才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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クィア神学の挑戦

工藤万里江

新教出版社 2022

編集:小林望・堀真悟 協力:西原慶太、ミラ・ゾンターク
装幀:今垣知沙子

 この数十年のあいだ、キリスト教の活動のなかでLGBT神学やクィア神学に果敢に挑戦した試みがいくつもあった。いまなお脈動している。そこでは「キリスト教はもともとクィアだった」「神をエロティックに捉えたい」「バイ・キリストのための下品な神学があっていいじゃないか」といった大胆な提案などが躍ったのである。どうしても紹介しておきたい。
 著者は同志社大学神学部出身で、立教大学大学院で本書の原型になるクィア神学についての博士論文を書き、いまは明治学院や立教で教えている。本書がデビュー作だ。その素材になった何冊かの個別の類書はあるものの、ここまでうまくまとまってはいないので、採り上げた。代表して3人の女性が採り上げられている。
 アメリカ聖公会の初の女性司祭となったカーター・ヘイワード、『ゲイ神学とレズビアン神学』を著したイギリスのエリザベス・スチュアート、『下品な神学』を問うたアルゼンチン出身のマルセラ・アルトハウス=リードだ。3人ともレズビアンかバイセクシャルである。

著者の工藤万里江はクリスチャンの両親のもとで育った。プロテスタント教会の牧師と結婚し「牧師夫人」を務めるも、周囲から押し付けられるステレオタイプな女性像にもがき苦しむ。現代社会を生き抜くために、フェミニズム神学・クィア神学を拠りどころとした。本書に大きく取り上げた三神学者の中でも、アルトハウス=リードがお気に入り。

クィア神学の土台を築いた3人の女性神学者。左から順に、カーター・ヘイワード、エリザベス・スチュアート、アルトハウス=リード。アメリカ、イギリス、アルゼンチンと別々の地域に生まれ育ち、クィア神学者の立ち位置も、活動時期もすこしずつずれながら、クィア神学の草創期を三者三様に担っていった。

 最初に前史と概観を話しておく。当然のフェミニズム神学やゲイ神学が先行した。第1ステージは「同性愛的」で、サリー・ギアハートやジョン・マクニールの言説が男性中心主義的に広まった。第2ステージが「LGBステージ」で、レズビアン、ゲイ、バイセクシャルが前面に出てきた。いちはやくカーター・ヘイワードが活躍したが、LとGの違いがはっきり出てもきた。エイズが流行した時期にもあたる。
 1992年くらいから第3ステージとして「クィア神学」が走りはじめた。性的マイノリティを意識した活動があらわれ、性のスペクトラムが教会にもちこまれた。この時期は黒人神学も立ち上がっていて、イエスを黒人とみなしたり、フェミニズム神学でイエスをフェミニストとみなしたりする動きも目立った。
 別の整理の仕方もある。神学者エリザベス・スチュアートのクロニクルがそれで、『ゲイ神学とレズビアン神学』で跡付けられた。①70年代の「ゲイの自由主義神学」、②80年代末から90年代にかけた「ゲイの解放主義神学」、③90年代に提唱された「エロティック神学」、そして④今日に及ぶ「クィア神学」だ。自由主義神学には黒人女性によるウーマニスト神学、ヒスパニック女性によるムヘリスタ神学も勃興していた。
 もっとも『ラディカル・ラブ――クィア神学入門』(新教出版社・本書の著者が翻訳した)をまとめたパトリック・チェンは、クィア神学の萌芽は50年代に早くも生まれていて、60年代後半には異性愛主義と同性愛嫌悪からの解放を謳うリベラルな運動として準備されていたとしている。
 ついでながら日本のクィア神学を牽引してきたのは神学者・社会学者で、レズビアンを公表した牧師でもある堀江有里だった。『レズビアン・アイデンティティーズ』(洛北出版)などの著書がある。ほかに朝香知己、小林昭博、安田真由子らが続く。
 では以下に、3人の改革者たちを案内する。本書や関係者から思い切った抜き書き要約したので、少々目がまわるかもしれない。しかしぼくとしては最近のLGBTQ議論のなかで最も説得力を感じたのだ。

両親の離婚を経験したサリー・ギアハート(左)は、女性の集団的な強さに憧れを抱いた。大学で神学を学び、同性愛当事者としてレズビアン神学を先駆ける。同性愛嫌悪、女性差別との闘いの渦中で、サンフランシスコ市議のハーヴェイ・ミルクとともに、同性愛者の教員を解雇できるとする「条例6」の破棄に尽力した。

NYのゲイ・プライド・マーチに参加するジョン・マクニール(右から2人目)。1976年出版の『教会と同性愛者』を機に、初のゲイ神父として耳目を集める。バチカンの公式文書に非難を表明した廉でイエズス会を追放されるが、その信仰を生涯貫いた。2011年に伝記映画 “Taking a Chance on God “が公開されている。

古代ユダヤ人の頭蓋骨からCG再現されたイエスの顔貌(左図)とルネサンス期の画家が描く典型的なイエス像(右図)。本来のイエスは、幅広の顔、大きな鼻、黒い皮膚が特徴的だったと推測されている。

パトリック・チェンは聖公会の司祭で神学者。著書の『ラディカル・ラブ』は、「この世界に存在するあらゆる境界線を消してしまうほどの愛」としてのクィアな福音を打ち出し、旧来の枠組みを大胆に捉え直した。工藤万里江が翻訳を務めている。

堀江有里と『レズビアン・アイデンティティーズ』。日本のクィア神学を牽引してきた堀江有里は、1990年代から性差別に声を上げ、教会の在り方を揺さぶってきた。著書『レズビアン・アイデンティティーズ』では、異性愛そのものを問題にし、婚姻制度そのものを解体する「反婚」の姿勢を表明した。

【カーター・ヘイワードの力としてのエロティック】

 ヘイワードは1945年生まれ。コロンビア大学で比較宗教学を修め、ユニオン神学校に進んだのち、エピスコパル神学校で2006年まで奉職した。10代のころからフェミニズムに関心をもち、34歳のときにレズビアンであることを公にした。1989年に書いた最初の著作『私たちの強さに触れる―力としてのエロティックと神の愛』が衝撃的な問題作となった。
 ヘイワードは「エロティックを相互性を求める身体化された呻き」として考察したい、「セクシュアリティの神学、すなわち神学的なレンズを通してセクシュアリティを考察する試み」ではなく、「性的な経験を通して聖なるものを探索する試み」に向かう、と宣言した。
 この考え方は、第2波フェミニズムの渦中にいた黒人レズビアンのアクティビスト、オードリー・ロードに先駆していた。ロードはエロティックを女性たちの内にある重要な力の源で、「まだ表現されていない、あるいは認識すらされていない感情の力に根ざしたもの」と捉え、エロティックこそ「私たちの最も深い知識の育み手」だとみなした。ヘイワードはこの見方に依拠し、そこをもってキリスト教神学の限界に挑んだのである。限界とは、キリスト教が「上からの力」(power-over)を強調しすぎていること、「身体化された知」を無知とみなすこと、エロトフォビア(性愛嫌悪)に陥っていることなどをさす。
 神学(Theo-logie)とは「神-語り」のことである。カール・バルトは神を絶対他者とみなしたので、人間が神を語ることはできないとした。マルティン・ブーバー(588夜)は「我と汝」の対話から始まると考えた。ブーバーの『我と汝』の引用を卒論の冒頭にもってきたヘイワードは、ブーバーの立場に寄せながら、関係(relation)と相互性(mutuality)による神学を希求し、神語りは相互関係的であるべきで、そこにエロティックが介在したほうがいいと決断したのだった。
 ここには、ひとつにはキリスト教がアガペー(神と人間の愛)とエロス(性的な愛)とフィリア(友情的な愛)を区別してきたことに対する批判があった。レズビアンにはこんなことが分けられるはずがないと考えた。ヘイワードはこのような神語りを、神(God)を動詞にして「ゴッディング」(godding)と呼びさえした。
 また彼女には、神の「受肉」(incarnate)をナザレのイエス一人におこった奇跡的な出来事とすべきではないという批判があった。神は源ではあるにしても、それとともに共同的な動向そのものであり、それゆえ多くの者の身体化(embodied)をおこすのではないか。そう感じていた。ヘイワードは、それならキリストという言葉も固有名詞ではなく形容詞「キリスト的」(Christic)というふうに使ったほうがいいのではないかと提案した。
 ちなみにこれらのヴィジョンは、ヘイワードが「クリスタ」(Christa)を擁護したことにも顕著にあらわれていた。クリスタとは、フェミニズム神学が議論した「イエス・クリスタ」のことで、1984年にニューヨークの聖ヨハネ大聖堂にイギリスの彫刻家のエドウィーナ・サンズが造形した女性のキリスト像が十字架に架けられて展示されたことがあった。1984年にニューヨークのセント・ジョン・ザ・ディヴァイン大聖堂に期間限定で設置された。

カーター・ヘイワード牧師 (中央)は、1974 年にニューヨークの教会で聖体礼拝を祝った。彼女と他の 10 人は聖公会教会で初めて叙階された女性司祭であり、殺害の脅迫があったため、厳重な警備下において儀式が行われた。2005年に大学を退職したのちは、聖公会の司祭でありつつも、ユニテリアン教会で時々説教を行っている。

オードリー・ロードの詩は、技巧的な感情表現で知られる。幼少期に、自分の名前を書けるようになってまもなく、Audreyの「y」を落とした「Audre Lorde」という名前を使うようになる。「e」で終わる対称性を気に入ったためだ。生涯を通して、社会の抑圧に対する強い怒りを表現した。社会問題やフェミニズムに取り組むと共に、黒人女性のアイデンティティを探求し、インターセクショナリティの発展に大きな影響を与えた。

ニューヨークのセント・ジョン・ザ・ディヴァイン大聖堂は、1892年に建設が始まったが未だに建設中である。完成すれば世界最大のゴシック大聖堂になる。 虹色にライトアップをされているのは、2023年にLGBTQ+コミュニティをたたえる「プライド月間」の様子。

エドウィーナ・サンディの彫刻「クリスタ」は、セント・ジョン・ザ・ディヴァイン大聖堂に1984年と2016年の2度展示された。1984 年には、典礼の一部のように受け取られたが、2016年の場合「クリスタプロジェクト」として、明確な展覧会として受け取られた。その事実が、数十年間の社会の変化を表している。像に手を伸ばしているのは、エドウィーナ・サンディ本人。

「クリスタ」(Christa)は、不透明なアクリルの十字架にかけられたキリストの像。しかし、肉体的特徴は女性そのものである。神性、苦しみ、具体化について思考を向けることを目的している。

【エリザベス・スチュアートのクィアなキリスト教】

 エリザベス・スチュアートは1963年に生まれ、ローマ・カトリックの環境のなかで育った。オックスフォード大学で神学博士号をとり、1998年からウィンチェスター大学で神学の教鞭をとると、2013年に副総長になった。OEP(オープン・エピスコパル・チャーチ)の司教でもある。2003年の著作『ゲイ神学とレズビアン神学』がセンセーショナルに迎えられたのだが、スチュアートはそこにとどまらず、あえてクィアな神学の可能性を探っていった。
 スチュアートは早くにカーター・ヘイワードの影響を受けて、関係や相互性を重視する神学をめざしていた。このとき自身のレズビアン・フェミニストとしての気持ちと立場を全面的に持ち出すことにしたのだが、のちにこうしたアイデンティティを掲げる神学には限界があると感じ、反アイデンティティの神学を志して、あえてクィアな神学を模索した。それとともに、これは必ずしもゲイやレズビアンの立場から生まれるものではないだろうから、自分が提唱する神学は、おそらく奇妙で不自然なものだろうと予告した。この「読み」はたいへん興味深い。
 もちろんそう言うには理由がある。第1に、キリスト者のアイデンティティは洗礼というサクラメントによってすでに「ラディカルに異なる存在性」を帯びたのである。そうだとしたら、キリスト者にとっては男か女か、同性愛者か異性愛者かなどというカテゴリーは不要だろうというものだ。この考え方はキャシー・ルーディの『セックスと教会』に先行したもので、キリスト教とジェンダーをめぐる議論に新しい一打をもたらしていた。
 第2に、キリスト教はもともとクィアであったというヴィヴィッドな理由が生きている。預言、奇跡、処女懐胎、復活、三位一体などを確信したキリスト教は、もとより「変」から生じ、「変」を正当化してきたのである。少なくとも「変事」を継承しようとしてきたわけである。それならば、キリスト教は本来のクィアにこそ戻ったらどうなのか。そのために何を考察し、何を行動とするべきなのか、そこを実践すればいいのではないかという理由だ。
 第3に、キリスト教社会では、女性信者にとって長らく懸念になっていたことがあった。それは信仰対象であるキリストが男性的な肉体をもっているということである。厄介な懸念だった。スチュアートはむしろ神秘としての身体に戻したほうがいい、そのほうが転置可能性が高くなると考えた。ぼくはキリスト者ではないけれど、この転置可能を言い出した考え方がすごくよくわかる(編集可能性こそ神学的であり、クィアなのである)。
 第4に、これは理由というよりも新たにとりくむべき方向として掲げられたことなのだろうが、「再呪術化」(reenchant)があげられる。20世紀のキリスト教が「大きな物語」を失い、高度資本主義社会の歯車になっている現状で、あえて再呪術化を辞さないクィアな方針が必要だろうというのだ。これについては、90年代のジョン・ミルバンク、グラハム・ワード、キャサリン・ピックストックの「ラディカル・オーソドクシー」への回帰、すなわち中世的伝統への回帰が重なっている。
 もうひとつ加えておけば、ジュディス・バトラー(1819夜)があえて過剰な演出をするトランスジェンダーの役割を重視したこと、イヴ・セジウィックが生物学性、ジェンダー・アイデンティティ、性的指向をあえて混乱させることを称揚していたことも、スチュアートのクィア神学に勇気を与えていたと思われる。バトラーが示していた、新たな宗教もパフォーマティブに向かう可能性が高いわけである。

キャシー・ルーディーは著書『セックスと教会』で、「神の民」として招かれているキリスト者は「キリスト者」というアイデンティティを至上とし、それ以外のいかなるアイデンティティも拒否するべきだと述べた。また、アイデンティティの脱構築は洗礼を通してなされると論じている。その視座はスチュアートに引き継がれた。

上の写真はソルトレークにある末日聖徒イエス・キリスト教会本部前で行われたデモ。下の写真はダブリンで開催された司牧会議での聖歌隊の様子。ローマ・カトリック教会は、自然法に反する罪深い行為として同性愛を禁じており、性的少数者は求める信仰と宗教的組織の規律の間で葛藤してきた。聖歌隊の後ろで微笑むフランシスコ教皇は、在位した2013年に同性愛を擁護する発言をし、歴代の法王とは一線を画す姿勢を示した。ところがローマ教皇庁はいまだ、同性愛を認めない旨の公式見解を貫いている。

【マルセラ・アルトハウス=リードの下品な神学】

 アルトハウス=リードは1952年にアルゼンチンのロサリオの貧しい家に生まれた。ブエノスアイレスの神学校で学士号を取って貧困地区の社会活動にかかわったあと、スコットランドに渡ってセント・アンドリュース・カレッジに学び、2006年にエディンバラ大学ニューカレッジの初の女性神学教授に就いた。
 病気のため2009年に亡くなったが、2000年に発表された『下品な神学―セックス、ジェンダー、ポリティクスにおける神学的逸脱』は、いまもクィア神学のバイブルのように読まれ続けている。
 バイセクシャルだったらしいけれど、実際にはわからない。エジプトの猫の女神バストの像、フリーダ・カーロのメダル、複数のロザリオを首にかけていたようだ。
 いったい「下品な神学」とは何か。本人によれば、これはラテンアメリカの何層にも重なる抑圧の神話的レイヤーを剥ぎ取る神学で、解放の神学とクィア思考の交差点を出発にする。情熱的で、かつ不謹慎に、経済的神学的抑圧を撥ねのけ、伝統的な上品さ秩序に疑義を投げかけるというものだ。
 下品で何が悪いの、である。クィアについてはこう説明する。「クィアとは奇妙さのことではない。その反対だ。それは、否定されてきた現実そのものなのだ。私たちは、イデオロギーや神話の作り手によって奇妙とされてきたことを、クィア化し下品にすることによって取り戻すのだ」。
 『下品な神学』には「バイ/キリスト」(Bi/Christ)という変わった用語が出てくる。たった一人の「モノ/キリスト」に対する言い分で、アルトハウス=リードにとっては彼女が「T神学」と呼びすてる全体主義的神学に切り込むための両刃のナイフになっている。モノ・キリストは権威の「主」としてのキリスト、道徳の権化としてのキリスト、父に従順な子としてのキリスト、敵に対抗する者としてのキリストとして、これまで世界各地の暴力と抑圧を正当化してきた。これに抗するには新たな普遍を持ち出すのではダメである。むしろ逸脱の語りなおしこそ続行していくべきなのである。アルトハウス=リードはキリストを読むことは、「永続的な意味の置き換え」(permanent displacement of reference)でなければならないとみなした。
 これは「答えではなく、問いを与えるキリスト」である。Q&Aを与える神ではなくて、AのためのQを促す神である。そういう問いとしての神はむしろ「見知らぬ神」であってよく、「神のスカートに手を入れられる神」であったほうがよい。ここに「クィアとしての神」が「ストレンジャー(見知らぬ者)の神」として見えてくる。まさにマレビトとしての神である。
 アルトハウス=リードは大胆にもマルキ・ド・サド(1136夜)、ピエール・クロソウスキー(395夜)、SMのこと、フェティシズムについてもしばしば言及した。神こそがクィアであるからだった。

マルセラ・アルトハウス=リード(左)のクィア神学では、究極的には神自身の解放を探求する。ロザリオをポケットに入れてゲイバーやサルサクラブに通い、性的に逸脱し経済的に排除される人の周縁から、神への欲求と愛への欲求を同一視するような、新しい神学を見つめた。『もうひとつの世界の可能性』(右)は、2005年にブラジルで開催された「解放の神学」に関する第1回世界フォーラムから生まれた本である。「解放の神学」とは、解放者としてのイエスに焦点をあてた、貧困の視点から見た神学である。

2021年に上映されたアメリカのコメディ・スリラー映画『Habit(習慣)』(左)は、イエスをレズビアンとして描くという冒涜的なテーマがキリスト教右派からの攻撃や論争を呼び、2020年6月30日の時点で、26万人以上が映画の上映阻止を求める請願書に署名した。マイケル・ジャクソンの娘である、パリス・ジャクソン(右)がイエスを演じている。

左:『キリストの最初の誘惑』は、2019年12月3日にNetflixで公開されたブラジルのコメディ。このクリスマス特別番組は、イエスに同性愛者の恋人がいることや、マリファナを吸っていることを暗示する描写から、反発を受けた。200万人以上がオンラインで番組の削除を求め、「冒涜」を理由にNetflixのボイコットを主張した。制作者らは抗議活動は同性愛嫌悪的であると主張している。
右:レンス・マクナリーによる同性愛者のイエスを描いた演劇《コーパス・クリスティ》。1998年のオフブロードウェイ開幕を阻止されそうになったものの、高く評価された。2006年に108プロダクションズによる国際リバイバルツアーが始まって以来、検閲、抗議活動、爆破予告、冒涜罪による訴え、宗教的非難などにさらされ続けている。

 以上、本書の記述にあらかたもとづいて、21世紀の神に奉じる3人によるクィア神学への斬新な挑戦をスケッチしてみた。3人は3人ながらの思想と見解と行動をもたらしているので、同日には語れないのだろうが、正直な感想は「3人まとめて、すばらしい!」に尽きる。
 とくにアルトハウス=リードのクィア神学は、その方法論がそうとう冴えている。「逸脱」を方法の塊にしているところが、LGBTQ+のさまざまな想像と行動の表明のなかでも、鋭く納得できるところがあった。ただアルトハウス=リードが自分の考え方をドゥルーズ(1082夜)の「生成」に重ねて説明しようとしているところがあるのだが、そこはむしろドゥルーズ=ガタリのガタリふうの「歪み」の重視であってほしかった。
 読みながら、いろいろのことを考えさせられた。たとえば21世紀の神学はもっとアートをとりこむといいのではないかということ、またたとえば日本の仏教にTやQを持ち込んでほしいと思ってきた身からすると、もう一度、中世の日本仏教をクィアに捉えなおすといいのではないかということ、またたとえば、おそらく日本のサブカルズにはクィアが横溢しているのだが、そのわりにポップミュージックやファッションの分野に神仏的なものがあまりにも希有なままにいることなど、気になってしまうのである。
 オードリ・ロードとカーター・ヘイワードの「エロティック神学」がその後の展開に乏しいように思われるのも気になる。日本の場合は、ここはT(トランスジェンダー)が引き受けていくといいのではあるまいか。
 エリザベス・スチュアートが次のような提案をしていることを付け加えておきたい。それはパロディのおすすめだ。スチュアートの『ゲイ神学とレズビアン神学』の副題に「決定的な違いをもった反復」というフレーズが付されているのだが、このことが生むパロディの可能性が、神学的な効果をもたらすのではないかというのである。ここはジュディス・バトラーや上野千鶴子にも応援してもらって、パフォーマティブなパロディの可能性をだれかが鮮やかに見せてくれるといいのだが・・・・。

TOPページデザイン:菊地慶矩
図版構成:寺平賢司・大泉健太郎・齊藤彬人


⊕『クィア神学の挑戦』⊕
∈ 著者:工藤万里江
∈ 装幀:今垣知沙子
∈ 編集:小林望・堀真悟 協力:西原慶太、ミラ・ゾンターク
∈ 発行者:小林望
∈ 発行所:新教出版社
∈ 印刷・製本:モリモト印刷株式会社
∈ 扉・表紙・カバー印刷:方英社
∈ 発行:2022年
⊕ 目次情報 ⊕
∈ 第一章 クィア神学の歴史と課題
  第一節 「クィア」をめぐって
  第二節 クィア神学の歴史
  第三節 クィア神学とフェミニスト神学
∈ 第二章 力としてのエロティック――カーター・ヘイワード
  第一節 思想的背景
  第二節 「力」の転換を目指して
  第三節 力としてのエロティック
  第四節 神――内在する超越
  第五節 キリスト――現在進行形のプロセス
  第六節 批判的考察
∈ 第三章 キリスト教とはクィアなもの――エリザベス・スチュアート
  第一節 思想的背景
  第二節 「ゲイ神学・レズビアン神学」への批判
  第三節 「クィア神学」の定義
  第四節 アイデンティティをめぐって
  第五節 神、キリスト、サクラメント
  第六節 批判的考察
∈ 第四章 下品な神学――マルセラ・アルトハウス=リード
  第一節 思想的背景
  第二節 「下品な神学」とは何か
  第三節 バイ/キリスト
  第四節 クィアな神
  第五節 神学――地図を持たない旅
  第六節 批判的考察
∈ 第五章 クィア神学者たちの挑戦――比較考察
  第一節 神とキリスト
  第二節 フェミニズムとクィア
  第三節 神学とその主体
  第四節 クィア神学の課題と可能性
⊕ 著者略歴 ⊕
工藤万里江(くどう・まりえ)
同志社大学神学部卒業、同大学大学院神学研究科博士前期課程修了(修士〔神学〕)、米国Pacific School of Religion修了(Master of Theological Studies)、立教大学大学院キリスト教学研究科博士後期課程修了(博士〔神学〕)。現在、明治学院大学キリスト教研究所客員研究員、立教大学ほか非常勤講師。訳書パトリック・S・チェン『ラディカル・ラブ――クィア神学入門』(新教出版社、2014年)。