才事記

ゼビウスと横須賀功光

ぼくの半生はさまざまな才能に驚いてきたトピックで、髪の生え際から足の親指まで埋まっている。小学校の吉見先生との一緒の遊びや南海ホークスの飯田のファースト守備に驚き、藤沢秀行の碁の打ち方や同志社大学の平尾ラグビーに驚き、電子ゲーム「ゼビウス」のつくりや井上陽水のシンガーソングぶりに驚き、亀田製菓の数々の「サラダあられ」や美山荘の中東吉次の摘草料理に驚き、横須賀功光が撮った写真やコム・デ・ギャルソンの白い男物シャツに驚いた。

ファミコンゲーム《ゼビウス》

いずれも予告なし。ある日突然に出会ってたまげたのだ。これらの代わりにマイルス・デイヴィスを聴いたときとかヴィトゲンシュタインを最初に読んだときとか、そういうものを挙げてもいいのだが、できればナマっぽく体験したことと向き合ったほうがいいので、こんな例にした。

まずは何に驚いたかということが大事なのだが、それにとどまってはいけない。そのときこちらを襲ってきた唐突な感動が、その日その場のシチュエーションや当日の体調や別の記憶との共属関係とともに新たに残響してくることが、もっと大事だ。

われわれは当然のことながら、幼児期には何にでも驚いてきた。子供になってからもアサガオの開花やセミの羽化に出会ったこと、土中の化石やホタルの点滅を初めて見たのは、忘れられない体験だ。ただし、これら植物や動物を相手にした感動はのちにも体験可能になる率が高いけれど、それにくらべて誰かがもたらしてくれるものは、その時その場にかぎられることが多い。

この誰かによる感動とどう付き合えるかということから、世の「才能」というものへの陥入がおこっていく。

感動や共感について心すべきことは、出会って驚いた瞬間の感動というか逆上といったものを、その後どのように保持できる状態にしておけるのか、またその感動をここぞというときに脳裏から自在にリコール(リマインド)できるようにしておけるのかということにある。

感動も共感も誰にだっていろいろの機会におこるものだけれど、それをどこかに転移しても(時と場所とメディアを移しても)、その鮮やかさをそこそこ賞味できるかということが、キモなのである。

たとえば、誰かの講演を聞いて、おおいに痺れたとする。内容にも共感したとする。では、この感動をどのように保持するかなのである。またどのように再生するかなのである。これがけっこう難しい。

驚きをもたらしてくれたものには、当然にそれをあらわした当事者の才能が光っている。横須賀のモノクロ写真や陽水の歌においてはあきらかに格別の「個の才能とスキル」が発揮されたのだし、「ゼビウス」や「サラダおかき」には開発チームの「集団的で統合的な才能」が結実したのである。しかし、その秘密に分け入るには、たくさんの分析や推理が必要だ。

たとえば第1に、その才能が開花するにあたっては、少年少女期や青春期に何をめざしていたのかということがある。栴檀は双葉より芳しと言うけれど、小さいころの能力の芽生えがそのまま開花することは少ない。なんらかの深堀りやエクササイズが生きたはずなのだ。横須賀や陽水はそこをどうしたのか、これは覗きにいく必要がある。

第2に、その才能開花に預かったメンターや技の協力者やチームはどういうものだったのかということがある。ゼビウスはどのようにチームを組んだのか。一人で独創をはたしたかに見える棟方志功だって、実はたくさんのメンターがいた。志功はそのメンターに強く影響されたいと思った。指導者や師や影響者の存在は、メンターの資質に選択肢があるというより、むしろその師に掛けたほうの強度がモノを言う。

のちのちそんな話もしたいと思うけれど、ぼくの場合はいったん選んだ影響者のことを、その後もまったく疑うことがなかった。

また第3に、その才能によってどのように同時代の競争を抜きん出たのか、そこにはどんな時代の水準がわだかまっていたのかということも才能分析の対象になる。セザンヌが人気があったときとカンディンスキーが「青騎士」として登場したときとウォーホルがシルクスクリーンで登場したときとでは、時代のアイコンも驚きの関数も違っていた。そのため、その時々の勝負手がちがってくる。こういうときは、自分で才能を懸崖に立たせる必要がある。イチかバチかに向かう必要がある。

横須賀功光《射》

横須賀功光が颯爽と出現したときは、日本の写真界はキラ星がひしめいていた。ファッション写真や広告写真で腕を磨いた横須賀は、ここで全裸の若者をモデルに『射』というモノクローム作品に挑んだ。若者が壁に向かって跳び移ろうとする肉体を、撮ってみせたのだ。ライティングも絶妙だった。誰も見たことがない写真だった。

第4に、才能開花のためのエクササイズやレッスンや機材はどういうものであったかということがある。棟方志功のように「板と刀」だけが武器だということもあるけれど、多くの場合、才能開花にはいくつもの道具や機材が関与する。レンブラントの版画には日本から取り寄せた和紙が、プレスリーのギターにはマイクやアンプの性能が、アンセル・アダムスのf/64のカメラにはレンズやプリントペーパーの質がかかわっていた。

顔料やコンピュータをどう使うか、録音機やプロジェクターをどうするか、釉薬や鉄材は何を入手するか。テクノロジーは才能の信頼すべき友人なのである。このことも才能にまつわっている。

ぼくは執筆には、いまだにシャープの「書院」を使っている。発売されていないだけでなく、いまや修理ができる工房もない。

第5に、なぜその当事者たちは「ゾーン」に入れたのかということだ。才能に自信がもてるには、どこかでゾーン体験がいる。ゾーンに入るとは、予想を超えるノリに入ったことをいう。俗にエンドルフィンやアドレナリンが溢れることだ。

しかしながら、為末大が言っていたけれど、あるときゾーンに入っていけたとしても、その継続は必ずしもおこらないし、その手前でそうなるとはほぼ気が付かないものなので、そこをどうするか。そのため、アスリートの多くはゾーンを思い描いたイメージ・トレーニングをしたり、ルーチンを確実なものにしていくということをする。

けれども意外なことだろうが、スポーツ以外ならいくらだってゾーン体験は引き寄せることが可能なのである。一番有効なのは誰かとコラボすることだ。スポーツは必ずチームや相手がいてスコアを争っているのだが、他の才能開花は一人で自分の才能の発揮に悩む。そういうときは、誰かとともにその才能を試すのがいい。編集能力の発揮なら、学習仲間とともにさまざまなことを試みたり、メディアを変えたりするといい。

たんに感動したといっても、そこにはざっと以上のようなことが準備されていたり、参集していたのである。これらを無視しては才能は発揮できないし、才能を云々することも叶わない。

しかし、ここまでの話は、ぼくがこのコラムであきらかにしたいことの範疇のうちのまだまだ一端にすぎないのである。どちらかというと、ここまでは才能議論の準備やアプローチに必要なことで、実は序の口の話なのだ。クロート向きとは言えない。
 才能に痺れたのちに重視してみたいのは、驚かされた相手の才能は当方(受容者)にどのように伝播されたのか。その後はどうなっていったのか、ここを抉るということだ。

ラグビーの平尾やシンガソングライターの陽水の才能は、ほおっておけばすぐに「スポーツの才能」とか「音楽の才能」というふうに一般化されてしまう。また他のプレイヤーとの比較分布にマッピングされていく。ジャンクフードや料理の個別の感動は、たちまち無数の「おいしさランク」にいいねボタンとして回収されて、平べったくなっていく。

ゼビウスはその後は無数の電子ゲームが乱舞していったので、おそらくいま遊んでみても当初の感動は色褪せているにちがいない。

愛用の”お古” シャープ《書院》

コム・デ・ギャルソンの黒い紐付きの白シャツはいまでも気にいってはいるけれど(イッセイのスタンドカラーの白シャツなどとともに)、それははっきりいって「お古」なのである。

が、大事なのはこの「お古」との付き合いのうちにも、あのときの感動とそれをもたらした才能とを交差させられるかどうかということなのだ。

そもそもプラトンも人麻呂もバッハもゴッホも複式夢幻能も、これらはすべて「お古」なのである。「お古」だからこそ、何度もプラトンを読みなおしたり能楽を見なおしたりするのだが、そしてそれで少しは自分が感動した才能の位置や重みに気がつくこともあるし、少しは「お古」を脱したと感じるのだけれど、これでは甘いままになる。それよりむしろもっと「お古」を相手に才能と向き合うべきなのである。「お古」をバカにしてはいけない。

これは思うに、感動は転移しつつあるあいだも(AからBに、BからCやDに)それなりの主張をしているはずなのだから、その転移のなかでの様変わりな変容も捉えておいたほうがいいだろうということだ。ぼくが何を一番鍛えてきたかといえば、おそらくはこの「お古」をいつも甦らせる状態で自分の編集力をリマインドしたりリコールできるかということだった。

感動や驚嘆には才能の楽譜やレシピが刻まれている。ぼくの編集力はそのことをヴィヴィッドな状態でホールディングしたり別の場所にキャリングする(移行させる)ことを、試行錯誤をくりかえしながらも何度も試みることで、そこそこ鍛えてきたように思う。ただし、そこにはいろいろの秘伝もある。そのあたりのこと、おいおい話してみたい。

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ヘルダーリン全集

フリードリッヒ・ヘルダーリン

河出書房 1966

Johann Christian Friedrich Hölderlin
[訳]手塚富雄・浅井真男・川村二郎ほか

人の住む生の世界が遠ざかり
葡萄の時の輝きもはるかになれば
夏の野はうつろにひろがり
森は黒々とかたちをあらわしている

かつて別れ道で  倒れ伏したとき
さらに美しいものを見せ慰めてくれたものよ
大いなるものを見 さらにたのしく  神々と歌えよと
静かに鼓舞して  舞い上がったものよ
神々の子よ
またあらわれ  私にあの挨拶をおくってほしい

ああ  影の国の静寂
銀の山はその上に煌めき
そこは太古の紛糾が回帰する
そういう夜であれ

 八月十四日に小夜子が逝った(二〇〇七年)。愕然とした。茫然とした。一昨夜の九月十九日夕刻から、「山口小夜子さんを送る夜」が築地本願寺本堂で催された。ぼくは最前列で三宅一生さんと福原義春さんに挟まれて、ずっと万感の思いを去来させていた。この日は小夜子の五八回目の誕生日だったのである。
 築地本願寺から仕事場に戻ると、さすがになにもかもが脱力していた。自分の足を感じない。喋る気もしない。何もする気がおこらない。真夜中、誰もいなくなった仕事場で、ふらふらと一階の書棚を見にいった。真っ暗だ。ちょっと明かりを入れて、書棚を眺めていた。とうてい所在のないことだったのだが、ふいに『ヘルダーリン 省察』の背文字が目にとまった。
 ああ、ヘルダーリン。そうか、ヘルダーリンがいた。ヒュペーリオンが待っていた。いや、舞っていた。ああ、そうか、これかもしれないと思った。それからまた一夜がたった。どうしようかと迷いながら、いまヘルダーリンの数冊を開けている。小夜子、そんなことなので、今夜はちょっとだけヘルダーリンを贈ることにします。しばらく何も考えないで綴るから、どこかで聞いていてください。

  遠くからわたくしの姿が
  あのお別れのおりに まだあなたにわかるとき
  過去が
  おお わたくしの悩みにかかわりをもつものよ

 フリードリッヒ・ヘルダーリンという詩人がいました。ぼくが早稲田時代にハイデガーに導かれて、傾倒した詩人です。詩人ですが、ドイツ観念哲学を代表する一人でもありました。いつか書きたいと思ってきた。ヨハン・クリスティアン・フリードリッヒ・ヘルダーリン。とてもいい名前でしょう。
 一七七〇年に南ドイツのネッカール川のほとり、ラウフェンというとても小さな町の生まれです。このあたりはシュヴァーベンといって、シュトゥットガルトの森とともに、ドイツの森の中でもとても美しい。ケプラーもシラーもヘッセも、ここに育っています。シュヴァーベンは宗教的にも敬虔な風土をもっていた土地です。
 ヘルダーリンはこういう風土で育ったんだけれど、二歳でお父さんを亡くしているから、父親の記憶というものがありません。小夜子もお父さんとお母さんを亡くし、一人っ子として育ったと聞きました。子供の頃は横浜のフェリス女学院近くのお墓で遊んでいましたね。一人っ子の遊びって、特別だものね。でも、ヘルダーリンには妹がいた。こういうちょっとしたちがいが、どこか人生のロマネスクやアラベスクを、そしてジャパネスクを変えていきます。
 それからラテン語の学校に行き、僧院学校に入り、寮生活をおくります。ヘッセもそういうことをいっぱい書いたけれど、ドイツのギムナジウムの寮って、なんだか不思議だね。禁欲的であって、でも精神はたいてい聖人のように淫らになっている。
 その後、ヘルダーリンはテュービンゲン大学の神学校でゆっくり精神を磨きます。ちょうどパリではフランス革命の狼煙が上がったころのことです。その神学校でヘーゲルとシェリングと知りあいました。この三人はたいへんな仲良しです。

  森を出て春の野へさすらいゆく
  こよなく美しい姿をした女神の子
  その威厳ある似姿を与えるために
  女神は劫初におまえを選んだのである

 青年のころのヘルダーリンは、ピアノやヴァイオリンやフルートを愉しんでいます。でも一番に好きだったのは読書だったらしく、古典のほかに、シラー、シューバルト、クロプシュトック、オシアンなどを耽って読んでいる。なかでもクロプシュトックが好きだったようです。クロプシュトックは日本ではほとんど知られていないけれど、当時の文芸界で最も予言者的な詩作品を書いていて、「生と神」とをつないでいく言葉を尽くしていた人です。そのクロプシュトックにヘルダーリンは心の底から震えたようなんだ。びり・びり・びり。バリ・バリ・バリ。
 ヘルダーリンは、同じ歳のヘーゲル、五つ下のシェリングとよく議論するようになっていきます。シェリングは飛び級で入学してきた天才です。とてもアタマがいい。いま読んでも、たいへんに切れ味がいい。そのシェリングを含めて、この三人は竹馬の友でした。ヘーゲルはそのときすでに「おやじ」と呼ばれていました。
 三人はいつも同じ議論をするのが好きでした。それは「一にしてすべて」ということです。ギリシア語で「ヘン・カイ・パン」(hen kai pan)と言います。「一・に・し・て・す・べ・て」。それを何度でも議論したらしい。三人にとって、その「一にしてすべて」に向かっていくことが生涯の夢だったんですね。いい言葉だよね。小夜子の「一にしてすべて」は、どんなものでも着てしまうということだったよねえ。

  高く わたしの精神は昇ろうとした
  しかし愛は やさしくそれを引きもどす
  悩みはもっと強い力で その軌道を下にたわめる
  それがわたしの生の行路の 虹だ
  こうしてわたしは 大地から出て 大地へもどるのだ

 ま、そういうことで、神学校を中心にした若き日々はヘルダーリンにいろいろのものをもたらした。そしてこのあと、しだいにギリシアに向かっていくようになりました。古代のギリシア。もう世界から消えかかっているギリシアです。
 これはヴィンケルマンの『古代美術史』(中央公論美術出版)とシラーの『ギリシアの神々』を読んだのがきっかけです。この当時の詩人はみんなこの二冊を読んでいたものです。やっぱり、まずはプラトンに畏敬をもったようです。
 そんなヘルダーリンも、いよいよ学校生活を離れて就職しなくちゃいけなくなってくる。お母さんは聖職者になることを希望していたようだけど、ヘルダーリンは僧服だけの人生をおくる気はありません。小夜子がいろいろな服を着たように、一種類だけの人生をおくりたくはなかったらしい。そこでホフマイスターになる。家庭教師です。当時はホフマイスターといえば、ほぼ住み込み。ヘルダーリンもテューリンゲンの貴族っぽいフォン・カルプという家に入り、その次はフランクフルトの銀行家ゴンタルト家に入ります。
 その間に、フィヒテの知識学の講義を聞いたこと、ゲーテやヘルダーといったドイツ・ロマン派の綺羅星たちと出会ったことが、その後のヘルダーリンに大きな影響を与えたようです。こうして構想したのが、かの傑作『ヒュペーリオン』でした。

 

17世紀のフランクフルト(メーリアンの銅版画)

 傑作『ヒュペーリオン』はヘルダーリンの唯一の小説です。「ギリシアの隠者」という副題になっている。ギリシアの隠者なんて、かっこいいでしょう? インジャ、ニンジャ、ナンジャ、ナジャ。
 独立を志すギリシアの青年ヒュペーリオンの物語で、ディオティーマという女性に理想的な愛を捧げようとするのですが、ディオティーマは病いで死んでいく。悲嘆にくれたヒュペーリオンは祖国にも失望し、しだいにギリシア風の隠者になっていくという、そういうちょっと悲しい話です。ヒュペーリオンはもともとはギリシア神話に出てくる青年で、天体や季節を司っていたと言われます。ヘルダーリンの物語は、青年ニーチェやハイデガーが愛読しました。

  光のなか 空高く
  しなやかな床に歩をはこぶ 浄福の霊たちよ
  きらめく神の微風は
  霊たちへ かろやかにそよぐ
  楽を奏でる乙女の指は
  神聖な絃にふれるかのように

 ヘルダーリンが『ヒュペーリオン』に登場させたディオティーマは、フランクフルトのゴンタルト家の夫人ズゼッテがモデルでした。ヘルダーリンは憧れ、交わります。一つ家の中にずっといたのだから、そうなったのでしょう。当時はかえって禁欲のほうが淫らなんです。でも、夫がヘルダーリンを詰ると、それはどうやらたった一回きりのちょっとした言葉だったらしいのに、ヘルダーリンは深く傷つきます。
 こういうところが、ヘルダーリンがとてもフラジャイルだったところです。だからズゼッテに対する慕情をもちながらも、淡々と身を引いていく。そういえば小夜子は生涯を独身で通したけれど、男の人とはどうだったんだろうね。ぼくは一、二度、聞いたことがあるけれど、そして相手の名前も聞いたことがあるけれど、「男の人が、ほら、男性になろうとするとね、困るのよね」と言っていたっけね。そのときはちょっと笑っていたのかな。二人でずいぶん煙草をすった。

  親しみのある家に
  選ばれた者はすべて
  運命が遠くに呼び出すときも
  涙する
  ただひとり残った者は
  苦しみを背負い
  友のない道をいく

 その後のヘルダーリンは、フランクフルトからそれほど遠くないヘッセン・ホンブルク伯の居城に、魂を休ませるために出向きます。そこにヘルダーリンの孤独と詩情を、篤い気持ちで絶賛するイザーク・フォン・シンクレアがいた。宮廷の参事官です。
 宮廷の参事官なのに、この人はヘルダーリンの生涯で特筆に値します。そもそもヘルダーリンは、決して数は多くはないんだけれど、生涯にわたって三種類の友を大事にしています。「詩の友」「知の友」、そして「時の友」。ヘルダーリンとシンクレアの関係は、この「時の友」でしょう。
 ヘルダーリンがヘッセン・ホンブルク伯の居城にいるときのすべてを、シンクレアが包んでくれた。その友情はぼくなんかが見ても、羨ましいほどです。ヘルダーリンの失った恋情をそっとしつつも、癒しつづけたようでした。まあ、男の友情でしょう。『ヒュペーリオン』に出てくるアラバンダという人物がその面影をもっている。
 こういう友達は、人生にとって欠かせない。小夜子は四十代後半になってから、若い友人に囲まれていましたね。とてもすばらしいクリエイターたちだった。小夜子もかれらを大切にしつづけた。かれらは小夜子をミューズと思っていた。みんな六月の「連塾」のとき、集まったよね。九月十九日の映像や音響は、かれらがいろいろ準備してくれたのであす。小夜子にこそ、その出来上がりを見せたかった。 

  ああ ミューズの力に高められ
  心は酔ったごとくに目印を見つづける
  聞け 大地よ 天よ
  かのミューズの永遠の司祭たることを!
  睦まじい兄弟の盟約に加わりたまえ
  地上の千万の友よ
  新たなる至福の天職に 加わりたまえ!

 さて、誰にもファッションがあります。スタイルですね。ヘルダーリンの詩には、「オーデ」と「ヒュムネ」と「エレギー」がある。オーデは頌歌、ヒュムネは讚歌、エレギーはエレジーのことだから、つまりは悲歌のことです。
 これらをヘルダーリンはみごとに書き分けました。のちにテオドール・アドルノとヴァルター・ベンヤミンが絶賛して分析したことなんだけれど(この二人はとてもドイツ的な哲人です)。それによると、ヘルダーリンの詩には「パラタクシス」(Parataxis)というものがあるらしい。パラタクシスというのは、文節やフレーズが対同して連なっていくという方法で、どんな部分も主述的な従属関係になっていずに、互いが互いを照らしあうようになっている技法のことです。日本では「併層」などと訳すけれども、もっと動きがあっておもしろい。
 『省察』を訳した武田竜弥さんが言っていることなんだけど、ヘルダーリンには言葉を「原・分割」する才能があって、そこからパラタクシスが発しているようなんです。それをヘルダーリン自身は「最も深い親密性」とか「聖なる精神の生きた可能性」というふうに感じていた。そうだとしたら、これはたいへんな才能です。言葉を書きつけながら、言葉が言葉を自己編集するように書けるということですからね。たいへんに技量がいる。どんな言葉も光りあっていなければならない。
 だからヘルダーリンの詩は、文学でありながら、とても音楽っぽいのです。ある研究者は、ベートーヴェンの弦楽四重奏に似ていると言っています。
 それにしてもヘルダーリンは、どうしてこんな才能をもてたのか。どうしてあんなふうに詩が書けたのか。きっと、存在というものを「うつろひ」の渦中でとらえることができたからなんじゃないかと思います。存在は、過ぎ去りゆくものが過ぎ去っていくというその渦中でちょっとだけ振り返るというときに、そのときだけにあらわれてくるということを、よおっく知っていたんでしょう。

  あらわな荒野を はるかにさまよい
  昏れゆく淵のふところ深く
  谷川の巨人の歌がなりひびき
  雲の夜闇がわたしを閉ざしたとき
  荒れくるう浪さながらに
  山々を吹き抜ける嵐が近くを通りすぎ
  空の焔がわたしを包む
  あのとき
  あなたはあらわれたのだ!

 早稲田時代、ぼくは「ヘルダーリンの彷徨」ということを漠然と考えていたことがありました。そのことにとても憧れていたんだけれど、実はその意味が自分でもわからないままにいました。その後、いろいろヘルダーリンやその周辺のことを知るようになると、ぼくにも少し「ヘルダーリンの彷徨」が見えてきた。それはヘルダーリンの「精神の薄明」ということだったのです。ホーコー、ハクメイ、ホーカイカンカク。
 ヘルダーリンは歳をとるにつれ、「一にしてすべて」ということを自身の精神の衰弱にもちこんでいきたかったようでした。それを一部の研究者たちは、神経衰弱とか精神病理とか鬱病だとか言うんだけれど、ぼくはまったくそうは見ていない。
 ヘルダーリンは、あるときホンブルクの居城を出て、「時の友」のシンクレアから去っていく。黙って去ります。これは親友に対してまことに非情な仕打ちのようだけれど、だからこそ「時の友」だったんでしょうね。そしてシュトゥットガルトに出向くと、そこから漂泊の旅に出る。最初の行き先は、スイスの寂しいハウプトヴィルという寒村でした。そしてそこで、その後のヘルダーリンを決定づける「永遠の山脈」というものに出会うんです。
 寒村から見た山々がすばらしかったのです。これこそ「一にしてすべて」(ヘン・カイ・パン)との出会いでした。ハウプトヴィルの山脈は、精神が薄明にすすんでいくのを託すにたりる威容だったんでしょう。そこで、住み着いた。そこからヘルダーリンの詩は、いわゆる「ヘルダーリンだけのアルペン・スタイル」と文学史が呼ぶものになるんだけれど、そんな程度のことじゃないでしょう。これこそが、ヘルダーリンの彷徨の回答だったんです。面影の正体でした。

  いくたびも探しもとめ
  そしていくたびも諦めました
  それでもせめて
  その面影を大切にもっていたいと思っていました

 小夜子の最期はどうだったのか、ぼくには知る由もないんだけれど、ヘルダーリンは自分の最期を「アポロ(アポロン)に撃たれる」と言っていたようです。「アポロがわたしを撃った」と書いている。自分による自分のための予言だったようです。自分の薄明を予言したんでしょう。もしそうでないとしたら、薄明がヘルダーリンを予言した。
 きっとヘルダーリンはとっくに死を知っていたんだろうと思います。だから、最期に近づくにつれて、ただギリシアの悲劇を訳しつづけ、その注釈に没頭していった。これは、「生成のなかに消滅していく」ってことです。生まれるもののなかに向かって消えていくってことでしょう。

  林のなかで精霊たちがざわめくとき
  月のあかりをほのかにあびて
  静かな池に皺ひとつふるえぬとき
  わたしは あなたの姿を見て会釈する

 もう小夜子には見せられませんが、ヘルダーリンを読むなら岩波文庫と角川文庫の『ヘルダーリン詩集』が手頃です。全集は今夜とりあげた河出書房版がおすすめですが(函入りの装幀もステキです)、古本屋かアマゾンで探すことになるでしょう。評伝・評論は、ハイデガーやベンヤミンの全集のなかに拾うことを奨めます。ほかにヘルダーリン『省察』(論創社)、仲正昌樹『「隠れたる神」の痕跡』(世界書院)などが単行本で出ています。仲正さんの本は、他の本もそうなのですが、いつも溜息をつきたくなるほど、細部までゆきとどいています。

附記¶ヘルダーリンは岩波文庫と角川文庫の『ヘルダーリン詩集』が手に入りやすいでしょう。全集は今夜とりあげた河出書房版がおすすめですが、古本屋かアマゾンで探すことになるでしょう。評伝・評論は、ハイデガーやベンヤミンの全集のなかに拾うことを奨めます。ほかにヘルダーリン『省察』(論創社)、仲正昌樹『隠れたる神の痕跡』(世界書院)など。小夜子については、これからみんなが集大成の本をつくることになるでしょう。