父の先見
時代考証事典
新人物往来社 1979
ぼくの仲良しに杉浦日向子ちゃんがいる。彼女はめっぽうすぐれた漫画家で、田中優子とともに江戸ブームをつくった張本人でもあるが、ある日、漫画を描くことをやめてしまった。
誰もがその才能がぷっつりと解消されるのを惜しんだが、彼女はへいちゃらだった。その誰もが訝った漫画中断の理由は、「私が江戸のものをちゃんと読むには、一冊の文献だって一カ月もかかることがあるんです。もっとかかるものもある。これからはそういうことをしたいんです」というものだった。
これで誰も日向子ちゃんの進む道に立ち向かえる者がいなくなった。バンザイ、だ。
その日向子ちゃんの先生が稲垣史生である。江戸時代の考証をすれば天下一品の人物だ。
この30年ほどの時代劇映画、この20年ほどのNHKの時代もの大河ドラマの時代考証は、ほとんど稲垣史生の力を借りていた。
時代考証とは、幕藩体制のしくみを細かく調べるなんてものではない。そんなことはふつうの大学の学者でもできる。そんなことではなくて(むろんそんなことはもとより)、たとえば「江戸町奉行」というものについてなら、町奉行の仕事の中身はむろん、その町奉行が仕事が終わってどこに寄り、どんな家に帰るのか、そこでどんな着替えをするのか、そこまで考証する。
大奥だって、部屋の数からその調度まで、廊下や厠の位置からその扉のぐあいまで、全部が全部、考証の対象になる。
実は、ここまでわからないと映画やテレビの時代ものはつくれない。中村吉右衛門扮する鬼平(長谷川平蔵)がさんざん立ち回りをしたりしたのち、自宅でくつろぐところを撮らなければならないからだ。そこで迎える女房の言葉づかいから着ているものまで、あきらかにしなければならないからだ。カメラを引けば、たちまち大奥の家屋構造のすべてが見えるからである。
しかし、ぼくがこのような時代考証に惹かれるのは、それが時代劇に活用されるにあたって雄弁になっているからではない。一人の歴史好きが徹底して細部に入っていくと、そこまで見えてくるのかというインベスティゲイトな執念に感動をするからだ。
本書は事典だが、読むにもおもしろい。味がある。いろいろ批評もまじっている。おそらく誰もがついつい読みこんでしまうであろう。それがしかもたった一人の研究成果であることに、しだいに心底、驚くはずである。案の定、この本の帯には、司馬遼太郎の「唯一の先達の仕事」という格別の推薦の辞が掲げられている。