才事記

檸檬

梶井基次郎

集英社文庫 1991

 Kが溺死した。「私」はN海岸でそのKに逢っていた。Kの友人の「あなた」はKの溺死の理由がわからず、もし自殺だとしたらKに何がおこっていたのか、知りたいと思っていた。「私」は「あなた」と手紙をかわしながら、こんな仮説をたてた。
 Kは心の病気に罹っていて、療養のためにN海岸に来ていた。砂浜を何度か散策しているうちに、月がKの影をつくっていることに惹かれ、やがてその月影に人格があるように思った。そんなKに「私」は何度か海辺で出会ううちに確信した。Kは月に導かれて昇天したくなったのだ――と。
 手紙を巧みに入れこんだ梶井基次郎の『Kの昇天』である。ぼくはこの短篇を高校2年のときに読んで、自分の肋骨のようなものがはらはら、わらわらと透明に溶けながら剥がれていくように感じた。ロマンチックとかニヒリスチックとかリリシズムとはこういうものかとも思ったが、どこか作者がその袋の紐を口で咥えて理屈を放さないようにしている気もした。ともかくもこれがきっかけで、その後、梶井の作品はことごとく読むことになった。

 梶井基次郎は理科系である。
 三高の理科甲類に入って、その前は大阪高等工業の電気科を受験して失敗している。ここは兄貴が卒業していた。生涯の友となった中谷孝雄は三高の同室の寮生で、近藤直人も京都帝大の医学生だった。中谷は梶井に志賀直哉を教え、梶井はその短文を学んだ。そうやって仕上げた文体もどこか理科っぽい。
 あまり知られていないかもしれないが、『交尾』という作品がある。冒頭に、「星空を見上げると、音もしないで何匹も蝙蝠が飛んでいる。その姿は見えないが、瞬間瞬間光を消す星の工合から、気味の悪い畜類の飛んでいるのが感じられるのである」と書いてある。
 コウモリと星の光を夕闇に対照するなど、寺田寅彦(660夜)もそんなことは書かなかった。梶井の文体は理科が滲んだ文体だが、どこか危ない理科系なのである。その『交尾』には河鹿も出てくる。主人公は河鹿をよく見てやろうとおもって瀬の際に入っていき、河鹿に気づかれないように、そこで「俺は石だぞ。俺は石だぞ」と念じる。念じているうちに芥川が河童の世界へ行く話を書いていたことを思い出し、自分が河鹿の世界に行くことにしたことと比較する。こんなことするなんて(あるいはそう思ったと書くなんて)、とてもふつうの理科系ではない。
 もうひとつ例を出す。『冬の蠅』は「冬の蠅とは何か?」という大上段な一行で始まっている。こんな一行で小説を始めるのはやはりおかしい。まるで理科実験の課題のような始まりだ。ついでさらに、「色は不鮮明に黝んで、翅体は萎縮している。汚い臓物で張り切っていた腹は紙撚のように痩せ細っている」という観察がつづく。
 この観察から何が始まるかというと、自分の部屋で「冬の蠅と日光浴をしている男」としての「私」の宿命を綴っている。肺結核に冒された自身の因果を思うのである。そこには七歳で急性腎臓炎で死にかけ、弟が脊椎カリエスで死に、兄が結核性リンパ腺炎で手術し、学生になってからはずっと重度の結核に脅かされていたといった病歴的人生はほとんど描かれていないのだが、それなのにタナトスと隣接する者だけが知悉している異様な感覚に導かれ、引きこまれてしまうものがある。理科器具が並んでいる部屋でブンガクが進行するからだった。
 
 あまりに人口に膾炙した『檸檬』は、「えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた」と始まる。この塊のせいで、かつては美しいと思えていた花火の束や色硝子のおはじきや石鹸の包み紙を見ても、いまや何の反応もできなくなっている重圧から逃れるために、「私」が京都の町を散歩するという話である。
 そこで寺町通りのみすぼらしい果物屋でカリフォルニア産の檸檬を買い、肺炎で熱くなっている手や頬にあててみる。ずっと以前からさがしていた感覚が、こんなありふれた果実の香りであったのかと驚きつつ、その香りに鼻をくっつける。のみならず、その檸檬の重さにふと気がつき、この重さこそがつねづね自分が尋ねあぐんでいたものだという実感をもつ。
 そんなことを感じながら、ここからが有名な場面になるのだが、ふらりと丸善に入り、かつては香水壜や煙管や煙草や小刀が興奮すべきものだったのに、それに反応できなくなっている自分を感じながら、その重圧が大好きな書棚の書籍にもおよんでいることを知って、画集の棚の前でそれらの画本を次々に引き出し、ちょっと眺めては積み上げるわけである。
 けれども、その積み上げた画本を棚に戻す気力もなく、その上に一個の檸檬を置くと、「丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛て来た奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなに面白いだろう」という結末になる。
 最終行は、こういうものだ。「そして私は活動写真の看板画が奇体な趣きで街を彩っている京極を下って行った」。

 これだけを読めば、この丸善での一連の出来事は梶井基次郎のささやかだが、ぴんと張りつめたような異質な感覚の体験のように思われるにちがいない。実際にもそのころの梶井は京都に住んでいたし、それも浄土寺やら荒神口やら岡崎やらを転々として、そのような京都のちょっとした小道が好きだということも書いている。「重い塊」と「檸檬」がぴたりと寓意されていることにも気がつくだろう。
 ところがどっこい、なのである。これは大正12年に東京に遊んだときに、町でレモンを買った体験をしたことの草稿にもとづいたものなのだ。それを京都にあてはめた。むろん作家にはこういうことはよくあることなのだが、このばあいは梶井のことを知るうえでもすこぶる重要な操作がおこっている。草稿「第三帖」とよばれているノートには、そのレモンが「その日の私の心を慰める悲しい玩具になつたのだつた」とあり、さらに丸善に入っていろいろの表紙の本を抜き出したまでは同じなのだが、そこからは意外なことが書いてある。
 「色の配合を考へながら雑然と積み重ねた。そして今まで手に持つてゐたレモンをその上にのせた。その黄色の固りは雑多な色の諧調をひつそりと一つにまとめ、その頂点に位してゐた。私はそれにこの上ない満足を感じた」というふうに。そしてさらに意外なことに、次のように草稿はつづく。「ほこりの多い騒然とした書店の中にそのレモンのあたりの空気のみは変に緊張して、レモンはその中心に冴かに澄み渡つてゐるのである。私はこれでよしと思つた」と。
 
 梶井基次郎のブンガクは気分も文章も化学反応だった。東京の丸善を京都の丸善に、レモンを檸檬に、色の配合を爆弾による破壊に反応させて、理科実験がされた。
 ぼくは、このような梶井だからこそ、梶井をおもしろいと思ってきた。すでに宇野千代の『生きて行く私』(中公文庫)のところで(66夜)、宇野千代が尾崎士郎と別れたのは、千代さんが伊豆湯ヶ島で梶井と昵懇になりすぎたためだったという話を書いておいた。梶井は根っから美少女が好きな男で、感動屋で、そのうえで酒癖がめっぽう悪かった。千代さんはその感情溢れる梶井に惚れたのだろうし、梶井はいっさいにとんちゃくしない千代さんの純度に絆されたのだろう。
 そういうロマンな梶井と、その一方で、いつも病魔に襲われて死と隣りあわせにいたタナトスな梶井とがいたわけである。
 どちらの梶井からどちらの梶井を見るかということで梶井ブンガクの読み方も変わるわけだが、ぼくはその2つの梶井をつなぐ橋梁に理科めいた橋掛かりを見る。たしかに昭和文学の尖端を切り拓くがごとくにタナトスを描いた夭折作家ではあるが、実のところは宮沢賢治とともに理科系の文学の突端を奇妙なメスやビーカーで切り拓いた作家でもあったのである。
 梶井基次郎はプルースト(935夜)の『スワン家の方へ』の書評を書いて、31歳で病没した。諸君、『桜の樹の下には』や『Kの昇天』の浪漫ばかりに気をとられないように。日本的文芸術には理科浪漫ということもあるわけなのだ。今日の幻想SF作品群の半分くらいも、どこか梶井的な檸檬の棚に乗っている。