父の先見
耕衣自伝
沖積舎 1992
「後ろにも髪脱け落つる山河かな」という耕衣の句がある。これだけで何かを感じるならそれでよろしいが、少々説明しておく。
永田耕衣は印南野の一隅で育った。その記憶の最も奥に、こんな光景が凝固している。耕衣は七つ上の姉におんぶされていた。姉は村道で友達と話しあっていた。少年はふと姉の後ろ髪をもてあそんだ。そのときである、姉は「痛いじゃないか」と叱った。耕衣はそのときのことを思い出して、こう綴っている。「人間の後ろ姿と自分の孤独を、このときほど寂しく痛感したことはなかった。私は一瞬に人間自他の寂しさを知ったのだと思う」と。
本書は自伝ではない。冒頭に「私の人生」という比較的長い回顧が入っているので、こういう標題を得たのだとおもうが、それよりなにより「耕衣自伝」といわれると、なんであれ、どんな文章であれ、耕衣自伝に読めるから不思議なのである。
永田耕衣という俳人はそういう人である。ぼくは一度きり、土方巽のアスベスト館で出会ったが、そうか、この初老の人が永田耕衣かとおもえばおもうほど、その人は耕衣になっていった。
生まれは播州加古である。その後もずっと神戸界隈にいる。明治33年の生まれだから俳人としては最長老の一人になった。ここがいまだによくわからないところだが、20代後半に武者小路実篤の「新しき村」にいたく共感して入村を申し出ている。それが果たせず村外会員となったのが、のちの耕衣にとってはよかった。ぼくはそう思う。これで小野蕪子や原石鼎に師事して投句をするようになったからだ。たちまち「鴬に父の葉書の荒さかな」「人ごみに蝶の生まるる彼岸かな」とやった。父親の死を詠んだ句だ。このときはやくも耕衣に仏教俳諧性とでもいうものが芽生えた。
日がさして今おろかなる寝釈迦かな
フラスコに指がうつりて涅槃なり
37歳のころ、「白泥会」をつくった。柳宗悦に共感したためで(これは実篤への共感よりずっといい)、工楽長三郎という素封家が世話人になって、『陶器事典』全六冊で知られる岡田宗叡が目利きとなったもので、ここに棟方志功や河井寛次郎も呼べた。このあたりから耕衣は飛びはじめる。戦時中に石田波郷の「鶴」の同人となり、西東三鬼と交わり、やがて「琴座」を主宰した。
行く牛の月に消え入る力かなひとの田のしづかに水を落としけり
物として我を夕焼染めにけり
耕衣は老いてからだんだん凄まじい。そういう老人力というものは昔から数多いけれど、ぼくが接した範囲でも老人になって何でもないようなのはもともと何でもなかったわけで、たとえば野尻抱影、湯川秀樹、白川静、白井晟一、大岡昇平、野間宏‥‥みんな凄かった。なんというのか、みんな深々とした妖気のようなものが放たれてくる。正統の妖気である。
それが耕衣にあってはもうちょっと静謐なバサラのようなものがあって、俳諧が前へ行っているのか、沈みこんだのか、上下しているのか、飛来なのか飛散なのか、そういうことが見当のつかない横着が平ちゃらになっていくのである。
実際にも、耕衣は老いるにつれて「平気」ということをしきりに言うようになっている。それとともに以前から好きだったらしい盤珪の不生禅の底力のようなものが加わってきて、なんだか事態を見据えてしまったのだ。いや、精神は事態を見据えて、そのぶん俳諧が静謐なバサラになっている。たとえば、
という句があるのだが、これなどいかにも花を活けたいほどなのだ。中川幸夫さんなら活けるであろう。そこにまたたとえば「白梅の余白の余命我に在り」などを添えてみて――。
その後、耕衣は「衰退のエネルギィ」ということをしきりに口にしていたらしい。それが耄碌の哲理なのか、負の想像力なのかは、ぼくにはまだわからない。