才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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失われた時を求めて

マルセル・プルースト

集英社 1996

Marcel Proust
A la Recherche du Temps Perdu
[訳]鈴木道彦

 今夜はプルーストである。早稲田の仏文科に入ったのはプルーストをフランス語で読みたかったからだった。同級生に波野クン(のちの中村吉右衛門)がいた。それなのにその野望は叶わず(語学力が追いつかず)、結局は伊藤整や井上究一郎の訳で読んだ。今夜は鈴木道彦個人全訳の『失われた時を求めて』を選んだ。
 原文をクリアできなかったのにこんなことを言うのも横着だが、鈴木道彦による編訳二巻本『失われた時を求めて』(集英社)はよくできていた。この二巻本が出たころだったと思うのだが、ジル・ドゥルーズの『プルーストとシーニュ』(法政大学出版局)をちょうど読んだばかりだったので、むずむずして久々に原作を読みたくなったのだ。ふつう、要約やダイジェストといえば隙間や行間がどこかへ消えてなくなってしまうのだが、鈴木の訳芸はそこをちゃんとつくっていた。井上訳よりも洩れていくものが少ない。ちなみにドゥルーズは『失われた時を求めて』を文学機械とみなし、記憶と現在意識と創作的出来事の差異を自律的に吸収反復していく装置になっていると言った。たしかに差異を吸収している。けれども、そこばかりを強調するのは、愉しんで読んだのかどうか、心配になった。
 ぼくも、いまさらこの大作を紅茶にひたしたプチット・マドレーヌの味や、敷石に躓いて思い出したヴェニスの寺院の石段から話すつもりはない。だからそのかわりに、いくぶんプルースト風に静岡の一軒のカフェの話から書くことにする。以下、プルーストの「私」と松岡正剛の「ぼく」が脈絡に応じてまじっていく。あしからず。
 
 その店は「コンブレ」という名の店で、静岡に残るただ一軒の倉俣史朗のデザインによるカフェである。ぼくはその呉服町の店へ、甲賀雅章クンという地域文化のリーダーに誘われて初めて行った。ぼくも壇上に参加したデザイン・シンポジウムの二次会場にあてられたカフェだ。
 外階段を上がって店に入ったとたん、亡くなっていた倉俣さんが透明樹脂の色椅子をいじっている姿が蘇ってきた。そして、ああそうだ、そうかもしれない、こういうことかと思ったのだ。それは『失われた時を求めて』の発端が「私」の故郷コンブレー(コンブレ)への回帰から始まっていたということに符合していて、プルーストはあの長すぎる記憶の物語の冒頭で、コンブレーは狭い階段で結ばれた二つの階でしかないとか、夕方の七時にしか存在していないなどと書いていたことが、ほんの一瞬だが、静岡の店の嬌声につながったからだった。

 カフェ「コンブレ」は静岡中のデザイナーがみんな集まってきたかというほどに混雑していた。ぼくは次々に見知らぬデザイナーたちから声をかけられながら、倉俣さんの「時」を追憶しかけては、そのまどろみを破られていた。そしてなんだか急に納得して、ぼくも騒然たる夜の盛り上がりの一員になっていった。
 その納得というのは、いつか書くかもしれないプルーストをめぐるぼくの断章は、この静岡呉服町の一脚の透明な色椅子に始まってもいいだろうなということ、また、どこかでエットーレ・ソットサスや内田繁のデザイン人生に大きな重なりを見せている倉俣史朗は、このように人々の根源的な郷愁を引きつけた遊びを各地の内装のなかでしつづけているだろうという納得、あるいは川崎和男や井上志保がそのことを書きたくてしかたのないほど空中に浮かんでいる倉俣史朗の意匠とは、この夜の密集にも沈黙しつづける「失われた時」のことだったのかというような、そういう納得だ。
 そのときである。立席者がひしめく満員のフロアーの片隅から一人の初老の男がにこやかに近づいてきて、ぼくの腰に手を触れたのだ。そして、こう言った。「コンブレって、いいでしょ。ここ、あたしの時間なのよね」。
 
 コンブレーは「私」が幼年時代を過ごした田園の村である。そこには、「われわれ」もそのように幼年時代の一点を思い出せばきっとそうであるように、二つの散歩道があって、ひとつはスワン家の方へ、もうひとつはゲルマント家に向かっていた。
 ユダヤ人で株式仲買業で、ジョッキー・クラブの伊達男とよばれていたスワンには一人娘のジルベルトがいて、「私」はジルベルトを見かけたときから初めて異性を感じた。これは横浜山手町の「ぼく」の家の隣のエンジェリカ・レリオにあたっている。一方のゲルマント家にはゲルマント公爵夫人がいて、「私」の内なる高貴なものに震える何かを象徴していた。「ぼく」の少年期には残念ながらそういう高貴な夫人は見当たらないが、もしかしたらそれは母であり、もしかしたらそれは足利からお菓子をわんさと持ってときどき遊びに来てくれた正子さんであるかと思われた。
 やがて少し長じた「私」はパリに出て、「ぼく」は京都から横浜に出て、スワン家に出入りする。この思い出のなか、つねにヴァントゥイユのピアノ・ソナタが流れている。ここでは述べないが、この作品では、たいてい音楽と絵画が決定的な役どころをもって「私」の記憶を遠くに運ぼうとしているのだ。

 ここまでが第一部「スワン家の方へ」で、かつてこのタイトルをもじって、土方が《澁澤さんの家の方へ》という暗黒舞踏会を開いたものだった。
 ところで、コンブレーをこのように切れ切れに思い出したプルーストである「私」は、これらのことを、半ばまどろみながら、半ばベンガル花火を見るように、「私」のすべての面倒を見てくれているフランソワーズの柔らかい手のなかで、睡神モルフェウスのふるまいのように辿っているだけなのである。この記憶を辿る手法のなかには、すでにプルーストの入念な実験が始まっていた。それこそは倉俣史朗や内田繁が試みた「記憶という方法」の、最初の最初の、まだ湯気が出ているような先駆であった。
 こういうことは、もちろんしばしばくりかえされている。「ぼく」にとっても静岡呉服町の夜半の記憶には、そのどこかに痩身で楚々とした仁科玲子の姿が交じっていて、そのときはうんと遠くにいた彼女が、いつしかまわりまわって「ぼく」の事務所にくるようになったのは、あるときセーヌ川の船の上でのパーティで、「そろそろだよね」と、何が「そろそろ」かを示さない会話をほんのちょっとしたことが機縁となっていて、そこからプルースト的ブーメランが「われわれ」の頭上をぐるぐると飛んだのだった。コンブレはその船上にも、赤坂稲荷坂の三階のぼくの小さな書斎にもあったわけである。
 
 第二部「花咲く乙女たちのかげに」では、いささかこれみよがしな数々のサロンが登場する。なかでもヴェルデュラン夫人のサロンは特別で、スワンは娼婦オデットとともにここに出入りする。
 「私」は、それまではまるでお伽の国の主人公だったスワン夫妻とも、お目当てだったジルベルトとも、親しくなった。ブーローニュの森のなかの遊園地にも一緒に行くことになった。スワン夫人はまるで世の中の「美の種類」を集めているようだった。おばあさんと一緒に出掛けたノルマンディの避暑地バルベックの海岸では、ゲルマント家の人々とも出会った。そこには貴公子ロベール・ド・サン=ルーと、その伯父の社交界の大立者シャルリュス男爵がいた。
 ここでの第二章「土地の名・土地」は第一部でも同じ章立てがもうけられていたのだが、プルーストがこの作品全篇をこめてゲニウス・ロキの解読にあたっていることをあらわしている。プルーストは「付近」というゲニウス・ロキを先取りして文学にしてみせた張本人だったのだ。
 ゲニウス・ロキとは地霊のことである。そうしてみればいまならこう言ってのけられるはずなのだが、倉俣史朗のデザインの本来は、この「付近」をこそコンセプトにしたデザインだったということなのである。
 
 さて、ある日、「私」は海岸で華やかな少女たちの一団と遭遇し、そのことに強い印象をうけた。彼女らは光を発する彗星集団のようだった。すでに「われわれ」がフェリーニやヴィスコンティの映像で教えられてきた、あの花のような一団だ。
 画家エルスチールになんとか仲介してもらい、「私」はその少女の一団の一人アルベルチーヌと知り合うようになった。彼女は「ぼく」が五色沼で出会ったトチハラにちがいない。理想の少女と出会えた「私」の心は激しく高揚していたが、アルベルチーヌは「私」の柔らかな接吻を拒み、そのうちバルベックに雨の季節がやってきて、どこかへ出発してしまった。「私」の夏の季節が終わったのだ。
 こうしてプルーストは「名」の記憶を過ぎて、少しずつ「物」の世界を思い出していく。呉服町にも朝がくる。「ぼく」のトチハラは銀色の東横線を自由が丘で降りたまま、いなくなった。
 
 第三部は「ゲルマントの方」である。「私」の家族がゲルマント家の館の一部に引っ越したのだ。これはいくぶん寂しいことで、コンブレーの散歩道の向こうに輝くゲルマント家の幻想はこれでもろくも壊れていった。
 けれどもゲルマント公爵夫人のしだいに若返るかのような美しい容姿だけは、あいかわらず「私」の心をときめかせた。夫人の甥で好ましい性格のサン=ルーに頼み、「私」は夫人の行く先々に姿をあらわしたいと思うようになっていた。サン=ルーにはユダヤ人の娼婦との恋の問題がある。
 その一方、「私」にはそのようなゲルマント家の変化を話してみせるフランソワーズの言葉づかいがヒントになって(たとえば「気の毒がる」をラ・ブリュイエールのように「出し惜しみする」という意味でつかう)、くすくす笑いながらも、これらのエクリチュールの変化をフランソワーズぐるみで愛するようになっていた。そのうち「私」のおばあさんが死んだ。最後は一枚の毛布すら沖積世の土砂のように重かったらしい。
 そんなときアルベルチーヌが「私」のところに訪れてきた。家というものは奇妙なもので、人々はそこに誰が住んでいるかという格式によって、その家と交際をしたがる。「私」はアルベルチーヌとついに接吻をし、そういうものなのだろうと思うけれど、そこからは一転して、にわか仕立ての恋人のような関係になっていった。このころから、シャルリュス男爵がどうにも理解しがたい言動をとりはじめた。
 
 第四部「ソドムとゴモラ」にさしかかったとき、まだ触知してない何かがやってきたという気持ちになった。
 シャルリュス男爵は男色家だったのである。仕立屋のジュピアン、ヴィオロン弾きのモレルに熱をあげている。すでに『禁色』を読んでいた「ぼく」は、最初は三島のソドミズムのほうが強烈で、むしろプルーストは軟弱に見えていた。のみならず稲垣足穂のA感覚からすれば、ワイルドやコクトーやジュネはともかくも、プルーストはどう見てもゲイ感覚の王城からずれていた。しかし、このような感想はやっぱり早計で、プルーストがとんでもない葛藤を用意していたことがすぐにわかってきた。
 ひとつは、シャルリュス男爵の恋の相手の脚は華麗なキャミソールをからげてこの世のものともつかぬほど美しく、その顔は未知のスパニッシュダンサーのように妖艶になりうることを「私」が目撃してしまったということ、もうひとつは、どこかアルベルチーヌには妖しい秘密があるらしいことを感じてはいたのだが、そのアルベルチーヌにも同性愛の傾向があったということだ。
 さすがに「私」はこの葛藤に苦しんだ。嫉妬もした。あまりの嫉妬に、情けないことに「私」は母にアルベルチーヌと結婚する許しを乞うた。「私」は泣いていた。
 すでにプルースト派には知られていることであるが、プルーストは若い母にはいつも恋情をもっていた。そして、これをこそいまさら言っておかなくてはならないが、プルーストは男色の囚人だったのである。このことについては最近になって原田武の『プルーストと同性愛の世界』(せりか書房)が刊行され、囚人としての一部始終があからさまに証されている。
 第四部は、こうした妖しい出来事が、ラ・ラスプリエール荘を中心に目眩く夜会のように繰り広げられる。「時」はいつだってこんなふうに時ならず連打された夜の節会でおこるのだ。「ぼく」の少年期のばあいは、それは決まって高倉押小路の家か、法然院か詩仙堂か、もしくは寺町の「スマート」という喫茶店での出来事だった。
 
 さて「ぼく」は、第五部の「囚われの女」のところで、しばらく『失われた時を求めて』を読むのを中断していた。その後にぽつぽつ続きを読んだものの、中断のせいか、ほんとうにこの部分がそうなのかはわからなくなっているのだが、ここで「私」がアルベルチーヌを監視し、閉じこめるようにして暮らし(つまりは「私」が十九世紀末ストーカーのはしりになって)、あげくにアルベルチーヌが失踪してしまうというのは、どうも納得のしがたい展開に見えたのだ。
 同じく第六部「消え去ったアルベルチーヌ」も、失踪したアルベルチーヌが落馬して死んだという噂を聞いたというだけでは、何かが充実しなかった。「私」はさすがに絶望するのだが、「ぼく」は絶望とはほど遠い。「私」がこの絶望から逃れるのには、「私」の中のアルベルチーヌの記憶を消し去っていくしかないというのも、腑に落ちない。まして、そのためには自分の死というものを、記憶の一般性に拡散していけばいいというプルーストの判断も、承服しがたかった。
 が、どのようなきっかけかは忘れたが、おそらくはアルベルチーヌが自動ピアノの「ピアソラ」でヴァントゥイユの曲を「私」に聞かせているくだりあたりから少しずつということだったと思うけれど、「ぼく」はまたプルーストの“旋法”に嵌まっていったのである。のみならず、このあたりからプルーストのこの叙述の方法に、「記憶という方法」や「方法としての記憶」がぴたりと狙いどおりに進んでいることに、わくわくするようになっていた。
 記憶と忘却の関係とはどういうものなのか。記憶にも方法があるのだが、きっと忘却にも方法がある。どのように忘れるかということが、「われわれ」の現在をつくっているわけなのである。倉俣史朗もこの両方を駆使したうえで、「コンブレ」や、そして未詳俱楽部が白石加代子とともに訪れた東京湾岸天王洲のビル最上階の、あの「ラピュタ」を意匠したはずだ。「われわれ」は何かを忘れさせてくれるデザインに、たいてい時間を感じるものなのだ。
 
 最後の第七部は有名な「見出された時」である。ここではすでに、かつては貴公子の、いまは「私」の親友となったロベール・ド・サン=ルーがジルベルトと結婚していて、それなのにロベールが不毛な情事に耽って、妻のジルベルトを苦しめていることになっている。不毛な情事とは、またもや同性愛のことである。すでに第一次世界大戦が始まっていた。
 プルーストである「私」はここまで書いてきて、自分の文学的才能に本気で思い悩んでいる。体もすぐれず、サナトリウムでの療養生活でもしないといられないほどの体調とノイローゼになっていた。そこでパリを発つことにした。
 パリは戦火に見舞われ、かつての社交界は没落の一途を辿っていった。新たな輝きは、ひたすら消費を誇るプチ・ブルジョワジーか、ヴェルデュラン夫人とボンタン夫人の手中に落ちた。それでもシャルリュスはいよいよ凄惨に、いよいよ倒錯を深めてやまない。ジルベルトを悩ませつづけたサン=ルーは愛国者となり、ワーグナーの思いに匹敵する戦争をなしとげるのだという気概のもと、前線であっけなく戦死した。
 こうして、さしもの戦争も終わりを告げたのである。全員が病気だったのだ。しかし、いったい何が終わりを告げたのか。「私」の心は索漠としたままであり、何も前途に見えるものなどなかった。「ぼく」は銀座の中島商事ビルにいた未亡人に誘惑されるがままだった。
 
 時間が流れた。「私」はすっかり追憶からも現実からも遁がれたままにいる。そこへ一枚のマチネー(午後の集い)の招待状がきて、ゲルマント太公妃の屋敷に赴いた。
 どうやら仮面舞踏会が開かれているようだ。屋敷の前で車を降りた「私」は、ふと中庭の不揃いの敷石に躓いた。そのときである、その感覚がヴェニスの寺院の敷石の感覚に通じ、そのままヴェニスについてのすべての記憶が蘇り、自分でも信じられないほどの大きな歓喜が体を満たしたのだ。それはプチット・マドレーヌの味が幼い日々のコンブレーを蘇らせたのと、まったく同じ連動連想の現象だった。
 プルーストは書く。皿に匙の触れる音、ナプキンの固い手ざわり、髪から零れる香油の匂い、コンブレーの眼鏡屋……。いや、いや、もっといくつもの触知を並べていたが、これらはすべて過去と現在をまたいでそこにありうるものなのだ。こうして、「われわれ」は超越的な時間のなかに溶け合えるのだ。「私」はついに確信できた。
 「ぼく」もわかった。ジル・ドゥルーズは『失われた時を求めて』はシーニュの生産のための文学機械だと言ったけれど、いやいや、それだけではない、ドゥルーズは見落としている。この方法こそが芸術というものにかつて見いだされたことのないものをひそめていたということを。そこには「クオリアの文学」ともいうべきが萌芽していたということを。
 ゲルマント家のサロンでは、すでに変わり果てた知己の顔が雑然と戯れていた。みんなが仮面をかぶり、みんながかつての役割を脱いだのだ。そこには「時」があるばかりで、静岡の「コンブレ」同様に、昨日と明日の区別のつかない人々が酔いしれていた。そこへジルベルトと故ロベールとのあいだに生まれたサン=ルー嬢が紹介された。「私」はハッとした。この少女の裡にこそ「スワン家の方」と「ゲルマント家の方」の両方の散歩道が重なっているではないか。「私」はその両様のイメージを見た。
 これですべての準備が終わったのである。もう何も新しく加わる必要はなくなった。「私」は忠実なフランソワーズに愛され、世話をされ、しだいに近づきつつある死の床で、いよいよ念願の『失われた時を求めて』に取り組もうと思っている……。
 
 マルセル・プルーストは一八七一年にパリ郊外のオートゥイユに生まれた。父方の敬虔なカトリックの家系はイリエにあって、ここがコンブレーのモデルになった。
 プルーストの幼年時代にとって、その精神に大きな影響を与えたのはブーローニュの森から帰って始まった喘息である。ぼくの妹がひどい喘息だったので(いったん死にかけた)、この発作が何をもたらすかはよくわかる。
 コンドルセ中学では、プルーストは半分を文才に、半分をシャンゼリゼなどで戯れる乙女にひたすら見とれることに費やした。十七歳で社交界への出入りをスタートすると、プルーストは生涯の半分以上を、この社交スタイルで貫いた。すなわち、サロンの夫人に次々に憧れ、どこかで新たな恋に出会うことばかりを考えた。ぼくの中島商事ビルの未亡人は「もう、こんなことやめましょう」と言った。
 ところがちょうどオスカー・ワイルドがパリに滞在したころの二十歳前後から、プルーストは自身の内なる男色に目覚めた。ついでは二二歳のとき、審美倒錯詩人にして世紀末頽廃の代表者であって、かつ名だたる男色伯爵でもあった三八歳のロベール・ド・モンテスキューを知り、「異常」に惹かれてしまっていた。モンテスキューは、御存知、ユイスマンスの『さかしま』のモデルであって、プルーストが造形した倒錯者シャルリュス男爵のモデルである。このあたりの世紀末男色事情の雰囲気については、第五七二夜の『コルヴォー男爵』にも書いておいた。ヨーロッパの世紀末は、この男色感覚がどのように都市に侵入していったかという事件簿なのである。
 二十代のプルーストについて、そのほかのことでぼくが関心をもつのは、両親の庇護のもとにかなり贅沢な晩餐会を開いていること、ドレフュス事件で熱烈な弁護活動に加担したこと(アナトール・フランスの牽引のもとに)、そしてジョン・ラスキンの著作を耽読していることである。とくにラスキンについては、その著作を手引きにして各地の寺院をめぐり、その経済倫理学の翻訳も引き受けていった。その姿勢は当時のフランスが採用しようとしていた政教分離政策への反対表明にまで至っている。ラスキンからプルーストへ。この回路こそ、もっともっと研究されてよいものだ。
 
 マザコン・プルーストの三十代は、母親の死が最大の事件である。その悲嘆はかなりのもので、喘息がらみでサナトリウム療養に入っている。読書をするか、運転手アゴスチネリによる自動車での寺院めぐりか、やっと書き始めた自伝づくりか、そんなことしか三十代のプルーストの関心にない。
 が、プルーストはもともとバイセクシャルだったから、つねに夫人にも娘にも少女にも心を惹かれつづけた。
 こうして三八歳、ある日、紅茶にひたしたプチット・マドレーヌの香りと味をきっかけに、失われた「時のクオリア」をいかに綴るかという方法的模索に入っていったのである。コンブレーはここで蘇ったのだ。この方法を思いつこうとしたことは、プルーストのこれまでの全生活の点検でもあって、その細密きわまりない点検自体が、プルーストが発明した「クオリアの文学」となったものである。
 たとえば間歇性の喘息症状であったことは、その記憶を間歇的に思い出すことにつらなり、その喘息にしばしば瞬間的な窒息がともなったことは、プルーストが考える文学作品は「記憶を辿る文学」ではなく、「思い出せない記憶にさえ思い出が広がる文学」というものであることを、思いつかせたのだった。
 プルーストの四十代はほとんどの日々を『失われた時を求めて』に費やした。五一歳、書き継ぎに書き継いだ大作にようやく終息を感じると、プルーストはベッドの上で校正をしたまますっかり疲れ切って、呼吸困難のうちに終息していった。ぼくはその一瞬の終息を、あの夜の「コンブレ」の透明な色椅子にも見た思いがする。