父の先見

国文社 1984
Emil Cioran
Precis de decomposotion 1949
[訳]有田忠郎
ぼくはいつしか未来の予定を語るのが嫌いになっている。いつしか「未来を語る者こそ貧しい」とおもうようになっていた。ニーチェもそういうことを標榜しているが、ニーチェの影響ではない。エミール・シオランの影響なのである。
シオランのものは片っ端から読む。ただし、短文、アフォリズム、警句、長詩、独白に近いものが次々に新たな標題によって刊行されるので、これを片っ端から読んでいると、どの本に何が書いてあったかなどということはおぼえていられない。
シオラン自身が自分のことを「反哲学者」というくらいだから、そもそも脈絡においてシオランに接することが不可能なのだ。
だから、シオランを一冊だけ推薦するというのもなかなか困難になる。そこで、ここでは最初にフランス語によって書かれた『崩壊感覚』をとりあげることにした。
「最初にフランス語で」という意味は、シオランは1911年生まれのルーマニア生まれで、母校のブカレスト大学の文学部で哲学教授となり、26歳のときにフランス学院給費生としてパリに留学したものの、1947年まではフランス語で文章を書いていなかった。
シオランにとって幼年期をすごしたルーマニアのトランシルヴァニア地方は、言語が複雑に折り畳まれている場所であった。そのころトランシルヴァニアはオーストリー・ハンガリー二重帝国の足下にあって、ルーマニア人はハンガリア人を憎んでいた。が、憎むということは興味をもつということでもあって、シオランもハンガリー語に異常な関心を示している。
しかし、シオランはフランス語を学ぶ。ルーマニア語でもハンガリー語学でも生々しすぎたのである。フランス語はシオランの言葉を借りるなら「完全なまでに非人間性に富んでいる」。そして、そのフランス語で最初に綴ったのが、『崩壊感覚』だったのである。
内容を説明するかわりに、それぞれの短文エッセイの標題をあげるのがいいようにおもわれる。ほんとうはフランス語で掲げるとおもしろいが、それは原文を見てもらうことにする。少しかいつまんでおいた。
これがシオランなのである。
いかがなものだろう。すぐに使いたくなりそうなフレーズが目白押ししていることに驚くにちがいない。が、これだけではまだ想像力がはたらかないという貧しい読者のために、二、三の文章を引用しておく。
「人間はいまや新たな時代、自己憐憫の時代の入口にたっている」。「存在が精神によって蝕まれつくされたあとの空虚、そこを占めるのが意識である」。「かくて独創性とは、ようするに形容詞の酷使と、暗喩の無理な喚起的用法に帰するわけである」。「人間が夜明けの言葉で自分のことを考える時代は、もう終わった」。「真の知とは、結局、夜の暗黒の中で目覚めているということに尽きている」。