才事記

侏儒の言葉

芥川龍之介

近代文学館 1978

 手元にあるのは日本近代文学館による復刻版だ。ぼくはときどき、『みだれ髪』や『武蔵野』などの復刻版を入手する。初出は大正12年の「文藝春秋」創刊号から2年間連載され、自殺の2年前に打ち切られた。出版は遺稿として扱われた。
 この遺稿をここで採用するのは芥川の最期の意識を覗くためではなく、芥川の思索と表現の狙いを浮き彫りにしたいわけでもなく、芥川が日々ひっかかった断片にややこだわって芥川の俳諧的趣向の感覚を少しくのべてみたいというだけである。なぜそうするかは読んでもらえばわかる。
 
★人生は一箱のマッチに似てゐる。重大に扱ふのは莫迦莫迦しい。重大に扱はなければ危険である。
 
 芥川らしい箴言だ。正と負の両方に1本のマッチを擦ってみせている。芥川ははやくから、本人の説明によれば「論理の核としての思想のきらめく稜線だけを取り出してみせる」という技法に傾倒していた。稜線というところが芥川らしい。
 芥川にはもともと箴言的なるものがあり、この箴言の振動力をどのように小説的技法となじませるかを工夫しつづけてきた(中村真一郎だったと記憶するが、芥川の作品はどれも『侏儒の言葉』の中に入りきるというようなことを言っていた)。こうした箴言だけを書きつらねたのが『侏儒の言葉』となった。侏儒とはわれわれの中に棲む小さな意図のことである。中国では小人や非見識者のことをさした。
 星、鼻、修身、神秘主義、女人などから始まって、罪、つれづれ草、自由、唯物史観、日本人、荻生徂徠、幼児……といったタイトルのもと、それぞれ短文がくっついて、ランダムに並ぶ。ただし、ときどき「又」というタイトルが入って、先行の文章を受け、続けてアフォリズムを加えていく箇所も少なくない。
 いくつか、引用する。こんな調子だ。
 
★正義は武器に似たものである。武器は金を出しさへすれば、敵にも味方にも買はれるであらう。
★強者とは敵を恐れぬ代りに友人を恐れるものである。(中略)弱者とは友人を恐れぬ代りに、敵を恐れるものである。
★年少時代の憂鬱は全宇宙に対する驕慢である。
★言行一致の美名を得る為にはまづ自己弁護に長じなければならぬ。
★消火は放火ほど容易ではない。
★自由は山巓の空気に似ている。どちらも弱い者には捉えることは出来ない。
 
 だいぶん前から、芥川については瑣末に見えること、ちょっとしたことを書きたかった。岩波の『全集』第6巻の月報の執筆を頼まれたときも、染井の慈眼寺の墓のことから芥川が好物だったブリの照り焼きのことや、下痢をおこすほど苦手だった生姜のことなどを書いた。
 なぜ芥川の瑣末を書くかというと、芥川は大上段の論理や大掛かりな人生をたえず瑣末で壊してみせようとしたからだ。禅智内供の鼻が長かったためにおこった悲劇が、こうして書かれた。次に書いたのが『芋粥』と『手巾』であるが、『芋粥』はふだんはたくさん食べられる芋粥が3分の2しか食せなかった男の話だ。それが気になるのである。『手巾』は失われた武士道を探していた大学教授が、或る婦人がテーブルの下で握りしめているハンケチにそれを感じるという短編だ。芥川もこんな文学でいいのかという懸念はあった。
 そこへ、漱石がそういう芥川をいちはやく褒めて応援した。きっと「瑣末の趣向」を扱う切れ味になにがしかの機知と哀歓を感じたのだろう。芥川もこの褒め方に鼓舞されて、生涯、この漱石が褒めた感覚を忘れないようにしていたふしがある。「芥川の文学」「芥川の自殺」「芥川から昭和文学へ」といった大きなテーマが看過されてよいわけではないが、それ以上に看過されてはならないのが、世間では瑣末に見えることが、芥川にはたいてい大きく見えていたということなのだ。
 ここに芥川のマイクロスコピックな箴言的世界像というものが出入りする。細部の稜線だけで世界との関係を示す方法がある。大筋や大要はどうでもいい。ひたすら「ちょっとした意外性」を発見できればいい。だから扱う素材はブリの照り焼きでも銀のピンセットでも電車の架線でもよかった。それが神経と直結しているのなら。
 
★わたしは神を信じてゐない。しかし神経を信じてゐる。
★わたしは良心を持つてゐない。わたしの持つてゐるのは神経ばかりである。
 
 いまさらいうまでもなく、芥川の神経は昭和2年の自殺の直前に、『玄鶴山房』『蜃気楼』『春の夜は』となって放電した。その『蜃気楼』にはなぜかマッチ、セルロイド、ネクタイピンが出てくる。ネクタイピンは外ですれちがった男の胸にキラッと光っていたもので、でも、それはよくよく見ると煙草の火だったのである。『春の夜は』では丸の内を歩いていたときに感じた野菜サラダの匂いだけが、まるで江國香織の「すいかの匂い」のように語られる。
 この『春の夜は』の直後の執筆が、『河童』『三つの窓』『歯車』『或阿呆の一生』『西方の人』という最終連打になる。が、だからといってそれらで大袈裟な人生の問題が取り沙汰されたわけではなかった。たとえば『歯車』ではレインコートとスリッパとココアがいっさいの神経放電の起爆点なのだ。だからこそ、あの最後の場面では芥川の頭上を掠めて飛ぶ銀色の単葉飛行機が、芥川の決意をかためさせたのである。このこと、『遊学』(中公文庫)では「セイゴオCの話」として書いておいた。
 瑣末や些細なものから神経のバーストがおこるということは、とくに芥川の特権ではない(仮に閃輝暗点症のような体質が関係していたとしても)。
 けれども、そのことを書いてそれを「文芸的な、あまりに文芸的な」というふうに読者に感じさせられるだろうと本人が得心できたのは、芥川の特権か、さもなくば過信だった(芥川はずっと読者と自分の関係を気にしていた)。少なくとも、よほど言葉を信じていたか、言葉を合金のように扱う自信があったからだ。もし芥川にあまたの言葉を「銀のピンセット」で弄ぶ技量がなかったならば、こんなふうに瑣末や些細をもって全体を逆襲するようなことはしなかった。だから、次のようにも言葉の技法を悪魔的に要諦することもできたのだ。
 
★あらゆる言葉は銭のやうに必ず両面を具へてゐる。例へば「敏感な」と云ふ言葉の一面は畢竟「臆病な」と云ふことに過ぎない。
 
 芥川は生後8ヵ月で本所の芥川道章の家に引き取られた。母フクが錯乱したからである。道章の家は一家揃って一中節を習っているような遊芸一家だった。
 母の病気は芥川文学の「心理」を解くには大きな鍵のひとつであるが、また実際にも長じた芥川が「狂気の遺伝」を怖れていたことも事実だが、幼少年期の芥川には一中節の音曲と歌詞のほうがずっと大きかったにちがいない。
 その母フクは芥川が11歳のときに死んだ。気の早い批評家はこれをもって芥川文学の出発と決める。そんなことはあるまい。悲しかったろうけれど、その悲しみは母との別れでなく(芥川はあまり詳しい母の記憶をもってはいない)、母の「狂気」を指の傷から滲む血に感じてからのこと、それも日常のわずかな出来事でおこる血が感じさせるからだったとぼくはおもっている。
 それを証拠だてるわけではないが、芥川は母の死んだ年、一中節の師匠宇治紫山の息子から英語と漢学を習うようになった。このとき芥川を夢中にさせたのはイギリス文学でも頼山陽の『日本外史』でもなく、むろん東西の文明の大勢のことでもなく、ひとえに英文字と漢字が秘める文字感覚だったのである。
 もともとぼくは芥川の文字感覚にも格別な興味をもっていて、最初のうちは原稿用紙の枡目をはみだすように綴っていた文字が、死に向かってどんどん小さくなっていくことに、何かの動きを感じていた。その細楷性は芥川の文学そのものが向かっている先のように見えていた。その見え方から察すると、きっと芥川にとって文字はタイポグラフィックな思想だったのである。だからどのような文字を綴るかということが、芥川の勝負であり、それがもし常識一般の美学しかもっていないようであれば、芥川は芥川を退屈にさせたのだ。芥川はいつも、常識に近寄らない文字ばかりを書こうとしていたのではあるまいか。
 
★危険思想とは常識を実行に移さうとする思想である。
 
 東京帝国大学を出るときの卒論がウィリアム・モリス論であったことについては、かつて『遊学』のモリスの項目に書いた。モリスであるということは、社会改革志向やユートピア幻想や芸術至上主義に関心をもっていたということだが、もっとはっきりいえばアーツ・アンド・クラフツやレッサー・アーツ(小さな芸術)がもたらすものこそが芥川の興味の対象になっていたということなのだ。貼り紙の模様が倫理であってほしかったということなのである。レッサーとはプチである。些少であり、僅少なのである。そこを芥川は凝視した。
 このようなことは、芥川が短編しか書かなかったこととつながっている。また、芥川の表現力が小説よりも俳句のほうがずっと安定していたことにも通じている。これも「月報」に書いたことだが、こんな句があった。「お降りや町ふかぶかと門の竹」と作ったのち、芥川は推敲して、こう改作してみせたのだ、「お降りや竹ふかぶかと町のそら」。この些細なる大転換こそが、芥川龍之介の真骨頂なのである。
 こんな句もあった。「春に入る柳行李の青みかな」。きっと五十歳をこえた芥川がいたとしたら、日本の俳諧や短歌を塗り替えたのではあるまいか。
 
★我々の生活に欠くべからざる思想は或は「いろは」短歌に尽きてゐるかも知れない。
 
 ところで芥川のマリア論というものがある。どこで書いたかというと、最後の最後の遺稿作品『西方の人』に綴られている。
 それまですでに芥川はいくつかのキリシタン物を書いていた。『奉教人の死』と『るしへる』はラテン文学に伝わる黄金伝説を下敷きに日本の桃山ふう古文書にしてみせたもので、『きりしとほろ上人伝』はやはり黄金伝説を泰西古文書ふうに偽装した翻案だ。いずれもどこかで、聖者と悪魔の取引に読者を引きこんでいる。
 ぼくは昨夜の深更に初めて読んでみたのだが、『おぎん』『おしの』という棄教を扱った小品もあった。『おぎん』はよく出来ていて、おそらく遠藤周作の『沈黙』の先駆にあたるのではないかと感じた。
 こういうものは書いていたのだが、マリアについてはほとんど言及していなかった。唯一(か、どうかは自信がないが、おそらく唯一)、マリアの祟りともいうべき変事を描いた『黒衣聖母』があるけれど、これは仏像化したマリア観音を素材にしているので、いわゆるマリア的なるものの言及はない。それが最後になってマリアのイメージについて、芥川らしい言葉をふと洩らしたのだ。
 なぜ芥川が自殺の直前にイエス・キリストのおはします方角を示したのかは、これまでさんざん議論されてきたから、ふれない。信仰の問題ではないのは言うまでもないが、こういう問題は正宗白鳥にも深沢七郎にも通じることで、一人芥川を論じてすむものではない。ぼくとしては芥川がここでも些細や瑣末や稜線をもってマリアに向き合ったことを、たんに示しておきたいのだ。
 芥川はマリアを「永遠に女性的なもの」としてではなく、「永遠に守ろうとするもの」と捉えたのち、こう言ったのである。「我々は炉に燃える火や畠の野菜や素焼きの瓶や巌畳に出来た腰掛けの中にも多少のマリアを感じる」と。また、こうも書いていた。「我々はあらゆる女人の中に、多少のマリアを感じるであろう。同時に又、あらゆる男子の中にも」と。
 
★良心とは厳粛なる趣味である。
 
 これでおわかりのように、なんと「厳粛なる趣味」としての「素焼きの瓶」がマリアなのである。そのようにマリアを見たい、マリアというものはもともとそういうように「外在する断片」なのではあるまいか、マリアは良心の趣向なのではないか。それをわれわれは大掛かりなマリア信仰に仕立ててしまったのではないか。これはマリアとわれわれの距離を遠のかせるだけではないか。そう、芥川は言いたかった。
 結局、芥川はそれを言い残して死んでしまった。言い残したことを詮索するのはまことにつまらないことだけれど、芥川自身が「素焼きの瓶」になりたかったことはあきらかである。『或阿呆の一生』には、そのことがこんなふうに語られている。「架空線はあひかはらず鋭い火花を放つてゐた。彼は人生を見渡しても、何も特に欲しいものはなかつた。が、この紫色の火花だけは、――凄まじい空中の火花だけは命と取り換へてもつかまへたかつた」。もう、遅かったけれど……。
 
★わたしは勿論失敗だつた。が、わたしを造り出したものは必ず又誰かを作り出すであらう。
 
 追って。芥川の担当医が井上井月の俳句に格別の関心を寄せていたことを、第454夜に書いておいた。なぜ井月の句に惹かれていたかということも書いておいたので、読まれたい。芥川の「時雨るるや層々暗き十二階」「冴え返る隣の屋根や夜半の雨」は、さすがにどこか井月を思わせる。けれども井月の「世の塵を降りかくしけり今朝の雪」には、まだ津々と及ばない。そこを想うと35歳の死はやっぱりあまりに早すぎた。
 では、おまけ。小池純代と編集学校の「笹鳴」諸君のために、「原稿はまだかまだかと笹鳴くや」。また、荒木雪破のために、「時雨るるや堀江の茶屋に客一人」。ぼくの句ではない。いずれも澄江堂芥川龍之介が詠んだ句だ。