才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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絹と明察

三島由紀夫

講談社 1964

 今夜はやや變はつた視点から三島由紀夫のことを書いてみやうとおもふ。理由はあとでわかるだらう。導入部として、父と子が一つの小説を同時に読むといふことなど滅多にないだらうと思ふけれど、たまさかさまざまな條件が重なつて、それが実際にぼくの家族におこつたといふことから記してみたい。
 三島由紀夫が『絹と明察』を書きはじめたのは昭和三十九年一月號からである。 すでに他日の「千夜千冊」のところに書いたやうに、そのころの横浜山手町のわが家では囘覧雑誌なるものをすこぶる利用してゐて、毎月、婦人誌・経済誌とともに「群像」「文學界」「新潮」などの文芸誌が順次届いてゐた。「文藝」はなかつた。父と母がそれらのうちの何を讀んでゐたのかは知らないのだが、ある夕食時、父が「群像」連載中の三島の『絹と明察』の話題を母に振つた。「あれは近江絹糸の話やで、よう書けてるわ」。母は「そうみたいですな。そやけど、ややこしそうやから‥」と、読んではゐなかつたことを告げた。そこでぼくが割りこんで「讀んでるよ、岡野つて人物がおもしろい」と云った。
 そのときの父は「ほう、そうか、セイゴオは岡野がおもろしいか。ワシはやっぱり駒澤やな」と云つたきりだつた。

 そのころ父は呉服の仕事から手を引いてゐた。横浜山手町に越してきたのは元町に和服和装の店を出すためだつたのだが、これが大失敗し、ちやうど店を畳んだばかりだつた。品物はまだ手元にあつたので、母が細々と"呉服行商"まがひのことをしてゐたのだが、見栄えが悪いことや風采が上がらないことが大嫌いだつた父は、もはや着物には見向きもせず、芸能プロダクションづくりや横浜中華街の仕事や油壷のマンション建設に手を出さうとしてゐた
 そんな前後、三島が『午後の曳航』といふ書き下ろし單行本を上梓した。伊勢佐木町の有隣堂でパラパラとその本を見てゐたぼくは、この小説が横浜山手町を舞臺にしてゐることを知つて、ざつと読んだ。「三島がこのへんのことを書いてゐる」と父や母に教えもした。元町のコンフェクショナリイ喜久屋で三島の姿をときどき見かけてゐた以外、とくに三島に關心をもつてゐなかつた筈の父は、かういふこともあつてか、ごくごく興味本位に『絹と明察』を読んだのだらう。それに近江絹糸は父の故郷の長浜とは目と鼻の先のご当地企業である。興味がない筈はなかつた。

 これらはぼくが大学一年か二年だつたときの話である。
 ぼく自身は三島文学には中学時代に『金閣寺』から入つて『潮騒』や『仮面の告白』を読み、暫くして『禁色』のホモセクシャリテイに出会つてギョッと驚ひてからは(といふより何かの見てはいけない秘密を知つたときのやうにまごまごしてからは)、他の作品がやや色褪せて見えてゐた時期だつた。ただ『近代能楽集』だけは気になつてゐた。
 こんな父と子が頑是なくも他愛もない感想を交はしながら、まつたく同時に『絹と明察』を読んだのだ。世間的にもまことに稀なことだつたらう。

 近江絹糸事件といふのは、昭和二十九年に急成長してゐた繊維メーカーの近江絹糸でおこつた労働争議のことである。彦根の近くに大半が女工の工場があつて、噂ではなんらかの組合加入戦術が外部からもたらされ、組合が勝つたと報道された。争議は「人権スト」とよばれ、マスコミは「戦後の女工哀史」だ、「涙の勝利」だと騒いだ。経営者はそのうち退位した。
 三島はこの事件に取材して、表向きはいかにも三島得意の物語と見へる作品に仕上げた。
 駒澤紡績の駒澤善次郎は家族主義を標榜するワンマン社長である。業績は急成長し、大手十社に迫るほどの勢ひがある。ライバルの櫻紡績の村川は心穏やかでない。そこで、政財界に顔のきく岡野に頼んで背後から労働争議をおこさせ、駒澤の家族主義の偽善を暴くやうに仕向けた。岡野は若い頃こそハイデガーの哲学やヘルダアリンの詩に惹かれてゐた人物だが、その後はすつかり丗事にまみれ、それでもどこかで自分に嫌氣がさしてゐる。が、その嫌氣を自分以上の虚飾をかこつ連中を少なからず睥睨することで破綻させないやうにしてゐた。実際にも岡野は駒澤に接してみて、その野放図で無自覚な自信過剰に辟易とする。
 やがて争議が進み組合の作戦が圖に當たると、駒澤はマスコミにも不用意な発言をして二進も三進もいかなくなる。会社側は完全敗北した。その直後、駒澤は脳血栓で倒れた。見舞ひに行つた岡野はそのやうになつてもまだ会社と社員を心底信じきつてゐる駒澤の姿を見て、なんとも名状しがたひ悲哀と同情を感じてしまふ。岡野は駒澤の土着的な心情が自分には失はれてゐることに氣がつひた。思ヘばハイデガーやヘルダアリンは「彼の地の土着の心情」をこそ謳つてゐたのだつた。ここは日本である。それを自分は忘れてゐた‥‥。
 だいたいはこんな筋である。ぼくがこれを読んだときは、ここに書いた程度の話としてそこそこおもしろく読めた。ところが、この作品が意圖したものはそれだけではなかつた。

 題名の『絹と明察』は、絹派としての駒澤とこれを貶めた明察派のドラマといふ対比をあらはしてゐるやうに見へる。しかしそう見るのは、三島の意圖とは違つてゐた。
 絹としての駒澤は最後になつて明察に達したのである。逆に岡野は絹にとらはれて明察を缺いたのだ。三島自身は自作の意圖をかういうふうに説明してゐる、「絹の代表である駒澤が最後に明察の中で死ぬのに、岡野は逆にじめじめした絹に惹かれて、ここにドンデン返しがおこるんです」。
 それだけではなく、三島は「この作品はこの五年あまりの僕の総決算だつた」と云つて、さらにこんな説明をした。「書きたかつたのは日本及び日本人といふものと、父親の問題なんです。つまり男性的権威の一番支配的なものであり、いつも息子から攻撃をうけ、滅びてゆくものを描かうとしたものです」。
 ずいぶんあとのことになるが、三島が自決してしばらくたつていくつかの三島論を読んだとき、『絹と明察』を評論した者にこのやうな三島の意圖を予見してゐた議論はほとんど見つからなかつた。唯一、野口武彦が『三島由紀夫の世界』で岡野のキヤラタクリゼーションに注目し、三島は『林房雄論』に続いて「本質的原初的な日本人のこころ」を描いてゐたのではないかと指摘してゐたけれど、他はたいてい、愚直な駒澤の描写が秀逸だといふたぐひの批評に終始してゐた。たとへば、「描破された資本家像」(高橋和巳)、「戦後知識人の破綻を書いた」(村松剛)、「人間の愚劣への挑戦」(森川達也)、「愚かな人間を芸術的に浮き彫りにした」(奥野健男)といつたふうに。
 このことは、如何に三島が誤解されてゐるか、それとも如何に三島の文学はわかりにくいかといふことを示してゐるかのどちらかに見えるのだが、さういふことではない。三島は作家としての自覺をした當初から、実はこの『絹と明察』そのものに向かつてゐたと言ふべきなのである。それを最も端的に暗示してゐるのは、三島が『絹と明察』を終へて次に何を書いたのか、何を始めたのかといふことだ。『絹と明察』は昭和三十九年十月に完結し、その翌年から三島が「新潮」で連載にとりくんだのは、残された大作『豊饒の海』ただ一本だつたのである。

 三島が總決算に立ち向かふため、作家の決着として(後でわかつたやうに、人生の決着としても)、その生死の最終仕上げのためのスプリングボオドとしたのが『絹と明察』だつたといふことは、ぼくを驚かせた。
 三島がこれを書いたのは三九歳のときである。自決するのは昭和四十五年(1970)の四五歳の十一月だから、死の六年前のことになる。その六年間、小説としてはずつと『豊饒の海』だけを書きつづけ、その他は、一方では自衛隊に体験入隊して「楯の会」を結成し、随筆スタイルでは『英霊の声』『太陽と鉄』『文化防衛論』などを書いただけだつた。
 あきらかに三島は「栄光の蛸のやうな死」の準備に向かつてゐたのだ。その準備は『絹と明察』の翌年の四十歳から始まつてゐた。四十歳ちやうどのとき三島が何を始めたかといへば、『憂国』を自作自演の映画にし、『英霊の声』を書いたのである。しかし、かうした準備は三島のこれみよがしの誇大な行動報告趣味からして誰の目にもそのリプリゼンテヱションがあきらかであつたにもかかはらず、その姿は滑稽な軍事肉体主義か、ヒステリックな左翼批判か、天皇崇拝の事大主義としか写らなかつた。
 ともかくも六年間、三島はひたすら「日本及び日本人」だけを問題にしてゐたのである。それなのに文芸批評家たちは、三九歳までの作品からこれらの主題を讀みとらなかつた。文芸批評なんて所詮その程度のものだと云へばそれまでだが、三島が仕込んだもうひとつのテヱゼ「父と子の問題」といふことも文芸評論家たちにほとんど伝つてゐなかつたところを見ると、そもそも三島における「日本及び日本人」が父親像の探求と裏腹の関係にあつたといふことすら、世間にも批評家にも"認知"されてゐなかつたのだらうといふことになる。なぜ、そうなつたのか。

 三島は自分の意圖を隠さない人である。昭和三十九年十一月の「朝日新聞」では、「過去数年間の作品はすべて父親像を描いたものだ」と証かし、『喜びの琴』『剣』『午後の曳航』『絹と明察』といつた作品名まで告げてゐた。
 細かいことは忘れたが、『喜びの琴』は文学座の委嘱によつて書かれた戯曲で、言論統制時代の近未来を舞臺にしてゐる。主人公は筋金入りの公安係巡査部長の松村で、左翼の仕業とみへた列車転覆事件が調べてみると実は右翼の仕業だつたといふ意外性を描いた。松村が自分自身の思想と行動に裏切られたと思つたとき、天から「喜びの琴」が聞こへてくるといふ幕切れだつた。『剣』のはうは剣道部の学生の死を扱つたもので、三島の『葉隠』解釈をそのまま作品化してゐた。『午後の曳航』は上にも書いたやうに横浜山手町の擬似家族を題材に、中学生の登が慕つてゐた航海士が母と姦淫してゐたことを知つて処刑するといふ話である。
 表にあらはれた筋書きと登場人物は区々(まちまち)だが、いづれも一途な思ひを抱きながら、そのロマン主義的な前途が「裏切られた父性」によつて挫折ないしは逆転してしまふ構図を書いてゐる。が、何としたことなのか、當時はそのメッセヱヂが世間には伝つてゐなかつたのだ。
 理由はさしあたつて三つしか考へられない。三島の文学がヘタクソだつたか、三島がこの主題を把握しきれてゐなかつたか、文芸界・メディア・世間が三島を読み違へていたか、そのいづれかである。

 三島は焦つたやうだ。『喜びの琴』『剣』『午後の曳航』『絹と明察』のどれもがたいした評価をうけなかつた。ノーベル賞も取り逃がした。『喜びの琴』にいたつては左翼を痛烈に揶揄した台詞に劇團側からクレームが入つて、文学座の上演を見送られた。かなりの屈辱だつたらう。
 かうして昭和四十年になる。四十歳になつた三島は『憂國』を自作自演したのを皮切りに、これまで文学的に暗示してきたものを行動や随筆や討論にあからさまに吐露しはじめた。船坂弘の道場で剣道の稽古を始め(ぼくはここで初めて三島と会つた)、自衛隊に体験入隊してその心境を『太陽と鉄』に書き、『英霊の声』で天皇に物申し、精鋭の現役学生を集めて「楯の会」を結成した。戯曲では『わが友ヒットラー』を、評論では『文化防衛論』や『葉隠入門』をたてつづけに出すと、一橋や早稲田での左翼学生集会にも積極的に参加した。有名な東大全共闘との闘論(芥正彦との対峙)は自決の一年前である。最後は書き殴つたやうな『行動論入門』で中斎大塩平八郎の陽明学的行動を称揚した。
 こんなわかりやすい露呈はなかつた。意志も思想も理念も行動方針もまるごと見せたのだ。伏せられたのは最後の最後の市ケ谷自衛隊での昭和四十五年十一月二十五日の「決起」だけだつた。しかしそれにもかかはらず、批評家も三島ファンもメディアも世間も、かうした三島の準備の意志行為をほとんど理解しなかつたのである。これは振り返つていへば、文芸的に暗示した「父と子」「日本及び日本人」の問題が理解されなかつたのとまつたく同様の冷たい反応だつたのだ。三島は文学も行動もあきらかに過小評価されたのだ。三島は何かを間違つたのだらうか。それとも三島の仕掛けが効かなかつたのだらうか。だうも、さういふことではないやうに思はれる。
 ここで問題は再び元に戻つていく。いつたいなぜに三島は『絹と明察』で喪失した父親像を描かうとし、駒澤に日本人のプロトタイプを求めたのかといふことだ。

自決を前に演説する三島(自衛隊市谷駐屯地)

自決を前に演説する三島(自衛隊市谷駐屯地)

 平岡梓に『伜・三島由紀夫』がある。憂國自決した息子のことを生ひ立ちから自決にいたるまで、父親が赤裸々に囘顧した。ときに辛辣な言葉を放ち、ときに息子に似て世間を振り回して綴つてゐる。
 いつたい父親が息子のことを書いた文献が世界にどれくらひあるのか知らないが、これは相當に異様な書であつた。一貫した見解がなく右往左往してゐるため、また記述も思ひ出し語り調で動いてゐて、母親の倭文重(しづゑ)にあれこれ尋ねたことも随所に挿入されてゐるため、記述はまことにワインディングする。さういふ意味ではおそらく奇書の一種に入るであらう。
 いろいろなことが綴られてゐる。祖母に溺愛されて育つたこと、母への思慕が強かつたこと、子供の頃から富士山と大海と夕映えが好きだつたこと、隣の少年が遊んでゐるのを塀の節穴からよく覗いてゐたこと、父親とはつひに表面的な会話しかしなかつたこと‥‥等々。もつと推理をしてほしかつたところも多々あるが、それでもやはり実父と実母が見た目なのである。参考にならないわけはない。あらためて確認されたことも多い。祖母が初孫の三島を父母からとりあげて自分の病床近くで育てやうとしたことは『仮面の告白』でも有名なくだりになつてゐたのだが、さういふことも"傍証"された。
 しかしぼくがこれを読んで最初に注目したことは、この父親は三島を一度も満足させなかつたであらうといふことだつた。それにもかかはらず祖父・父・三島と三代続いた官僚生活の日々といふものは(三島は東大卒業後に大蔵省に入つた)、つねに三島にのしかかつてゐたといふことだ。ここには「父の不在」があつて、三島には密かに魂胆されてゐただらう「父殺し」といふものが見え隠れする。しかもこの「父の不在」と「父殺し」は、ある時期から"何らかの父"たらんとした三島自身の重圧としてたへず全身にのしかかつてゐただらうといふことだ。
 このことが『午後の曳航』の本物と偽物を揺れ動く「想定された父親」としての航海士を処刑するといふ行為にあらはれ、『絹と明察』の駒澤が最期になつて岡野の幻想的なハイデガー哲学を打倒するといふ顛末になつたのである。いや、もつと実際的には、三島が自分の息子の幼い威一郎から「お父様なんか死んでしまへ」と言はれ、三島が母に「お母様、僕はもう威一郎を諦めました」と言つてゐたといふことなどとも関はつてくる。

 ともかくも三島は三十代後半になつて、これ以上家族としての父や子に何かを実現しやうとするより、本来の民族的な男性の威厳、すなはち「白昼の父たらんとすること」を自ら別途に取り戻すことのはうが餘程重大なことであるといふ決意をしたのである。
 しかしながらぼくがさらに平岡梓の思ひ出語りで感じたことは、三島が本気で「日本及び日本人」のことを考へるやうになつたのは、青年時代や三十代のことではなくて、まさに『午後の曳航』や『絹と明察』を書いてからのことだといふことだ。
 もちろん藤原定家に憧れ、能や歌舞伎に深い関心を寄せてゐたといふやうな高尚な日本趣味なら、三島ははやくから身につけてゐた。現代短歌にも暗黒舞踏にも詳しかつた。また二・二六事件や白虎隊の青年たちの生き方と死に方に強い羨望をもつてゐたことも、はやくからの氣質であつた。けれどもそれはレイモン・ラディゲやジャン・コクトオやガブリヱル・ダヌンツィオの美意識と不可分の日本青年の美であつて、そこには本格的な「日本及び日本人」の追求はほとんどなかつたのだ。
 けれども三島は或る時から愈々その必要を痛切に感ぢてしまつたのである。日本の本來に向かはなければならないと決意したのである。それが『絹と明察』の翌年からの異常な行動や計画になる。あるとき三島は、「僕のやることはいくらお母さんでも止めても駄目だから何も言はないでください」と告げてゐた。

 ここで再びぼくの話を挾むことになる。父と子で「群像」の感想を交はしたあと、ぼくはしだいに学生デモや労働者の集会にばかり出るやうになつてゐた。それもベ平連のやうな活動ではなく、できるだけ過激な日々を自分に課さうとしてゐた
 さういふ日々が続いたあるとき、ぼくは父と口論することになつたのだ。きつかけは忘れたが(些細なことだつたらう)、そのとき父はかなり声を荒らげ、「おまへなんかベトナムに行つて頭をかち割られてきたらええんや」と言ひ捨て、ぷいと書斎に姿を消したのである。こんな父を見たのは初めてだつた。母にはよく罵りもし手を上げもしてゐたが、ぼくに暴言や暴力を振るふことはなかつた父なのだ。このときの父の顔は、それから二年足らずで豪気な父が黄疸と膵臓癌で痩身となつて急死したこともあつて、ぼくの脳裏から離れることがない。
 実は今夜の三島についての感想は、この父とぼくとの一夜のことを書いておきたかつたといふことも関はつてゐたのである。父は、三島が『豊饒の海』第二巻「奔馬」を連載中の昭和四十二年の三月にこの世を去つたのだつた。

 では話を戻すけれど、三島は空想上の「白昼の父」たらんとすることを、現実の「日本及び日本人」になることと重ねていつたわけである。それがどういふものであつたかは説明するまでもないだらうが、さて、ここで、いささか重要な逆説にかかはる問題がもうひとつあつたのである。
 それはぼくの見るところ、三島は日本思想を一度も本格的に深めたことがない人だつたのではないかといふことだ。なるほど吉田松陰や山本常朝にひとかたならぬ共感を寄せてはゐたが、その思想を存分に咀嚼してゐたかといふと甚だあやしいし、すでに第九九六夜の『伝習録』のときにも触れておいたのだが、三島は大塩平八郎の行動をこそ把握しきつたであらうものの、陽明学の本懐を十全に理解してゐたとは思へない
 さういふ氣がするのだ。芸術のことではない。思想そのものの話である。あるひは日本思想のみならず思想を捉へることが苦手だつたのではないかとさへ思はれる。たとへばハイデガー哲学である。また『豊饒の海』の下敷きとなつた仏教の唯識思想である。これに対して定家や世阿弥ワイルドやコクトオの才能や美意識を見抜くことは、他の追随を許さないほど独得の鬼才であつた。けれども三島は日本思想の精髄を解読できなかつたのだ。空海道元徂徠宣長には取り組まなかつたのだ。

 ぼくが見るに、三島の思想で最も充実し、最も独自の高みや深みに達してゐたのは『太陽と鉄』である。あれは誰にも真似できない眞骨頂を根本で放つてゐた。
 だから三島に思想がないなど云つてゐるのではない。さうではなくて、自身が日本の父なるものを求めて自決を覚悟で檄を飛ばし、日本の軍備の渦中に躍り出やうとするにあたつて、三島が用いた思想はまさに『葉隠』であり松陰であり陽明学だつたのに、三島はそれを一知半解のまま活用しやうとしたのはなぜだつたのかといふことを問ふてゐるのだ。
 思想など援用しないといふのでもよかつたのかもしれない。三島は戒名に「武」の一字を入れるやうに遺言したほど、最後は「文」を捨てて「武」に入り、文学を揚棄して行動を極上としたのだから、何も半端に日本思想など持ち出さなくともよかつたのである。けれども、それが三島には出来なかつたのだ。

 ふつう、三島の思想は浪漫主義に端緒したと言はれてゐる。浪漫主義といふのは、窮屈で矛盾に満ちた現実に対してその奥にある全体の流れを想定し、その流れに自身の感情を合はせて思索や表現をすることをいふ。したがつて浪漫主義にはどこかペシミズムや逃避がつきまとふ。
 三島は浪漫主義に惹かれながらも、厭世や逃避をよろこばない。青少年期にギリシア悲劇の洗礼をうけた三島は、たんに現実の代はりに別の函を作つてそこに浪漫を注入してしまふのではなく、現実そのものに立ち向かつて、その矛盾を描ききる方法があることに気がついたにちがひない。浪漫はそれに被せる意匠であればいい。それを徹しさへすれば、ソフォクレスの『オイディブス』がさうであるが、浪漫主義や厭世主義では見え切らない「宿命」が描けることを知つたのである。
 ここまではきつと青年時代にすでに氣付いたことだつたらう。しかしながら、これではまだ表現者に留まるだけである。人一倍自意識の強かつた三島には、たとへどんなに表現がうまく成就したとしても、そこに自分自身の充実がなければならなかつた。いや、充血と云つたほうが三島らしい。かうして察するに、もうひとつの充血装置が新たに作動する必要があつたのである。それを一言で當てるのは容易ではないが、おそらくはニーチェのディオニソスや超人の導入に近いものであつたと見れば、さうは當たらずとも遠からぬのではないか。

 三島が選び切つた充血装置には、むろん幾つかのものがあつた。同性愛もそのひとつだらうし、芝居を書き、芝居を舞臺に乗せるのもそのひとつだつたらう。両方ともこの装置は代理を立てるといふ意味に於いて鏡像的だ。もう少し鏡像から離れるといふ方法もあつた。肉体を鍛へてボディビルをするとか剣道に打ち込むとか自衛隊に体験入隊するといふのは、さういう非鏡像的な充血装置だつたらう。
 ニーチェは『悲劇の誕生』で「生の充実」にはアポロン型とディオニソス型の意圖があることを指摘した。三島は早くにニーチェに傾倒して、この二つを巧みに駆使することによつて著作をなしてきたのだが、しだいに自分自身のディオニソス性の不足を感ぢたやうだ。そしてその揚句、自身を陽光のやうに眩しいディオニソスの快楽や充血を得る像にすることに異常な関心をもつた。三島はあくまで「ディオニソスとしての悲劇の主人公」でなければならなかつたのである。
 かくて三島は自在な表現を操つて悲劇を描きつつも(三島文学の大半は悲劇である)、その反面では自身をして、自ら描いたその悲劇を嗤うディオニソスの優位に立つ司祭に仕向けていつたのである。言つておきたかつたのは、このことだ。

 ところで、三島が「偽装」といふことに激しい官能をおぼへてゐたことはよく知られてゐる。その性癖は『仮面の告白』にすでにめらめらと燃えてゐた。しかし、だうして偽装など必要だつたのか。
 もし三島に充実や充血の自信があるのなら、世間やメディアや批評家が誤解するほどに自身を偽装する必要などなかつた筈である。けれども「楯の会」もそのひとつだが、三島は最期の最期まで、ある意味での偽装をしつづけた。そんな必要はどこにあつたのか。今夜はそのことを付言して、ぼくの三島感想を閉じたいと思ふ。

 三島が偽装を好んだ理由を知るには、偽装は事実よりもずつとアクチュアリティに富んでゐるのだといふロジックを知らなければならない。
 いつたい偽装とは何かといふと、またまたニーチェを引き合いに出すことになるが(青年三島がニーチェの偽装論を早々に踏襲してゐたからだが)、そもそも言語が偽装であつて、概念をもつといふこと自体が偽装なのである。たとへば空に浮かんでゐる雲には一つとして同じものはない。そこには同一性がない。雲はつねに多様である。それを「雲」といふ言葉や概念をつかへば、それぞれの雲の特徴や細部は失はれてしまふ。事実を指摘できないことになる。だから「雲」と言つてしまふことは「事実」から見れば「誤謬」なのである。しかしながら、そのやうに「雲」と言ふことによつて、われわれは思考における同一性や連続性を得ることができるのでもあつた。
 すなはち言葉や概念を掲げるといふことは、その行為の根源において偽装を許容したといふことなのである。三島は、そして三島文学は、このニーチェ的同一性論の認識の上にこそ成り立つてゐる。その同一性に向かふためには、誤謬や偽装を恐れず、むしろ世界が誤謬や偽装でしかないことを見切るべきなのだといふロジックを有効にする必要があつたのである。
 ニーチェはこの同一性の維持と高揚のために、かの「永遠回帰」を説いた。そして偽装と誤謬の凱歌を謳つた。三島がそこまでニーチェのロジックに嵌まつてゐたかだうかは知らないが、少なくとも三島にとつては偽装を果たし切ることは三島の思想としての行動だつたらうといふ予想はつく。さうだとすれば、三島の「偽装」は三島をとりまくすべての「事実」を超へるものだつたのだ。
 ただし、これを付け加へておくべきなのだが、三島がニーチェに傾倒するところはあつても、ニーチェはまつたく三島に似てゐないといふことである。

 これでおおよその見方が成立すると思ふのだが、三島はいはば松陰の思想ではなく松陰らしくなることが、常朝の『葉隠』の解読ではなく鍋島藩の常朝以上であることが、王陽明の『伝習録』を深めるのではなく陽明学に奉じた大塩平八郎その人を超えることのはうが、ずつと重要だつたのである。
 この行動姿勢の実践に最初は「父と子」が、ついで「日本及び日本人」が重なつたのだ。だから、三島にたとへば「父殺し」に関するフロイドに勝る思想が醸成されてゐなかつたからと云つて、また「日本の思想」について保田與重郎丸山真男を凌駕する思想の用意がないからと云つて、三島自身にはそんなことで何をも隔靴掻痒させるものはなかつたと思ひたい。ただ、三島に日本思想の深みなどを期待しないはうがいいといふだけだ。
 もうひとつ、老婆心で加へておくが、三島は最後の大作『豊饒の海』でも思想的解決は諮つてはゐなかつた。だいたい『豊饒の海』は「轉生」が主題になつてゐるのだから、それ自体において「父と子」の軛を逃れてゐるし、また主人公を松枝・飯沼・本多といふふうに移すたびに舞臺を奈良からタイまで幅をとつたことによつて、「日本人」の問題に責任をとれないやうにもしてゐた。責任は三島の死だけがとりたかつたのである。 

 今夜はざつとこんな感想を書いてみたかつた。これは三島の文学を解読しやうとしたのではなく、三島の思想の謎解きをしたわけでもない。また本当は『禁色』を起点に聖セバスチャンから稲垣足穂をまぜつつ書いてみたかつたホモセクシャリテイのことも触れないままになつた。
 今夜の感想は、父と子といふ渦中の一光景から見ると、ときに三島の相貌の気味が風通しよく見へることもあるといふ、ただそれだけのことである。ひとつ言ひ忘れたことがある。いつのころかはわからないのだが、いつかしら、ぼくには三島由紀夫に「父」を感じるときが去来するやうになつてゐたといふことだ。

附記¶参考になるものはいくらでもあるが、最期の謎をめぐるものとしては、やはり父親による報告書ともいうべき平岡梓の『伜・三島由紀夫』(文春文庫)と、最後の「檄」を託された「サンデー毎日」記者徳岡孝夫による『五衰の人』(文春文庫)、川端康成との手紙のやりとりをほぼすべて収めた『川端康成・三島由紀夫往復書簡』(新潮社)は欠かせない。力作の三島論としては、野口のもの以外ではやはり畏友村松剛の『三島由紀夫の世界』(新潮文庫)だろうか。やや変わったものとしては、マルグリット・ユルスナールの『三島由紀夫あるいは空虚のヴィジョン』(河出文庫)、同性愛にかなり踏みこんだ福島次郎の『剣と寒紅・三島由紀夫』(文芸春秋)、その一日だけを再現した山崎行太郎の『小説三島由紀夫事件』(四谷ラウンド)、猪瀬直樹が祖父の事件にまで溯って書いた評伝『ペルソナ・三島由紀夫伝』(文春文庫)、三島がバルコニーで最期の演説をしたことを近代の表象として浮き彫りにしようとした飯島洋一の『ミシマからオウムへ』(平凡社)などがある。