才事記

ゼビウスと横須賀功光

ぼくの半生はさまざまな才能に驚いてきたトピックで、髪の生え際から足の親指まで埋まっている。小学校の吉見先生との一緒の遊びや南海ホークスの飯田のファースト守備に驚き、藤沢秀行の碁の打ち方や同志社大学の平尾ラグビーに驚き、電子ゲーム「ゼビウス」のつくりや井上陽水のシンガーソングぶりに驚き、亀田製菓の数々の「サラダあられ」や美山荘の中東吉次の摘草料理に驚き、横須賀功光が撮った写真やコム・デ・ギャルソンの白い男物シャツに驚いた。

ファミコンゲーム《ゼビウス》

いずれも予告なし。ある日突然に出会ってたまげたのだ。これらの代わりにマイルス・デイヴィスを聴いたときとかヴィトゲンシュタインを最初に読んだときとか、そういうものを挙げてもいいのだが、できればナマっぽく体験したことと向き合ったほうがいいので、こんな例にした。

まずは何に驚いたかということが大事なのだが、それにとどまってはいけない。そのときこちらを襲ってきた唐突な感動が、その日その場のシチュエーションや当日の体調や別の記憶との共属関係とともに新たに残響してくることが、もっと大事だ。

われわれは当然のことながら、幼児期には何にでも驚いてきた。子供になってからもアサガオの開花やセミの羽化に出会ったこと、土中の化石やホタルの点滅を初めて見たのは、忘れられない体験だ。ただし、これら植物や動物を相手にした感動はのちにも体験可能になる率が高いけれど、それにくらべて誰かがもたらしてくれるものは、その時その場にかぎられることが多い。

この誰かによる感動とどう付き合えるかということから、世の「才能」というものへの陥入がおこっていく。

感動や共感について心すべきことは、出会って驚いた瞬間の感動というか逆上といったものを、その後どのように保持できる状態にしておけるのか、またその感動をここぞというときに脳裏から自在にリコール(リマインド)できるようにしておけるのかということにある。

感動も共感も誰にだっていろいろの機会におこるものだけれど、それをどこかに転移しても(時と場所とメディアを移しても)、その鮮やかさをそこそこ賞味できるかということが、キモなのである。

たとえば、誰かの講演を聞いて、おおいに痺れたとする。内容にも共感したとする。では、この感動をどのように保持するかなのである。またどのように再生するかなのである。これがけっこう難しい。

驚きをもたらしてくれたものには、当然にそれをあらわした当事者の才能が光っている。横須賀のモノクロ写真や陽水の歌においてはあきらかに格別の「個の才能とスキル」が発揮されたのだし、「ゼビウス」や「サラダおかき」には開発チームの「集団的で統合的な才能」が結実したのである。しかし、その秘密に分け入るには、たくさんの分析や推理が必要だ。

たとえば第1に、その才能が開花するにあたっては、少年少女期や青春期に何をめざしていたのかということがある。栴檀は双葉より芳しと言うけれど、小さいころの能力の芽生えがそのまま開花することは少ない。なんらかの深堀りやエクササイズが生きたはずなのだ。横須賀や陽水はそこをどうしたのか、これは覗きにいく必要がある。

第2に、その才能開花に預かったメンターや技の協力者やチームはどういうものだったのかということがある。ゼビウスはどのようにチームを組んだのか。一人で独創をはたしたかに見える棟方志功だって、実はたくさんのメンターがいた。志功はそのメンターに強く影響されたいと思った。指導者や師や影響者の存在は、メンターの資質に選択肢があるというより、むしろその師に掛けたほうの強度がモノを言う。

のちのちそんな話もしたいと思うけれど、ぼくの場合はいったん選んだ影響者のことを、その後もまったく疑うことがなかった。

また第3に、その才能によってどのように同時代の競争を抜きん出たのか、そこにはどんな時代の水準がわだかまっていたのかということも才能分析の対象になる。セザンヌが人気があったときとカンディンスキーが「青騎士」として登場したときとウォーホルがシルクスクリーンで登場したときとでは、時代のアイコンも驚きの関数も違っていた。そのため、その時々の勝負手がちがってくる。こういうときは、自分で才能を懸崖に立たせる必要がある。イチかバチかに向かう必要がある。

横須賀功光《射》

横須賀功光が颯爽と出現したときは、日本の写真界はキラ星がひしめいていた。ファッション写真や広告写真で腕を磨いた横須賀は、ここで全裸の若者をモデルに『射』というモノクローム作品に挑んだ。若者が壁に向かって跳び移ろうとする肉体を、撮ってみせたのだ。ライティングも絶妙だった。誰も見たことがない写真だった。

第4に、才能開花のためのエクササイズやレッスンや機材はどういうものであったかということがある。棟方志功のように「板と刀」だけが武器だということもあるけれど、多くの場合、才能開花にはいくつもの道具や機材が関与する。レンブラントの版画には日本から取り寄せた和紙が、プレスリーのギターにはマイクやアンプの性能が、アンセル・アダムスのf/64のカメラにはレンズやプリントペーパーの質がかかわっていた。

顔料やコンピュータをどう使うか、録音機やプロジェクターをどうするか、釉薬や鉄材は何を入手するか。テクノロジーは才能の信頼すべき友人なのである。このことも才能にまつわっている。

ぼくは執筆には、いまだにシャープの「書院」を使っている。発売されていないだけでなく、いまや修理ができる工房もない。

第5に、なぜその当事者たちは「ゾーン」に入れたのかということだ。才能に自信がもてるには、どこかでゾーン体験がいる。ゾーンに入るとは、予想を超えるノリに入ったことをいう。俗にエンドルフィンやアドレナリンが溢れることだ。

しかしながら、為末大が言っていたけれど、あるときゾーンに入っていけたとしても、その継続は必ずしもおこらないし、その手前でそうなるとはほぼ気が付かないものなので、そこをどうするか。そのため、アスリートの多くはゾーンを思い描いたイメージ・トレーニングをしたり、ルーチンを確実なものにしていくということをする。

けれども意外なことだろうが、スポーツ以外ならいくらだってゾーン体験は引き寄せることが可能なのである。一番有効なのは誰かとコラボすることだ。スポーツは必ずチームや相手がいてスコアを争っているのだが、他の才能開花は一人で自分の才能の発揮に悩む。そういうときは、誰かとともにその才能を試すのがいい。編集能力の発揮なら、学習仲間とともにさまざまなことを試みたり、メディアを変えたりするといい。

たんに感動したといっても、そこにはざっと以上のようなことが準備されていたり、参集していたのである。これらを無視しては才能は発揮できないし、才能を云々することも叶わない。

しかし、ここまでの話は、ぼくがこのコラムであきらかにしたいことの範疇のうちのまだまだ一端にすぎないのである。どちらかというと、ここまでは才能議論の準備やアプローチに必要なことで、実は序の口の話なのだ。クロート向きとは言えない。
 才能に痺れたのちに重視してみたいのは、驚かされた相手の才能は当方(受容者)にどのように伝播されたのか。その後はどうなっていったのか、ここを抉るということだ。

ラグビーの平尾やシンガソングライターの陽水の才能は、ほおっておけばすぐに「スポーツの才能」とか「音楽の才能」というふうに一般化されてしまう。また他のプレイヤーとの比較分布にマッピングされていく。ジャンクフードや料理の個別の感動は、たちまち無数の「おいしさランク」にいいねボタンとして回収されて、平べったくなっていく。

ゼビウスはその後は無数の電子ゲームが乱舞していったので、おそらくいま遊んでみても当初の感動は色褪せているにちがいない。

愛用の”お古” シャープ《書院》

コム・デ・ギャルソンの黒い紐付きの白シャツはいまでも気にいってはいるけれど(イッセイのスタンドカラーの白シャツなどとともに)、それははっきりいって「お古」なのである。

が、大事なのはこの「お古」との付き合いのうちにも、あのときの感動とそれをもたらした才能とを交差させられるかどうかということなのだ。

そもそもプラトンも人麻呂もバッハもゴッホも複式夢幻能も、これらはすべて「お古」なのである。「お古」だからこそ、何度もプラトンを読みなおしたり能楽を見なおしたりするのだが、そしてそれで少しは自分が感動した才能の位置や重みに気がつくこともあるし、少しは「お古」を脱したと感じるのだけれど、これでは甘いままになる。それよりむしろもっと「お古」を相手に才能と向き合うべきなのである。「お古」をバカにしてはいけない。

これは思うに、感動は転移しつつあるあいだも(AからBに、BからCやDに)それなりの主張をしているはずなのだから、その転移のなかでの様変わりな変容も捉えておいたほうがいいだろうということだ。ぼくが何を一番鍛えてきたかといえば、おそらくはこの「お古」をいつも甦らせる状態で自分の編集力をリマインドしたりリコールできるかということだった。

感動や驚嘆には才能の楽譜やレシピが刻まれている。ぼくの編集力はそのことをヴィヴィッドな状態でホールディングしたり別の場所にキャリングする(移行させる)ことを、試行錯誤をくりかえしながらも何度も試みることで、そこそこ鍛えてきたように思う。ただし、そこにはいろいろの秘伝もある。そのあたりのこと、おいおい話してみたい。

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失われた時を求めて

マルセル・プルースト

集英社 1996

Marcel Proust
A la Recherche du Temps Perdu
[訳]鈴木道彦

 今夜はプルーストである。早稲田の仏文科に入ったのはプルーストをフランス語で読みたかったからだった。同級生に波野クン(のちの中村吉右衛門)がいた。それなのにその野望は叶わず(語学力が追いつかず)、結局は伊藤整や井上究一郎の訳で読んだ。今夜は鈴木道彦個人全訳の『失われた時を求めて』を選んだ。
 原文をクリアできなかったのにこんなことを言うのも横着だが、鈴木道彦による編訳二巻本『失われた時を求めて』(集英社)はよくできていた。この二巻本が出たころだったと思うのだが、ジル・ドゥルーズの『プルーストとシーニュ』(法政大学出版局)をちょうど読んだばかりだったので、むずむずして久々に原作を読みたくなったのだ。ふつう、要約やダイジェストといえば隙間や行間がどこかへ消えてなくなってしまうのだが、鈴木の訳芸はそこをちゃんとつくっていた。井上訳よりも洩れていくものが少ない。ちなみにドゥルーズは『失われた時を求めて』を文学機械とみなし、記憶と現在意識と創作的出来事の差異を自律的に吸収反復していく装置になっていると言った。たしかに差異を吸収している。けれども、そこばかりを強調するのは、愉しんで読んだのかどうか、心配になった。
 ぼくも、いまさらこの大作を紅茶にひたしたプチット・マドレーヌの味や、敷石に躓いて思い出したヴェニスの寺院の石段から話すつもりはない。だからそのかわりに、いくぶんプルースト風に静岡の一軒のカフェの話から書くことにする。以下、プルーストの「私」と松岡正剛の「ぼく」が脈絡に応じてまじっていく。あしからず。
 
 その店は「コンブレ」という名の店で、静岡に残るただ一軒の倉俣史朗のデザインによるカフェである。ぼくはその呉服町の店へ、甲賀雅章クンという地域文化のリーダーに誘われて初めて行った。ぼくも壇上に参加したデザイン・シンポジウムの二次会場にあてられたカフェだ。
 外階段を上がって店に入ったとたん、亡くなっていた倉俣さんが透明樹脂の色椅子をいじっている姿が蘇ってきた。そして、ああそうだ、そうかもしれない、こういうことかと思ったのだ。それは『失われた時を求めて』の発端が「私」の故郷コンブレー(コンブレ)への回帰から始まっていたということに符合していて、プルーストはあの長すぎる記憶の物語の冒頭で、コンブレーは狭い階段で結ばれた二つの階でしかないとか、夕方の七時にしか存在していないなどと書いていたことが、ほんの一瞬だが、静岡の店の嬌声につながったからだった。

 カフェ「コンブレ」は静岡中のデザイナーがみんな集まってきたかというほどに混雑していた。ぼくは次々に見知らぬデザイナーたちから声をかけられながら、倉俣さんの「時」を追憶しかけては、そのまどろみを破られていた。そしてなんだか急に納得して、ぼくも騒然たる夜の盛り上がりの一員になっていった。
 その納得というのは、いつか書くかもしれないプルーストをめぐるぼくの断章は、この静岡呉服町の一脚の透明な色椅子に始まってもいいだろうなということ、また、どこかでエットーレ・ソットサスや内田繁のデザイン人生に大きな重なりを見せている倉俣史朗は、このように人々の根源的な郷愁を引きつけた遊びを各地の内装のなかでしつづけているだろうという納得、あるいは川崎和男や井上志保がそのことを書きたくてしかたのないほど空中に浮かんでいる倉俣史朗の意匠とは、この夜の密集にも沈黙しつづける「失われた時」のことだったのかというような、そういう納得だ。
 そのときである。立席者がひしめく満員のフロアーの片隅から一人の初老の男がにこやかに近づいてきて、ぼくの腰に手を触れたのだ。そして、こう言った。「コンブレって、いいでしょ。ここ、あたしの時間なのよね」。
 
 コンブレーは「私」が幼年時代を過ごした田園の村である。そこには、「われわれ」もそのように幼年時代の一点を思い出せばきっとそうであるように、二つの散歩道があって、ひとつはスワン家の方へ、もうひとつはゲルマント家に向かっていた。
 ユダヤ人で株式仲買業で、ジョッキー・クラブの伊達男とよばれていたスワンには一人娘のジルベルトがいて、「私」はジルベルトを見かけたときから初めて異性を感じた。これは横浜山手町の「ぼく」の家の隣のエンジェリカ・レリオにあたっている。一方のゲルマント家にはゲルマント公爵夫人がいて、「私」の内なる高貴なものに震える何かを象徴していた。「ぼく」の少年期には残念ながらそういう高貴な夫人は見当たらないが、もしかしたらそれは母であり、もしかしたらそれは足利からお菓子をわんさと持ってときどき遊びに来てくれた正子さんであるかと思われた。
 やがて少し長じた「私」はパリに出て、「ぼく」は京都から横浜に出て、スワン家に出入りする。この思い出のなか、つねにヴァントゥイユのピアノ・ソナタが流れている。ここでは述べないが、この作品では、たいてい音楽と絵画が決定的な役どころをもって「私」の記憶を遠くに運ぼうとしているのだ。

 ここまでが第一部「スワン家の方へ」で、かつてこのタイトルをもじって、土方が《澁澤さんの家の方へ》という暗黒舞踏会を開いたものだった。
 ところで、コンブレーをこのように切れ切れに思い出したプルーストである「私」は、これらのことを、半ばまどろみながら、半ばベンガル花火を見るように、「私」のすべての面倒を見てくれているフランソワーズの柔らかい手のなかで、睡神モルフェウスのふるまいのように辿っているだけなのである。この記憶を辿る手法のなかには、すでにプルーストの入念な実験が始まっていた。それこそは倉俣史朗や内田繁が試みた「記憶という方法」の、最初の最初の、まだ湯気が出ているような先駆であった。
 こういうことは、もちろんしばしばくりかえされている。「ぼく」にとっても静岡呉服町の夜半の記憶には、そのどこかに痩身で楚々とした仁科玲子の姿が交じっていて、そのときはうんと遠くにいた彼女が、いつしかまわりまわって「ぼく」の事務所にくるようになったのは、あるときセーヌ川の船の上でのパーティで、「そろそろだよね」と、何が「そろそろ」かを示さない会話をほんのちょっとしたことが機縁となっていて、そこからプルースト的ブーメランが「われわれ」の頭上をぐるぐると飛んだのだった。コンブレはその船上にも、赤坂稲荷坂の三階のぼくの小さな書斎にもあったわけである。
 
 第二部「花咲く乙女たちのかげに」では、いささかこれみよがしな数々のサロンが登場する。なかでもヴェルデュラン夫人のサロンは特別で、スワンは娼婦オデットとともにここに出入りする。
 「私」は、それまではまるでお伽の国の主人公だったスワン夫妻とも、お目当てだったジルベルトとも、親しくなった。ブーローニュの森のなかの遊園地にも一緒に行くことになった。スワン夫人はまるで世の中の「美の種類」を集めているようだった。おばあさんと一緒に出掛けたノルマンディの避暑地バルベックの海岸では、ゲルマント家の人々とも出会った。そこには貴公子ロベール・ド・サン=ルーと、その伯父の社交界の大立者シャルリュス男爵がいた。
 ここでの第二章「土地の名・土地」は第一部でも同じ章立てがもうけられていたのだが、プルーストがこの作品全篇をこめてゲニウス・ロキの解読にあたっていることをあらわしている。プルーストは「付近」というゲニウス・ロキを先取りして文学にしてみせた張本人だったのだ。
 ゲニウス・ロキとは地霊のことである。そうしてみればいまならこう言ってのけられるはずなのだが、倉俣史朗のデザインの本来は、この「付近」をこそコンセプトにしたデザインだったということなのである。
 
 さて、ある日、「私」は海岸で華やかな少女たちの一団と遭遇し、そのことに強い印象をうけた。彼女らは光を発する彗星集団のようだった。すでに「われわれ」がフェリーニやヴィスコンティの映像で教えられてきた、あの花のような一団だ。
 画家エルスチールになんとか仲介してもらい、「私」はその少女の一団の一人アルベルチーヌと知り合うようになった。彼女は「ぼく」が五色沼で出会ったトチハラにちがいない。理想の少女と出会えた「私」の心は激しく高揚していたが、アルベルチーヌは「私」の柔らかな接吻を拒み、そのうちバルベックに雨の季節がやってきて、どこかへ出発してしまった。「私」の夏の季節が終わったのだ。
 こうしてプルーストは「名」の記憶を過ぎて、少しずつ「物」の世界を思い出していく。呉服町にも朝がくる。「ぼく」のトチハラは銀色の東横線を自由が丘で降りたまま、いなくなった。
 
 第三部は「ゲルマントの方」である。「私」の家族がゲルマント家の館の一部に引っ越したのだ。これはいくぶん寂しいことで、コンブレーの散歩道の向こうに輝くゲルマント家の幻想はこれでもろくも壊れていった。
 けれどもゲルマント公爵夫人のしだいに若返るかのような美しい容姿だけは、あいかわらず「私」の心をときめかせた。夫人の甥で好ましい性格のサン=ルーに頼み、「私」は夫人の行く先々に姿をあらわしたいと思うようになっていた。サン=ルーにはユダヤ人の娼婦との恋の問題がある。
 その一方、「私」にはそのようなゲルマント家の変化を話してみせるフランソワーズの言葉づかいがヒントになって(たとえば「気の毒がる」をラ・ブリュイエールのように「出し惜しみする」という意味でつかう)、くすくす笑いながらも、これらのエクリチュールの変化をフランソワーズぐるみで愛するようになっていた。そのうち「私」のおばあさんが死んだ。最後は一枚の毛布すら沖積世の土砂のように重かったらしい。
 そんなときアルベルチーヌが「私」のところに訪れてきた。家というものは奇妙なもので、人々はそこに誰が住んでいるかという格式によって、その家と交際をしたがる。「私」はアルベルチーヌとついに接吻をし、そういうものなのだろうと思うけれど、そこからは一転して、にわか仕立ての恋人のような関係になっていった。このころから、シャルリュス男爵がどうにも理解しがたい言動をとりはじめた。
 
 第四部「ソドムとゴモラ」にさしかかったとき、まだ触知してない何かがやってきたという気持ちになった。
 シャルリュス男爵は男色家だったのである。仕立屋のジュピアン、ヴィオロン弾きのモレルに熱をあげている。すでに『禁色』を読んでいた「ぼく」は、最初は三島のソドミズムのほうが強烈で、むしろプルーストは軟弱に見えていた。のみならず稲垣足穂のA感覚からすれば、ワイルドやコクトーやジュネはともかくも、プルーストはどう見てもゲイ感覚の王城からずれていた。しかし、このような感想はやっぱり早計で、プルーストがとんでもない葛藤を用意していたことがすぐにわかってきた。
 ひとつは、シャルリュス男爵の恋の相手の脚は華麗なキャミソールをからげてこの世のものともつかぬほど美しく、その顔は未知のスパニッシュダンサーのように妖艶になりうることを「私」が目撃してしまったということ、もうひとつは、どこかアルベルチーヌには妖しい秘密があるらしいことを感じてはいたのだが、そのアルベルチーヌにも同性愛の傾向があったということだ。
 さすがに「私」はこの葛藤に苦しんだ。嫉妬もした。あまりの嫉妬に、情けないことに「私」は母にアルベルチーヌと結婚する許しを乞うた。「私」は泣いていた。
 すでにプルースト派には知られていることであるが、プルーストは若い母にはいつも恋情をもっていた。そして、これをこそいまさら言っておかなくてはならないが、プルーストは男色の囚人だったのである。このことについては最近になって原田武の『プルーストと同性愛の世界』(せりか書房)が刊行され、囚人としての一部始終があからさまに証されている。
 第四部は、こうした妖しい出来事が、ラ・ラスプリエール荘を中心に目眩く夜会のように繰り広げられる。「時」はいつだってこんなふうに時ならず連打された夜の節会でおこるのだ。「ぼく」の少年期のばあいは、それは決まって高倉押小路の家か、法然院か詩仙堂か、もしくは寺町の「スマート」という喫茶店での出来事だった。
 
 さて「ぼく」は、第五部の「囚われの女」のところで、しばらく『失われた時を求めて』を読むのを中断していた。その後にぽつぽつ続きを読んだものの、中断のせいか、ほんとうにこの部分がそうなのかはわからなくなっているのだが、ここで「私」がアルベルチーヌを監視し、閉じこめるようにして暮らし(つまりは「私」が十九世紀末ストーカーのはしりになって)、あげくにアルベルチーヌが失踪してしまうというのは、どうも納得のしがたい展開に見えたのだ。
 同じく第六部「消え去ったアルベルチーヌ」も、失踪したアルベルチーヌが落馬して死んだという噂を聞いたというだけでは、何かが充実しなかった。「私」はさすがに絶望するのだが、「ぼく」は絶望とはほど遠い。「私」がこの絶望から逃れるのには、「私」の中のアルベルチーヌの記憶を消し去っていくしかないというのも、腑に落ちない。まして、そのためには自分の死というものを、記憶の一般性に拡散していけばいいというプルーストの判断も、承服しがたかった。
 が、どのようなきっかけかは忘れたが、おそらくはアルベルチーヌが自動ピアノの「ピアソラ」でヴァントゥイユの曲を「私」に聞かせているくだりあたりから少しずつということだったと思うけれど、「ぼく」はまたプルーストの“旋法”に嵌まっていったのである。のみならず、このあたりからプルーストのこの叙述の方法に、「記憶という方法」や「方法としての記憶」がぴたりと狙いどおりに進んでいることに、わくわくするようになっていた。
 記憶と忘却の関係とはどういうものなのか。記憶にも方法があるのだが、きっと忘却にも方法がある。どのように忘れるかということが、「われわれ」の現在をつくっているわけなのである。倉俣史朗もこの両方を駆使したうえで、「コンブレ」や、そして未詳俱楽部が白石加代子とともに訪れた東京湾岸天王洲のビル最上階の、あの「ラピュタ」を意匠したはずだ。「われわれ」は何かを忘れさせてくれるデザインに、たいてい時間を感じるものなのだ。
 
 最後の第七部は有名な「見出された時」である。ここではすでに、かつては貴公子の、いまは「私」の親友となったロベール・ド・サン=ルーがジルベルトと結婚していて、それなのにロベールが不毛な情事に耽って、妻のジルベルトを苦しめていることになっている。不毛な情事とは、またもや同性愛のことである。すでに第一次世界大戦が始まっていた。
 プルーストである「私」はここまで書いてきて、自分の文学的才能に本気で思い悩んでいる。体もすぐれず、サナトリウムでの療養生活でもしないといられないほどの体調とノイローゼになっていた。そこでパリを発つことにした。
 パリは戦火に見舞われ、かつての社交界は没落の一途を辿っていった。新たな輝きは、ひたすら消費を誇るプチ・ブルジョワジーか、ヴェルデュラン夫人とボンタン夫人の手中に落ちた。それでもシャルリュスはいよいよ凄惨に、いよいよ倒錯を深めてやまない。ジルベルトを悩ませつづけたサン=ルーは愛国者となり、ワーグナーの思いに匹敵する戦争をなしとげるのだという気概のもと、前線であっけなく戦死した。
 こうして、さしもの戦争も終わりを告げたのである。全員が病気だったのだ。しかし、いったい何が終わりを告げたのか。「私」の心は索漠としたままであり、何も前途に見えるものなどなかった。「ぼく」は銀座の中島商事ビルにいた未亡人に誘惑されるがままだった。
 
 時間が流れた。「私」はすっかり追憶からも現実からも遁がれたままにいる。そこへ一枚のマチネー(午後の集い)の招待状がきて、ゲルマント太公妃の屋敷に赴いた。
 どうやら仮面舞踏会が開かれているようだ。屋敷の前で車を降りた「私」は、ふと中庭の不揃いの敷石に躓いた。そのときである、その感覚がヴェニスの寺院の敷石の感覚に通じ、そのままヴェニスについてのすべての記憶が蘇り、自分でも信じられないほどの大きな歓喜が体を満たしたのだ。それはプチット・マドレーヌの味が幼い日々のコンブレーを蘇らせたのと、まったく同じ連動連想の現象だった。
 プルーストは書く。皿に匙の触れる音、ナプキンの固い手ざわり、髪から零れる香油の匂い、コンブレーの眼鏡屋……。いや、いや、もっといくつもの触知を並べていたが、これらはすべて過去と現在をまたいでそこにありうるものなのだ。こうして、「われわれ」は超越的な時間のなかに溶け合えるのだ。「私」はついに確信できた。
 「ぼく」もわかった。ジル・ドゥルーズは『失われた時を求めて』はシーニュの生産のための文学機械だと言ったけれど、いやいや、それだけではない、ドゥルーズは見落としている。この方法こそが芸術というものにかつて見いだされたことのないものをひそめていたということを。そこには「クオリアの文学」ともいうべきが萌芽していたということを。
 ゲルマント家のサロンでは、すでに変わり果てた知己の顔が雑然と戯れていた。みんなが仮面をかぶり、みんながかつての役割を脱いだのだ。そこには「時」があるばかりで、静岡の「コンブレ」同様に、昨日と明日の区別のつかない人々が酔いしれていた。そこへジルベルトと故ロベールとのあいだに生まれたサン=ルー嬢が紹介された。「私」はハッとした。この少女の裡にこそ「スワン家の方」と「ゲルマント家の方」の両方の散歩道が重なっているではないか。「私」はその両様のイメージを見た。
 これですべての準備が終わったのである。もう何も新しく加わる必要はなくなった。「私」は忠実なフランソワーズに愛され、世話をされ、しだいに近づきつつある死の床で、いよいよ念願の『失われた時を求めて』に取り組もうと思っている……。
 
 マルセル・プルーストは一八七一年にパリ郊外のオートゥイユに生まれた。父方の敬虔なカトリックの家系はイリエにあって、ここがコンブレーのモデルになった。
 プルーストの幼年時代にとって、その精神に大きな影響を与えたのはブーローニュの森から帰って始まった喘息である。ぼくの妹がひどい喘息だったので(いったん死にかけた)、この発作が何をもたらすかはよくわかる。
 コンドルセ中学では、プルーストは半分を文才に、半分をシャンゼリゼなどで戯れる乙女にひたすら見とれることに費やした。十七歳で社交界への出入りをスタートすると、プルーストは生涯の半分以上を、この社交スタイルで貫いた。すなわち、サロンの夫人に次々に憧れ、どこかで新たな恋に出会うことばかりを考えた。ぼくの中島商事ビルの未亡人は「もう、こんなことやめましょう」と言った。
 ところがちょうどオスカー・ワイルドがパリに滞在したころの二十歳前後から、プルーストは自身の内なる男色に目覚めた。ついでは二二歳のとき、審美倒錯詩人にして世紀末頽廃の代表者であって、かつ名だたる男色伯爵でもあった三八歳のロベール・ド・モンテスキューを知り、「異常」に惹かれてしまっていた。モンテスキューは、御存知、ユイスマンスの『さかしま』のモデルであって、プルーストが造形した倒錯者シャルリュス男爵のモデルである。このあたりの世紀末男色事情の雰囲気については、第五七二夜の『コルヴォー男爵』にも書いておいた。ヨーロッパの世紀末は、この男色感覚がどのように都市に侵入していったかという事件簿なのである。
 二十代のプルーストについて、そのほかのことでぼくが関心をもつのは、両親の庇護のもとにかなり贅沢な晩餐会を開いていること、ドレフュス事件で熱烈な弁護活動に加担したこと(アナトール・フランスの牽引のもとに)、そしてジョン・ラスキンの著作を耽読していることである。とくにラスキンについては、その著作を手引きにして各地の寺院をめぐり、その経済倫理学の翻訳も引き受けていった。その姿勢は当時のフランスが採用しようとしていた政教分離政策への反対表明にまで至っている。ラスキンからプルーストへ。この回路こそ、もっともっと研究されてよいものだ。
 
 マザコン・プルーストの三十代は、母親の死が最大の事件である。その悲嘆はかなりのもので、喘息がらみでサナトリウム療養に入っている。読書をするか、運転手アゴスチネリによる自動車での寺院めぐりか、やっと書き始めた自伝づくりか、そんなことしか三十代のプルーストの関心にない。
 が、プルーストはもともとバイセクシャルだったから、つねに夫人にも娘にも少女にも心を惹かれつづけた。
 こうして三八歳、ある日、紅茶にひたしたプチット・マドレーヌの香りと味をきっかけに、失われた「時のクオリア」をいかに綴るかという方法的模索に入っていったのである。コンブレーはここで蘇ったのだ。この方法を思いつこうとしたことは、プルーストのこれまでの全生活の点検でもあって、その細密きわまりない点検自体が、プルーストが発明した「クオリアの文学」となったものである。
 たとえば間歇性の喘息症状であったことは、その記憶を間歇的に思い出すことにつらなり、その喘息にしばしば瞬間的な窒息がともなったことは、プルーストが考える文学作品は「記憶を辿る文学」ではなく、「思い出せない記憶にさえ思い出が広がる文学」というものであることを、思いつかせたのだった。
 プルーストの四十代はほとんどの日々を『失われた時を求めて』に費やした。五一歳、書き継ぎに書き継いだ大作にようやく終息を感じると、プルーストはベッドの上で校正をしたまますっかり疲れ切って、呼吸困難のうちに終息していった。ぼくはその一瞬の終息を、あの夜の「コンブレ」の透明な色椅子にも見た思いがする。