才事記

おどりの美学

郡司正勝

演劇出版社 1959

 日本舞踊ってわかりにくいですね、あれっていったいどこがいいんですか、とよく訊かれる。いい踊りもあるが、くだらない踊りも多い。そんなことはあたりまえである。
 「でも、ぼくは日本舞踊そのものがわからないんですよ」と言う者もいる。こういう連中に答える気はない。サッカーってどういうものですか、交響曲ってどういものですか、あれってどこがおもしろいんですかと訊かれ、それはねと縷々説明したところでしょうがない。
 何度も見てもらうしかないし、そのうち、どこでそのサッカーや交響曲に本人が夢中になったかなどということは、外からはわからない。おそらく本人も困るだろう。
 踊りのどこがおもしろいなんてことも、都合よく外には取り出せない。もっとも、そのように言いたくなる理由が少しはある。

 井上さたは「動かんやうにして舞ふ」(佐多女芸談)と言った。日本の踊りはまず動かないことから始める。
 世阿弥はそこを「動十分心、動七分身」と言った。まずは動かないという否定があるわけなのだ。そこからちょっとだけ「程」というものが出る。その「程」を少しずつ「構え」というものにする。構えは体に言い聞かせるもので、これはまだ踊りでも舞でもない。ある観念が体の各部に降りたことをいう。それが構えである。その構えがフリ(振り)を生む。
 そこから舞踊になっていく
 けれども、もともと日本の舞踊は声をもたない。そこにも否定がある。声は別の者が出す。三味線をはじめとする音も別の者が用意する。だから踊り手はそういうものからもともと抉(えぐ)られていて、その抉られた負の存在が声や音を得て、動く存在になっていく芸なのである。
 声も音も出さないが、たまに楽器をもつことはある。が、それを鳴らすということはしない。『道成寺』『浅妻舟』『羽衣』『鏡獅子』などでは羯鼓をもつし、『女太夫』では四竹をもつが、鳴らさない。だから本物の音が鳴る楽器をもつ必要はない。たしか6代目菊五郎だったとおもうが、本物の楽器をもって出て、やっぱり張り子にしておけばよかったと言った。

 もうひとつ決定的なのは、顔の表情もないということである。ここにも否定がある。消去がある。日本舞踊の踊り手がジプシーダンスやエアロビクスのようにこちらを向いてニヤリと笑えば、それでおじゃんである。
 面もつけない。そこは能仕舞とちがっている。しかし、能を受け継ぐことは多いので、面をつけないのに、まるで面があるかのようになっている。だから素面(直面)なのに、目を使わない。日本舞踊は目で踊るのでもなく、目が舞うのでもない。
 このような日本舞踊を、いったいどんなふうに思想的に見ればいいかというと、主観と客観を分けていないということなのである。それがひとつ。もうひとつは、すべての象徴性が比喩そのものであるということだ。そして否定と消去が当初にうずくまる。

 こういう異様な日本舞踊について、坪内逍遥や正宗白鳥までのころはともかく、戦後になっては、いい本はない。
 むろん解説書や入門書のたぐい、ときに舞踊史のようなものはあるにはあるが、これらはほとんど思想をしていない。あとはいくつもの芸談があるだけなのだ。その芸談もコツが語られているばかりではないから、仰山を読む必要がある。
 そこで郡司正勝さんの『おどりの美学』を選んでみた。唯一ではないかもしれないが、少なくともぼくには本書を越えるものはほとんど見当たっていない。郡司さんなら名著『かぶきの美学』か、晩年の傑作『童子考』だろうが、あえて本書を選んだ理由がそこにある。もっともここには、郡司さんの原点も見える。

 郡司さんは舞踊の専門家ではなく、歌舞伎の専門家である。けれども、歌舞伎がわからなければ踊りがわからないということが大きく、その視線が本書においても生きている。
 そもそも出雲の阿国のかぶき踊りが、歌舞伎の母体にも日本舞踊の母体にもなっていた。その後、歌舞伎界では踊りのことを所作事とか景事とか振事とよんでいた。また長唄ものを所作事といい、浄瑠璃ものを段物ということもあった。
 その構成はおおむねオキ・クドキ・チラシでできている。もう少し詳しくは、「オキ(置)→出(出端)→道行→クドキ→カタリ→総踊り→チラシ」というふうになったりする。『関の扉』はだいたいこの順で進むが、チラシのところが立ち回りになる。こういう構成がどこか歌舞伎的なのだ。

 しかし、舞踊は歌舞伎ではない。
 セリフもないし、謡いもない。第一、人間の対立がない。ごく柔らかな対比はあるが、けっして対立を見せない。そこは能とちがっている。いつかそのことも考えてみたいとおもっているが、いまのところその理由はつきとめていない。おそらく享保のころに舞踊の自立が兆すのであるが、このときに振袖などの衣裳と身体との独得の2重奏とでもいうべき関係が生じ、そのあたりから1人の踊り手の内面の表現に舞踊の意図が芽生えたのだろう。
 着物のついでにいうが、日本舞踊のことは、着物のことが見えなければわからないことも多い。たとえば、手を上げるという所作ひとつが、まっすぐ上に、しかも急に上げれば着物の袖から二の腕がニョッと出る。そこで袖に手を添え、手もゆっくりと曲げてかざすというふうになる。そういうことは着物の形状の発達との関連なのである。
 着物の文様や図柄も踊っている。桜か紅葉か桔梗なのか、その着物がどんな意匠になっているかということも、踊りを変えた。そういうこともある。衣裳と意匠が肉体を殺した、そういうことだっておこってきたのが舞踊の歴史というものなのだ。

 舞踊には振付というものがある。享保に死んだ中村伝次郎が振付師の元祖といわれるが、そのあと2代伝次郎の舞扇、藤間流をおこした藤間勘兵衛、中村座の中村弥八、明和の西川扇蔵、市山七十郎などが、次々に日本舞踊の「型」をつくっていった。
 これは宝暦のころの豊後節から常磐津や一中節、富本や河東節が派生していったことと関係があって、その節回しと歌詞の特徴が振付になっていった。

 振付による「型」がフリを生む。そこでカタとフリとが稽古の中心になるのだが、それですうっと踊れるわけではない。カタとフリがつくるのは「曲」の拍子と形の関係までのこと、その次にはというか、その中間にはというか、「間」というものがあり、さきほどのべた「程」がある。
 そこで「型」の稽古を積んだうえで、また「間」や「程」に戻って稽古する。ここが難儀なところで、真行草もあり、芸の品が出るわけなのである。「拍子はおぼへやすく、程はつもりがたし」というのは、そこである。
 とくにウツリ(移り)が難しい。「曲」から「曲」へ、「間」から「間」へと移っていく。地唄舞などでは、手がとまるとおもううちから足がうごいて、間がはずれず、しかも間にのらないという絶妙のウツリを見せることがある。見ていて夢中に引きこまれるところである。
 このことを、「一声の匂ひより、舞へ移るさかひにて妙力あるべし」などという。すでに世阿弥が『花鏡』に言っていた。
 諸君、まあ、黙って踊りを見てみることだ。だだし、条件がある。名人と呼ばれている人の踊りを最初から見ることだ。そのあとで何でも見ることだ。そしてまた、名人芸を見ることだ。ジダンや中田のいるサッカーを見ることと変わりない。