才事記

テレビ芸能職人

香取俊介・箱石桂子

朝日出版社 2000

 テレビ業界も佳日を偲ぶ時代になっている。ここにはその佳日が脈々と再生されている。
 テレビドラマのタイトルロールでは、脚本家の次に音楽家の名前が出る。ドラマの音楽は以前は「劇伴」と言った。専門の職人がいる。本書に出てくる福井崚は「劇伴は引き算だ」と言っている。いまのトレンディ・ドラマはレコード会社・プロダクション・CFとのタイアップもあってやたらに音楽が入りすぎるが、いいドラマの音楽は芝居を邪魔しない。そういう音楽をつくりたかった。
 脚本を読み、演技を見て、演出が加わってもまだ足りないものがある。それが劇伴の原点だという。
 この人は矢沢永吉がギターの音を任せている人でもある。その福井が中島みゆきの歌のことを「自己憐憫のない演歌」だと喝破している。内藤法美に育てられただけのことがある。内藤とは越路吹雪の旦那さんである。

 劇伴が引き算だとすると、テレビドラマのメークアップは左右対称を壊すことにあるらしい。
 片山嘉宏はNHKのメーク王である。大河ドラマの多くのメークを手掛けた。映画の東映の時代劇出身だった。化粧をおぼえるには髪結いもやらされた。時代劇では男の髪結いを床山、女の髪結いを結髪というのだが、この違いが手と目と相手でわからなくては、メークもできないらしい。
 この修行が終わって、やっと俳優に専属につく。片山は美空ひばりについた。ところが映画のひばりは男役や若衆役が多い。これが勉強になった。次に鶴田浩二についた。
 やがてNHKに入ってテレビ時代劇のメークを創案する。映画もテレビも時代劇なら同じだというわけにはいかない。映画はカメラは一台だが、テレビは3~4台が同時に動き、これがスイッチされる。ということはどこから見てもその役柄になっていなければならないし、その役者の役柄の顔が出てくる必要がある。
 そこで片山はまず眉の形を左右違うように引くことにした。次に顔色も左右で変えた。このカメラ・スイッチを意識したメソッドはなかなか唸らせる。なぜこのようなことを“発明”できたかというと、時代劇では室町時代と江戸時代では眉が違っていた。それを生かしたのだという。なるほどそういうものかと感心した。
 その片山を唸らせた女優は栗原小巻、男優は平幹二郎であったという。平面的な顔なので、かえってメークに深い感心と工夫をもっているらしい。

 メークも、照明によって生きもすれば死にもする。本書に登場する遠藤克己は、「アカリが遠藤さんじゃないと、私は出ない」と女優にしばしば言わせるアカリ屋である。藤純子・秋吉久美子・池上季実子‥‥ずいぶんいるらしい。
 遠藤は、まず一灯のライトでその女優がどのような魅力を出すかをよくよく確かめる。それが十分にアタマにはいったところで、ライトをふやし、レフやカポックで光をつくる。このあたりで女優の機嫌まで見えるようになるという。光をつくるのはできるかぎり自然になるように整えていくことで、強調しようとはしないのがコツである。どちらかといえばやはり「引き算」に近い
 アカリ屋はチーフ、セカンド、サードがフロアにいて、フォースがイントレなどの上にいる。それにまたそれぞれアシストがつくこともある。遠藤は日活でフォースを3年やって、川島雄三につき、さらに三船プロに入って腕を磨いた。そのへんまでくるとアカリ屋は照明をつくるだけでなく、絵をつくれる実力までもっていなければできないとされる。それには一度、徹底して白黒の映像の光をつくってみることであるという。
 女優が遠藤を選ぶように、遠藤は監督を選ぶ。職人とはそういうものである。遠藤は工藤栄一や斎藤光正が好きだったという。『必殺』シリーズ、『戦国自衛隊』などの監督だ。

 久世光彦は「お前の人格は信用するけど、おまえの仕事は信用しない」と言って部下を育てたそうだ。『時間ですよ』のタイムキーパーに就いた原田靖子の述懐である。
 タイムキーパーなど何でもないようでいて、神経を使い尽くす仕事であるようだ。ドラマのカットとカットのすべての細部の整合性をつけるのが仕事なのだから、いわばドラマの息と息をつなげる覚悟がいるらしい。
 しかし、基礎の目はカットごとの細部をすべてアタマに入れるところから始まる。髪形、ヤカンの置き方、窓の光りぐあい、汗のかきぐあい、前のカットでの動きまで、すべてチェックする。タイムキーパーは秒速なのである。
 その原田から見ると、いまのテレビはすべてが社会現象あるいは世間現象になっていて、そこがつまらない。ひとつひとつをつくりあげていない。キムタクが流行し、藤原紀香が見えればいいということになっていて、これでは職人も育たないと危惧をする。
 殺陣師の美山晋八がこういうことを言っている。作品はあくまで「脚本の匂い」と「監督の色」で生まれてくるものなのだから、そこに戻って考えないといけないのではないか、と。

 いま、ぼくはテレビのドラマはほとんど見ていない。見なくなってからもう15年ほどがたつ。
 理由を考えてみたこともなく、ただつまらないだけだと思っていたのだが、本書のことを書いているうちにいろいろ思い当たってきた。タレントはよく見えてくるのだが、職人の芸や味が伝わらなくなっているからだった。まったく「個性」というのはつまらないものである
 個性などと異なるものをつくること、それが演出であってテレビであって物語であって、編集なのである。