才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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レ・ミゼラブル

ヴィクトル・ユゴー

岩波文庫 1987

Victor Hugo
Les Miserables 1862
[訳]豊島与志雄

 書きたいことも、書かなければならないことも、書いたほうがいいだろうこともいっぱいある。作家はいつもそう想っている。ユゴーなら、たとえばグロテスクについて、アナンケについて。グロテスクは石っぽいことを、アナンケは運命っぽいことをいう。
 読者はどうか。読者だって読みたいことも、読んでおきたいことも、読みこんでみたいこともいっぱいある。今夜はいったい何が「レ・ミゼラブル」なのか。何が「ああ無情」なのかということをめぐりたい。

 黒岩涙香が翻案した少年少女向け『ああ無情』(初期の標記は『噫無情』。明治三五年から「萬朝報」に一年間連載)を、何度も読んだ。ぼくたちがさしかかるかもしれない人生の全部が書いてあるのかと見えた。それからずっとたって、岩波文庫の『レ・ミゼラブル』が七冊にもなることを知って、びっくりした(最近、この七冊が分厚い四冊組になった)。これはアレクサンドル・デュマの子供用『巌窟王』が大人用の『モンテ・クリスト伯』では文庫七冊になるのに次いで、びっくりしたことだ。
 そのうち、これも少年少女向けの『ノートルダムの傴僂男』としてドキドキしていた『ノートルダム・ド・パリ』(岩波文庫)を読んだ。こちらのほうがユゴーと向きあった最初だったろう。胸を突き上げるような痛切と哀歓がある。奈落と天界を脱兎のごとく昇降する落ち着かない感情が走る。両極に離れあう美醜の二者がくんずほぐれつ溶融していった。それが、まわりまわってノートルダム寺院の石造構造そのものであったという根本結構を提示していただなんて、ユゴーという表現者はいったいどこまで凄いのか、どこまで知っているのか、そういう感銘をもった。
 ついでに言っておくが、ユイスマンスの『大伽藍』(光風社出版→平凡社ライブラリー)もマンディアルグの『大理石』(人文書院)も、結局は『ノートルダム・ド・パリ』だということだ。

 ずっと感じていたことだが、ユゴーの言う「レ・ミゼラブル」は英語にならない。英語の「無情」は“ruthless”で、少しカジュアルに言っても、“stonyhearted”とか“cold”とか“cruel”になって、冷酷無情というふうになる。フランス語でも「無情」にあたるのは、“impitoyable”で、英語に近い。
 仏教語にも「無情」はあるが、こちらは「有情」に対比する言葉で、生命の息吹が与えられていないものという意味になる。ユゴーの「レ・ミゼラブル」はこれらから離れて「みじめな人々の物語」というニュアンスが強い。「みじめ」なら英語は“misery”などになるけれど、これは苦痛や不幸や不平がともなってきて、またまたユゴーっぽくはない。
 それなら和語の「あはれ」が近いかというと、そうでもない。「もののあはれ」は日本的王朝感覚がとらえた様子を感嘆する。ユゴーの無情は社会や人間に向いている。しかしあるとき、ユゴーにも様子を見るクセがあったのではないかと思うようになった。
 
 遅ればせながら、ジョン・ラスキンを読んでいて知らされた。ひとつは、ユゴーがフランス最大の詩人であったことである。『静観詩集』(潮出版社・ユゴー文学館1)は神秘が圧倒していた。
 もうひとつは、ユゴーが自然観照においても他を抜きん出て、その岩石や鉱物に充ちた山塊を描いた絵画に、ラスキンがターナーに匹敵する賞賛をおくっていた。さっそく調べまわってユゴーの絵をいくつも見たが、その通り。まさに岩石と鉱物が如実なタッチで表現されていた。そこには、あきらかに「グロテスク」(岩塊的観照性とでも訳しておきたい)の本質に迫る表現力が横溢していた。なんだそうか、そうか、グロテスクの讃美はユゴーこそが近代における確立者だったのかと了解できた(だから石造のノートルダム寺院なのである!)。
 これものちに知ったことだが、このことはガストン・バシュラールもうすうす気がついていた。バシュラールは文学が「稠密な箱」であると見抜いていた。そこに「意志」があると見抜いていた。ユゴーは、このグロテスクを自然そのものがもつ宿命と人間がもつ宿命との「意志の対比」として理解した。だからこそノートルダム寺院では聖職者フロロと怪人カジモドが対照されたのである。
 というわけで、ヴィクトル・ユゴーはとんでもない。説明がつかないようなことを仕出かしている。そのユゴーが日本語にすると四〇〇字詰にして約五〇〇〇枚をかけて「無情」という刻印をした。どんな刻印だったのか。
 
 ヴィクトル・ユゴーは十九世紀フランスそのものである。一八〇二年に生まれて一八八五年に八三歳の生涯を閉じたからではない。
 第一に、父親があまりにナポレオン主義者だった。ユゴーが生まれたのはナポレオンが皇帝になった二年前で、そのまますぐにマルセイユ・コルシカ島・エルバ島・ナポリに、ナポレオン軍の将校だった父とともに転々とした。まるっきりのナポレオン同行者だ。ナポレオンは正真正銘の情熱的なナショナリストであって、王位簒奪者であって、革命実行者である。そのナポレオン軍の日々をユゴーの父が一途に追ったことは、ユゴーをたえず政治的騒動にまきこみ、愛国思想を植え付けた。
 第二に、ユゴーが生きたフランス十九世紀はその政治体制が史上まれにみるほどに変転きわまりなかった。政治文化もめまぐるしく動いた。イタリアや幕末明治の比ではない。トップに立つ者の交替が過激に政治文化をいちいち色付けた。そのなかでユゴーは父譲りの王党派にいたことで、ゆさぶるような激動に巻きこまれる。ナポレオンが崩落したのちに王政復古をとげ(一八一四~一八三〇)、それが壊れて(七月革命)、オルレアン家のルイ・フィリップによる立憲王政になり、さらに一八四八年の二月革命で第二共和政になったかと思うまもなく、ルイ・ナポレオンが出てきてクーデターをおこし、ナポレオン三世となって第二帝政になった。
 ユゴーはこのときナポレオン三世に接近した状態にいて、王党派議員にさえなったのだが、やがて関係は冷え、ベルギーに引っこんだ。ところがナポレオン三世はプロイセンと普仏戦争(一八七〇〜七一)をおこしてあっけなく敗退して、スダンで捕虜になってしまう。この混沌を突いておこったのが、かのパリ・コミューンの動乱である。青年ランボオがちょろちょろしていた。
 ユゴーは政府軍の苛酷な弾圧に怒りを禁じえず、コミューン参加者がベルギーに亡命してくるなら自分が保護するという声明を出した。めまぐるしい変転のなか、政治文化そのものがつねに色付きと表情と価値観を変えた。そんな逆向きの気運が、あのフランス革命をおこした自由・平等・博愛の国でおこったのである。
 これらのことは近代史のなかでもそうとうに特異な出来事で、このことを勘定に入れないでは、近代フランス文学は一も五もわからない。このなかでバルザックもスタンダールも、ラマルチーヌもシャトーブリアンも、フローベールもランボオも、その精神を動乱させた。

 第三に、十九世紀フランスの中葉を飾ったのはロマン主義であって、その中心にユゴーがいたということだ。
 フランスにおけるロマン主義は長めに見ると一八三〇年から一九三〇年にまでわたっているが、その最初の絶頂を「フランボワイヤン(真紅)のロマン主義」という。フランボワイヤンをひっさげて、ユゴーはロマン主義の頂点に立った。『ノートルダム・ド・パリ』も『レ・ミゼラブル』も浪漫真紅な文学のド真ん中をつくった。
 これは何を意味しているかというと、ギリシアやローマに対する憧憬を下敷きにした古典主義と擬古典主義が崩れて(それはディドロあたりで先駆していたのだが)、文学が自国自民族の歴史や文化に回帰しようとしたことをあらわしていた。加えてスタール夫人やシャトーブリアンによってカトリシズムが復活し、その動きをまきこんだラマルチーヌによって王党主義が芽生えていた。
 日本でいうなら中国的な漢意を捨てて古意に入るということになるけれど、フランスのばあいは封建幕藩体制ではなくて、すでにフランス革命をおこした近代ブルジョワ社会があった。そのため王党主義はもうひとつの革命意識であったプロテスタントの宗教革命を切り捨て、ナショナリスティックなロマン主義を波及させていった。
 ユゴーの拠り所はここにあった。ユゴーが創刊した「コンセルヴァトゥール・リテレール」という雑誌の名前に、このことは端的に象徴されている。「文学保守」という意味である。
 
 第四に、ロマン主義擡頭のこの時期は、劇場性と演劇性が芸術文学活動の切り札になっていて、この面でもユゴーは颯爽と先頭に立っていたということがある。とくに有名なのはエルナニ事件だ。
 七月革命直前(一八三〇)、ユゴーの『エルナニ』(岩波文庫)がコメディ・フランセーズで初演され、古い文学と新しい文学の衝突現場となった。このときユゴーを奉じる青年たちは劇場に陣取って、沸き上がる野次を制して舞台を圧倒的成功に導いた。王党ロマン主義は『エルナニ』の舞台によって確立したといってよい。ついでに言っておくけれど、近代フランスにはこういう舞台をめぐる闘争の習俗があるからこそ、アルフレッド・ジャリやトリスタン・ツァラやディアギレフやジャン・コクトーの劇場闘争が、たえず芸術運動の意相を破る突破口になってきたわけである。
 第五に、これも看過できないことだろうが、ユゴーには降霊術に心酔した時期があった。右にも書いたように、ユゴーはナポレオン三世の追捕を逃れてベルギーのブリュッセルに引っこんだのだが、その期間、ジャージー島に滞在する。この島は風光明媚な外観とは裏腹に、なんと幽霊がひんぱんに出る島だった。そこへもってきてユゴーをぞっこん気にいった驕奢なジラルダン夫人が島に乗りこんできて、毎夜、降霊術の宴を開くようになった。最初のうちユゴーには迷惑だったらしいのだが、ところがある夜、テーブルが動いた。それだけでなく、セーヌ河に溺死してそのころのユゴーを悲しませていた愛娘の霊が出た。
 これでユゴーはすっかり心霊神秘主義に浸っていく。『静観詩集』はこの時期の感覚が言葉になっていて、W・B・イエーツに共感がある者なら、こういうユゴーの詩は見逃せない。しかし降霊術もやはりこの時代の典型的な産物なのである。流行だった。ユゴーはこうした十九世紀フランスの時代の潮流の大半を呑みこみ、その光景に紛れていったのだ。
 
 このような背景と体験をもってユゴーは『ノートルダム・ド・パリ』を書いた。大聖堂司教補佐のクロード・フロロ、大聖堂の前庭で踊るロマのエスメラルダ、そのエスメラルダにありったけの純情を寄せる鐘つき番のカジモド。この三人が寺院を舞台に三つ巴に絡まった。
 聖職者フロロはカジモドにエスメラルダを攫わせておいて、密かな欲望を成就しようとした。エスメラルダは王室近衛兵の隊長に心を奪われていて、フロロはそれが許せない。フロロは我が身を制御できずに、策略を用いてエスメラルダを絞首刑にする。そこでカジモドがフロロを殺す。
 こういう設定は対比された宿命を石造的に描こうとする「グロテスク」の方法をユゴーが独自に文芸的に獲得したということであって、また「アナンケ」(運命・宿命)の主題にユゴーが立ち向かったということである。
 ユゴーはこの作品で二つの実験をしてみせた。ひとつは、パリそのものであるノートルダム寺院を舞台にすることによって、ギリシア・ローマ型の古典主義に颯爽と反旗を翻し、古典をつかわずとも、普遍的な物語が現出しうることを見せた。もうひとつは、もはや時代遅れになったカトリックと王党ではない民衆にこそ、普遍的な物語がひそんでいるということを告げた。聖職者フロロの追落した欲望を描ききったことは、こうしてユゴーを新たな問題に向かわせる。そこに待っていたのがフランス全体としての「無情」だったのである。 

 「無情」には「悪」が寄り添っている。ナポレオン三世の悪、社会にすだく悪、一人の聖職者を襲う悪、自身にひそむ悪だった。それぞれ吟味のうえに発表された『懲罰詩集』『リュイ・ブラース』『静観詩集』をへて、ユゴーは社会と人間の深淵から聞こえてくる喇叭の音に、悪が交じっているのを聞き分ける。
 この悪はいったい何なのか。どのように悪が排除できないことを認識すればいいものか。そこで『サタンの終わり』を詩の構造をもって描き切ろうとするのだが、ここには神や天使が出すぎていて、うまくいかない。それをするならダンテではないが、やはりウェルギリウスの古典に倣うほかはない。それはすでに十九世紀フランス・ロマン主義が捨てた光景である。ユゴーは『サタンの終わり』を未完のままに放置する。
 やがてユゴーが選んだのが、現実社会そのものに巣くった神と悪魔を、天使と闇を、贖罪と宿命を、ことごとく描ききることだった。まずは『諸世紀の伝説』(潮出版社・ユゴー文学館1)に世界の伝説をすべて埋めこんだ模型をつくった。最近は、この詩集こそがユゴー文学の解読の鍵だと騒がれている作品だ。ぼくが見るには、これは詩語を懸命に駆使した世界模型なのである。いってみれば、江戸社会の歌舞伎における『忠臣蔵』なのだ。そうだとするなら、ユゴーはもうひとつの鏡像として『東海道四谷怪談』を書かなければならなかったのだ。『レ・ミゼラブル』はこうして準備されていく。
 
 フランス・ロマン主義が古典主義を切り捨てた。ユゴーたちは、フランス語で文芸をするにあたって古典主義がかかえる面倒な規則を離れたのだ。
 古典主義では「モ・プロプル」(そのものずばりを示す言葉)を好まない。たとえばハンカチのフランス語は「ムーショワール」だが、これは「鼻をかんでやるぞ」(ムーシェ)という言葉からできている。こういう言葉をダイレクトに使わないのが古典主義というものだった。迂言法あるいは婉曲語法だ。これを「ペリフラーズ」(Périphrase)といった。だからアルフレッド・ド・ヴィニーがロマン派の初期の旗手として「ムーショワール」をシェイクスピアの翻訳のなかで使ったときは、たいへんなスキャンダルになった。そのほか「アンジャンブモ」(句またがり)や「三単一の規則」など、いろいろがある。こういうぺリフラーズをフランス・ロマン主義は一掃した。
 けれども問題は、このようにして古典主義のレトリックを捨てたからといって、言葉の暗示性を失うわけにはいかないし、ましてや意味の暗示性を破棄することは不可能だということである。そこでユゴーが試みたこと、それは現実の出来事をあらわすリアル=ヴァーチャルな言葉によって多重な暗示性を取り戻すことだった。
 ユゴーは多くの現実にみずから介入して、その行動や出来事がもつ二重多重の意味を体験するようにしてみた。そのために劇場で闘い、議員になり、亡命し、降霊術に耽り、コミューンの志士を受け入れた。こうした体験は、ユゴーにとっては「ペリフラーズ」に代わる言葉そのものであったのだ。それは新たに装着された近代言語によるリアル=ヴァーチャルな意味の武器だった。それを詩にし、劇にしているうちに、ユゴーは気がついた。意味の武器による砲列は、まだ文芸者たちが体験したことのない相互に矛盾しあう悲劇をつくりだしていることに気がついたのである。
 かくしてユゴーは、近代言語による周到な物語そのものを「レ・ミゼラブル」と名づけたのである。ああ無情とは、言葉がそこへ至れば必ずおこりうる根本矛盾をあばいてしまう最終暗示力のことだった。

 いまさら筋書きを言うまでもないだろうが、『レ・ミゼラブル』は四六歳の貧しい男が驚くべき自制と魂を奮わせる努力によって更生し、十八年にわたる「力と愛と罪」のすべての波濤と間隙を生き抜くという物語になっている。
 男はジャン・ヴァルジャン。一片のパンを盗んだ科でトゥーロンの徒刑場で十九年を服役し、その後も行く先々で冷たくあしらわれてきた。一八一五年十月、ディーニュの司教館に入ってみると、ミリエル司教は温かく迎えてくれるのだが、銀食器を盗んで立ち去った。たちまち逮捕されたところを司教の機転と慈愛が放免をもたらした。
 四年後、男はマドレーヌと名のって黒いガラス玉と模造宝石の商いで成功し、その人格が慕われてモントルイユの市長に選ばれた。その四年後、かつてマドレーヌの工場で働いていたファンティーヌがその後は売春婦となって病いに倒れていた。あるいざこざをきっかけにファンティーヌに出会ったマドレーヌことジャンは、その三歳になる娘のコゼットを預かって養育する。
 コゼットを迎えにいく矢先、マドレーヌはある男(シャンマティユー)が自分とまちがわれて逮捕されたということを、私服警官ジャヴェールから聞かされ、逡巡のすえ自分が実はジャン・ヴァルジャンであることを明かした。ファンティーヌの病室でいままさに捕縛されるジャンを見て、ファンティーヌはショック死してしまう。ジャンはその夜のうちに牢屋を抜け出すのだが、数日後に捕らえられ裁判にかけられた。
 終身刑だ。トゥーロンの徒刑場に送られたジャンはコゼットのために何としてでもここを脱出しなければならない。徒刑場の事故に紛れて五度目の脱獄をはたした。
 一八二三年のクリスマス・イヴがやってくる。村はずれの泉で会ったコゼットは八歳。宿屋の女中としてただ働きさせられ、虐待されていた。怒りに唇をふるわせながら、ジャンは宿屋夫妻に一五〇〇フランを叩きつけてコゼットを抱きしめる。パリに逃げるとゴルボー屋敷に身を隠した。

 話はここまで息も切らさず読者のやきもきを運ぶ。ここにマリユス・ポンメルシーという貧乏学生が登場し、ジャンと連れ立ってリュクサンブール公園を散歩するコゼットを見初めてからは、新たな展開になる。
 マリユスは幼い頃に母を亡くして祖父に育てられていたのだが、十七歳でナポレオンのもとに仕えていた父の死でボナパルティズムに傾倒し、いまは共和派秘密結社「ABCの友」に属する。コゼットはそのマリユスに惹かれた。コゼットに全身全霊を傾けてきたジャンにとって、マリユスの眩しい愛は少なからぬ葛藤をもたらすものだったが、そこにはもっと大きな時代趨勢の波が押し寄せてきていた。物語は刑事ジャヴェールの行動と決断、マリユスの家族の心境、コゼットのひたむき、犯罪集団(パトロン゠ミネット)、結社ABCの友のメンターたちの挙動、マリユスの意志などを次々に巻きこんで、巨きなレ・ミゼラブルの軌跡を散らばらせていく。
 ナポレオンの没落、ルイ十八世・シャルル十世の復古王政、七月革命、ルイ・フィリップの王政の断行、そしてやがて来る一八三二年の六月暴動に及ぶジャン・ヴァルジャンの十八年間は、かくして非情に包まれ、愛と罪におののき、宿命の変転をそのままに、六四歳で閉じた。
 ぼくはもう『レ・ミゼラブル』を読むとは思えないが、この物語を大人になってあらためて観照できたことを、いまは少しく歓びたい。

脱線の一章「隠語」の挿絵。
ユゴーは隠語を社会の底辺にうごめく怪物に見立てた。

 ヴィクトル・ユゴーは、十九世紀フランス人間社会の動向の大半を言葉にしてみせたお化け鏡だったと思う。だからこそその作品が瞠目すべき「言葉の社会」の出現となった。「社会の言葉」ではない。「言葉の社会」である。文学とは、ここまでするのかという出来事そのものを書いた。
 言葉が言葉を殺し、言葉が言葉を救いあう。言葉が言葉を犯し、言葉が言葉を再生する。近代言語による完璧な物語とは、そういうものなのだ。ああ、無情。
 ユゴーの実験は近代文学のひとつの到達点だった。それゆえこのあとに続いたゾラは「言葉の社会」を「血と家の社会」の実験に深めていけた。けれどもそこから世紀末に向かっては転換がおこらざるをえなかった。ヴェルレーヌやマラルメやボードレールが物語から脱出して、都市の一隅に象徴の破片を見いだしていく。もう王家の物語などはなく、都市には貧富と商品と麻薬がとび散っていた。
 さらに二十世紀になると、いっさいの文学はロマンを切り崩し、その奥に感情すらもちえない実存をさぐることに課題を見いだした。
 ではスタンダールやバルザックやユゴーがいなくなったのかといえば、そうではなかった。そのうちに、ふたたびユゴーやデュマがもつ物語の悲劇性に再帰しているジャンルが躍り出てきた。ひとつは、ありとあらゆる大衆小説やメディアの中に再生されていったメロドラマというものだ。ハリウッドと松竹が引き受け、チェーホフと菊田一夫と「オール讀物」が引き受けた。大衆小説こそロマン主義の王道となったのである。