原色の街・驟雨
新潮文庫 1966
「こんなことってありませんか。自分が67歳にもなって、取り乱せば乱すほど、自分が確かめられるというようなことが‥」。『砂の上の植物群』のあとの秋山安三郎との対談で、吉行淳之介が本音を問うた発言である。
『砂の上の植物群』というのは、そろそろ小説でも書いてみようかと思っている37歳の化粧品セールスマンの伊木一郎が、港の展望台で知り合った18歳の津上明子と一夜で体を濡らす関係になったためか、自分が求めるものが肉体的な快楽だけであることを知り、その明子に頼まれて誘惑した姉の京子に求めるものも「赤く濡れた心地」に浸る頽廃としての快楽だけになっていくという話で、昭和38年に「文学界」に連載されていたころからセンセーショナルな話題をまいた作品のこと。昭和39年(1964)に単行本になった。
昨今なら『失楽園』あたりに匹敵するということになるのだろうが、そのころは”純文学”というものが”純喫茶”同様にまだ堂々と君臨していた最後の時期だったので、この「性的充実」の文学をめぐっても、ちゃんとした議論の尾鰭がついたものだった。たしか文庫本の解説も硬派の磯田光一だったとおもう。
当時は「文学界」のみならず、「群像」「新潮」「文芸」にも、また「展望」「中央公論」「世界」にも毎月目を通していたぼくは、『砂の上の植物群』もそれなりに読んでいた。
それどころかこの連載中に、ぼくは山の上ホテルに”暮らして”いた吉行淳之介を訪ねてインタビューさえしたのだった。
いやいや文学談義をしにいったのではなかった。そのころ所属していた「早稲田大学新聞」では一年に二度「早慶戦特集号」というページ数も広告も多い”拡材”をつくって、これを新聞部員全員が神宮球場や大学キャンパスや高田馬場付近で声を嗄らして売りまくるという”お祭り行事”があって、その特集号の記事のために吉行淳之介を訪ねたのだった。
反スターリニズム学生運動の急進的な拠点のひとつであった「早稲田大学新聞」の4年間で、いったい何が楽しかったかといえば、この「早慶戦特集号」がふわふわに楽しく、ぼくは吉行淳之介ばかりか、編集のたびにさまざまな人物にインタビューをするという機会を得た。埴谷雄高、鮎川信夫、安岡章太郎、岸田今日子、鈴木忠志、坪内ミキ子、川端康成、羽仁五郎、吉田喜重、稲川組組長、松本俊夫、ピーター、葛井欣四郎、江戸小紋職人、浅川マキ、堂本正樹、緑魔子、村松瑛子、郡司正勝‥。すべてこの特集号にかこつけて出会ったスターたちである。
それで吉行淳之介訪問はどうだったかというと、作家は山の上ホテルの広い和室に陣取って、いっぱいの本と原稿用紙に囲まれていた。終始タバコを口にし、糊のきいた着流しで立て膝をつき、座ったまま、「やあ、君が松岡君か」と男さえぞくっとする白夜のような微笑を送ってきた。
その傍らにはいつもごろっとなれる低いベッドがおいてあり、それがなんとも「何かの直後」を想わせて、なまめかしい。ともかく美しい。眼が涼しい。男に対してもその妖しい色気を隠さない。それを楽しんでいる。かの青年ドリアン・グレイをたぶらかしたヘンリー・ウォットン卿とはかくのごとき人物だったかとおもわせるものがある。こういう感覚は、ずっとのちに京都九条山のデヴィッド・キッドの家に招かれたときに感じたくらいなもの、まして純朴な”青春渦中”にいた学生分際にとってはとんでもなくドキドキする。
おかげでインタビューはさんざんの体たらく。作家は広い座卓に軽く頬杖をつきながら、立て膝から零れる太股を隠そうともせず、ぼくに悪戯っぽい目で次々に質問を浴びせてきた。こちらの用意してきたつまらない質問など、まったく差し挟む余地がなかったのである。
その作家の会話というのが、ほとんどすべてが「近頃の女子学生の性風俗」についてのもの、しかも学生生活の乱脈やセックス隠語を問うものばかりで、ぼくはその筋にまったく疎かったため、ついには呆れた作家に「君ねえ、いったいなんのために大学に行ってるの?」と詰られた。なにしろバーの女の子との接触について「桃膝三年、尻八年」という有名な諺をつくったほどの達人。青二才のぼくが何を聞いたところで、話にならなかったろう。
いま手元に「早慶戦特集号」がないため、そのとき何を記事にしたのかは、まったく憶えがない。どうせろくなインタビューではなかったろうが、ひとつだけ憶えていることがある。やっとのこと、「ぼくはやっぱり『驟雨』が好きなんです」と言ったら、作家涼し気に「うん、あれね。あれはね、ぼくの想像力なんだよ」と言ったことだった。
吉行淳之介は『驟雨』で第31回の芥川賞をとった。昭和29年だから、1954年のこと、ちょうど武田泰淳の『ひかりごけ』や三島由紀夫の『潮騒』や黒沢明の『七人の侍』の年である。力道山が白黒テレビの中でシャープ兄弟に空手チョップを打ちまくっていた。いまは都知事の石原慎太郎が『太陽の季節』で衝撃的なデビューをするのはこの翌年である。
30歳になったばかりの吉行は、この朗報を国立清瀬病院のベッドの上で聞く。
すでに『原色の街』(1951)で透明な才能の持ち主として、また娼婦を書いて娼婦の肉感を描かない作家として嘱望されていた吉行は、もともとはトーマス・マンの『トニオ・クレーゲル』で身につまされるような病弱な繊細青年だった。東大英文科に入っても学業に勤しむ気がおこらず、さっさとやめて、編集者に憧れて雑誌社に入っている。
吉行はこうして何かを避けていた。一番嫌いだったのは左翼知識人というもので、いかに「思想」から離れて小説を書くかということばかりを考えたようだ。
こうして着目したのが娼婦の街だった。『原色の街』とはそのことだ。ところが吉行は娼婦の実態など描かない。ただただその街を通りすぎる風のような感覚だけを書く。
その吉行がしだいに変化して、ついに壮年の男の性的充実を描くことになった文学記念碑が『砂の上の植物群』なのである。「こんなことってありませんか。自分が67歳にもなって、取り乱せば乱すほど、自分が確かめられるというようなことが‥」は、もう少しあとの言葉だが、すでに若くして感覚の老成を好んだ吉行は、ずいぶん前から「取り乱すこと」から社会を裏切りつつも自分を発見することだってあるんだという想念を抱いていたのであったろう。
その後も吉行はこの「取り乱すこと」を作品に書きつづけ、ついには『すれすれ』『夕暮まで』などで、「性的充実」の頂点から逸れていくという傾斜を語りはじめて、世に”夕暮族”などということばさえ流行らせた。
その後の吉行淳之介については、粋な夜の乱行を勧める作家として、宮城まり子との長きにわたる愛を育みつづけた作家として、父親の吉行エイスケとの因縁を執拗に追った作家として、さまざまな批評も毀誉褒貶も評価もうけてきた。
吉行の死後の最近は、かつて吉行と”生活”まがいの日々を送っていた女性による手記なども発表され、いまだに話題は尽きていない。大村彦次郎の『文壇栄華物語』『文壇うたかた物語』など、吉行をつねに文壇の寵児あるいは蕩児として扱っている。
しかし、吉行淳之介はなんといっても『驟雨』なのである。
『驟雨』はまことに覚束ない物語で、山村英夫という大学を出てまだ3年目の男が娼婦の街に通っているうちに道子に出会い、最初は性の捌け口としか思えなかったのが、或る夜の夢をきっかけに急速にせつない気分に転じていくというものである。
この驟雨感覚がぼくには忘れられないものになっている。ぼく自身は娼婦の体を求めたいという気分はまったくないのだが、そのかわり、いつのまにか自分の中に、あらゆる女性に潜んでいるかもしれない娼婦性を求める気持ちが次々に崩壊して、それがせつない切れ切れのものになっていくのを見てきた。そう思うと、その娼婦性が驟雨のように見えるのだ。
作品の中では、驟雨というキーワードは2度出てくる。ひとつは山村が娼家の二階から下の通りを眺めているうちに、初めて娼婦の街というものに「情緒」を感じたときに降ってきた驟雨(糸のような走り雨)。もうひとつは、道子とともに街路樹を見ていると、まだ緑が残っているはずのニセアカシヤの葉が風もないのにいっせいに落ちて、まるで驟雨のように見えたという「緑色の驟雨」。
たった2回の場面であるが、この驟雨の走る感覚は全編に流れていて、忘れられないのである。それは、この作品が「彼は杉箸が二つに折れかかっていることを知った」でぷつんと終わっているところと相俟って、吉行淳之介その人のようにナイーブで、フラジャイルきわまりない。
こうして、ぼくの中に驟雨感覚が消えなくなったのである。しかし吉行淳之介はいつしかこの「せつなさ」を通り越して、「取り乱すこと」にさえ向かっていった。それをおもうと、近頃、こんなふうに女性たちから言われることがあることが頭をよぎるのだ。「松岡さんってね、取り乱さないからつまんない」。