才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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火の誓い

河井寛次郎

講談社文芸文庫 1996

 河井寛次郎記念館は京都五条坂にある。いつも人が少ない若宮八幡宮を少し南に入る。かつての寛次郎の住居である。
記念館は昭和48年に公開されたから、ぼくはその翌年に行っている。和風の空間なのに、どすんと吹き抜けがあいていて、そこに滑車が吊ってある。作品や資材を運ぶためのものだったのだろうが、なんだか大きいもの、「胸」のようなものに包まれた。その理由がしばらくぼくにはわからなかった。なぜなら、そのころのぼくは、河井寛次郎の陶芸のすべてにまいっているわけではなかったからだ。書も好きではなかった。ぼくは寛次郎については先が見えない晩生だったのである。
やがて、じわじわとその「胸」の意味が洩れはじめてきた。それでもそれを受け止める日々をもてなかったので放っておいたのだが、ついに『火の誓い』を読むにいたって兜を脱ぐことにした。そうか、やっぱり河井寛次郎という人物は「飛ぶ鳥とめる・絵にしてとめる」という人物だったのだ。

 ここに一枚の写真を刷ったグラビアの切り抜きがある。
寛次郎に関心をもったころ、どこかの雑誌から破ってとっておいたものだ。高校生たちの写真で、面構えがいい。右端に河井寛次郎が立ち、左端に浜田庄司が立っている。みんな白い実験衣をはおっている。
河井寛次郎は明治23年に島根安来の大工の棟梁の家に生まれている。安来は松平不昧の影響でお茶がさかんだった町である。大工と茶の湯は、寛次郎の幼な心になにものかを植え付けたのだろう。松江中学の二年のときすでに”やきもの屋”になる決心をしている。叔父の勧めもあったようだ。母親は寛次郎が四歳のときに死んだ。
異色なことに、寛次郎は東京に出て蔵前の東京高等工業学校に入った。ここはいまは東工大にあたるところで、生徒の大半が技術者志望である。基礎科学や応用化学を教えている。その窯業科に入って寛次郎はめざめていく。その二年生になった明治44年、赤坂三会堂で開催されたバーナード・リーチの新作展を見た。これにはしこたま肝を冷やしたようだ。そのあとに、窯業科に後輩として入ってきたのが浜田庄司なのである。白い実験衣の写真はそのときのものだった。二人は卒業後、京都の陶磁器試験場に入っている。

 このあとの寛次郎はとんとん拍子である。五代清水六兵衛から譲りうけた登窯と高島屋の川勝堅一との出会いが大きい。名声も上がった。
それが30歳をすぎてから迷う。大正12年ころ、「世界は二つあるんだ」と思い始める。ひとつは「美を追っかける世界」、もうひとつは「美が追っかける世界」である、と寛次郎自身が書いている。これは第一次世界大戦で景気がよくなった日本に見かけは美しい工業製品がどんどん出回ったことに関係がある。寛次郎は「有名は無名に勝てない」と知る。しかし、真の無名は中国の無名陶の古陶磁のほうにある。
ちょうどそのころ、渡英していた浜田が帰国して、その紹介で柳宗悦と出会い、さらに浜田とともに紀州へ旅行をした折りに木食上人の木彫に会う。いよいよ寛次郎が転換するときが来つつあった。その直後だったろう、柳と浜田と寛次郎は「日本民藝美術館設立趣意書」を書いて、これをばらまくのだ。そこから昭和六年にかれらに富本憲吉も加わって『工藝』を創刊するまでは、寛次郎は”喪中”だったと見たい。それなのに、そのあいだに、黒坂勝美や内藤湖南らによって後援会ができたり、ロンドンで200点におよぶ個展が開けたのは、きっと寛次郎の人徳というものなのだろう。

 本書は、そういう河井寛次郎が戦争前後に執筆した随筆を集めたもので、それぞれ短い文章ではあるが、「町の神々」「浜鳴り」「模様の国」「部落の総体」など、いずれも心に染みる。
それだけではない。言葉の掴みがすごい。少しだけ、紹介する。

 

焼けてかたまれ、火の願い
焚いてる人が、燃えている火
あの火の玉 火の手なでる
手のひらに ほんとに火の玉 ひとにぎり 電球撫でる冬田おこす人 土見て 吾を見ず
土の中から世の中へ 突き刺している たけのこ
二つならべて 足のうらにも 月見させる

 

入ろうとすると閉められる 出ようとすると掴まる
はだかはたらく 仕事すっぱだか 

誰が動いているのだ これこの手

 最後に寛次郎は自戒にこう書いた、「月のせ山寝る山熟睡」「この世このまま大調和」。うーん。

参考¶河井寛次郎の随筆には、あえて綴ったというより何かに任せて書いたような勢いと静けさがある。『いのちの窓』(東峰書房)、『手で考え足で思う』(文化出版局)、『六十年前の今』(東峰書房)など。