連歌の世界
吉川弘文館 1967
宗祇は「のきてつづく」と言った。「のく」は退くことで、その場から去ることをいう。関西では日常語でも「のきなさい」などと言う。連歌では、離れていく言葉や近寄らない一句の風情のことをいう。その離れる句を放ちながら、次に続けていくのが宗祇の連歌だ。続けるとは付句をすることをいう。それが「のきて、つづく」なのである。
去嫌という。「去り嫌い」と読む。連歌一巻のうちに同字や同事が近接して多用されるのを嫌って、二句去り、三句去り、五句去りをあえて詠む。同じ言葉や同じイメージの言葉をわざわざ二句あけてつかい、三句あけて入れ、さらに五句をあけてから思い出すようにつかうという表現編集だ。体言止めと用言止めは続いていいが、体言体言で両句が止まるのも、去嫌とされた。
連歌にはこのような手続きがけっこうある。それぞれ感覚的で、陶冶された言葉で説明される。
名残という。「名残の折」のことである。連歌は一座をもって張行するのだが、いずれはお開きになる。その終わりの折紙のお開きが名残の折だ。「のきてつづく」といい、「去嫌」といい、「名残」といい、連歌はたえずどこかが揺蕩っている。
連歌は百韻を一巻として、懐紙全紙を横に半折して折紙四枚に書きとめる。折紙は折目を下にして一句を二行に分けてしたためる。
第一紙が「初折」。その表の右端に張行年月日と場所を細字一行でしるし、句は全紙の三分の二のあたりから書き始める。表に八句、裏に十四句。第二紙が「二の折」で、表裏に各十四句ずつ、第三紙「三の折」も同じくし、第四紙を「名残の折」とみて、表に十四句、名残の裏に八句を綴る。三の裏と名残の表には、特別に「見渡し」などという綺麗な名がついている。
連歌にはこういう規則が縦横に張りめぐらされていて、それを「式目」というのだが、そこが絶妙であって、また心地よい縛りになっている。名人級にもなると、一の折は「序」に、二の折は「破」に、三、四の折が「急」にあたるようにも詠んできた。しかし、規則はこんなものじゃない。微に入り細を穿って風韻のための縛りが考案された。それは放達怠惰から連歌を創発するための連歌師たちの工夫であった。
初心の者のために、わかりやすいところから案内するが、連歌は五七五の「発句」を七七の「脇句」で受け、これを五七五の「第三句」に転じて、以下を七七の短句と五七五の長句を交互に挟んで連ね、ついに百句百韻に及ぶものをいう。これがスタンダード・スタイルになっている。
その初折の第一の長句が「発句」、名残の裏の八句目すなわち一巻の百句目が「挙句」になる。挙句の果て、一巻の終わりのお開きである。
参加者のことは会衆あるいは連衆という。四、五人から十数人集まって、頭役の世話のもと、宗匠と執筆(書記役)あるいは右筆の指南と記録によって、みんなで一巻を詠みあった。これを張行という。のちに亭主役が台頭し、張行主となった。そのばあいは脇句は張行主が詠み、第三句は相伴客あるいは宗匠の次席にあたる者が詠んだ。そのうち宗匠が亭主をつとめることも多くなる。
張行するにあたっては、どこで会席をするかという選定からはじまる。二条良基が著した『連理秘抄』には「一座を張行せんと思はば、まづ時分を選び眺望を尋ぬべし」「大飲荒言の席、努々張行すべからず」などとある。
会席が決まれば、床の間に菅公天神または渡唐天神の画像あるいは「南無天満大自在天神」の名号の掛け軸をかけ、花を立てる。その前に文台と円座をもうけて宗匠と執筆が坐る。宗匠の会釈とともにいよいよ連歌のスタートになるが、ここから懐紙の折り方、墨の摺り方、筆の使い方の「持成」があって、発句の初五文字が復唱されるのを俟って、およそ十時間になんなんとする一座建立がはじまるのである。
これでだいたい見当がつくように、このような連歌一座の張行はのちの茶の湯にたいへん近い。というよりも、茶の湯は連歌形式をこそ真似た。侘茶をおこした村田珠光や武野紹鷗は連歌師だった。
連歌は四折百韻をめざしてすすむのだが、そこに一貫した主題があるかといえば、そういうものはない。一句ずつに主題が移り、どんな趣向にも滞らないことが連歌の連歌たる風情になる。
一句ずつの前と後の句を「前句」と「付句」の関係という。この関係が付合である。前句と付句で二句一連、これが連歌の基本になっている。二条良基の裁断だった。和歌における上の句と下の句に付合関係が発展していったのだと思う。ということは、連歌は一種の“唱和体”というスタイルとテイストに懸けた文芸だということになる。
一例を出す。
宗祇と肖柏と宗長が有馬温泉で百韻を巻いたときの『湯山三吟』の初折表八句だ(わかりやすくするために漢字になおしたところがある。こういう仮名づかい漢字づかいにも厳密な共鳴関係があるのだが、ここでは現代風にした。また見やすくするためにわざと行頭をくいちがいにしておいた)。
薄雪に木の葉色濃き山路かな(肖柏)=発句
岩もとすすき冬やなほ見ん(宗長)=脇句
松虫にさそはれそめし宿出でて(宗祇)=第三句
小夜ふけけりな袖の秋風(柏)=第四句
露さむし月も光やかはるらん(長)=第五句
おもひもなれぬ野辺の行く末(祇)=第六句
語らふもはかなの友や旅の空(柏)=第七句
雲をしるべの峰のはるけさ(長)=第八句
肖柏の発句は初冬の湯山の景色を詠んだ。これはルールのひとつで、発句はその日その場に近い風物から入るものとされている。
句意は薄雪がうっすら積もりかげんなのに、紅葉の色はいっそう深くて濃いと言っている。雪と紅葉が季節をまたいでバランスをとり、それを「山路かな」と結んだ。そこで、宗長はこれに付けて「岩もとすすき」という秋の風物を持ち出し、その秋の風物を冬に持ち越して見るのも一興ですねと応えた。脇句はルール上は“同季”でなければならない。それで宗長は秋と冬の「あいだ」を詠んだ。
第三句は転回をしなければならない。前句には付けるが、そのもうひとつ前の句からは離れる。このもうひとつ前の句からの離れが「打越」である。どうするか。宗祇は前句を受けつつ、「松虫にさそはれそめし宿出でて」とやった。冬になりそうだった発句と脇句の意向を、ふたたび秋に戻したのである。これを「季移り」という。しかもまた発句の「山路」から「宿」にまで戻してみせた。
たんに戻したのかというと、そうではない。そこが宗祇の達意になるのだが、「さそはれそめし」が過去形であることで、宿を出たのは晩秋のこと、そこから、ああ初秋には松虫に誘われていたものだったが、その風情をいまもまだ聞いていたいという時を引っ張る心境にしてみせた。ここで一巡である。連歌用語でも一巡という。たった三句の付合であるが、その技芸たるやものすごい。
次の第四句は「軽み」と「あしらい」を要求される。これもルールだ。どのようにあしらうか。あしらうのにもかなりの芸能技倆がいる。そこで肖柏は「宿出でて」を宿立つに見て、「風を立つ」を連想した。連歌の王道は連想編集なのである。松虫なので夕暮れを踏襲し、そのうえで「小夜更ける」の時にした。
五句目はそろそろ加速していくところになる。そこで「袖」にあわせて「露」を縁語で入れた。これが和歌編集術に有名な「寄合」である。六句目は秋が三句続いたので、宗祇得意の「のきてつづく」を見せる。まずは季を去って「雑詠」として、詠み人を旅の途次にまではこぶ。そうしておいて前句の月の光の「かはるらん」を、思いも慣れない旅路の心の変わりにもちこんでいく。超絶の付句だった。
かくて七句目、肖柏は旅路の前句の「おもひもなれぬ」を旅路の不安から友と慣れ親しめない日々に変えて、ここで初折表八句では初めての“人”を出した。この“人”の出しかたを連歌では軽くして、無理をしないようにする。そして八句目の宗長。「語らふもはかなの友」は実は雲のようなもの、それが遥かな峰の向こうに見えていましたと、みごとに結んでみせた。
以上表八句は、冬二句、秋三句、旅三句の成立になっている。去り嫌いは一語も違わず、徹底されている。
とりあえず連歌の流れの見本を眺めてもらったのだが、これで肝を冷やすようでは、付合などほど遠い。たとえば、発句は言い切りも要請されていた。「山路かな」がその言い切りだ。この用法こそはのちに俳諧の切れ字になっていく。
このほか連歌にはいろいろルールがあるけれど、ここでは、本書が比較的詳細に紹介している「賦物」について、以下、驚くべき連歌世界の極北極限の技芸を案内してみたい。その前に、ざっと連歌の成り立ちをふりかえる。
そもそものおこりからすると、連歌は二句一連の短連歌が最初にあって、それが次々に連なっていく長連歌に発展していった。
短連歌は、上の句の五七五と下の句の七七とを別人が詠む。院政期くらいまではこのスタイルだった。藤末鎌初(藤原末期・鎌倉初期)になって、これが鎖のようにつながって、五七五に七七、その七七に五七五が付き、七七、五七五というふうに連鎖していった。これが長連歌である。短連歌なら、前句と付句の「あいだ」は縁語や掛詞などの、和歌にも常用されてきた手法でつなげていけばよかった。けれども十数句、数十句と続く長連歌では、そうはいかない。
何がそうはいかないのかというと、ここが良基や宗祇が仕立て上げた連歌の独得の考え方や感じ方になるのだが、連歌のおもしろみは展開や変化にあって、過度の調和をよろこばなかったのだ。ポエジーがしだいに移っていくこと、変移していくこと、うつろっていくことが求められたのである。
加わうるに、連歌は一人が詠む歌ではない。一首を詠むのでもない。複数の連衆が次々に付合をして、五七五(上の句)と七七(下の句)をずうっと連ねていく。これを「膝送り」というのだが、それが歌仙連歌なら三六句、花信風連歌なら二四句、正式の百韻連歌なら百句に及ぶ。世吉といって四四句を詠むこともある。当然、繰り返しやイメージの固着もおこる。それを避けたいのである。
やがて連歌は寄合の遊芸として、一座建立の文化として広がっていった。二条良基がリーダーとなった。貴族たちによる堂上連歌だけでなく、民衆による地下連歌も愉しまれた。
これらをディレクションし、仕切っていったのは連歌師たちである。宗匠とよばれた。とくに宗祇の出現が大きい。
相国寺にいたのだが、三十歳ごろに連歌を志し、宗砌、専順、心敬に学び、東常縁に古今伝授をうけた。良基が編纂した『菟玖波集』に対して『新撰菟玖波集』を選集した。その宗祇が連歌のポエジーをすばらしく高めていったのである。ぼくはいつか良基と宗祇について、何かを書いてみたいと思っている。
宗祇は連歌にも和歌同様の「長高く有限にして有心なる心」が漲ることをめざし、それゆえに「のきてつづく」や「去嫌」などの式目を貫いた。そこには絶妙の変化が求められた。
しかし、実際にはなかなかそこまでのポエジーは保てない。連衆の才能や感性もまちまちだ。放っておいたままでは一巻の張行はかなり勝手なものになる。実際にもそういう連歌もかなり横行した。連歌の王道は連想だとはいえ、それではただの連想ゲームがはてしなく分岐していくだけになる。
そこで、和歌や漢詩がもっていた物名や隠名といったヒドゥン・ディメンションのルールを連歌全貌に浮上させることにした。それが賦物という方法だった。「賦」とは「分かち配る」という意味だ。
この賦物世界がものすごい。決められた名や言い回しを分かち配って詠みこむのだが、けっこうアクロバティックになっていった。
二句一連ならば、たとえば前句に鳥の名が出てくれば、付句は魚の名をつかうというふうになる。それで終わる。この短連歌ふうの対応関係を、しかし賦物連歌では、長句(五七五)で鳥を詠み、短句(七七)で魚を詠みというふうにして、百韻すべてに交互に鳥と魚を分かち配って及ばせたのである。
一例を案内する。「花鳥の床に散りしくすすき哉」の前句に、「こがらしながら枯るる秋草」と付けた。定家の『明月記』にある例である。床に散らばるススキに秋草の枯れた風情を付け合わせたわけであるが、よくよく見ていただきたい。ここには魚と鳥の賦物がある。ススキは濁点をつけない中世ではスズキとも読めて、これは鱸なのである。付句のほうはといえば、ここには木枯のなかにコガラという鳥がいる! こういうものを「賦鳥魚連歌」といった。これは大喜利や「笑点」だ。それをなんとも百韻にわたって連打しつづけたのである。そうなると大喜利ではすまない。西鶴のレベルになる。
どんな賦物が用意されてきたか、一端を紹介しておく。その技巧の曲芸におそらく茫然自失となること請け合いだ。
まず初級では賦名所連歌というものがある。「月にふるしぐれや風の音羽山」に対して「散らぬ紅葉に相坂の関」と応じた。相坂は蟬丸の逢坂の関だ。こういうふうに名所を次々に折り込んでいく。これはなんとかなるだろう。冠字連歌もわかりやすい。たとえば「いをねぬや水のもなかの月の秋」に続いて「ろをおす舟の初雁の声」というふうにする。頭字で「い・ろ・は・に」を折り込んで詠んでいく。これは楽なほうであるが、百韻に近づくにつれ、そうとうに大変になる。
有心無心の賦物連歌は有心と無心を何かにかこつけて詠む。ここでは、「有心」とは和歌の風尚をもつ句のことを、「無心」とは俳諧的でちょっと滑稽な趣向の句のことをさすと思ってもらえばよい。たとえば「えせ衣被ぎ猶ぞねり舞ふ」に「玉鬘だれに心をかけつらん」というふうに応ずるわけだ。
やや中級になると、本歌取りをしつづける賦物連歌や、色を付ける賦黒白連歌などがある。「乙女子が葛城山を春かけて」という前句に、「霞めどいまだ峰の白雪」といったふうに付ける。葛城の黒に対して白雪の白を入れるという手順だ。ところがそれが賦五色連歌になると、だんだん怖くなる。次々に五色を連ねていく。こんな例がある。
風ぞ秋 松をばそむる露もなし(松→青)
女郎花ちる雨の夕暮れ(女郎花→黄)
子鹿なく末野の入り日山越へて(入り日→赤)
いづるか月の影ぞほのめく(月→白)
空の色くらきは雲のおほふらん(くらき→黒)
こうなると五色をいつも頭に浮かべ、ほとんどアタマの中をカラーグラデーション状態にして詠む。しかもその他の連歌ルールはちゃんと生きているのだから、これはグラフィックデザイナーの色指定やCGの百万色指定のようなものだ。それを言葉でやりとげるのだ。しかし、この程度で驚くのはまだ早い。
畳字連歌では漢語の熟語を詠みこんでいく。「真実の花とは見えず松の雪」に、「明春さこそつぼむ冬梅」というように、真実・明春といったふだんは和歌にも連歌にもつかわない漢語を入れる。そのためふだんから漢詩文と和歌文の両方をマスターしている必要がある。これはかなり教養がいる。
さらに、手紙文や文章ふうに連歌していくものもある。「催促かしての遅参の春の夢」に、すかさず「所存の外に梅や散るらん」と付けるのだ。催促・遅参・所存が手紙用語のフィルターだ。一座はこれで一挙に候の気分になっていく。
こうしてついに技巧の極致があらわれる。賦回文連歌にまでゆきつくのである。例示をするのも溜息が出るのだが、こんな例がある。
だいたい和歌を回文にするのなんて、とてつもなくむずかしい。それを五七五とし、さらに七七とする。それにまた五七五を付ける。とてもできそうもないけれど、それをやったのだ。たとえば、前句は「なかば咲く萩のその木は草葉かな」。読みくだすと「なかはさくはきのそのきはくさはかな」となっている。この回文歌を作るだけで大騒動だけれど、次の連衆はその前句の意味に共鳴しつつ、七七回文を作るのである。「菊の枝も名は花萌えの茎」(きくのえもなははなもえのくき)というふうに! ここには「萩」に「菊」という賦花連歌の寄合さえ生きていた。
いささか驚かせすぎたかもしれない。こうした超絶技巧ばかりをあげたかったわけではないのだが、賦物の縛りによって連歌が行くところまで行ったという話をしておきたかった。本書の著書の伊地知鐵男さんが賦物に詳しいということもあった。伊地知さんは宮内省図書寮から早稲田の先生になって、ひたすら中世連歌を研究した。汲古書院に著作集がある。
ともかくも、連歌は季節・色合い・歌枕・名物・本歌のみならず、あらゆる編集技法を駆使しての文芸だったのである。類似・比喩・対照を用い、対立・付属・共振をゆらし、引用・強調・重用を散らせて、つねに連想を鍛えに鍛えぬく。編集技法に関心のある者は一度は覗いておくべき言語表現世界なのである。
なぜ連歌がこのようになってきたかといえば、そこが本書が最も重視しているところになるが、連歌は「唱和と問答」の韻文化であって、かつそのことを一座を組んで相互の参画状態にしていく遊芸であったからだった。コミュニケーションの芸能であって、コミュニティの文芸なのだ。
これほどにスリリングでエキサイティングな連歌であるのに、今日では連歌を巻いている連中はほとんどいない。連句ならば大岡信・丸谷才一・安東次男らがたびたび歌仙を巻いていたのだが、連歌は少ない。
連歌を遊ぶ人が少ないだけでなく、連歌の案内にも一般の読者にわかりやすいものがない。研究書ばかりなのである。本書も多少は初心者にもわかるようにしているようなのだが、途中から中世近世の連歌の実際の精査克明な紹介になっていった。
ぼくはたまたま帝塚山学院大学の人間文化学部のセンセーを引き受け、そこで鶴崎裕雄さんと“同窓”となり、宗長の研究者でもある鶴崎さんが定期的に仲間を集めて連歌を巻いているばかりか、2001年9月からは「朝日新聞」大阪版で「朝日連歌会」を紙上連載していると知って狂喜したのだが、こういうことはたいへんにめずらしい。この3月をもって鶴崎さんは定年で帝塚山をおやめになる。ぜひとも鶴崎さんに誰もが高度に遊べる連歌三昧の一書をものしていただきたいとおもうばかりだ。
では、その鶴崎さんを宗匠とした朝日連歌会の一部を最後にお目にかけておく。なかなかの“立派”(派を立てること)である。発句は鶴崎宗匠の「遠近ゆ言の葉寄るや秋の天」というもの。これから始まる21世紀の紙上連歌に寄せる熱い思いが、「遠近ゆ」の歌語をもって高らかに宣言されている。以下、主婦やら神主さんによる表八句だ。
遠近ゆ言の葉寄るや秋の天
筑波の満ちにすだく虫の音
草生ふる水際に月の影さして
船脚速く若人ら過ぐ
流す汗夢はいづこに宿るらん
包みの中は手縫ひの浴衣
故郷の香り漂ふ縁のうち
昔登りし山のもてなし