千夜千冊エディション

日本的文芸術

前口上

ブンガクはいまやどの国でも似たり寄ったりだ。
が、にほんにはやっぱり独特の文芸感覚が縫い込まれていて、
貫之・世阿弥、芭蕉から近松・鏡花・晶子をへて、
川端・ばなな・沙耶香に及んできた。
ぼくはながらく日本ブンガクの「そこ」を読んできた。
その按配を、四冊ほどのエディションに分けて案内したい。
第一弾の眼目は「代わり」「虚実皮膜」と、「はぐれた私」「官能」だ。

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千夜千冊が取り上げてきた古今の日本の文芸を、松岡ならではの方法的観点で構成。「代わり」「虚実皮膜」「はぐれた私」「官能」をキーワードに、紀貫之、松尾芭蕉、近松門左衛門、泉鏡花、与謝野晶子、川端康成、吉本ばなな、村田沙耶香などの日本文学作家の作品を自由自在に縫い合わせていく。

第1章 詠む/写す/代わる

日本の文学は、代作・推敲・写しによって物語の語り方や見立ての技法を磨いてきた。柿本人麻呂は天皇の代作歌人として、古代のハイパーイマジネーションを言葉に託して詠み、松尾芭蕉は旅のなかで推敲編集の佳境に出入りし、俳諧文化を築いた。高浜虚子は、五で写し、七で遊んで、後ろの五で行方を追う。「金屏にともし火の濃きところかな」。

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第2章 虚実をまぜる

日本はなぜ虚実皮膜に遊ぶのが好きなのか。紀貫之は女に擬装し仮名日記を綴り、近松と鶴屋南北は実際の事件を脚色し深化させ、世界水準の悲劇をつくりあげた。秋成が描いた伝奇幻想譚は、小松左京や半村良のSF的想像力へとつながっていく。石川淳、五味康祐、五木寛之の作品の主人公たちは、歴史の裏側で暗躍する”負の人々”だった。

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第3章 「私」がはぐれている

日本の「私小説」とは、「はぐれた私・文学」だった。失敗した青年を描いた四迷の『浮雲』が、近代日本文学の夜明けを告げた。不安を抱えた「私」は広大な武蔵野や檸檬爆弾に自己を託そうとする。行き場を失って、玉音放送に慟哭し、虎になり、濃厚不可解になっていく。つげ義春の漫画や吉本ばななの少女文学が、新たな”はぐれた私”を描いていく。

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第4章 少しエロチックにする

日本文芸には官能感覚が出入りする。冒頭で聖なる女やヒメの文化からエロティシズムが文芸に漏れていったことを告げ、井原西鶴の遊女尽くし、泉鏡花の妖しい夫人、水上の観音おりん、吉行の雨の娼婦へとたどっていく。最後には鈴木いづみ・松浦理英子・村田沙耶香という格別の女流作家の絶対官能性に脱帽する。「色情狂になるなら、美人でいろよ。」

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『日本的文芸術』

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