才事記

火の誓い

河井寛次郎

講談社文芸文庫 1996

 河井寛次郎記念館は京都五条坂にある。いつも人が少ない若宮八幡宮を少し南に入る。かつての寛次郎の住居である。
記念館は昭和48年に公開されたから、ぼくはその翌年に行っている。和風の空間なのに、どすんと吹き抜けがあいていて、そこに滑車が吊ってある。作品や資材を運ぶためのものだったのだろうが、なんだか大きいもの、「胸」のようなものに包まれた。その理由がしばらくぼくにはわからなかった。なぜなら、そのころのぼくは、河井寛次郎の陶芸のすべてにまいっているわけではなかったからだ。書も好きではなかった。ぼくは寛次郎については先が見えない晩生だったのである。
やがて、じわじわとその「胸」の意味が洩れはじめてきた。それでもそれを受け止める日々をもてなかったので放っておいたのだが、ついに『火の誓い』を読むにいたって兜を脱ぐことにした。そうか、やっぱり河井寛次郎という人物は「飛ぶ鳥とめる・絵にしてとめる」という人物だったのだ。

 ここに一枚の写真を刷ったグラビアの切り抜きがある。
寛次郎に関心をもったころ、どこかの雑誌から破ってとっておいたものだ。高校生たちの写真で、面構えがいい。右端に河井寛次郎が立ち、左端に浜田庄司が立っている。みんな白い実験衣をはおっている。
河井寛次郎は明治23年に島根安来の大工の棟梁の家に生まれている。安来は松平不昧の影響でお茶がさかんだった町である。大工と茶の湯は、寛次郎の幼な心になにものかを植え付けたのだろう。松江中学の二年のときすでに"やきもの屋"になる決心をしている。叔父の勧めもあったようだ。母親は寛次郎が四歳のときに死んだ。
異色なことに、寛次郎は東京に出て蔵前の東京高等工業学校に入った。ここはいまは東工大にあたるところで、生徒の大半が技術者志望である。基礎科学や応用化学を教えている。その窯業科に入って寛次郎はめざめていく。その二年生になった明治44年、赤坂三会堂で開催されたバーナード・リーチの新作展を見た。これにはしこたま肝を冷やしたようだ。そのあとに、窯業科に後輩として入ってきたのが浜田庄司なのである。白い実験衣の写真はそのときのものだった。二人は卒業後、京都の陶磁器試験場に入っている。

 このあとの寛次郎はとんとん拍子である。五代清水六兵衛から譲りうけた登窯と高島屋の川勝堅一との出会いが大きい。名声も上がった。
それが30歳をすぎてから迷う。大正12年ころ、「世界は二つあるんだ」と思い始める。ひとつは「美を追っかける世界」、もうひとつは「美が追っかける世界」である、と寛次郎自身が書いている。これは第一次世界大戦で景気がよくなった日本に見かけは美しい工業製品がどんどん出回ったことに関係がある。寛次郎は「有名は無名に勝てない」と知る。しかし、真の無名は中国の無名陶の古陶磁のほうにある。
ちょうどそのころ、渡英していた浜田が帰国して、その紹介で柳宗悦と出会い、さらに浜田とともに紀州へ旅行をした折りに木食上人の木彫に会う。いよいよ寛次郎が転換するときが来つつあった。その直後だったろう、柳と浜田と寛次郎は「日本民藝美術館設立趣意書」を書いて、これをばらまくのだ。そこから昭和六年にかれらに富本憲吉も加わって『工藝』を創刊するまでは、寛次郎は"喪中"だったと見たい。それなのに、そのあいだに、黒坂勝美や内藤湖南らによって後援会ができたり、ロンドンで200点におよぶ個展が開けたのは、きっと寛次郎の人徳というものなのだろう。

 本書は、そういう河井寛次郎が戦争前後に執筆した随筆を集めたもので、それぞれ短い文章ではあるが、「町の神々」「浜鳴り」「模様の国」「部落の総体」など、いずれも心に染みる。
それだけではない。言葉の掴みがすごい。少しだけ、紹介する。

 

焼けてかたまれ、火の願い
焚いてる人が、燃えている火
あの火の玉 火の手なでる
手のひらに ほんとに火の玉 ひとにぎり 電球撫でる冬田おこす人 土見て 吾を見ず
土の中から世の中へ 突き刺している たけのこ
二つならべて 足のうらにも 月見させる

 

入ろうとすると閉められる 出ようとすると掴まる
はだかはたらく 仕事すっぱだか 

誰が動いているのだ これこの手

 最後に寛次郎は自戒にこう書いた、「月のせ山寝る山熟睡」「この世このまま大調和」。うーん。

参考¶河井寛次郎の随筆には、あえて綴ったというより何かに任せて書いたような勢いと静けさがある。『いのちの窓』(東峰書房)、『手で考え足で思う』(文化出版局)、『六十年前の今』(東峰書房)など。