ほんほん

ぼくは「本数寄」なのである

ほんほん54(最終回)

◆慶応義塾大学出版会から「世界を読み解く一冊の本」というシリーズが刊行されている。『旧約聖書』『クルアーン』『三教指帰』『西遊記』『カンタベリー物語』『百科全書』『言海』『伝奇集』『一九八四年』『薔薇の名前』の10冊だ。えっ、たった10冊かよと思うだろうが、その10冊に空海、チョーサー、大槻文彦、エーコが入っているのが絶妙な特色だと思ったほうがいい。ただし原著やその翻訳ではない。それぞれ著者が別にいて、これらを解読している。藤井淳の『三教指帰』を読んだが、なかなかユニークな視点になっていた。
◆千夜千冊では「世界を読み解く一冊」をできるだけ選んできた。これまで書いてきた1800冊の中の300冊から500冊くらいが、そういう本だったと思う。吉本隆明は、本はたいてい自分のかかわりとの関係で読むものだけれど、自分が関心のない本にめぐりあうにはどうすればいいかという問いに対して、それは「書物に含まれている世界」が決めてくれるのだと答えていた。すぐれた本は「書き手が世界をあらわしたくて書いているものだ」というのだ。その通りだろう。
◆ボルヘスは、本は記号の集合体であるけれど、そこに読み手がかかわるとその記号は千変万化に息づいていくと言った。エーコは、本はスプーンやハンマーやハサミ同様に500年前とまったく変わっていない形態のものだけれど、それは「スプーンがあれ以上の形をとれないこと」と同様に、実にすばらしい究極の姿なのであるとみなしていたのだ。
◆たしかに「本」はあの形がいい。四角くて、表紙と裏表紙にページがぎゅっと挟まれて、ちょっと重たげで、本棚に並べると背中が何かを訴えている。これは「物実」(ものざね)もしくは「憑坐」(よりまし)なのだ。
◆ぼくが「本」という形をとったブツにぞっこんになったのは、20代半ばに自分の6畳・3畳のアパートで本棚を手作りしたときあたりからで、そのとき、わずかな蔵書を少しずつカバー自装したせいだった。カバー自装というのは、中身は気にいったのに外見が気にいらない本に適当なカバー材を選んできて、そこにレタリングセットや油性ペンでタイトルなどを付けていったことをいう。物実らしくしておきたかったのだ。これで護法童子が走りまわるようになった。これで「本」と一緒に暮らすようになった。
◆そういうふうになったのは、やっぱり10代に本に夢中になったからで、それがもしギターや算数に夢中になっていたら、別の生き方をしていたのだろうと思う。昆虫学者になっていた可能性もあるし、聴診器や注射器が手放せない診療所に暮らすようになったかもしれない。
◆ぼくは家庭用品や生活用品にからっきし関心がない。自分の部屋にそういうものを揃えたくなかった。もっとはっきり言うと、「生活する」に関心がない。生活は好きな仲間と一緒にいたいという、ただそれだけだ。リラダンとタルホの影響が滲みこんだせいだろう。これがわが生き方だ。だからぼくの日々はいまだにロクな用品に囲まれていない。自動車や電子機器はスタッフに頼っているし、たいていの日々は誰かが介添をしてくれている。つまりは生活オンチなのである。このオンチのせいで生活用品が自分の周辺に不可欠だと思えない。
◆では何が不可欠かというと、それが「本」だった。本が炊飯器で、本が大工道具で、本が食い道楽で、本が旅行で、本が恋愛で、本がうたた寝なのである。そんなことだから、当時から部屋には本だけがふえるだけだったのだ。本以外で大事なのはジャケットとタバコくらい。
◆こんなふうなので、そうとうな読書家ですねえ、さぞかし希覯本や珍本が集まったでしょうねと言われるが、そうなのではない。たしかに読書はするが、たくさんの本を読みたいとは当初から思っていなかった。いまも冊数はカンケーない。「読書するという状態」に、科学や文学や音楽の秘密が隠れていると思っているので、その読書状態をなんとか持続させ拡張させていくための日々をおくることが好きなのだ。だから希覯本はいっさい集めない。文庫本でも十分なのである。
◆もう少し正確に言うと「読むこと」が好きなのだ。もっと正確に言うと「読み」が好きなのだ。さまざまな民族言語による言葉が組み合わさって、それが人麻呂やシェイクスピアやジャン・ジュネやガルシア・マルケスや阿木耀子になってきたということ、その多様性のプロセスと成果を読むことが好きなのだ。
◆これはどちらかといえば、植物や動物の進化を読んでいるのに近い。だから批評したり書評したりするのは、実はほとんど気が向かない。千夜千冊も一度も書評をしようと思って書いてはこなかった。空き番だらけの「本の進化の木」をひとつひとつ埋めているような気分なのだ。
◆ただし、またまた別のことを言うようだが、この文明の流れのなかで、言葉や「読み」が進化してきたなどとは思っていない。人類の思索や表現が進歩してきたとも見ていない。そういう進歩史観はもっていない。むしろ言葉が意味からずれ、何かを隠さざるをえなくなっていく様子や、書くことが「逸脱」をおこしていくのを読むことに、大いなる興味があったのである。
◆つまりは、ぼくの「本好き」は「本数寄」なのである。何かを数寄の状態にしていくための本なのだ。遁世の数寄なのだ。それが70年以上もずうっと続いてきた。千夜千冊はやめられないだろう。また、どこかに本棚を作って進ぜるという仕事も、きっと続くだろう。最近は「本の寺」に関心がある。まったくもって大変なビョーキに罹ったものだ。
◆さて一方、この「ほんほん」コラムはそろそろ「お開き」にしたいと思った。ブックウォッチャーを続けるのもどうかなという気にもなったのだ。別のコラムを始めるかもしれないけれど、どういうものかはわからない。そのときはそのときで、どうぞ御贔屓に。

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富永太郎詩集

富永太郎

思潮社 1975

  私には舵はいらない。街燈に薄光るあの枯芝生の斜面に身を委せよう。それといつも変らぬ角度を保つ、錫箔のやうな池の水面を愛しよう‥‥私は私自身を救助しよう。 (秋の悲歎)

 私自身の救助。それができれば、いいのだが‥‥。

 富永太郎は忘れられた詩人であって、忘れがたい詩人だった。いや忘れられるべきではない詩人である。
 どのように忘れられ、なぜ忘れられるべきではないかということを、中原中也の第351夜についで、急いで書いておく。ゆっくり書くのは富永には似合わない。

 最初に言っておかなければならないのは、「私には舵はいらない」「私は私自身を救助しよう」と静かに叫んだ富永を救助しなければならないのは、われわれ自身であるということだ。少なくとも現代文芸のどこかにかかわる者たちであるということだ。
 富永は、大正14年10月に大喀血をして、11月に酸素吸入のゴム管をみずから外して、死んだ。24歳である。そのあまりに早かった死を救助するわけではない。そのゴム管を外した詩的存在を救助しなければならない。
 ぼくが思うには、富永のところで、現代文学と現代批評の最も苛烈な部分が、止まったままになったのだ。

  繁みの中に坐らう。枝々の鋭角の黒みから生れ出る、かの「虚無」の性相(フィジオグノミー)をさへ点検しないで済む怖ろしい怠惰が、今私には許されている。(秋の悲歎)

 性相にルビをふったフィジオグノミーはフィジオノミーで、観相学である。アレキサンダー・フォン・フンボルトの方法だった。それをポーが『ユリイカ』に転用した。そのポーをフランス語に訳したボードレールを、富永はさらに彫琢された日本語にした。
 フンボルト、ポー、ボードレール‥‥。
 ボードレールを紹介できたから、富永が忘れられるべきではないと言うのではない。その程度にのみ富永を扱った時代がいまなお続いていることから、富永を救助すべきなのである。富永は「虚無」を観相しようと言ったのだ。こんなことを試みようとした詩人は、まったくいなかった。

 小林秀雄は、そのような富永を「この不幸なる世紀に於て、卑陋なる現代日本の産んだ唯一の詩人であつた」と追悼した。
 それは当たっている。富永はまさしく、当時も、今も、現代日本の唯一の詩人なのである。ところが小林はうっかりしてか、「それはボードレールの仮面を被った焦慮であつた」とも書いた。
 富永太郎にすれば、小林にとやかく言われることは、ない。たとえば富永はボードレールの阿片を一、二度吸ったはずだったが、小林はそんなことはできなかったのだし、小林は『地獄の季節』を知ったけれど、それは富永のボードレールの先行を羨んで、そこにちょっぴりランボオ印を付け加えたものだった。

 たった24歳で逝ってしまった富永太郎に、たとえ小林であろうと、とやかく言うものではない。ボードレールとは異なって、富永は次のように書いたのだ。それは小林も知っていたはずである。

  私は夢の中で或る失格をした。――私は人生の中に劇を見る熱情を急激に失つた、従つてさういふ能力をも。 (断片)

 この「断片」ノートのなかで、富永太郎は「夢の中で失格した」と言う。なんということだろう。なんという臨戦だろう。富永は、つげ義春のように小屋根に布団を干して寝られなかったのだ。夜中をずっと不眠で暮らしたのだ。「恐るべき不眠」とも書いた。
 だから富永は、本当の夢を見なかった。たまさか見た夢は富永の失格を告げていた。
 こうして富永は夢を潰した「虚無」と闘って、そして滅びていったのである。小林秀雄にして、この闘争は見えなかったというのだろうか。いや、中原中也も見間違えていた。

  私はあなたを苦しませて眠を妨げるあのものを、形而上学的復讐の感情と呼んで居ます。
夜はすべての現象の垣を取り払ふものです。そこであなたの巨大な敵が出現するのです。 (美しき敵)

 富永は明治34年に湯島新花町に生まれて、11歳のときの英語教師の小柳津信子に憧れ、大正3年に府立一中に入った。翌年に小林秀雄と正岡忠三郎が入ってきた。富永と小林と正岡とはそこからの友人である。
 富永は小林とは鎬を削り、正岡とは友情を交わした。翌年、河上徹太郎が編入してきた。
 こうして現代文学の詩魂と批評とが、この青い矜持をもった僅か数人のあいだに芽生えていった。

 富永はやがて正岡とともに仙台に行って、第二高等学校理科乙類に入る。「人生を生物学をもって基礎としたい」と考えていた。
 しかし数学に挫折すると、はやばやとフランス文学と象徴詩に傾倒していった。そんな20歳のとき、富永はH・S夫人に出会う。医師の妻で、富永がその家に寄寓する退役将校からフランス語を学びに通っているうちに急速に親しくなった。
 この年上の人妻との恋は、大正10年10月から2カ月のあいだに熱病をもった疾風のように進み、そこで一転、夫の介入干渉によってたちまち破局した。大岡昇平によると、富永と夫人のあいだには「なんら裁判上の問題となる如き事実はなかった」というのだが、そうとはとうてい思えない。それはよしんば伏せられたことだとしても、この夫人との袂別こそが富永太郎唯一の詩情となり詩魂となったのは、はっきりしている。
 富永はその後、しきりに「立ち去ったマリア」として、この夫人を追慕する。

  鋼(はがね)の波に アベラール沈み
船の艫(とも)に エロイーズ浮む (頌歌)

 傷心の富永は二高を中退し、さらに一高入学にも失敗して、東京外国語学校仏語科に進む。ここでは富永の才能は群を抜いていて、あっというまにボードレールを訳してみせた。しかし「立ち去ったマリア」への思いは断ち切りがたく、仙台に舞い戻るうちに出席日数の不足で落第、そのまま退学してしまった。

 東京に戻った富永はもともと好きだった絵画に手を染め、大森の川端研究所や本郷の菊坂洋画研究所に通った。その一方、ボードレールの『人工天国』(富永は『人工楽園』と訳すのを嫌った)を、一日一枚のペースで仕上げにかかっていた。
 それでもやはり、富永の考えるところは誰も予想がつかない。大正12年晩秋に、富倉徳次郎(二高の同僚)と福士幸次郎(かの『原日本考』の詩人である)に相談のうえ、さっさと上海に渡ってしまったのである。
 富永がまったく処世に長けていなかったことは並々ならぬもので、フランス語を教えて生計をたてようとしたものの、またまた上海で失敗し、数カ月もせずに帰国すると、京都の富倉徳次郎や正岡忠三郎の部屋に居候をした。遁走だった。正岡宛の手紙には、「近頃は物質の本性に追跡される追跡狂のやうな自分を感じる。遁走しなくてはとてもたまらない」と書いてあった。

『上海の思い出』 富永太郎画

『上海の思い出』 富永太郎画

 ここで唐突に出会ったのが中原中也である。中也はまだ立命館の中学生だった。
 中原は猛然と富永を吸収し、そのダダの気風からの脱却の踏台とした。富永は富永で、長谷川泰子と同棲する中原の下宿をしょっちゅう訪れた。この二人の関係は、いまなお謎をのこしているのだが、最初の富永太郎の伝記をかって出た大岡昇平は、「中原にとってはダダイズムからの脱却に決定的だったろうが、富永にとってどれだけの結果があったかは疑わしい」と書いている。

  私は透明な秋の薄暮の中に墜ちる。戦慄は去つた。道路のあらゆる直線が甦る。あれらのこんもりとした貪婪な樹々さへも闇を招いてはゐない。私はたゞ微かに煙を挙げる私のパイプによつてのみ生きる。 (秋の悲歎)

 さて中原は、ゴム管を抜いて死んでいった富永を、「教養ある姉さん」と書いて追悼してみせた。
 それに加えて、「ほんの少しながら物質観味の混つた自我がのぞく」とも書いた。これはまさしく中原の嫉妬というものだった。「教養ある姉さん」はない。こういうブーたれた皮肉を書いてはいけない。

 富永は心優しき詩人であったけれど、そしてまだ中学生だった中原中也を京都で大事にしたが、最後の最後になって、中原を病室に入れることを拒んでいた。
 これが尾をひいて中也には心の痛むものとなったのであるが、だからといって、富永を「教養ある姉さん」などと呼んではいけなかったのである。まして富永を「自我崇拝主義者」だなどと呼んではいけなかったのだ。たとえ、ボードレールが「自我崇拝閣下」と彼の地で綽名されたのであったとしても。

 富永と中也が出会った直後、小林はランボオの『地獄の季節』の一節を富永に送りつけてきた。「別れ」という一節だ。
 富永はいわれのない衝撃をうけ、打ちのめされる。辛うじて立っているのが精一杯だった。喀血して東京に戻ると、そこへ中原と泰子がやってきた。もはや富永を誰もが食べつくしたようだ。富永はそういう自分を「靴は破れた」とも書いた。そして、こんなふうにも。 

  キオスクにランボオ
手にはマニラ
空は美しい
えゝ 血はみなパンだ (ランボオへ)

 こうして、富永をとりまく詩人と批評の嫉妬は、その後の日本の詩文と批評を暗くした。それが鮎川信夫や吉本隆明まで曳航されていったたことは、富永太郎をとりまく日本近代最後の相克のせいだった。
 富永には仙台のH・S夫人との恋愛の失意で充分だったとは言わないが、富永の「夢の中の失格」を問題にできるものなど、小林にも中原にもなかったはずである。富永を責めてはいけない。そんなことをしたから、そこから日本の詩が狂ったのである。
 こうして富永は、ついに誰も書けない詩に到達したのだった。それがさきほどから紹介してきた『夜の悲歎』というものだ。別の一節を引用しておきたい。 

  黒暗(やみ)の潮 今満ちて
晦冥の夜ともなれば
仮構の万象そが閡性を失し
解体の喜びに酔ひ痴れて
心をのゝき
渾沌の母の胸へと帰入する (夜の讃歌)

 では、余談である。
 ぼくが第700夜を書きあげたあとであったか、二期倶楽部の北山ひとみさんがお祝いのメッセージを送ってきてくれた。「千夜千冊を読むと、いつも胸騒ぎがするのです」と書いてあった。
 かつての日々、北山さんは、ぼくが「千夜千冊」にあげたヴァレリーの『テスト氏』(第12夜)に衝撃をうけ、ぼくが太宰治で選んだ『女生徒』(第507夜)が太宰のなかの一番のお気にいりで、そして富永太郎こそが一番好きな詩人だったという。
 あとで会ったとき、ねえ、なんで松岡さんはこういうものを選べるの、ホント不思議よねえと笑っていた。
 そこでついつい最後になってしまったけれど、ぼくが一番好きな富永太郎の詩のフレーズを、ここに掲げておく。それは、もう40年以上もずっと好きだった一節なのである。こういうものである。

  半欠けの日本の月の下を、
一寸法師の夫婦が急ぐ。 (影絵)