ボリス・ヴィアン
日々の泡
新潮社 1978
ISBN:4102148116
Boris Vian
L' Ecume des jours 1947
[訳]曾根元吉

 自意識過剰の青年青女には、おおむね二種類の「ポーズの意識」というものがある。ひとつは自身の才能や容姿をより向上させて見せたいというしごくあたりまえだが、いくぶん偽善的な意識であり、もうひとつは自分を「まともには見せたくない」という偽悪的でややひねくれているのだが、それでいてつねに影響力を計算しつづけているような、どこか悲しい自意識だ。ボリス・ヴィアンはあきらかに後者に属していた。
 ボリス・ヴィアンの名を知ったのは、高校生のときに見た《墓にツバをかけろ》というやるせなくもハードボイルドな映画の作者としてだった。この、ブルースハーモニカが甘ったるくせつなく響くモノクロ映画は、ぼくの青春の「傷」をかきむしるものだったのだが、それは文芸的ではなく、ジャズっぽかった。
 それがいつだったか、「遊」を創刊する直前の、おそらくは『日々の泡』が日本語訳されてまもないころだろうから一九七〇年ごろのことだったと思うが、いよいよヴィアンを読むことになった。探し求めていたオブジェの生きた陳列棚だった。探し求めていたというのは、当時のぼくはシュルレアリストたちのオブジェのあげつらいぐあいにだんだん嫌気がさしていて、もっと斬新でキレのいいオブジェ感覚に出会いたいと思っていたからだ。
 
 読めばすぐに目にとびこんでくるのだが、『日々の泡』には冒頭から最後までおびただしいオブジェが羅列されている。プーシキンの化石のようなオブジェではなく、といってブルトンのこれみよがしのオブジェでもなく、日常の現実感覚のなかをすばやく動きまわるモダリティをもったオブジェたち。
 たとえば、噴霧器で吹きつけられた液体香料ポマードと、そこへ琥珀の櫛が加わってつくられるオレンジ色の髪の線。鮫皮のサンダル、深い青緑色の畝織りビロードのパンツ、淡褐色のキャラマンコ羅紗のジャケット。日光がたわむれて夢幻の印象をつくりつづけている台所の真鍮のカラン。ニジンスキーの薔薇の精のように見える広口壜の中のホルマリン浸けの鶏卵。音符ひとつひとつにアルコールやリキュールや香料などを対応させてあるカクテルピアノ……。こういった描写をともなうオブジェが繰り出される。それが物語の狙いなのかというと、そうとはかぎらない。
 『日々の泡』はレーモン・クノーが「現代における最も悲痛な恋愛小説」とよんだように、コランとクロエ、アリーズとシックらの奇妙な友情と錯綜を通して「人間の魂の昇天のしかた」を克明に描いた小説である。その描き方に最も美しい言葉が選びきられている。とりわけクロエが肺の中に美しい睡蓮を咲かせて死んでいく場面は、この小説をとても有名にした。数々の日用オブジェはかれらの恋のための供物なのだ。

 ボリス・ヴィアン(一九二〇~一九五九)は作家に淫しなかった。べつだん正体を隠したかったわけではないだろうが、『墓に唾をかけろ』や『死の色はみな同じ』(ともに早川書房「ボリス・ヴィアン全集」)はヴァーノン・サリヴァン名義で刊行した。脱走した黒人兵が書いたというふれこみだ。
 職人的なのである。ジャズ・トランペットが得意で、プロはだし。頼まれればハードボイルドもちゃんちゃか書いた。レイモンド・チャンドラーのフランス語訳もした。パリ郊外に生まれて、エコール・サントラル・パリでは土木技師の学位をとっている。いまでは『心臓抜き』(白水社・ハヤカワ文庫)や『北京の秋』(早川書房)や『日々の泡』が前衛文学の代表作として知られているけれど、当の本人は職人としての気質を愉しんだ。
 では何が一番のフィールドだったかといえば、それはジャズだったろう。お気にいりがデューク・エリントンで、マンハッタンのハーレムの高級ナイトクラブ「コットン・クラブ」の専属になったエリントンのバンドに、ずっと痺れまくっていた。ヴィアン自身もサンジェルマン・デ・プレのクラブ「タブー」で演奏し、その後はエリントンやマイルス・デイヴィスがフランスにかかわるときの橋渡し役を買って出た。
 今夜の千夜千冊にヴィアンを採り上げようと三日ほど前に決めたとき、ふらっと書店を覗いたら「ユリイカ」がボリス・ヴィアンを特集していた(二〇〇〇年三月号)。中原昌也・永瀧達治・野崎歓らがオマージュを寄せていたが、ミュージシャンの菊池成孔がヴィアンっぽく好きなシーンをコラージュしていたのが印象的だった。

 作家としてのヴィアンをどう形容すればいいかというと、これが一様なことが示せない。どんなふうに形容されることも嫌って書いていたと言いたくなる。
 言葉づかいは地口や冗句に富んでいて、そのぶん翻訳者を泣かせる。たとえば物語のなかでちょっと重要な役割で出てくるジャン゠ポール・サルトルはジャン゠ソオル・パルトルとなり、サルトルの大著『存在と無』(レートル・エ・ル・ネアン)は、綴りを変えて『文字とネオン』(ラ・レットル・エ・ル・ネオン)になって、しかもその意味が物語の筋を支えるというぐあいだ。そういうシャレが随所に出てくる。
 それもそのはず、フランスには「ロマン・ノワール」(黒い小説)という領域がある。その流れでガリマール書店がジャック・プレヴェールの命名で「セリ・ノワール」(暗黒叢書)というシリーズを刊行したとき、ピーター・チェイニー、ダシール・ハメット、レイモンド・チャンドラー、ジェイムズ・ケインらのハードボイルド作品を次々にフランス語に翻訳したのだが、このとき翻訳グループの中心になったのがヴィアンだったのだ。ヴィアン自身が「セリ・ノワール」だったのである。

 ヴィアンは三九歳で死んだ。ずっと不整脈で苦しみ、心臓発作で死んだ。その短い生涯につきまとった噂は芳しいものではなかった。
 出版社の友人に“アメリカもどき”の小説は書けないかと相談されて、『ヴェルコカンとプランクトン』(早川書房「全集」2)を筆名ヴァーノン・サリヴァンで仕上げ、二作目としてわずかに二週間で完成した『墓に唾をかけろ』がたちまちベストセラーになると、当時モンパルナスのホテルの一室で情婦殺人事件がおこったのであるが、不幸にもその現場にこの本がころがっていたために実名をあかさざるをえず、“偽訳者”としてさんざんな目にあってしまうのだ。
 ヴィアンは平ちゃらだった。ジャズにくらべれば、文学なんてお遊びのようなものだ。けれどもそのお遊びが方法文学としてとびきりの実験性に富んでいたことは、のちにコクトーやサルトルが称揚するまで、知られていなかった。仮に生前にそういう評判がたったとしても、本人はトランペットを吹いてばかりいただろう。
 『日々の泡』の序にはとっくにこう書いていた。「この世で二つだけ存在しつづけているものがある。それは可愛らしい少女と一緒にいるときの愛の感覚と、ニューオリンズのデューク・エリントンの音楽である。それ以外のものは消え去ったってかまわない」。

参考¶ヴィアンの作品は『北京の秋』『赤い草』『心臓抜き』など、大半が翻訳されている。

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