才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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虚子五句集

高浜虚子

岩波文庫 1996

今年もおしまひである。済んでしまったこともあるが、済まないもの、澄まなかったこともある。もう少し控へたり、あるひは鷹揚にしたかった気分もあるけれど、人や仕事や事情が踵を接しすぎて叶はなかった。そのくせ危機や大事の兆候は放置できないタチで、ルーチンの手を抜くのも嫌ひだから、ついつい過密が続くことになる。

  ふとしたることにあはてて年の暮

 今年もおしまひである。パリ同時テロ、難民、爆買い。
 済んでしまったこともあるが、済まないもの、澄まなかったこともある。小学生のケータイ所持が半分以上になったなどといふのは濁った話だ。ぼく自身はもう少し控へたり、あるいは鷹揚にしたかった気分もあるけれど、人や仕事や事情が踵を接しすぎてそれも叶はなかった。危機や大事の兆候は放置できないし、ルーチンの手を抜くのも嫌ひだから、ついつい過密が続いた。それはそれでこれまでのなんだかんだの世事との関はりからして当然の応報といふもので、それらを邪険にどこかに押し戻したいといふわけではない。
 その一方で、世の中と自分の周辺が少しずつ見え方が変わってくるといふこともむろんあるわけで、たとへば自撮り棒などからはできるだけ遠のきたい。さういふ見方からすると、言ひたいこと、自分に懇々と、あるいは昏々と言ひ聞かせたいことはしばらく前から続いてゐて、今年も(おそらく来年も)それを繰り返しておかなければならないと思へる。
 以下、今年(平成27年)一年の始末に当たって高浜虚子のことを採り上げやうと思ふのは、さういふ気持ちからである。適当に旧仮名遣ひで綴ってゐるが、これは厳密ではない。気分で綴ってゐる。あしからず。「っ」も「つ」ではない。

 虚子を大いに認めたいという気持ちはずっと前からおこってゐた。句だけでなく、その人柄や生き方にも敬意を払いたいと思ってゐた。ただし、ぼくの俳諧好みの流転のなかでのことを先に言っておくと、高校生の頃に「白牡丹といふといへども紅ほのか」などに惹かれて、ちょっと好きになってゐたのだが、すぐに離れたのだ。同じホトトギスでも誓子や風生や茅舎のほうがいいと感じたからといふこともあった。
 いったんさう感じると、虚子は退屈至極だと言ひ切りたくなって、家にあった波郷(1003夜)や鷹羽狩行や藤田湘子の句集を開いたりしたものだ。おまけにそのあとは三鬼や耕衣(24夜)であり、不器男や赤黄男だったから、ますます虚子ではなくなってゐた。虚子に戻るなら子規(499夜)を足場に、そこはそれ蕪村(850夜)、一茶(767夜)、芭蕉(991夜)へ戻りたかった。
 ところが、いつのどのあたりとは言へないのだが、虚子の花鳥諷詠の主客観をそのまま認めたいと思ふやうになった。誰しもに「自ら恃む」といふ心地があるものだが、われわれの心地や信条はたいてい揺動するものだ。虚子はこれがまったくふらついてゐないと気がついた。「恃む」がちゃんとある。そこで虚子に戻ってみた。

  春惜む命惜むに異ならず
  一匹の蠅一本の蠅叩
  山寺に仏も我も黴びにけり

 たとへばこの3句だが、ふつうならかういふ威張った句は俳諧の地面が割れるか、読まされた者が椅子から落ちるといふことがあるのに、さうならない。さうならないのは「春惜む命惜むに異ならず」で言へば、まさに惜春にふさわしい一点をめがけて一挙に主客を投じられたからであって、これは“ここだけが惜春いっぱい”の句なのだ。ぼくはおそらく虚子の7割ほどの句を見てゐる(読みこんではゐないが)と思ふけれど、かういふ「春惜む」が「命惜む」に重なっていくといった連畳はほかでは使ってゐないし、「異ならず」もなかった。
 「一匹の蠅一本の蠅叩」のほうも、きっと日頃は武道的でもなく、おそらく武蔵(443夜)や鉄舟のことなど委細かまわぬ輩だったらう虚子が、飛んできた蠅に手元の蠅叩きでとっさの手を動かしたそのことが、こんな懸待一如の句になった。これも他では試みてゐない一閃だったらう。3句目の「山寺に仏も我も黴びにけり」は、まず自分を仏に擬して「黴びる」と言ふのはずいぶん勿体を付けたもの、こんな言葉づかいはついつい大袈裟か、自虐ナルシスな句になりかねないのに、このときばかりは「山寺に」「仏も我も」が一蓮托生になれたのである。だからゆっくり、堂々と黴びられたのだ。
 かうした詠みは、思想ではない。虚子は思想や思潮から詠むといふことをしなかった。それなのにその臨場に(その場に臨んで)、心がなにがしか去来できるときだけは、すっぱり思想を五七五に放り込めたのである。
 それならぼくは、これはやはりのこと虚子をそのまま受容したいと思ふやうになったのだ。一挙にさういふコンバージョンをしたのではなく、あへて薄々さういうふうに得心できるやうに仕向けていった。

 いったん虚子を受容すると決めてみると、ごく初期の明治20年代後半の、たとへば「風が吹く仏来給ふけはいあり」や「しぐれつつ留守守る神の銀杏かな」がすばらしいものに見えてきた。また晩年の、こんな芸当もしてみせるのかといふ「地球一万余回転冬日にこにこ」も、虚子の俳諧三昧もしくは風流懴法だと感じられたのである。
 さうかうしてゐるうちに、虚子に集中してゐてぼくには拡散してゐるのは、次のやうなことかと思ふやうになった。
 ここに幹をやや傾けて、泰然自若と冬を過ごさうとしてゐる立ち木がある。まあ、巨きい。空は碧い。よくある光景だ。それを虚子がぢっと眺めてゐる。冬ではあるが少し暖かい。しかし傾いた樹木などべつだんめづらしいわけではない。けれども何かここでは退けないものを感じ入った。どう、詠むか。「大空に伸び傾ける冬木かな」。なるほど、かうなるのである。冬木だが、極寒ではない。ちょっと温かい。だったら「伸び」である。けれども「大空に伸びる」ではいかにも常套であって、アマチュアの俳人たちだってこんな詠み方をしない。ところが「伸び」に「傾ける」が連なって「伸び傾ける」(傾くではなく傾ける)でいいと思へたとたん(あるいはそう推敲をして)、ふいに「大空に伸び傾ける」というふうにした。そうなればしゃあしゃあと「大空に」なのである。
 仮にぼくが「伸び傾ける」を思ひ付いたとして、この「大空に」を据え置けない。それを虚子はポーンと置ける。もう少し別の例を見る。

  一片の落花見送る静かな
  湖もこの辺にして雁渡る

 これは「一片の落花」「落花見送る」「見送る静」といふ一連の“感じ見たイディオム”が「静」によって連結して、「静」の一字の力によってふいにオムニシエントな上空に引っ張り上げられて、五七五につながったといふものだ。まさに虚子の修辞的カメラワークがさうなったのだが、それを「静かな」で結んで平気なのである。
 次の「湖もこの辺にして雁渡る」はもっと決定的だ。「湖や」でもなく「湖を」でもなく「湖も」ときて、雁を「この辺」で放っておくこの余裕綽々が、ぼくにはかなり欠如してゐる。いや、句の技といふよりも生き方が綽々とできてゐなかった。

 いったい虚子はどこでこんな俳句の生き方を会得したのだらう。おそらくは同じ故郷の松山で子規が先行し、そして倒れ、『ホトトギス』を創刊することになっても碧梧桐が編集と指導を引き受けてゐたことが大きかったのではないかと思ふ。虚子は遅れたので焦ったのだが、そのあとはこの2人の先行的恩愛をちゃんと自身の葛藤の中に招じ入れたにちがひない。
 俳句にはもたもたしてゐたのに、そこへもってきて虚子は当初は小説を書いてゐた。冗長でも散漫でもないが、筋書きはたいしておもしろくもない小説だ。ただ「風雅」をめざしたいといふ決意はあった(漱石は「低徊趣味だね」と評した)。子規が亡くなり、碧梧桐が独り立ちしていって、虚子はいよいよ何か、コンティンジェントな別様の方法で自分の行方を濃縮する方途に向かひ、それがさまざまな錬磨を受けて、あのやうになったのだらうと思ふ。きっと、さうするしかなかったのだ。何かが潔い。

 虚子は明治7年に生まれ、伊予中学校(今日の松山東高校)で1歳年上の碧梧桐と同級になり、その誼みで子規に出会って兄事した。俳句はこのときからで、子規が本名の高浜清をもじって虚子といふ俳号にした。
 碧梧桐とともに京都の三高に入ると、2人は寝食一緒の仲となった。学制改変でいったん仙台の二高に移るのだが落ち着かず、上京して根岸の子規庵に転がりこんだ。女義太夫の小土佐に惚れたり、遊んでゐるのか句作をしてゐるのかわからない日々だったやうだ。子規はそんな虚子の才能を見抜いてゐて、自分の後継者になってみないかと説き勧めたが、「アシは学問する気はありません」と言って断った。そのくせ松山で柳原極堂が創刊した俳誌「ほとゝぎす」(ホトトギス)は引き継いだ。
 かうした青少年期を見てゐると、虚子には「代はり」といふことが付きまとってゐたやうに思ふ。自分の代はりになるやうな友や師に惹かれ、自分が何かの代はりになれるかどうかを判じ、おそらくは俳句そのものを多くの日本人の目や心の代はりにしやうとしてきたのである。
 門人たちもその句作の端緒には虚子の代はりをつとめるといふ気概や気配をもった。飯田蛇笏、水原秋櫻子、山口誓子、中村草田男、松本たかし、川端茅舎、みんながみんな、さうだ。ただ、このホトトギス門人たちは代はる替るとでもいふのだらうか、ずいぶん自在な乗り換へ、着替へを存分にした。
 かれらがさうなったぶん、虚子には一族による代はりが次々にあらはれた。長男の高浜年尾、次男の池内友次郎(作曲家で俳人)、次女の星野立子、五女の高木晴子、六女の上野章子、孫(年尾の次女)の稲畑汀子、立子の娘の星野椿、立子の義父の星野天知(「文學界」創刊編集人)、藤島泰輔たちである。こんなに門人や一族が日本文芸の中央の大テーブルにゐたといふのは前代未聞だらう。ぼくは日本文芸史上の注目すべき文芸力として、人麻呂の代作性、俊成・定家の選歌網、芭蕉の俳諧ネットワークと並べて、虚子の「代はりの力」を挙げたい。

ホトトギス
1897年(明治30年)に正岡子規の友人である柳原極堂が創刊。創刊時はひらがなで『ほとゝぎす』。子規、高濱虚子、河東碧梧桐、内藤鳴雪らが選者であった。夏目漱石が小説『吾輩は猫である』、『坊っちゃん』を発表したことでも知られる。

 さて、今夜は年の瀬だ。いろいろあった一年だったけれど、折角なので虚子の冬の句を拾ってみやうと思ふ。
 虚子には『五百句』『五百五十句』『六百句』『六百五十句』『七百五十句』といふ句集区切りがあって、岩波文庫の『虚子五句集』上下はそれをあらかた収めて、年代順かつ月日順になってゐる。そこから、冬の句や去年今年の句や、少し新年に入った句を選んでみることにする。虚子の代表句を案内するのではない。ぼくがかういふ虚子を受け入れたといふことを示したくて、選んだ。
 虚子はよく短冊を書いた。ぼくの父も何枚か持ってゐた。昭和33年には84歳の高齢にもかかわらず、便利堂に頼まれて自選自筆の『虚子百句』を上梓した。すべて短冊になってゐる。幾つか掲げておくことにする。虚子の筆はまるっこくて、破綻がなく、おそらくは光悦のやうになりたかったのだらうが、さうはなれないでゐる。そのぶん、何だか掌めいてゐる。

  元朝の氷すてたり手水鉢(明31)
  遠山に日の当たりたる枯野かな(明33)
  冬の山低きところや法隆寺(明38)
  桐一葉日当たりながら落ちにけり(明39)
  鎌倉を驚かしたる余寒あり(大3)
  冬帝先づ日をなげかけて駒ケ嶽(大9)
  北風や石を敷きたるロシア町(大13)
  庫裡を出て納屋の後ろの冬の山(大14)
  大空に伸び傾ける冬木かな(大15)

 虚子の句はどんなに凄い句なのかと期待してゐると、たいてい柔らかく外される。何食わぬ顔でやられる。とはいへ何でもない句だなと思ってゐると、今度はこちらが怯むことになる。
 そんなことができるのは、「眼がまっすぐで、腹が据わってゐる」といふ所為だ。上に挙げた句でいへば、たとへば有名な「遠山に日の当たりたる枯野かな」である。これは星野立子によると「父が好きにしてゐた句だった」やうで、「父の人格だと自ら考へてゐた」とも言ふ。さうだらうと思ふ。ぼくが虚子を容れたいと思ったのもこの句の見方によるところが少なくない。けれどもどこかでこれに似た句を句会で提出されたとして、ぼくがそれを選ぶかといふと、あやしい。明治33年、子規の死期を感じてゐた虚子にして、「遠山に日の当たりたる枯野かな」なのだ。
 このことは「冬の山低きところや法隆寺」にも「鎌倉を驚かしたる余寒あり」にもあらはれてゐる。「冬の山低きところの法隆寺」ではなく「低きところや法隆寺」と切れ字をここに使ってゐるのが虚子なのだ。

  藪の池寒鮒釣のはやあらず(昭2)
  鉛筆で助炭に書きし覚え書(昭5)
  神近き大提灯や初詣(昭10)
  かわかわと大きくゆるく寒鴉(昭10)
  大空に羽子の白妙とどまれり(昭10)
  観音は近づきやすし除夜詣(昭10)
  物売も佇む人も神の春(昭11)
  人に恥ぢ神には恥ぢず初詣(昭11)
  枯るる庭ものの草紙にあるがごと(昭12)
  人形の前に崩れぬ寒牡丹(昭13)
  右手は勇左手は仁や懐手(昭13)
  襟巻に深く埋もれ帰去来(昭13)
  金屏にともし火の濃きところかな(昭13)

 なかで「大空に羽子の白妙とどまれり」は「大空に伸び傾ける冬木かな」の大空に畢竟する。「観音は近づきやすし除夜詣」は好きな句だ。のちに「永き日のわれらが為の観世音」とも詠んだ。こんなふうに観音を詠みたいが、ぼくはかうではなかったのである。しゃくなのは「枯るる庭ものの草紙にあるがごと」で、久保田万太郎なら軽く詠むだらう「ものの草紙」を、この一句のみで「枯れ庭」にあてはめたのが虚子だった。

大正5年ころ、鎌倉の虚子庵にて。
左より虚子、年尾、真砂子、宵子、いと、友次郎、立子
『新潮日本文学アルバム 高浜虚子』(新潮社)より

鎌倉の虚子庵にて、いと夫人と
『新潮日本文学アルバム 高浜虚子』(新潮社)より

 虚子の句は長らく「写生俳句」とか「客観写生」と言はれてきた。本人も何かにつけてさう言ってきた。「鉛筆で助炭に書きし覚え書」や「人形の前に崩れぬ寒牡丹」はあきらかに写生の真骨頂である。いまも続くホトトギス派はたいていかういふ写生俳句をめざしてきた。それはさうなのだが、写生のあとこそが虚子になるとぼくは見る。
 写生のあととは、虚子はよく「とりのけ」(取り除け)と言ふのだが、これがなければ写生は力を失ふ。取捨選択といへば取捨選択、推敲といへば推敲であるが、観察してゐるあひだ、そこに居るあひだにも高速に「とりのけ」をする。たいへん重大な引き算だ。だいたい写生といっても、そこにある全部など写生できるわけがないのだから、絵筆で写生するときがさうであるやうに、最初から取り除けるべきなのだ。

 ちなみにぼくは虚子の句を「客観」といふ言葉で評するのはふさはしくないだらうと見てゐる。あへて言へばベルクソン(1212夜)の持続ののちの客観かもしれないけれど、虚子はカテゴリーが得意な人ではなかったから、できれば理屈好きの弟子たちがもっと言い換ヘてあげればよかったのである。言ふなら「主客観」だ。
 といふことで、右の句で最も虚子らしいとぼくが感じてきたのは、実は「金屏にともし火の濃きところかな」の「ところかな」なのだ。この「ところ」がなんとも虚子である。これは「冬の山低きところや法隆寺」の「ところ」とはやや違ふ。5W1Hのところではない、それらをまたぐところなのだ。実はぼくも「そのへん」「そのところ」「このあたり」をよく使うのだが、なかなかに五七五で費ひ切れるものではない。しかも白隠(731夜)や盤珪のやうに禅めいて言ふのならともかく、この「ところ」を日常の諷詠に忍ばせる。これは虚子の「自ら恃む」といふ心地でなければ費へない。

  高々と枯れ了せたる芒かな(昭14)
  この後の一百年や国の春(昭14)
  炭斗や個中の天地おのづから(昭14)
  大寒の埃の如く人死ぬる(昭15)
  墨の線一つ走りて冬の空(昭15)
  懐手して人込みにもまれをり(昭15)
  惨として驕らざるこの寒牡丹(昭16)
  枯蓮の池に横たふ暮色かな(昭17)
  末枯の原をちこちの水たまり(昭18)
  うかとして何か見てをり年の暮(昭18)
  川の面にこころ遊びて都鳥(昭18)
  その蔭のほのとあたたか枯づつみ(昭19)
  その辺を一廻りしてただ寒し(昭19)
  大根を鷲づかみにし五六本(昭20)
  どこやらに急に逃げたる冬日かな(昭20)

ホトトギスの表紙

 戦時中に戦争らしきものをほとんど詠まなかったのは、虚子の社会観が批判される難点だったけれど、このことについて岩波文庫の『虚子五句集』の解説を書いた大岡信と話したことがあって、そのとき大岡さんが「虚子は綿密でせう。当時の戦争は噂ばかりだから、虚子は詠みやうがないですよ」と言ってゐたのが印象的だった。あへて見れば虚子の戦争は「この後の一百年や国の春」といふところだらう。やはり虚子は昭和18年の冬であっても、「うかとして何か見てをり年の暮」なのである。
 だいたい虚子は動機と目的とを切り離さなかった。みんな「代はり」にした。いまは岩波文庫に入ってゐる『俳談』といふ随筆と口述を集めた一冊があるのだが、その中の「花鳥諷詠」で、「花鳥諷詠を動機と言うのも目的というのも、そう切り離しては考えられない」と言ってゐる。
 いささか微妙な言ひ方で戸惑ふが、ぼくはこれは虚子なりの「時分」(世阿弥の言葉だがいまは広く使ってゐる)といふものではないか、動機も目的も渾然たる「時分」になっていくからではないかと思ってゐる。時分が難しいといふなら「按配」でも「結構」でもいい。どっちにせよ、そのへんだ。
 それが上の句では、動機とも目的ともつかないやうな、「懐手して人込みにもまれをり」や「その辺を一廻りしてただ寒し」や、また「どこやらに急に逃げたる冬日かな」なのである。

  田一枚一枚づつに残る雪(昭21)
  二冬木立ちて互にかかはらず(昭21)
  去年今年追善のことかにかくと(昭22)
  冬籠われを動かすものあらば(昭22)
  我ここにかくり終わりし大冬木(昭23)
  庭のもの急ぎ枯るるを見てゐたり(昭24)
  元日に田毎思ひし古人はも(昭25)
  去年今年貫く棒の如きもの(昭25)
  山並の低きところに冬日兀(昭26)
  暖き冬日あり甘き空気あり(昭27)

 かうして選んでゐると、なんでもない句も多くて、いや、捨てた句にひょっとしてぼくの焦りがあるのかとも思ふのだが、もしあるとすれば、それはぼくが約70年を生きてきてそこかしこに失礼をしてきたことの反映なのである。
 これは如何ともしがたいもので、ぢたばたするものでもない。虚子は『俳談』では「埒を越えたものは俳句ではなくなる」と言った。「埒外」が好きなぼくからすると、埒に居続ける虚子の動じない生き方は、たいへんな脅威なのである。
 俳句といふものはけっこう怖しく、僅かに手がゆるむだけでとんでもなく正体が砕けてしまふものである。俳句も埒との闘ひだが、句を選ぶといふことにもそれは臆面もなくあらはれる。しかし虚子はさういふことは存分に知悉してゐたから、どう転んでもちゃんと「二冬木立ちて互にかかはらず」と、「庭のもの急ぎ枯るるを見てゐたり」と詠んでゐた。いかにも埒ぴったりだ。

  我が仕事燵の上に移りたる(昭28)
  眠れねばいろいろの智慧夜半の冬(昭28)
  短日のきしむ雨戸を引きにけり(昭29)
  冬山に隠れ住むともいふべかり(昭30)
  去年今年一時か半か一つ打つ(昭30)
  一本の芒ほほけて枯るるまで(昭和31)
  冬日あり実に頼もしき限りかな(昭32)
  ほこほこと落葉が土になりしかな(昭32)
  斯くの如く只ありて食ふ雑煮かな(昭32)
  ふとしたることにあはてて年の暮(昭33)
  元日や午後のよき日が西窓に(昭33)

虚子筆「句屛風一双」
疎開時の謝礼として虚子が小山家に送ったもの。
手前右より正月〜12月までの句が書かれている。
『新潮日本文学アルバム 高浜虚子』(新潮社)より

 最後に一言。虚子の花鳥諷詠は言ってみれば南無阿弥陀仏だったのであらうと思ふ。それは師の子規が早くに逝ってしまったときからずうっとさうなのだ。ただ、この人は思想が信条ではなかったから、こんな大事なことを仏に匹敵するだとか、柳宗悦(427夜)のやうに妙好人でありたいとか言はなかっただけなのだ。
 ぼくのほうはいまさらであるが、この70余年の続きはもっともっと思想することになる。ときに俳諧したり書画したりもするだらうが、「冬山に隠れ住むともいふべかり」とか、「冬日あり実に頼もしき限りかな」とは捨ておけまい。ましていよいよ80歳を迎へやうとする虚子が「短日のきしむ雨戸を引きにけり」と、これだけを詠むといふことには至れない。
 ともかくも今年も暮れた。72歳が近づくぼくはさすがにまだ暮れてはゐないと思ひたいけれど、うっかりしてゐるといふこともある。それはそれ、今年はこれで大つごもりを迎へたい。みなさまがたには、いろいろ容赦されたいこともあるが、宜しく去年今年を送っていただきたい。

  去年今年貫く棒の如きもの

⊕ 『虚子五句集』 ⊕

 ∈ 著者:高浜虚子
 ∈ 発行者:大塚信一
 ∈ 発行所:株式会社岩波書店
 ∈ 印刷:三秀舎
 ∈ カバー:精興社
 ∈ 製本:中永製本
 ⊂ 1996年9月17日発行

⊗目次情報⊗

 <上巻>
 ∈ 五百句
 ∈ 五百五十句
 ∈ 六百句
 <下巻>
 ∈ 六百五十句
 ∈ 七百五十句
 ∈ 付 慶弔贈答句抄
 ∈∈ 解説(大岡信)
 ∈∈ 初句索引
 ∈∈ 季題索引

⊗ 著者略歴 ⊗

高浜 虚子(たかはま・きょし)
1874年松山生まれ。子規、漱石、碧梧桐らと親交し小説を著す一方で、『ホトトギス』発行人として今日の俳句隆盛の基盤を作る。「客観写生」「花鳥諷詠」など広く老若男女に俳句を伝え広めると共に、多くの優れた俳句作家を育成した。文化勲章受章。1959年4月8日没。