才事記

ゼビウスと横須賀功光

ぼくの半生はさまざまな才能に驚いてきたトピックで、髪の生え際から足の親指まで埋まっている。小学校の吉見先生との一緒の遊びや南海ホークスの飯田のファースト守備に驚き、藤沢秀行の碁の打ち方や同志社大学の平尾ラグビーに驚き、電子ゲーム「ゼビウス」のつくりや井上陽水のシンガーソングぶりに驚き、亀田製菓の数々の「サラダあられ」や美山荘の中東吉次の摘草料理に驚き、横須賀功光が撮った写真やコム・デ・ギャルソンの白い男物シャツに驚いた。

ファミコンゲーム《ゼビウス》

いずれも予告なし。ある日突然に出会ってたまげたのだ。これらの代わりにマイルス・デイヴィスを聴いたときとかヴィトゲンシュタインを最初に読んだときとか、そういうものを挙げてもいいのだが、できればナマっぽく体験したことと向き合ったほうがいいので、こんな例にした。

まずは何に驚いたかということが大事なのだが、それにとどまってはいけない。そのときこちらを襲ってきた唐突な感動が、その日その場のシチュエーションや当日の体調や別の記憶との共属関係とともに新たに残響してくることが、もっと大事だ。

われわれは当然のことながら、幼児期には何にでも驚いてきた。子供になってからもアサガオの開花やセミの羽化に出会ったこと、土中の化石やホタルの点滅を初めて見たのは、忘れられない体験だ。ただし、これら植物や動物を相手にした感動はのちにも体験可能になる率が高いけれど、それにくらべて誰かがもたらしてくれるものは、その時その場にかぎられることが多い。

この誰かによる感動とどう付き合えるかということから、世の「才能」というものへの陥入がおこっていく。

感動や共感について心すべきことは、出会って驚いた瞬間の感動というか逆上といったものを、その後どのように保持できる状態にしておけるのか、またその感動をここぞというときに脳裏から自在にリコール(リマインド)できるようにしておけるのかということにある。

感動も共感も誰にだっていろいろの機会におこるものだけれど、それをどこかに転移しても(時と場所とメディアを移しても)、その鮮やかさをそこそこ賞味できるかということが、キモなのである。

たとえば、誰かの講演を聞いて、おおいに痺れたとする。内容にも共感したとする。では、この感動をどのように保持するかなのである。またどのように再生するかなのである。これがけっこう難しい。

驚きをもたらしてくれたものには、当然にそれをあらわした当事者の才能が光っている。横須賀のモノクロ写真や陽水の歌においてはあきらかに格別の「個の才能とスキル」が発揮されたのだし、「ゼビウス」や「サラダおかき」には開発チームの「集団的で統合的な才能」が結実したのである。しかし、その秘密に分け入るには、たくさんの分析や推理が必要だ。

たとえば第1に、その才能が開花するにあたっては、少年少女期や青春期に何をめざしていたのかということがある。栴檀は双葉より芳しと言うけれど、小さいころの能力の芽生えがそのまま開花することは少ない。なんらかの深堀りやエクササイズが生きたはずなのだ。横須賀や陽水はそこをどうしたのか、これは覗きにいく必要がある。

第2に、その才能開花に預かったメンターや技の協力者やチームはどういうものだったのかということがある。ゼビウスはどのようにチームを組んだのか。一人で独創をはたしたかに見える棟方志功だって、実はたくさんのメンターがいた。志功はそのメンターに強く影響されたいと思った。指導者や師や影響者の存在は、メンターの資質に選択肢があるというより、むしろその師に掛けたほうの強度がモノを言う。

のちのちそんな話もしたいと思うけれど、ぼくの場合はいったん選んだ影響者のことを、その後もまったく疑うことがなかった。

また第3に、その才能によってどのように同時代の競争を抜きん出たのか、そこにはどんな時代の水準がわだかまっていたのかということも才能分析の対象になる。セザンヌが人気があったときとカンディンスキーが「青騎士」として登場したときとウォーホルがシルクスクリーンで登場したときとでは、時代のアイコンも驚きの関数も違っていた。そのため、その時々の勝負手がちがってくる。こういうときは、自分で才能を懸崖に立たせる必要がある。イチかバチかに向かう必要がある。

横須賀功光《射》

横須賀功光が颯爽と出現したときは、日本の写真界はキラ星がひしめいていた。ファッション写真や広告写真で腕を磨いた横須賀は、ここで全裸の若者をモデルに『射』というモノクローム作品に挑んだ。若者が壁に向かって跳び移ろうとする肉体を、撮ってみせたのだ。ライティングも絶妙だった。誰も見たことがない写真だった。

第4に、才能開花のためのエクササイズやレッスンや機材はどういうものであったかということがある。棟方志功のように「板と刀」だけが武器だということもあるけれど、多くの場合、才能開花にはいくつもの道具や機材が関与する。レンブラントの版画には日本から取り寄せた和紙が、プレスリーのギターにはマイクやアンプの性能が、アンセル・アダムスのf/64のカメラにはレンズやプリントペーパーの質がかかわっていた。

顔料やコンピュータをどう使うか、録音機やプロジェクターをどうするか、釉薬や鉄材は何を入手するか。テクノロジーは才能の信頼すべき友人なのである。このことも才能にまつわっている。

ぼくは執筆には、いまだにシャープの「書院」を使っている。発売されていないだけでなく、いまや修理ができる工房もない。

第5に、なぜその当事者たちは「ゾーン」に入れたのかということだ。才能に自信がもてるには、どこかでゾーン体験がいる。ゾーンに入るとは、予想を超えるノリに入ったことをいう。俗にエンドルフィンやアドレナリンが溢れることだ。

しかしながら、為末大が言っていたけれど、あるときゾーンに入っていけたとしても、その継続は必ずしもおこらないし、その手前でそうなるとはほぼ気が付かないものなので、そこをどうするか。そのため、アスリートの多くはゾーンを思い描いたイメージ・トレーニングをしたり、ルーチンを確実なものにしていくということをする。

けれども意外なことだろうが、スポーツ以外ならいくらだってゾーン体験は引き寄せることが可能なのである。一番有効なのは誰かとコラボすることだ。スポーツは必ずチームや相手がいてスコアを争っているのだが、他の才能開花は一人で自分の才能の発揮に悩む。そういうときは、誰かとともにその才能を試すのがいい。編集能力の発揮なら、学習仲間とともにさまざまなことを試みたり、メディアを変えたりするといい。

たんに感動したといっても、そこにはざっと以上のようなことが準備されていたり、参集していたのである。これらを無視しては才能は発揮できないし、才能を云々することも叶わない。

しかし、ここまでの話は、ぼくがこのコラムであきらかにしたいことの範疇のうちのまだまだ一端にすぎないのである。どちらかというと、ここまでは才能議論の準備やアプローチに必要なことで、実は序の口の話なのだ。クロート向きとは言えない。
 才能に痺れたのちに重視してみたいのは、驚かされた相手の才能は当方(受容者)にどのように伝播されたのか。その後はどうなっていったのか、ここを抉るということだ。

ラグビーの平尾やシンガソングライターの陽水の才能は、ほおっておけばすぐに「スポーツの才能」とか「音楽の才能」というふうに一般化されてしまう。また他のプレイヤーとの比較分布にマッピングされていく。ジャンクフードや料理の個別の感動は、たちまち無数の「おいしさランク」にいいねボタンとして回収されて、平べったくなっていく。

ゼビウスはその後は無数の電子ゲームが乱舞していったので、おそらくいま遊んでみても当初の感動は色褪せているにちがいない。

愛用の”お古” シャープ《書院》

コム・デ・ギャルソンの黒い紐付きの白シャツはいまでも気にいってはいるけれど(イッセイのスタンドカラーの白シャツなどとともに)、それははっきりいって「お古」なのである。

が、大事なのはこの「お古」との付き合いのうちにも、あのときの感動とそれをもたらした才能とを交差させられるかどうかということなのだ。

そもそもプラトンも人麻呂もバッハもゴッホも複式夢幻能も、これらはすべて「お古」なのである。「お古」だからこそ、何度もプラトンを読みなおしたり能楽を見なおしたりするのだが、そしてそれで少しは自分が感動した才能の位置や重みに気がつくこともあるし、少しは「お古」を脱したと感じるのだけれど、これでは甘いままになる。それよりむしろもっと「お古」を相手に才能と向き合うべきなのである。「お古」をバカにしてはいけない。

これは思うに、感動は転移しつつあるあいだも(AからBに、BからCやDに)それなりの主張をしているはずなのだから、その転移のなかでの様変わりな変容も捉えておいたほうがいいだろうということだ。ぼくが何を一番鍛えてきたかといえば、おそらくはこの「お古」をいつも甦らせる状態で自分の編集力をリマインドしたりリコールできるかということだった。

感動や驚嘆には才能の楽譜やレシピが刻まれている。ぼくの編集力はそのことをヴィヴィッドな状態でホールディングしたり別の場所にキャリングする(移行させる)ことを、試行錯誤をくりかえしながらも何度も試みることで、そこそこ鍛えてきたように思う。ただし、そこにはいろいろの秘伝もある。そのあたりのこと、おいおい話してみたい。

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蕪村全句集

与謝蕪村

おうふう 2000

[訳]藤田真一・清登澄子

  秋もはや其の蜩(ひぐらし)の命かな
  立ち聞きのここちこそすれ鹿の声
  蜻(こほろぎ)や相如が絃のきるる時

 秋の始まりの句だ。「其の蜩」は「その日暮らし」とも読めて、「その」が効いている。「相如が絃」は司馬相如が卓文君の恋情をもよおして弾いた琴のこと、その絃がぷつりと切れたかのようにコオロギが鳴きやんだという一瞬の趣向である。虫の音というもの、ずっと鳴いているときよりも、ぷつんと途絶えたときに、こちらの耳がぴくんと動く。
 こういう句を見ていると、蕪村は耳の人でもあったなと思えてくる。そうなのだ、蕪村は案外に耳の人なのである。雲裡が再興した幻住庵に暁台が旅寝をしているところに蕪村が寄ったとき、蕪村は「丸盆の椎に昔の音聞かむ」と詠んでいる。暁台の言葉も丸盆の椎の木目も、蕪村には音なのである。耳なのだ。大坂の松濤芙蓉花を訪れたときは詞書きを「浪花の一本亭に訪れて」として、「粽(ちまき)解いて蘆吹く風の音聞かん」と詠んだ。
 蕪村は耳を注ぐ。耳を傾けるのではなく、注ぐ。秋の句ではないが、「うぐひすの二声(ふたこえ)耳のほとりかな」や「うぐひすや耳は我が身の辺りかな」があった。
 鴬が耳に、耳が鴬になっていて、その耳と鴬のあいだの僅かな消息が動いている。その消息を聞く。そこには「耳のほとり」「耳のあたり」という微妙の界域がある。蕪村が耳の人だと思えたのは、このときだった。左脳でコオロギを聞いている日本人とかというケチな話ではない。これはレオノーラ・カリントンの『耳ラッパ』なのである。

 一般には蕪村は目の人だと思われてきた。そう、むろん目の人である。ただし、この目にはいろいろの目がある。多様極上の目の人なのである。
 耳の蕪村が耳を注ぐのに対して、目の蕪村はゆっくりと全景をうけとめる。大きく見て、じっと捉える。あるいは較べる。この大きい目が捉えた句は他の俳人の追随を許さない。
 この大きさは、「菜の花や月は東に日は西に」や「さみだれや大河を前に家二軒」で知られてきたように、子供でもすぐわかる。その大きさにたまげる。わが国には古来より“日月図”というものがあるけれど、菜の花を前にして東の月と西の入り日を同時に描いた者など、いなかった。『山家鳥虫歌』に「月は東に昴は西に、いとし殿御は真ん中に」という俗曲があるけれど、まあ、そのくらいだろう。
 大河に吸いこまれるように降りつづける細い雨の全景に、二軒の家を配した者も、いなかった。これは水墨山水画そのものだ。
 しかし蕪村は、この大きさの肯定で終わるのではない。同じ菜の花や五月雨の印象を別のものにも変えていく。蕪村を知るには、むしろその変化も感じることである。たとえば、こうである。

  菜の花や鯨もよらず海暮れぬ
  さみだれや名もなき川のおそろしき

 鯨のいない海。名前がついていない川。ここにはいわば「不在の大きさ」や「名ざせぬものの大きさ」が見えていて、さらにたまげる。蕪村にとっては、大きさと小ささ、遠さと近さは同じ目に写る世界なのである。存在と不在は同時に見えるものなのだ。
 ここには「負の蕪村」がいる。この「負の蕪村」こそがぼくが最近になって強調している蕪村なのであるが、そのことについてはここではふれないでおく。『山水思想』に指摘した「負の山水」についての見方を読んでもらいたい。一言だけいっておくと、ぼくはかつて、「凧(いかのぼり)きのふの空のありどころ」に接したときに、一切を了解できたのだ。この人には「不在の存在学」があるということが――。つづいて、この句とともに次のような句をノートに抜き出して並べて、またまた深い溜息をついたものである。そのノートをさきほど引っ張りだしたら、こう、並んでいた。

  凧(いかのぼり)きのふの空のありどころ
  秋の空きのふや鶴を放ちたる
  月天心貧しき町を通りけり
  欠けて欠けて月もなくなる夜寒かな

 第1句。空を見上げても何もない。けれどもその空のあのあたりに、いや、そこに、昨日は凧が上がっていた。それが「きのふの空のありどころ」である。第2句。空を見ていると青空が広がっている。けれども昨日は、この空の只中に一羽の鶴が悠々と放たれていた。これが前2句の「見えないものが見えてくる観望」というものだ。
 後2句は、もう少し手がこんでいる。第3句が、ここには月光すべてがあからさまなのに、その月の光を浴びている町は何も答えていないという感興であり、第4句は、今夜は新月なのに、数日前からそこには月が欠けていって、いまさっきその月が欠けきって、心に染みるような夜寒だけが残ったという感興。
 これらは「負の存在の詠嘆」である。「負の視像の存在学」である。こういう句は蕪村にしか作れない。

 大きい蕪村に驚いてばかりいてはいけない。蕪村には大きい目から小さい目への移動がある。大きい目が小さい目に移っていく引き算がある。このウツリの手法がうまかった
 また秋の句にしておくが、たとえば萩と、山と、雨、である。また、咲き乱れる萩を包む景色のことである。そこを蕪村は「雨の萩山は動かぬ姿かな」「白萩は咲くより零す景色かな」というふうに詠む。カメラがまわってきて、萩や菊にすっと寄る。そうするとその「寄りの目」と「残りの目」の関係が“地”の光景のなかの点景の“図”のように浮かぶのだ。そこで、「雨の萩」「山は動かぬ」「その姿」「かな」というふうに詠む。この詠み方もまた蕪村の独壇場なのである。
 同じく秋の句、「秋風の吹きのこしてや鶏頭花」「秋風のうごかしてゆく案山子かな」「阿武隈や五十四郡のおとし水」など、蕪村の目がカメラの落とし水になっている。
 気をつけるべきは、蕪村のカメラのズーミングはプロセスをすっぱり省くことである。それもウツリの手法である。こういうときは寄ってからの細部だけで勝負する。そうしておいて「寄り」の次に見えてくる意外というものを、ふいに詠む。次のような秋の句はどうか。「蘭の香や菊よりくらきほとりより」「葛の葉のうらみがほなる細雨(こさめ)かな」。
 目の人は菊の葉の暗みよりも蘭の奥の闇の群に目をつけたのだ。蘭や菊や葛の「ほとり」や「あたり」に目をつけたのだ。まったく蕪村の目はカメラ・オブスキュラ(まさに暗箱)なのかと思いたくなるばかりだ。

夜色桜台雪万家図 蕪村筆

夜色桜台雪万家図 蕪村筆


 いつのころだったか、松村月渓の『蕪村遺芳』を見ていたら、蕪村は眼鏡をかけていた。最初にこれを見たとき、へえ、そうだったのかと思った。
 月渓は松村呉春のこと、俳諧はむろん、絵のほうでも蕪村の弟子だった。さすがに蕪村を生き生きと描いている。他にも禿頭剃髪や頭巾姿の蕪村の肖像画はあるが、呉春にはおよばない。画題に「於夜半亭月渓拝写」とある。
 蕪村は頭巾をかぶってちょっと猫背、どこか横山エンタツを想わせる風貌だ。それで眼鏡をかけている。俳人というよりも、薬屋の主人という印象だ。本書を編んだ藤田真一の『蕪村』(岩波新書)では、蕪村は150センチくらいだったろうと想定されている。小柄だったのである。
 が、この丈(たけ)こそは蕪村にふさわしい。
 こういう蕪村が関西に出身して江戸に出て、そのうち目を及ぼす人となり、耳を注ぐ人となり、そのうち京都に落ち着いて眼鏡をかけ、ちょっと猫背の人になっていった。蕪村がこうなるまでには、蕪村は蕪村なりの“修行”をしつづけていた。それをおもうと、我が身の修行の不足をかこちたくなってくる。

 蕪村は俳諧においても俳画においても、交友においても、準備をおさおさ怠らなかった人である。でなければ、あんな蕪村は生まれない。ただ、その準備を見せなかった。そのため、どうも蕪村はほんわりと受け取られたままになっている。苛酷な修行などそこから毫も感じられなくなっている。
 また、経緯を書き残さなかった人でもあったため、芭蕉の人生が知られているわりには、蕪村の人生はまだ日本人の「耳のほとり」や「目のくらやみ」まで来ていない。蕪村を知ることは日本人の身体感覚を“日月図”にすることなのに――。
 それに気がついたのは正岡子規だったが、子規以降、数々の蕪村論が書かれてきて、もう書くことなどきっと出尽くしたろうと思えるほどなのだが、いやいや、どうもそうでもないのである。なんだかみんながみんな蕪村を書きこみすぎて、日本人一人一人の蕪村がもっさりしてしまったのだ。
 ここに『蕪村全句集』をあげたのは、そういう蕪村の句を四季に分け、季題に振っていて、かつ最小限の校注を付してあるのが、おそらく蕪村をゆっくり読むのに最も適確な編集ではないかとおもわれるからだ。歳時記の分類ではなく、古今集以来の部立になっていて、流し読みしていると、蕪村が何をどのように発句にしてきたかが見えてくる。岩波文庫などでいったんは蕪村を時代順に読んできた読者が、さてもう一歩踏みこみたいというときの一冊にふさわしい。
 版元の「おうふう」は国文学に強い桜楓社のことで、最近になってこんな社名にしてしまった。桜楓社のほうがずっとよい。

 芭蕉が元禄にさしかかって生きたように、蕪村が宝天(宝暦・天明)にさしかかって生きたことは、蕪村の準備を知るにも重要だ。 蕪村は享保元年(1716)に大坂の郊外だった毛馬に生まれて、天明3年(1783)に没した。吉宗が将軍に就いてから田沼意次の絶頂期までだった。世に宝天文化とよばれる元禄にも化政にもまさる爛熟期の前半に当たる。
 20歳で江戸に出た。書生になってついたのが師匠の早野巴人で、巴人は俳諧結社「夜半亭」を営んでいた。巴人は宋阿とも号した。そのころの蕪村は宰町ないしは宰鳥。ちょこまかと師匠の世話をした。けれども巴人は5~6年後の67歳で没し(寛保2年)、蕪村は師を失った。それが27歳である。このあと蕪村がどのようにしたかというのが、蕪村の遍歴のスタートになっている。
 ここまでの蕪村は巴人についたとはいえ、俳諧師ではない。最近の研究でだんだんあきらかになってきたように、浄土宗の下っ端の僧体にいた。一応は俗塵を払うつもりの青春をおくってきた。これに対して、俳諧師は職業である。生業だ。今日のデザイナーや写真家が容易には食べられないように、俳諧師で糊口をしのぐとなるとそれなりの覚悟がいる
 ということで、巴人が死んで夜半亭が閉じられたというのは、わかりやすくいえば蕪村が食いっぱぐれたということなのである。しかし蕪村はこれを機会に遊行に向かった。いつたん自分の拠点を捨てることにした。潭北の供をして上野国あたりをめぐり、そのあとは東北などに遊んだ。『新花摘』にそのへんのことがごくあっさりと綴られているが、ようするに27歳から36歳くらいの十年ほどをゆらゆらと遍歴していたのだ。
 これは蕪村の呑気のように見えて、実は、蕪村畢生の用意周到な武者修行だった。『賤のをだ巻』には、点者(俳諧の宗匠)になるには行脚をして万句をものしなければいけないと書いている。俳諧師としての悠然たる通過儀礼だったのだ。
 目の人となりえたのも、耳の人ともなったのも、この十年の通過儀礼の成果にかかっていた。

 蕪村が本格的な俳諧師になっていった事情には、もうひとつ大きく絡んでいたことがある。寛保3年(1743)が芭蕉の五〇回忌にあたっていたということだ。
 各地でさかんに追善法要や追善句会や句集の編纂がおこなわれていたのだが、これをきっかけに全国的な芭蕉ブームともいうべきがおこっていく。蕪村が武者修行をあらかた終えたら、そこは「芭蕉の景色」で満開になっていたという風情なのである。とりわけ明和7年(1770)の『奥の細道』再版と、安永4年(1775)の芭蕉『去来抄』『三冊子』の初めての出版が大きい。
 芭蕉の「言ひおほせて何かある」「高く悟りて俗に変えるべし」は、これで初めて世に伝わった。「松のことは松に習へ」もここで初めて世に知られた。「不易流行」は流行語にすらなった。そればかりか明和8年には江戸深川に芭蕉庵が再建され、大津には幻住庵が再興された。そこへ暁台が止宿していると聞き、そこを訪れた蕪村が詠んだのがさきほどの「丸盆の椎に昔の音聞かむ」だった。
 こうして蕪村は芭蕉の研究に入っていったのである。これが第二の武者修行だったろう。『奥の細道』の足跡をたどって奥州一円も歩いた。
 江戸文化というものは、このように何度かの再生と復活によってやっと定着したものである。光琳だって百年後の酒井抱一でやっと定着した。そこは鎖国の強みでもあった。

 蕪村の転回は36歳あたりにある。宝暦元年(1751)に蕪村は中山道を通って上方に向かう。ただ故郷(大坂)には向かわない。京都に入って知恩院の一隅に足をとめ(浄土宗だったから)、つづいて巴人の弟子の長老・望月宋屋に伺い、そこから洛中洛外の寺々を丹念に歩いた。
 こうして4年ほどを京に暮らして、それから丹後に赴き、数年を丹後・丹波・若狭・越前に遊行して、宝暦7年に京都に戻った。このとき蕪村は「与謝」を名のる。よほど丹後の地や与謝の景色が気にいったのである。丹後遊行は俳諧よりも、おそらく俳画修行のためだったとおもわれる。
 この姓名揃った「与謝蕪村」がいよいよ俳諧師として動き出したのが明和3年(1766)だった。大祇・召波・自笑・鉄僧らを連衆とした「三菓社句会」である。
 大祇は島原の郭に住み、召波は服部南郭に学んだ漢詩人、自笑は版元「八文字屋」の3代目、鉄僧は医者である。ぼくはいま未詳倶楽部や上方伝法塾や連塾などという「塾」や「連」や「部」を組んでいるが、これらを始めるとき、いつも思い出すのが、この蕪村の京洛での活動開始の場面だった。蕪村も覚悟して、このときから夜半亭を営むことにした。そのとたん、几董・月渓・百池らの主要メンバーとなった“八双組”が揃っていく。
 その後の蕪村がどのように動いたかは、18世紀の上方京洛の文人全体のネットワークの重なりを知るべきである。蕪村はその中心にいたわけではないが、かならずそのどこかに席を占めていた。また、そのどこかにかならず、頼山陽や池大雅や木村蒹葭堂や売茶翁がいた。そういうことについては、いつかまたふれてみたい。
 こうして蕪村はいっさいの準備を終えて、与謝蕪村を演じきれたのである。眼鏡もかけることになる。ここで注目するべきは、蕪村がよけいなテキストを書かなかったことである。蕪村のテキストは芭蕉でよかったからである。これは織部がつねに利休百カ条をもって大胆な試みに挑んでいったのと、よく似ている事情(計画)だったように思われる。

 ところで、ぼくの蕪村についての印象や感想は、年々とはいわないまでも数年毎に変わってきた。それだけ蕪村が深いということであり、ぼくがいつも蕪村の全貌が見えず、のべつ驚いてきたということでもある。
 最初の蕪村との出会いは母が教えた牡丹の句であった。句会のあと、母が蕪村の牡丹を教えてくれたのだ。その子供時代のいきさつについてはすでに『遊学』(存在と精神の系譜)に書いたことなのでここではくりかえさないが、ともかくぼくの蕪村は牡丹の句に始まった。

  牡丹散りて打ちかさなりぬ二三片
  閻王(えんおう)の口や牡丹を吐かんとす
  地車のとどろと響く牡丹かな
  寂(せき)として客の絶間の牡丹かな
  散りてのちおもかげにたつ牡丹かな
  山蟻のあからさまなり白牡丹

 いまもなお、すべて絶品であると思っている。牡丹の句はいまなお誰も超えられまい。もし何かを思い浮かべるなら、村上華岳の墨画の牡丹と、中川幸夫や川瀬敏郎の牡丹の立花くらいのものだろうか。
 次に萩原朔太郎の『郷愁の詩人・与謝野蕪村』と稲垣足穂の『僕の蕪村手帖』『新歳時記の物理学』にゆさぶられた。これで蕪村を本気で読むようになった。父がもっていた潁原退蔵の『蕪村全集』が、ぼくの自主的な蕪村参内だった。
 こんなわけなので、蕪村のこと、できれば1冊でも2冊でも長いものを書きたいと思っているのだが、ついついそのままになっている。そのままになっているだけでなくて、蕪村に対する見方が数年毎に変わってきているため、なかなか踏ん切りがつかないでいる。たとえば数年前に正木瓜村の『蕪村と毛馬』を読んでからは、またちょっと見え方が変わってきたのだが、まだ毛馬村にさえ行っていない。
 蕪村は毛馬に始まり毛馬に結んでいる人なのである。とくに『春風馬堤曲』はすべての蕪村の集約だった。あんな漢詩俳諧交じりの作品は、もう誰も書けない。かつて中村草田男が『春風馬堤曲』の漢文のところを片仮名まじりで書き下してみせたものだったが、それもいいが、なんといっても構想構成が断然である。和漢朗詠の日本史が到達した最高峰といっていいだろう。だいたい蕪村の「蕪なる村」という俳号が陶淵明なのである。蕪村は毛馬に発して毛馬の風として吹きつづけた人だった。
 まあ、こういうことを心おきなくいつか書いてみたいのだ。

 というわけで、今日はこのくらいにしておくが、このような蕪村について言っておきたかったことで、おととい大阪で話したことがあるので、それについて一言加えておわりたい。
 いま、大阪の西天満のブックショップギヤラリー“amus”で、ぼくの「松岡正剛・千夜千冊・一冊一物」という小さなフェアが開かれている。老松通りに近い古びた大江ビルの地下にあるスペースである。そこでおととい、ぼくは「本を過客として」という談話を頼まれた。暑いなか、立見が溢れるような会になった。いろいろ話したのだが、かつて蕪村に学んだことをそこに交えた。
 本を「過客」として読む方法をあれこれ紹介してみたのだ。そのとき蕪村の「ふたもとの梅の遅速を愛すかな」と「梅をちこち南すべく北すべく」をあげ、ここには2冊の本を同時に読んでいる蕪村がいるんだという例を出した。
 いわば蕪村の「前後時間差攻撃」あるいは「異方同時攻撃」である。一句の中に時の相違や時間の変遷や二つの時刻にまたがる現象の比較を詠むという方法。これは読書の奥義にもつながる。そういう話をした。
 典型的な句を3句あげておく。「青墓は昼通りけり秋の旅」「名月やけさ見た人に行きちがひ」「きのふ花翌(あす)をもみじやけふの月」。最後の句など、高速である。「きのふ花」と「あすをもみじ」と「けふの月」の“三世実有”が、たった五七五の十七文字に入っている。
 読書というものは、このように「一冊の菜の花」に前後を感じ、四方を動かすことなのである。そして「過客」としての高速運転に入ることなのだ。蕪村、もっと知られるべきてある。