才事記

ありそうもないこと

イヴ・ボヌフォワ

現代思潮新社 2002

Yves Bonnefoy
L'Improbable 1980
[訳]阿部良雄・島崎ひとみ・田中涼一 他

 思索というもの、何かが“ある”と思っているとたいして進まないことが少なくない。平和がある、美しい地球がある、純文学がある、市民というものがある、精神異常がある自意識がある民主主義がある
 こんなふうに見ようとすると、では、その「あるもの」をここに取り出してみよということになって、躓く。こういうときは、いったん「そういうものはない」とか「そういうものではないはずだ」と考えたり、また「ないものは何か」という切り替えをしたほうがいい。
 否定神学とはそのような思索から生まれてきた。「神は○○である」というアプローチに限界と疑問が生じた末に、むしろ「神は○○ではない」という思索を重ねていくことをいう。
 イヴ・ボヌフォワは神学者ではなく詩人であるが、この否定神学を思索の方法として抱え持っている。そうやって生き、そうやって言葉を紡いできた。否定神学を重ねるイヴ・ボヌフォワは、だからこそいつも「ありそうもないこと」を考えている。
 しかし「ありそうもないこと」は今に始まった思索ではない。むしろ古来、「ありそうもないこと」のほうにこそ多くの沈思黙考が重ねられてきた。そこでイヴ・ボヌフォワは、「ありそうもないこと」を表したピタゴラス、フラ・アンジェリコ、カラヴァッジオ、ラシーヌ、ボードレール、バルテュス、シルヴィア・ビーチジャコメッティを考える。

 イヴ・ボヌフォワが小川の水際に並べても光を失いそうもない言葉を選んで文章を綴っていることは、本書の翻訳のうまさにもあらわれているため、よく伝わってくる。それは久々に熟睡した朝に庭の緑を見るように、たいへん気分のよいものだ。
 読書というもの、やはり三〇冊に一回はこのような眩しい光でまみれたい。
 しかしこの気分のよさは、イヴ・ボヌフォワがフランス語の属性を見切っているところにあるように思える。彼はフランス語をポール・ヴァレリーのように明晰な合理性だけで結晶したものとは見ていない。むしろフランス語は濁ったものであり、晦闇なるものに向かってつくられてしまったと見ていて、そこが「ありそうもないこと」の思索を明晰にさせたのである。
 これは、こんなところで突然に小林秀雄の例を持ち出すのも何だが、きっとある種の知識人たちにはわかりやすいだろうから言ってみると、小林においては初期にはまったく気がつけなかったことであり、しかし晩年にむかって存分に了解したあることに似ているのである。すなわち、言葉の本質というものはフランス語であれ日本語であれ、自身の外側に何かを投げ出すことによってしかその本質を他者に伝達できないということなのだ。
 どこかの特定の国語がやたらによく出来ているなどということは、そもそもありえない。国語は自分の中にひそむものだからこそ、外に投げ出してみるものなのだ。

 もう二つの投企が、ある。
 ひとつはおそらく、イヴ・ボヌフォワが「ありそうもないこと」の例示を美術館や図書館に託せる投企性をもっていたということだろう。ようするに、いつだってアレキサンドリアのムセイオンか、さもなくばどんな場所にあってもいいような偶然のコレクションの一束が、たえず思索の発信を促すメタプログラムとして見えていたかということだ。この着想はぼくにも小さな頃から宿ってきて、それが樹木のように着実に成長してわが企画の夢につながってきたものとほぼ同じだから、すこぶる透明に伝わってくる。
 しかしもうひとつの投企性は、ぼくには薄弱だ。
 それは、どのような文章を綴れば、それを読む人々が自身の思索をいくらでも深めたいと思えるように、その文章を綴る自身の位置をずらせるかという投企性である。どこからか? 自分のいる敷居から――。
 こういうことができる人がいることは、ぼくもよく知っている。こういうことというのは、不在を装えるかどうか、未知の敷居の色の上で遊べるかということである。そういうことをすでに多くの才能が表してきた。たとえばジャン・クーパー・ポウイス、たとえば牧野信一、たとえばエミール・シオラン、たとえば西行、たとえばミシェル・セール、たとえば矢内原伊作、たとえば須賀敦子、たとえば、たとえば、たとえば――。
 それはよくよく承知しているのだが、残念ながらぼくにはそのような文章が綴れてはいない。いやいや「存在の白紙」になるのなら簡単なのである。グルニエのように「存在の不幸」になるのなら、もっと簡単なのだ。そうではなく、自己の敷居の外にいて別の「ありそうもないこと」で相手の敷居を示せるように文章を淡々と綴ることが、やれそうでいて、難しい。イヴ・ボヌフォワにごく少しではあるけれど、嫉妬を感じるとしたら、そこなのだ。

 そういうわけで、本書は説明されることを避けている文章できっかり綴られたものだった。これは、はぐらかしなのではない。「ありそうもないこと」の存在学なのだ。
 少年や少女だったころを思い出してみるとよい。どこへ行きたいと思ったか。誰と会えるといいと思ったか。どんなふうに自分が思われればいいと思ったか。遠足で何がおこってほしいと思ったか。いつかどんな洋服を着たいと思ったか。諸君は、きっと「ありそうもないこと」だけを夢想していたはずなのだ。
 そういうことを時代的に集中的に表現していた時期もあった。たとえばパロックである。パロックについてはいくつもの説明が可能であるが、最も重要な特質は「ありそうもないこと」を物語や音楽として表現しようとしたことにあった
 イヴ・ボヌフォワも本質的には20世紀の晩年を駆け抜けて、ありもしないバロック思考を否定神学した詩人だった。そんな本書を、このように紹介できたことは、今宵のぼくが余程ぼんやりできているからなのだろう。

参考¶イヴ・ボヌフォワは日本語訳の出来で左右されるが、宮川淳の『ボンヌフォア詩集』がなんといっても最初で、かつ決定的な鐘を打ち鳴らした。他には次のものが訳されている。『現前とイマージュ』(朝日出版社)、『ジャコメッティ作品集』(リブロポート=現在入手困難)、『バロックの幻惑』(国書刊行会)、『イヴ・ボヌフォワ最新詩集』(書肆青樹社)など。