
 こうなっては、打開策はたったひとつしかないに決まっている。アンドレーアスが仕事をしているときにルーが寝て、ルーが動きまわるときはアンドレーアスがぐっすり寝ているようにすること、つまりあらゆる生活面において、互いが互いを意識しないような平行生活を実現することだった。
 いったいそんな器用なことをして、その結婚生活が43年間も続くのだろうかと、一般には疑義がさしはさまれるのは当然だろうが、しかし、こんなことは世間の夫婦にあってはごくごく一般的にありうることで、それがルー・ザロメにおいてすらおこったということが変事だったということなのである。ぼくはこのあたりのことについては、何も不思議はないと思っている。
 もっとも、この変事を日常にし、そこから新たな物語を生成するには、平行生活をしているだけでは足りない。ルーは自身が選んでしまったライフスタイルを逆転させるための、より目立った精神生活とラディカルな表現活動に向かう必要があった。それをルーは「自由劇場」への出入り、イプセンやストリンドベリやハウプトマンやメーテルリンク(68夜)らの戯曲の本質を論じるための執筆、あいかわらずの多彩な人士たちとのコミニュケーション、そして自分が向かうべき小説の執筆に向かわせることにした。
 こうして『神をめぐる格闘』につづいて、リアルタイムでニーチェ思想を紹介した『作品にあらわれたニーチェ』(これはしばらくニーチェ入門として話題になった)、ギロートとの神と恋をめぐる出来事を小説にした『ルート』、『見知らぬ魂から』、傑作『フェニチェカ』などが書かれた。ルーはイプセン・ニーチェ・トルストイの戦闘的な解説者として、そして作家として、そしてファム・ファタールな女として、熱情の女として、あっというまにヨーロッパ中に知られていったのである。誰も彼女をアンドレーアスの妻とはみなさなかった。

 ルーのような女性には、旅も欠かせない。既知の男を振り切り、未知の男と出会うには旅が一番なのだ。1894年にはパリに半年を過ごしてセーヌ左岸の文学カフェに入りびたり、ウェデキントやピネレース(ゼメクとよばれる)らと恋愛沙汰をおこしてみせている。なかで『地霊』でルルを登場させたフランク・ウェデンキとのセクシャルな出来事を素材に書いたのが『フェニチェカ』だ。
 ところでこのころのルーは、アフリカ探検で名を馳せていたフリーダ・フォン・ビューロという女友達といつも行動をともにしていた。かなりのお気にいりだった。フリーダはルーに向かって「女は子供を育てるのと同じく本を書く資格をもっている」と言うのが口ぐせだった。
 二人は1897年には連れ立って、ミュンヘンの羅甸区シュワービングにもあらわれた。ここでは、作家のカイザーリング、建築家エンデル、自然主義者コンラート、ワーグネリアンのフォン・ヴォルツォーゲン、心理作家のヴァッサーマンらが近づいてきた。このうちのヴァッサーマンが二人に紹介した一人の風変わりな青年がいた。それが22歳のライナー・マリア・リルケ(46夜)だった。

1897年、左からフリーダ・フォン・ビュロー、リルケ、
アウグスト・エンデル、ルー、アキム・ヴォリンスキー

 リルケはプラハに生まれ育って、ちょうどミュンヘンにやってきたばかりだった。ミュンヘン大学で研究をするつもりがあったのだが、詩人として生きていきたいという意志も野望ももっていた。とくに激しいのは「臆面もないセンチメンタリズム」というもので、リルケはこれを初対面のルーにぶつけた。こういうものにはルーはからっきし苦手で、しばしば失笑せざるをえないものなのに、リルケは怯まない。ミュンヘンのどこにルーとフリーダがいても、調べ上げてあらわれた。そういうところはニーチェに似ていた。それだけではない、そうやって出会うたびに、その心情を詩にしてルーに届けたのだ。
 かくて数週間がたち、突如として青年がルーの胸にとびこむ日になった。想像していなかったことがおこったルーは一瞬にして「母なるもの」を突き上げられ、これまでにない熱い感傷をもったのである。ルーは初めて母性を擽(くすぐ)られたようなのだ。ただ、そのあとのリルケがちがっていた。子供みたいなリルケのほうがルーの欲情を翻弄することになったのだ。信じがたいことではあるが、リルケはルーの「母なるもの」を「妻なるもの」に変える術に長けていた。
 『回想録』にはこう書いてある。「私が何年ものあいだ、あなたの妻であったのなら、それは、あなたが私にとって初めて現実のものだったからです。肉体と現実が一つになって、生そのものの疑う余地のない実情だったからです」「私たちは友人になる前に夫婦になりました」。

リルケは、「愛し返すことのない神」については、
わずかなことしか考えていないかのようである。

 ルーとリルケの関係は、ニーチェとレーとの「聖なる三位一体」をさらに深く、しかしながら淡々と再現させるものになった。アンドレーアヌスが住むベルリンの家(つまりルーの結婚生活がおこなわれている家)に、ルーとリルケとが同居することになったのである。アンドレーアヌスが書斎にいるとき、なんとリルケはせっせと薪を割っていたのだ。
 ルーが望んだことだったのか。リルケが押しかけたのか。いずれにしても、これまた世間からするととうてい肯んじられないような異様な複数男女の絡み合いのように見えるかもしれないが、何人かとの共同生活を何度かにわたって試みてきたぼくからすると、実は夫婦と友人たちの同居というものは、とくに驚くようなことではない。とくにヨーロッパでは知人や友人たちの長期滞在することなんてしょっしゅうあることで、そのためにいくつものゲストルームが常備されているわけなのだ。

 だから問題はそこで男女関係が拗(こじ)れることを心配するより、そういうことのなかで男も女も凛然とした精神と多感な感情を向上させられるかどうかということなのである。どうやらこの点において、ルーもリルケも、そしてアンドレアヌスも“たいしたもの”だった。
 ただし、ルーにはひとつだけ心配があった。それは自分が実在としての「母なるもの」になってしまうのかどうかということだ。ルーは生涯にわたって一人の子供を産まなかったのであるが、このときばかりはそこを悩んでいた。リルケはリルケで、ルーが自分の子を産むことを期待していたろうが、さすがにそこまでは踏みこまなかった。

 このあとルーとリルケはルーの原郷であるロシアに行く。モスクワではパステルナークやソフィア・シルに会い、ルーの憧れでもあったトルストイ(580夜)を二人して訪れる。

田舎での生活:子供達を後ろに、
左からリルケ、ルー、農民詩人スピラドン・ドローシン

 リルケは巨大なロシアが気にいった。ペテルブルクのルーのかつての家を訪れ、キエフに行き、ヴォルガを渡り、イズバに滞在し、またモスクラで暮らした。
 しかしリルケのロシアはルーのロシアではありえない。こういうことにはめっぽう敏感なルーは、リルケがロシア語に堪能になるにつれ、かえって醒めていったのだ。男と女というもの、何が亀裂の一条のヒビになっていくかは、わからない。ルーの愛の退嬰を感じたリルケは、ついに「憎悪の手紙」書いてしまうのだ。

人間、この意識された何者かは、
思考の中で同時に他者でもあって、
この状況を根本においてただ模倣しつつ、反転する。

 20世紀の夜が明けた。ルー・ザロメは40歳である。1901年2月にリルケと別れたルーはその夏と秋をゼメクと過ごし(ゼメクはルーのかかりつけの医者になっていた)、スイスやウィーンに行っている。
 そこにパウル・レーの訃報が入ってきた。レーはルーを失ってからの14年間というもの、ずっと悲しみと向き合っていたようだ。が、それに耐え切れず、自殺した(崖から落ちたということになっているのだが、真相はわからない)。ルーはこの訃報を聞いて、自分に「呪い」があるのかどうかを自問する。ゼメクはそういうルーを包容した。けれどもそのような包容に甘んじているのは、もはやルーの性分にはあわなくなっていた。過激な熱情に走るか、それとも自分の方針を新しくするか、なのである。
 ルー・ザロメは転身を決意する。恋愛者から何者かへ、作家から何者かへ、表現者から何者かへ――。

1900年頃のルー

 この転身はすぐには実現しなかった。マルティン・ブーバー(588夜)に相談したり、『エロティーク』という自分のどこかにひそんでいる深淵を覗く本を書いてみたり、ポウル・ビエレのサイコセラピーを受けたりしていたのだが、埒があかない。転身が決定づけられたのは、1911年にフロイトと出会ってからだった。
 アンドレーアスはゲッチンゲン大学の東洋学科の教授になっていた。ルー・アンドレーアス・ザロメはゲッチンゲンのハインベルクの丘の家に住むことになった。そのときワイマールで国際精神分析学会がひらかれ、ルーはピエレの招待でそこに顔を出せることになった。この学会の会長はユング(830夜)であったが、実質上はフロイトがあらゆる意味における“父”だった。ルーはここに新たな父性を発見する。しかもそれは精神の父性であった。

1911年、第三回精神分析学会
前列右から五人目の毛皮に身をつつんだ女性がルー

 ルーはていねいな手紙をフロイトに書いた。「私は精神分析をほっておくことができなくなり、それに深入りすればするほどますます魅力を感じます。数カ月間ウィーンに参らせていただけないでしょうか」。

フロイトが私たちに要求するのは、
私たち自身を顧みることなく、
外の事物に対してこれまで学んできて大きな成功を収めた
あの思考の誠実さを保持しつづけることだけだった。

 フロイトとルーの“友情”はこのあと25年にわたってつづく。フロイトが5歳の年上にすぎないが、そこには新たな“父性”が君臨したからだ。
 途中、フロイトのスタッフたちがルーにめらめらと恋情をたぎらせたのは当然で、その一人にヴィクトール・タウスクがいたこともよく知られているのだが、このハンサムな青年は自殺してしまった。しかしルーはレーの自殺のときのようには動揺しないですんだ。「呪い」も感じない。そこには精神分析の父フロイトがいたからである。ルーはしだいに自身でサイコセラピストになっていく。
 論文も書いた。肛門性欲について、ナルシシズムについて、幼児の狂気について、女性意識について。これらはルーが少女時代からずうっと抱えてきたテーマでもあった。
 実はペータースの『ルー・サロメ』を読んで知ったことなのだが、ルーはおそらく異常性欲の持ち主だったらしい。ふだんはかなり抑制されているのだろうけれど、ときどきはその快感に突発的に溺れていたふしがある。ペータースがどの資料にもとづいたのかはわからないが、ある老紳士の回顧に、次のようなものがあったというのである。
 「彼女の抱擁には、自然力のというのか原初的というか、何か恐ろしいものがあった。きらきら光る青い目でみつめながら、“精液をうけとることは私にとって恍惚の絶頂です”と言うのである。そしてそれを飽くことを知らず求めた」「愛しているときの彼女は、まったく無情だった」「彼女はまさに不道徳であって敬虔であり、吸血鬼と子供とが同居している。彼女を愛したいという男たちに関するかぎり、彼女は自分の本能しか信じなかった」。
 もしルーにこのようなことが抑圧されてきたのだとすれば、まさにフロイトこそザロメ将軍だったのである。それなら、いろいろな謎が氷解する。晩年のルーは、この“精神の将軍”の方法の庇護のもと、自身の内なるものを自身のサイコセラピーによって凝視するようになっていったのだ。自分よりずっとひどい患者たちともめぐりあうことになった。ルー・ザロメはいっさいを折り返すことになって、その結果の最後のメッセージが、本書『回想録』なのである。
 こんな一節がある。「人類の内部では原初的なものと意識化されたものとが、未開と文化のように対立している。一方が他方の継続であって、喪失でないとはいえ」。

1934年、晩年のルー

附記:ルー・ザロメのことをぼくに教えてくれたのは、高校時代の友人の湯川洋だった。ニーチェの恋人としてのルー・ザロメであって、ニーチェをして1週間で『ツァラトゥストラはかく語りき』を書かせた女性としてのルー・ザロメだった。その後、女流監督リリアナ・カヴァーニの映画『善悪の彼岸』やジョゼッペ・シノーポリのオペラ『ルー・ザロメ』などをのぞくと、ぼくのまわりでルー・ザロメを熱心に口にする者はいなかった。アナイス・ニンの話をする者は多かったのだが。
 かくてぼくは、さしずめ日陰者か少数派のようにルー・ザロメに思いをいたすことになったわけで、とくに女性たちと会話がかわせずに寂しい思いをしていた。最も劣勢を感じたのはニーチェ論者やリルケ論者にルー・ザロメを擁護する者が少なかったということだ。なかでハインツ・ペータースがリルケとルー・ザロメを同等に扱っていた。
 ルー・アンドレーアス・ザロメの本名はルイーズ・フォン・ザロメである。ヘンリー・ルーという変名を使うこともあった。ルーにしたのは、パウル・レーのヒントかと思われる。
 『ルー・ザロメ著作集』(以文社)は全5巻と別巻で、『神をめぐる闘い』『女であること』『リルケ』『フロイトへの感謝』などが収録されている。ほかにペータース『ルー・ザロメ 愛と生涯』(筑摩書房)、ヴェルナー・ロス『ルー・アンドレアス-ザロメ』(リーベル出版)、プファイファー『ニーチェ、レー、ルー 彼等の出会いのドキュメント』(未知谷)などがある。がそれなりに参考にはなるけれど、ルー・ザロメについてはいつか日本の両性具有な女性こそが書くべきだ。