父の先見

文春新書 2003
西田幾多郎(1086夜)がD・H・ロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』(855夜)を読んだのは、昭和11年である。弟子の下村寅太郎(そのころ34歳)から借りて読んだらしい。昭和11年というと2・26事件の年で、世の中がかなり物騒になっていたわけだが、西田は原著で読んで感心している。
そのことを書いた手紙が下村の手元にのこっていて、のちに河盛好蔵が「チャタレイ裁判」にそれを証拠品として出したらいいんじゃないかと言ったという。西田幾多郎さえチャタレイに共感したのだから、猥褻ではないだろうという証拠品だ。もっとも提出はされなかった。
西田はガチガチの哲人ではなかった。禅学や「純粋意識」や「無の場所」に打ち込んだとはいえ、青年時代からスティーブンソン(155夜)の『水車小屋のウィル』にぞっこんになったりするロマンティストとしての性格が横溢していたし、晩年はチャールズ・ラムの『エリア随筆』を何度も読んで、人生の慰籍を読書を通して淡々と交感していた。
苦悩も深いが、浪漫も深い。「絶対矛盾的自己同一」を標榜した西田なのだから、そんなことは当然だと思われようが、いや西田だけでなく、実は西田前後に始まった近現代日本の哲学の系譜を担った者たちの多くは、たいてい文芸やら芸術やら遊芸に興じていた。その大きな源流のひとつに、狩野亨吉(1229夜)や内藤湖南(1245夜)がいた。この2人については、ぼくもすでに詳しく書いたことだ。
本書はそういう懐かしい日々の知の交流を扱っている。著者は下村寅太郎の弟子でもあった。ライプニッツ(994夜)のところでも書いたように、下村さんはぼくに大きな影響をもたらした科学哲学者で、ぼくが逗子のお宅でお目にかかったのは、レオナルド・ダ・ヴィンチ(25夜)を「遊」の2号で特集するときに原稿を依頼したときだった。
それにしても、こういう本を読むとホッとする。それとともにこういう本じゃないと、もはやホッとできなくなってしまったのかと、そのことに愕然とする。
いま、日本のごく一部にリベラル・アーツの復活を望む声が上がってはいるものの、実際には日本人の教養というもの、ほとんど払底しているといったほうがよく、やたらに古典を無視したガイドブックやテレビのクイズ番組ばかりが流行しているばかりなのである。NHKが爆笑問題を狂言回しにして「ニッポンの教養」を放映しているのは、ぼくも出演はしたけれど、あれでもごくごく少数の試みなのだ。
先だっても、企業の中堅のための塾で西田や岡潔(947夜)や湯川秀樹(828夜)の話をしていて、その話をしている最中なのに、ふいにこんな話をしていても、ああ、そうだろうな、この諸君にはとうてい伝わりっこないのかもしれないなあという、ちょっとした不毛感や孤立感を味わった。
が、こんなことはいまさらでもなかったとも言うべきで、たとえば竹内洋の『教養主義の没落』(中公新書)や浅羽通明の『野望としての教養』(時事通信社)があれこれ分析していたように、日本のリベラル・アーツはとっくの昔から没落してしまっていたのでもある。もってのほかのことであるけれど、すでに大学からは教養学部や教養学科が跡形もなく消えている。
まあ、消えるべくして消えたという体たらくだった。もっとも、この体たらくは日本だけのことではないようだ。同じことはフランスの大学においても瓶の底が抜けたように進行していることらしく、ピエール・ブルデュー(1155夜)が「オネット・オム」(教養人)について調べた結果では、やっぱりフランスの学校全体からも教養は極端に縮退しているのだという。
木村素衞(もとのり)という美学者がいた。昭和8年に西田幾多郎が推薦して、広島文理科大学から京都帝大の教育学科に転じ、“京都学派”の一翼を静かに担いながらも、敗戦後すぐに風邪をこじらせて51歳で急逝した。
しかし今日の京大の教授陣には、西田についてはその内容を確実に語れるかどうかはともかく、その存在の大きさなら誰もが知っているだろうけれど、木村の場合はその名前を知る者さえほとんどいないままなのだ。これではまずい。木村の哲学は、早くから「相互承認」というたいそう重大な提案にも、教養を「動的創造性」としてとらえるという視点にも、大きくも深くも踏みこんでいた。西田を突っこむなら、どこかで木村素衞に入っていかざるをえないものがある。
が、木村は忘れられたままなのだ。それでも最近になって、木村の著作が『表現愛』『美の形成』(こぶし書房)や『美のプラクシス』(燈影舎)として復刊されたので、また村瀬裕也の『木村素衞の哲学』(こぶし書房)などの刊行もあったので、あるいは気にとめている読者もいるかもしれないが、ふつう、「キムラモトノリはね」と言っても、たいていは通じない。
ことほどさように、西田のロマンティシズムとともに“京都学派”の全貌も、忘れられつつあるといったほうがいい。しかし、それでは日本のリベラル・アーツの基礎が見えてはこない。ぼくの見方では、ひとつには日本儒学を、ひとつには国学を、ひとつには近代東洋学を、ひとつには京都学派を、日本のリベラル・アーツの学習拠点としないでは、その後の思想の展開なんて何ひとつ語れないだろうと思うのだが、どうも、そういうふうにはなりそうもないままなのである。
本書は、そのようないまでは失われた日本のリベラル・アーツ華やかなりしころの残映を軽くスケッチふうに描いたもので、本気の教養論ではない。でも、だからこそ「京都一中」出身の、林達夫(336夜)・木村泰衛・下村寅太郎・今西錦司(636夜)・西堀栄三郎・貝塚茂樹・湯川秀樹・朝永振一郎(67夜)・桑原武夫(272夜)らの佳き日々に、描写の舞台を求めたのがホッとさせるのだった。
京都一中はその前身は明治3年に立ち上がり、明治11年から本格始動した学校である。第2代の校長が、かのフロックコートを着ていた清沢満之(1025夜)だった。
その第6代校長に森外三郎がいた。ガイザブロウと読む。本書がとりあげている「明治の教養人」のキーパーソンは狩野亨吉、夏目漱石(583夜)、内藤湖南、九鬼周造(689夜)、天野貞祐、西田幾多郎、柳田国男(1144夜)、河上肇ときて、そして、この森外三郎になる。通称、モリガイと呼ばれた。
モリガイは就任まもなく、「静思館」(内藤湖南の命名)という開架式の図書館をつくり、その図書購入から運営までを生徒の自治に任せ、その一方で「読書の栞」を全校生徒に配布した。すべての「修養」(教養とは言っていない。そのころは「修養」だった)は、すべからく読書に始まるという主旨である。巻末には「本校生徒科外読物書目」があって、100冊以上の書物リストを提示した。
中国の四書や日本の古典はもとより、新井白石(162夜)、頼山陽(319夜)、徳富蘇峰(885夜)にはじまって、丘浅次郎の『進化論講話』や木村駿吉の『趣味の電気』までが入っている。いまから見ると古めかしいブックリストだが、なるほど中学生がこのあたりを“修養”していのたかと思うと、この京都一中から三高へ、そこから京大へと進んでいったであろう当時の日本のリベラル・アーティストたちの底辺の見当がついてくる。そして、このモリガイ校長のもと、さきほどの連中が巣立っていったわけだった。
その一人に、今西錦司がいた。今西の学問の詳しいことは636夜に書いたので省くけれど、今西はもとは西陣の織元「錦屋」の嫡男だった。つまりは京都のぼんぼんなのだ。
それが京都一中で同級の下村寅太郎らとともに5年間を学び、三高・京大と進んでいくうちに、しだいに筋金入りになっていった。とくにそのあいだに、ずっと「読書」と「山」とを挟んだことが大きい。
今西の「山」とは京都周辺の1000メートルにも満たない山並みのことで、これを「山城三十山」と名付け、十人くらいで片っ端から薮漕ぎをしながら登るというものだ。それがのちのち慶応の槙有恒の山岳部と双璧をなす京大山岳部の基礎になるのだが、しかし今西が重視したのは、登頂ではなく、山を人生の“あいだ”にとりいれ、英気と養気を獲得するという塾の精神だったのである。つまり「山塾」だ。
同じく、読書も「読塾」で、仲間とともにおもしろそうな本を片っ端から読んでいくことだった。今西らにとっては、読書も“あいだ”であったのだ。
どうも、このことが最近はさっぱり理解できなくなっているようだ。教養もリベラル・アーツも、一人で身につける知識というものではなく、互いに互いが“あいだ”を深めあうことなのである。それが木村素衞のいう「相互承認」としての教養の美学というものなのだ。
しかしまあ、いまさら何を言っても詮ないことか。せめて諸君も「山塾」や「読塾」に相当するものを、早めに入手することだろう。けれども本書の著者は黙ってはいられない。そこで本書を、次の警告でおわらせた。3つの警告だ。
第1に、国語を符丁としてしか使わないうちに、その人格は解体するだろうというもの。第2は、ケータイによって他者を締め出しているうちに、諸君は世界を喪失するだろうというもの。第3に、○×式こそ諸君の思考を破壊して、世界を衰退させていくだろうというもの。
ようするに、もっと面倒な本を読めということだ。それに因んでは、辰野隆(たつの・ゆたか)の次のエピソードを加えている。辰野はジョサイア・コンドルに教わった日本の建築家第1号の辰野金吾の長男で、フランス文学研究の草分けである。門下からは小林秀雄(992夜)、三好達治、渡辺一夫(111夜)、中島健蔵、今日出海、中村光夫らの俊英が出た。
その辰野が、詩人の日夏耿之介を相手にこんな話をしていたというのだ。
「わしはね、日本はいいものを持っていると思うんだよ。ところがね、このごろ新仮名遣いなんていうものをやっている。戦争に敗けたから国語まで敗けなければあいすまぬなんて、こりゃ目茶ですよ。鵞鳥のアホダラ経で、オケラの三下りだ」「国語を簡単にすれば文化が進むと思う、その頭の悪さ。あれらは敗けた者の卑屈な魂が入ってる。国語でもいじろうかなんてのは、下々の下だ」。
もはや何をか付け加える必要があろう。ぼくもがっかりなどしていずに、なんとか日本のリベラル・アーツの底上げのために「千夜千冊」していくべきなのだろう。
では、久々にその「千夜千冊」のアクセス数の報告をしておこうかと思う。これが現在の日本のリベラル・アーツのなにがしかの尺度になるかどうかはわからないけれど、せめてこんなところにでも「ニッポンの教養」との紐帯の一部を依拠させたくなる気分なのだ。
もっとも、この結果を見ると、まだまだホッとするところが少なくない。なにしろ世阿弥もダンテも、マルケスも柳田も、道元も白川静も『AKIRA』も入っているんだから。Aが9月のアクセス・ランキング、Bが通算である。次回は上位100冊とか300冊を紹介してみたい。