才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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伝習録

王陽明

岩波文庫 1936

[訳]山田準・鈴木直治

 今宵は、ぼくとしては初めてのことなのだが、陽明学をめぐっての感想を書こうかと思っている。
 陽明学だから、中心には王陽明がいる。そのまわりに朱子や陸象山や李卓吾がいる。これらの名はいまはあまり知られていないか、知られていても読まれていない。
 おそらく最近の日本では、「三島由紀夫って、たしか陽明学に凝っていたんでしょう?」というような見方があるくらいのものではないか。こういう人には、三島の自決は陽明学によると映っているのであろうが、王陽明がそういうことを奨めたわけではなかった。
 また、自民党政治の奥座敷にやや詳しい者なら、安岡正篤が戦前戦後を一貫して陽明学を読講して(老荘思想とともに)、その思想の啓蒙をはかりつつ政界のご意見番を務めていたことを知っているかもしれない。けれども、その安岡に親しく会っていたのも佐藤栄作・福田赳夫・大平正芳までであろう。大平に池田派結成のための「宏池会」の名を贈ったのが安岡だった。
 しかし、そういうことはあまりに烟雨の中のこととしてしか、語られてこなかった。それに、そういうことは陽明学とはたいした関係がない。

 だいたい三島由紀夫にして、陽明学に目覚めたのはだいぶんあとになってかららしく、中村光夫との対談のなか、江藤淳が朱子学をやっているので、自分は陽明学をやろうと思っているというようなことを言っているのが、やっと最初の記録(1968)で、まさに左翼・全共闘台頭のときなのである。
 実際に三島がどのくらい陽明学を理解していたかは、わからない。文章として正面きって陽明学にふれているのは、たしか、市ケ谷で自決した年に発売された『行動学入門』(1970)のなかのこと、それも大塩平八郎の「殺身成仁」(身を殺しても仁を成す)の能動的ニヒリズムを、三島らしく「革命哲学としての陽明学」というふうに規定しているばかりだった。
 それゆえぼくなども、いまは、『豊饒の海』第2巻『奔馬』で、主人公の飯沼勲が大塩平八郎に託して、「身の死するを恐れず、ただ心の死するを恐るるなり」を引いていたのが気になるばかりであって、三島だから陽明学だというふうには、見ていない。

 おおかた、そんなところが陽明学についての一般の印象だろうけれど、しかしいざ、その依って来たるところと、そこから打ち出された思想の波及を見ようとしたら、これはそうとうに複雑で広範囲にわたっている。
 中心にいる王陽明の語録は『伝習録』にほぼまとまっているから、いつだって読めるけれど、その『伝習録』をとりあげるにしても、これはかなり広い領域のなかで扱わなければ、意味がない。どのように広いかは、このあとのぼくの文章を読んでもらうことにして、そのくらいにしなければ、陽明学など齧らぬほうがいいという意味もある。
 テキストは岩波文庫版にしたが、明徳出版社の安岡正篤のものや岡田武彦のものも、最近出回っている吉田公平のものも、いろいろ読まれるのがいい。安岡の講義もそれなりにおもしろい。また朱子学や陽明学や日本の儒学も読んだほうがいい。
 これから書くように、陽明学は中国と日本を頻繁にまたぎ、儒仏をゆさぶって眺めたほうがいいからだ

 その前に、「伝習」という言葉を説明しておく。
 これは『論語』学而の「伝不習乎」に初出していて、古注では「習はざるを伝ふるか」と訓んでいた。朱注では「伝へて習はざるか」と訓んだ。どちらもあると思うが、「伝へて習はざるか」のほうがぴったりくる。
 漢字の「習」とは雛鳥が飛び方を学んでいることをいう。白川静さんによれば(987夜)、それを人がまねて、曰の形の台の上で羽を擦って、何事かに集中する呪能行為のことをいう。その伝習だ。ぼくが好きな言葉である。
 ISIS編集学校では師範や師範代が集って学衆に示すべき指南の方法をめぐる場を「伝習座」とよんでいる。むろん陽明学とは関係がない。もっとずっと以前の「伝へて習はざるか」を採った。

 さて、ふりかえってみると、おそらく東アジアが生んだ思想のなかで、陽明学ほど短期間の有為転変が激しいものはなかったのではないかと思う。
 いったい陽明学が見えずして、どのように儒学の流れが理解できるのかということもあり、また、日本儒学の思想を陽明学を除いて語ることなどできないということもありながら、陽明学ほど誤解されてきたものもなかった。
 たとえば、その「知行合一」の思想はそもそも儒学なのか、正統な朱子学なのかという問いにすら答えにくくなっているだけではなく、それは心学か儒仏学かという問いもありうるし、修身の学か、天下安泰の学か、変革の思想か、王権奪取の学かという問いにも、陽明学シンパもあやしくて答えきれなくなっている。

 陽明学は、中国で廃れて、日本で独自に復活した。このこと自体が謎なのである。
 なぜ本場の中国で廃れて、日本で復活したのか。日本の何がそれを受け容れたのか。その復活にしても、まったく一様なものではなかったのだ。その一様でないところも、まるで陽明学のポイント・フラッシュが放射状に飛び散って各所に突き刺さったかのようで、武士道にも神道にも、禅にも明治キリスト教にも親和していったふしがある。
 こういう思想はめずらしい。ある面では陽明学はどのようにも受け取れるところがある。そうなると、陽明学も時代の思想の割れ目パターンのようにしか映らない。
 もうすこし広く掴まえたらどういうものになるか。ぼくなりに用意した二、三の意外な話から入っていきたい。

 内村鑑三の『代表的日本人』(250夜)には、大きくは2カ所に陽明学についての言及がある。中江藤樹と西郷隆盛のところだ。
 よく知られているように、二人とも陽明学に心服した。藤樹は日本の陽明学の泰斗であって、天人合一を謳って近江聖人と敬われた。その弟子に熊沢蕃山が出て、水土論と正心論を説いた。大西郷についてはいうまでもないだろうが、王陽明を読み、『伝習録』を座右にし、「敬天愛人」を心に決めた。
 藤樹も西郷もそれぞれ陽明学に心服した。それはそうなのだが、この二人の陽明学への心服に、キリスト者の内村がぞっこん心服しているのである。それを読んでいると、キリスト教と陽明学は実は酷似しているのではないかという気になってくるのだ。
 実際にも、そのことを指摘した幕末の志士がいた。才気煥発の高杉晋作である。高杉は当時の聞きかじりの知識ではあるものの、それでも幕末や上海のキリシタンの動向や心情を見て、キリスト教の本質を嗅ごうとしていた。それが長崎で『聖書』を読んでパッとひらめいたようだ。なんだ、これは陽明学ではないか、と。
 こういう話は陽明学そのものが広い懐をもっているのか、それとも異端であるがゆえに人々に孤絶の道を歩んだ者の思想や生き方との類似や暗合を思わせるのか、判断がつきがたいものを示しているのだが、ぼくには陽明学のひとつの特色を語っているものと見えている。

 もうひとつ、別の話をする。
 こちらは陽明学の土台にあたる朱子学本体に関連する話になってくる。ただし、ここにもやはり複雑な捩れが見える。
 かつて、全国の小学校の校門や校庭には、薪を背負って熱心に本を読んでいる二宮金次郎の像が立っていた。最近はあまり見かけないようだが、東京駅近くの八重洲ブックセンタービルの前には金色の金次郎が、いまも俯(うつむ)いて立っている。なにしろ“読書する少年”という像だから、書店にはふさわしい(ちなみに八重洲ブックセンターでは、7月10日まで「松岡正剛千夜千冊」ブックフェアを開催してくれている)。
 なぜ金次郎像が小学校に立つことになったのかは、井上章一(253夜)が『ノスタルジック・アイドル二宮金次郎』(新宿書房)で、その謎に挑んだ。明治の教育勅語的な政策が昭和になって延長され拡張された事情を、みごとに裏側から暴いたこの本はなかなかおもしろかったのだが、ところが、この二宮金次郎が歩きながら熱心に読んでいる本は何かというと、案外、知られていない。
 いや、ぼくがこれまで問うたかぎりは、誰も知らなかった。この本は『大学』なのである。『大学』とは何か。四書五経のひとつである。では、少年金次郎はなぜ『大学』を読んでいるのか。

 四書五経とは、『大学』『中庸』『論語』『孟子』の四書と、『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』の五経をいう。この順は中国でこれらのテキストが成立した順ではなく、中国で習う順である。『大学』が最初にあがっている。
 こういうことを決めたのは朱子(朱熹)だった。古代帝国ではなかった。朱子が勝手に決めた。それまで科挙には五経を課していた。科挙は隋の文帝から始まっているが、唐代で文芸中心の進士科が重んじられ、宋代で朱子によって四書五経を対象とすることが確立する。五経はそのうちの一経だけを選択受験すればよかったから、いきおい、四書が流行した。なかでも『大学』はいわば共通一次試験の入門テキストのようなものだったから、誰もが読んだ。
 ただし、『大学』というテキストは古代からあったわけではなく、『礼記』の一篇にすぎなかったものを朱子学が自立させて『大学』となった。
 本来の大学の意味は、「学の大なるもの」ということで、漢の鄭玄は「博学をもって政となす」といい、隋の劉絃は「博大聖人の学」と説明している。これを宋の司馬光は拡張して、「正心・修身・斉家・治国よりもって盛徳、天下に著明なるに至るは、これ学の大なるものなり」と拡張した。
 この司馬光の説明は、だいたいのところは朱子学のいう『大学』の主旨と重なっている。朱子は朱子で、この思想を三綱領八条目に整理した。

 三綱領というのは「明徳」「新民」「止至善」である。「明徳」は自分を修める「修己」のためのコンセプトであり、「新民」(親民)は人を治める「治人」のコンセプトになる。
 八条目のほうは、「格物・致知・誠意・正心・修身・斉家・治国・平天下」の8つのサブコンセプトをいう。このうちの格物・致知が学問のヴィジョンをあらわして、誠意・正心・修身が徳行を、斉家・治国・平天下が行動(功業)テーゼを集約する。
 まとめていえば、『大学』は己を修めて人を治めるための一冊なのだ。ここに儒学のエッセンスがすべて凝縮している、と、朱子は考えた。朱子学が「格物致知の学」であるといわれるのも、ここにつながっている。

 朱子の先駆者の一人となった北宋の張横渠は、これを、「天下のために心を立て、生民のために命を立て、往聖のために絶学を継ぎ、万世のために太平を開く」(近思録)と要約した。
 古来、名文といわれている要約だが、このうちの「万世のために太平を開く」が昭和20年8月15日の終戦の詔勅に用いられたことは、いまではすっかり忘れ去られていよう。それを安岡正篤が手を入れていたということは、もっと知られていないことだろう。詔勅の本文は迫水久常が漢学者の川田瑞穂に頼んで書いてもらっていた。
 ついでにもうひとつ余談をしておくが、伊藤仁斎は『大学』について「三綱領あれども八条目なし」と言って、朱子の整理に不備があることを突いていた。余談ではあるが、このあたりが仁斎から徂徠に及んだ日本儒学が「古学」に深まっていったことを象徴していて、見逃せない。
 第992夜に書いたように、その姿勢は徂徠を通じて本居宣長にまで影響したわけである。

 そういう四書五経のエッセンシャルな入門としての『大学』が日本にも伝わった。日本は科挙をしなかったから、寺子屋などでももっぱら『大学』が自主的に読まれたのである。
 金次郎もこういうわけで『大学』を読んでいた。
 もっとも金次郎といってもこれは、たんなる少年一般の代名詞ではなくて、小田原藩の分家領地の農村改革をなしとげた二宮尊徳の少年時代ということであって、その金次郎が「誠意・正心・修身・斉家・治国」の第一歩を『大学』から踏み出したのだということなのである。
 その尊徳のプロフィールを少年時代に限定して、大日本帝国の道徳教化の素材にし、修身教科書の勤倹シンボルに仕立てたのが、薪を背負って『大学』を読む金次郎像だった。
 それならば、敗戦後にこのシンボルは地に堕ちてもよかったのだが、そうはならなかった。歴史というものはつねに意外な反転をおこすもので、ここにもちょっとした謎があるのだが、この尊徳の言動と成果は実はGHQによって民主主義のシンボルと解釈され、結局、全国の小学校に残されたのである。これは、GHQのほうが朱子学効果を見抜いていたということになる。

 以上、いくぶん意外な話を二、三、もちだしてみたが、どうだろうか。藤樹・仁斎・尊徳・高杉・西郷・内村を包んで陽明学が何かを曳航しているのである。
 では、ここから先は、朱子学というものが『大学』で説いた「明徳」と「新民」を重視して、結局は「格物致知」を中核の思想においたこと、その考え方をめぐって340年後に王陽明が反旗をひるがえしたということを、説明していきたい。
 が、これとてもとうてい一筋縄ではないので、しばらくは紆余曲折についてきてもらうことになる。紆余曲折の原因を何がつくっているかといえば、それが朱子学と陽明学の奇妙な対立だったのである。

 朱子学は、11世紀の宋代に出現した周敦頤、程明道、程伊川、朱子(朱熹)が連携して構築していった学問体系のことで、宋学ともいわれた。
 なぜ宋代にこのような新たな儒学体系ができあがったかということには、いろいろ条件が重なった。もともとは始皇帝の焚書によって多くの儒書が焼かれたために漢代以降の儒教が弱体化して、訓古(文献学・注釈学)ばかりが流行していたこと、唐代にあまりに仏教が浸透していったこと、教団道教の確立があったこと、さらにその後は異民族の度重なる蹂躙と支配によって華夷秩序が守れなかったことなどの要因が、いくえにも重なっていた。
 とくに仏教の波及が大きかった。理論のスケールにおいても、信仰や修行をもちこんで生活に革新を与えて民衆の心を捉えたことにおいても、また古代儒教(旧儒教)が避けていた死や実存をめぐっていたことにおいても、とうてい儒教は仏教には対抗できるものではなかったのだ。
 だから儒教儒学の低迷はそうとう長くつづいていたのだが、それがやっと宋朝になって、漢民族のおかれた状況を深くふりかえる好機がやってきた。

 宋代そのものは北方の遼や金やモンゴルの脅威を受けつづけ、それらと手を結ぼうとする“内部の敵”もかかえていた。安定な政権ではなかった。
 けれども、逆にそのぶん、民族意識がよみがえるには好機だったのである。
 そこへ商業資本が勃興し、家範・家訓・家規を重視する傾向が生まれ、有産階級のなかから士大夫層が輩出してきたことも手伝った。こうして、古代以来の中国自身のオリジネーションによる思想や理論の体系化が求められていく。柳宗元・韓愈らが準備し、司馬光が『資治通鑑』をもって歴史の筋をただしたこととは、そのことである。

 そこへ登場してきたのが「道学」(新儒学=朱子学)である。
 先頭をきったのは周敦頤(周濂渓)の『太極図説』で、朱子がそこからひろがった理論の体系化をはたす。ここからが朱子の理気哲学体系になっていく。
 『太極図説』は陰陽思想や五行思想を新たに組み直した一種の宇宙生成論だったのだが、それは中華思想を宇宙的な原理に直結させるには都合のよいものだった。漢民族にとっては、中華思想はアジア社会のみならず宇宙の原理とも合致していなければならなかったのだ。
 そういう要請に応えるには『太極図説』はよくできていた。周敦頤は、太極が陰陽の二気を生じて、木火土金水の五行となり、さらにおびただしい現象や生物や事物を派生するというふうに組み立てた。「気」の流出と分化のシステム化であった。中国ではこれを好んで「万物化生」という。それを「万物資生」といえば、資生堂になる。
 ついで朱子は、この「気」の流れがつくる万物化生のすべてを統括するものを「理」とみなし、理気哲学とした。「理」に超越的性格を与えて、「気」と対応させたのであるから、これはまごうかたなき二元論だった。
 その朱子が、四書のなかで『大学』をとくに重視した。すでに説明したように、『大学』には朱子学の骨子が端的に表現されている。これを朱子は利用した。

 そこにはもうひとつの効用があった。儒教儒学には古くから「父子天合」に対して、「君子義合」という考え方がある。
 もし父親がまちがった行為をしたら子たるものは、三タビ諌メテ聞カザレバ、スナワチ号泣シテ之ニ随ウベシなのだが、誤った君に対しての臣は、三タビ諌メテ聞カザレバ、スナワチ之ヲ逃ルということでもよかったのである。義が合わなければ、主君のところを去ってもよかったのだ。このことを『大学』は訴えていた。
 この「義」についてもいろいろ議論があるところで、いったい「義」とはどういうものか、それこそ日本の儒学も、また西鶴近松もそこを問い、そこを表現したのだが、それはともかくとして、朱子にあっては、この社会道徳の二極性にも断固たる「合理」を与えて説明しようとしたのだった。
 これは朱子の徹底した合理主義による。日本の近世の表現者には、この合理主義はそぐわなかったのだろう。

 朱子学のロジックを一言でいえば、一人一人が真理を正しく知るべきであるということを、正しく知るには居敬を正しくしなければならないことにつなげたことにある。そこに一人一人が聖人になりうる可能性があるという希望をおいた。
 居敬とは、心身を収斂して「本然の性」を日々まっとうに守ることをいう。
 それゆえ朱子の道学は、理気哲学であって、かつ性理学であると言われるのだが、「知る」ということを窮理とみなし、それを格物致知とすることで、『大学』のメッセージと巧みに合わせたところが眼目だった。
 このような考え方は、個人の一人一人に天下を正しく考えてもらうにはもってこいだった。こういうところが朱子学が宋朝によって国教に採用された理由になっている。

 ところが、ここに朱子の見解に異議を唱える者が出現してきた。朱子とほぼ同年代の陸象山(陸九淵)だった。
 陸象山は朱子が「性」を「理」とみなしたことに反論して、「心」をこそ「理」とみなすべきだと考えた。朱子が「性即理」であるのなら、陸象山は「心即理」だった。心がそのまま理になるべきだと訴えた。これを「心学」といった。
 むろん、朱子学のほうも黙っていない。もともと朱子学には仏教と激しく対立するところがあったから、なんであれダメなものは仏教的だと批判する。儒学、永年の怨念である。陸象山に対しても、そのロジックをもって鉄槌をくだそうとした。陸象山は仏教じみている、そう、批判した。
 が、この対立はいったんぼけた。ぼけた理由は、朱子学者のあいだに腐敗や低迷がおこったことと、モンゴルがやってきて元朝になってしまったからである。おまけに元朝は科挙については朱子学を形式的に施行するようにしたために、朱子学は学問というよりも官僚の道のようになっていった。ただ、朱陸同異論(朱子と陸象山の考え方は同じものか異なるものか)の議論ばかりがむなしく流行した。
 かくて、そこに登場してきたのが王陽明だったのである。なんだかお待たせしましたというほど、プロローグが長い話になった。

 王陽明(王守仁)は、ひどく晩生(おくて)である。
 幼児からの神童が一挙にその才能をのばしていったのではなく、苦渋のすえに覚醒していった。しかもそれまでに逸脱の道を歩んでいた。
 有名な著作や大部の書物をのこしたのでもない。作戦軍略家として音に聞こえ、世間にはその功績が知られる程度で、死んだ。
 ところが王陽明を慕う者は多く、その言葉は『伝習録』やさまざまな文集として残った。しかも陸象山とともに、朱子に並び称されるにおよんだのである。
 こういう道学者はかつていなかった。旧儒学であれ新儒学であれ、道学者というものはどこかで聖人をめざしているはずであって、むろんそれを踏み外した者など数かぎりなくいるが、少なくとも名が残った者に、逸脱者などいなかった。それが王陽明にあっては、まったくそれまでのタイプにはまらない。

 「陽明の五溺」という有名な言葉がある。
 「はじめは任侠の習に溺れ、二たびは騎射の習に溺れ、三たびめは辞章の習に溺れ、四たび目は神仙の習に溺れ、五たび目は仏氏の習に溺れ、正徳丙寅、初めて正しく聖賢の学に帰す」というものだ。『伝習録』に入っている。
 任侠が好きで、チャンチャンバラバラにうずうずし、文字習字語彙の遊びに溺れて、神仙タオイズムにも仏教にも惹かれたというのだから、ぼくなど、これに倣っていえば五溺、すべて溺れっぱなしだが、王陽明がそうだったというのである。
 なぜ、このような男が国教ともなった朱子学を覆(くつがえ)したといわれ、陽明学を樹立したといわれ、幕末維新に橋本左内や吉田松陰に、また西郷隆盛や内村鑑三に心服されたのか、にわかには納得がいかないにちがいない。ぼくも長らくそうだった。

 陽明は、明代の1472年の生まれである。浙江省の余姚(よよう)に出身したので、陽明学のことをしばしば「余姚之学」という。
 父親が進士に合格したのをきっかけに、少年期は北京に住んだ。高級官僚の御曹司の身分だったといっていいだろう。18歳のときに江西の婁一斎をたずねて「宋儒の格物の学」を告げられ、科挙にみる朱子学ではない本物の朱子学に触れるように促された。
 これで聖学をまっとうする決意はできたのだが、2度の進士の試験に失敗し、3度目に合格したころには、明の辺境に韃靼(タタール)などが迫ってきていて、政府はその対策を練れる者を募集していた。陽明はこういうことには燃える。なにしろ任侠にも騎射にもじっとしていられない。高杉や松陰というよりも、むしろ坂本龍馬に似ていた。
 そこで「辺務八事」をまとめて方策を奏上した。この効果はあったらしく、雲南の司法官に任命された。それで諸事激務にあたるようになるのだが、過労のせいか労咳に罹り(もともと病弱だった)、しばしば喀血した。
 それでも陽明は平ちゃらで、近くの山に道士が伏していると聞けば会いに出かけ、その教えを聞こうとした。教えられた導引の術なども試している。禅僧にもしばしば会っている。陽明には禅機をよくするところもあったのである。
 ようするに、どんなものからも長所をとりいれる。屈託がないといえばそうなのだが、これでは道学者でもないし、まして朱子学者でもなかった。

 正徳元年(1506)、陽明は35歳である。名君とよばれた孝宗が病没して、幼い武宗が即位した。
 幼年の武宗にとりいって、八虎とよばれる宦官たちが跋扈するようになっていた。頂点に劉瑾がいた。これに呆れた戴銑・薄彦徽らが改革の上奏文を出すと、逆に禁固された。そこで陽明が怒ったのである。戴銑の解放と劉瑾を弾劾し、救済活動を開始した。しかしたちまち投獄され、杖罰四十を受け、気絶してしまった。
 陽明は貴州の竜場の駅長という低い職に流される。37歳になっている。ここは筆舌にしがたいほどの僻地で、まともな言葉を話す者もなく、疫病が蔓延し、掘建て小屋を自分でつくって住むような場所だったようだ。これでは陽明もさすがに天を知り、自らを知ろうとする以外はない。こうして本気で『大学』を読んだのである。
 きっとこんな辺鄙で荒涼たる地で『大学』を読むと、心に響くのであろう。一気に「格物致知」におよんだ。いわゆる「竜場の大悟」であった。

 一方、陽明は土地の人民の教化にも努めた。そのため令名を聞いた者がしばしば陽明を訪れるようになった。
 多くは朱陸の同異を尋ねるものばかりだったのだが、陽明はこれに答えるうちに、自身の考え方を述べる習慣をもつ。それがまとまって「知行合一」の説となる。知ることと行うことは同じだという説だ。これは理論が生んだ思想ではない。陽明の日々を集約した思想だったのである。
 これを聞いた者たちは弟子を含めて、その真意がすぐには理解できなかったらしい。が、しばらくたつと、忽然と了解できる。また陽明に続きの話を聞くと、わからなくなる。ところがまたしばらくたつと、全体が見える。しかも他の意見を対照すればするほど、陽明の知行合一説のほうが納得できる。
 こういうことがつづいて、毛応奎のように貴陽書院を修復して、自身パトロンかつ弟子となって、陽明の講座を開くところがふえていった。それが次から次にふえたのだ。
 こうしてしだいに朱子の朱子学は、理に走った主知主義にすぎるということがあきらかになっていく。しかしどうみても、陽明のメッセージはロジカルではなくて、仙人や禅僧っぽかったのである。実は『伝習録』がよく読まれてきたことには、その魅力もあったのである。

 陽明が竜場にいるあいだに、劉瑾一派の宦官勢力が衰え、ついに一掃された。陽明は吉安府の知事に任命され、仕事をしながら心を鍛え、明鏡の精神をもつべきことを確信していく。
 この、仕事をしながら鍛えるというのは「事上錬磨」とよばれているもので、陽明学がつねに強調する。
 もう少し詳しくいえば、「立志して、事上錬磨する」ということを奨めた。立志がなければ稽古もムダになる。できるだけ立志して、そのうえで仕事に就きながら事上錬磨するというものだ。
 これは別の観点からいうと、いたずらに「虚禅」に浸るなということでもある。
 虚禅というのは、座禅や瞑想に耽っているようでいて、その実、なんらの収穫もなく、大悟もないことをいう。陽明はその虚禅に陥ることを戒めた。それなのに陽明自身には仙人や道士や禅僧めいた雰囲気が漂っていた。ただし、仕事をしまくる仙人であって、多忙な禅僧なのである。
 が、陽明が「虚禅」を戒しめたことには、中国儒仏史上のやや複雑な事情もからんでいる。

 もとより歴史は捩れっぱなしではあるけれど、よくよく歴史の脈絡と臓腑を捌いてみなければ、その捩れぐあいが見えにくいことが少なくない。そのひとつに朱子学と仏教の対立がある。
 朱子学と仏教の対立といっても、これまた一筋縄ではなく、もともと中国は儒教の分母に仏教の分子が乗っかったのだから、たえず「儒先仏後」か「仏先儒後」かを争ってきた。のみならず、ここにもうひとつ道教が加わって、「道先仏後」や「儒先道後」も取り沙汰されてきた。他方ではむろん、複雑な融合もした。老荘の「無」の土壌に、ナーガルジュナの「空」が舞い降りたというような、なかなか微妙なところもあった。
 そんな歴史なのだから儒仏の対立は積年の宿命のようなものだったのではあるけれど、しかし、明代の朱子学と仏教の対立は、なかでもいささか特異なことだった。なんといっても朱子が排仏思想をもっていたことが大きかった。これが、すべての事のおこりだったのである。

 そこで仏門からの反撃が出た。
 たとえば、成祖永楽帝の黒衣の宰相といわれた道衍(どうえん)による「仏法不可滅論」や『道余論』は、程子や朱子の遺著から49条を選びとり、これをことごとく反駁してみせた。これは朱子らが排仏を唱えたことへの、復讐に近い。
 朱子の仏教嫌いは有名である。それは当然なのだが、それにひっかけて、旧守派が陸象山の心学的な傾向に対して、「それは仏教に似ている」という批判が出てくるようになり、それが高じて理学と心学が長きにわたる論争に入っていったのである。
 それだけならまだしも朱子学の内部の対立だったのだが、そこに仏教、とりわけ禅がからんでくると、話がちょっと厄介になる。

 もともと中国には「経学」というものがある。経学は四書五経などの古典を、すでに絶対真理性が保証されたものとして学ぶというもので、聖賢の言葉そのものを丸呑みするように学習する。
 それゆえ経学は、広くは仏教にもあてはまっていて、天台の徒が法華経を、華厳の徒が華厳経を丸呑みして学ぶのもやはり経学なのである。したがって、心学が心三昧を得るというためのものであるかぎりは、経学とは対立しない。しかし、心学が一心万法を解いて、迷悟消沈の一切を心法とすべきだなどと言いはじめるようになると、経学の権威は下降してくる。
 このような中国的な心学を歴史上、最初に確立したのが禅なのである。

 禅は、以心伝心・不立文字・教化別伝をモットーにするくらいだから、経典による知的学習よりも座禅などによる心の安心(あんじん)を求める。これは経学に対立する心学を確保するという姿勢である。
 しかし、そうやって得られた心というものは、一様ではない。一人一人が勝手に悟ってかまわないのだから、心の安定のレベルはまちまちで、もしその心を取り出して並べれば、なんら一貫性も同質性もない。それが禅というものである。
 朱子からすれば、これはとんでもないことで、朱子も心は一身が主宰するものとは思っているのだが、禅のようにてんでんばらばらの心があってはたまらない。そんなことでは、『大学』にいう「明徳・新民・止至善」にもとづく「誠意・正心・修身・斉家・治国・平天下」は望めない。禅のように各自の禅定に頼れば、修身はともかくも、斉家・治国・平天下もバラバラになっていく。
 そこで禅が批判されたのだ。その禅に似たことを陸象山が心学として掲げたので、ここから儒仏は交じりながら交差して、朱陸の論争が始まったのである。

 朱子学者たちが口をきわめて禅を罵ったことは、中国宗教史上でも特異なことだった。
 しかし、それ以上に宋学をややこしくさせたのは、後期朱子学が心学や心法をとりこんで、新たな哲学的転回を見せたことなのである。「陸王の学」とはそのことをいう。
 というわけで、陽明は「虚禅」を排しながらも、その一方では、むしろ「行動する禅」を標榜したかったと、見たほうがいい。
 そんなことは『伝習録』を読めば、すぐ伝わってくる。
 それゆえ、陽明はこういう事情と論争のさなかにあっても、仕事をやめなかったのである。
 陽明の仕事、すなわち事上錬磨は、45歳からはほとんど地方巡撫だった。
 都察御史として地方をまわり、軍民をまとめようとする役である。どの地方にも賊や逆賊がいて、暴れていた。そこで陽明はこれを分断して討つことにした。そういう仕事ばかりしていた。
 さらに良民と賊との区別をつけるため、十家を一札にまとめ、そこに共同責任を発生させた。「十家牌法」である。その後、地方管轄の軍事提督になっても、こうした作戦工夫を怠らない。「郷約」という地方住民の守るべきコミュニティ・ルールもつくった。
 こんなことをしつつ、いざ門人たちと話しはじめると、まさに格物致知のニューヴァージョンに心を深めて語るのである。『伝習録』を読んで滲みるのは、ここである。

 こういうことをしながら、陽明は朱子が『大学』にほどこした解釈には問題があったことに気がついていく。
 とくに「新民」の解釈に問題を感じた。民をはたして新しくすべきなのか。民は新しくなるのではなく、もともとそこにいる者たちなのではないか。そこで陽明は、「新民」は「親民」であるべきだとして、むしろ親しむ民のイメージへの切り替えこそが必要だと感じていく。実は『大学』では、「新民」と読む以前には「親民」と読むこともあったのである。
 陽明は朱子学の聖典である『大学』のテキストを古い『礼記』のテキストに戻し、『古本大学』を刊行する。朱子学派と陽明学派は、なんと二つの『大学』をもつことになったのだ。

 このあとの死を迎えるまでの陽明には、決して安寧はない。つねに軍事と思索と講学とに向きあう事上錬磨の日々であった。
 途中、“王門の顔回” といわれた徐曰仁が21歳の若さで卒したときは、さすがの陽明も悲嘆落胆して、その徐曰仁が陽明の言葉を記録しはじめていたノートを記念し、自分のノートを加えて『伝習録』とした。これがいま、われわれが読む『伝習録』上巻にあたる。
 少しでも時間があけば、濂渓書院という私塾を用意してそこに人々がとどまれるようにし、折りを見つけては駆けつけて講学をした。
 こうしたアクティブなスタイルも、かつての儒者にはまったくなかったものである。まるで動と静を高速移動しているようなものなのだ。しかし、今夜はふれないが、こうしたアクティビティのなか、陽明はたいてい詩を詠んでいた。なかなかの絶品である。西郷が読み耽ったというのが、よくわかる。ちなみに書もうまかった。
 かくて陽明は自身の哲学が「良知」と「知行合一」というものをめざしていたのだという結論に達し、その解説を門人たちに何度も説いた。なかでも本体と工夫を離さずに心を前進していくという「本体工夫合一」の説明は、なんとも快適なものである。
 ざっとこのように、陽明学は仕上がっていったわけである。その間、陽明自身はついに体系には着手しようとしなかった。これまたいっこうに儒者らしくない。

 朱子学と陽明学のあらかたの流れを見たが、結局、二つに共通して、しかも鋭く対比されるのは、何にどのように「格る」(いたる)かということである。
 もともと儒学は已発(いはつ)から未発に向かい、未発から已発に戻って、そのロジックをつくろうとするものだった。
 朱子は外に向かって窮理に格ろうとし、陽明は内に及んで心幅に格ろうとした。しかも陽明においてはそこに知行合一があるのだから、その内に向かったものが、外での行為なのである。
 さて、そうなると、ここからが陽明学の陽明学らしいところというか、日本が再生させた陽明学にしだいに顕著になってきた特徴ということもできるのだが、内に向かった良知を外であらわすことの劇的なダイナミズムが、巧まずして出てくるのである。格るところが、あまりに内奥と外延の両極に分かれているため、そこを往復するうちに、意外なスパークや過熱がおこってしまうのだ。
 これは陽明学が、内なる心性と外なる動勢を両極におきながらも、これを割符のように重ねようとした理論的な欠陥をもっていたせいである。
 そしてこのことは、陽明学がいつかは熱狂的な精神的行動主義に転じる可能性を予告した。

 陽明ののち、陽明学を異様にしていった者たちがいた。陽明学左派と李卓吾である。
 朱子学の話のなかには、この“はみ出し部分”がなかなか語られない。すでに王陽明は死んだのである。けれども、そこまでの話をしないと中国陽明学の話はおわらない。それどころか、そこからやっと日本陽明学の話が始まっていく。
 もう少しだけ、今夜の話をのばしたい。

 陽明学左派は泰州学派ともよばれているもので、穏健な銭緒山らに対して横流をおこした王竜渓や王心斎らのことをいう。二人は二王といわれた。
 この横流のきっかけは陽明の有名な「無善無悪」の解釈をめぐるものにあったのだが、それはいまはふれずに進むと、二王の思想は、こういうものだった。
 もしも陽明先生が言うように「極端な善もない、極端な悪もない」(無善無悪)というのなら、むしろさらに自由に、さらに自在に、目の前にある「現成」(ありあわせ)をもって格知をめざし、良知をおこしたっていいはずだ。そうだとすれば、そこには「狂」も入れば、「空」も入れば、「虚」も入るのではないか。
 いや、それならそれらをまとめて「負」とよぶとすれば、それらを引き受けることこそが良知であって、「現成良知」というものではないか。おおまかにいえば、二王の思想とは、こういうものだった。
 このとんでもない発想は何なのか。すぐさま察知できるのは、ここには陽明学が仏教も道教も平気で呑みこもうとしている姿であり、本来は「孔子の正名」をもってスタートしたはずの儒学に、ついに「荘子の狂言」をも加えることを予兆させる姿なのである(425夜)。
 さあ、陽明学よ、そこまで本気で突き進んでもいいのかというところだが、実は中国陽明学のラストテーゼはこの左派にはとどまらなかったのだ。このところぼくが注目している李卓吾まで、進んだのだ。

 李卓吾(李贅)は、明代が最も爛熟した時期、嘉靖から万暦までの生涯をおくった。生まれたときは陽明が死ぬ1年前だから、二人の出会いはない。
 李卓吾の活動は30歳くらいまでを泉州を拠点にしていたのだが、この地の特別な事情を反映した。ここは密貿易のセンターであり、回教(イスラム)が公然と動いていた。李卓吾の家が数代前からの回教徒だったのである。
 しかし、李卓吾自身は王陽明に共感した。良知による知行合一に共鳴し、さらに二王の無善無悪も学んだ。そこまではいい。
 ところがそこで李卓吾は、その良知の根本は「童心」でなければならないとした
ここからの李卓吾はとびぬけて独創大胆になっていく。

 李卓吾は二つの奇書を書いている。ひとつは紀伝体による『蔵書』というもので、これは秦漢以来の歴史を独自に編集した。民生の視点でのみ歴史を記述して、価値観の移転をはかった。男女平等論まで入っている。
 もうひとつは『焚書』と題されていて(両書ともタイトルがすでに変である)、さまざまな様式が混淆している。なかで文芸論も展開されていて、驚くのは『西廂記』や『水滸伝』が四書五経に匹敵する至文だとしているところだ。それまでこうした民衆文芸は淫邪のもの、盗邪のものと卑しめられていたのだが、李卓吾はそれらに一気に息吹をあたえ、こうした民衆の動向と慟哭を生き生きと描いたものこそ注目しなければならないとした。
 これは文芸論としても画期的なことで、まさにその後の文芸評価はそのように動いていったのだが、李卓吾は文学史を書き直したかったわけではなかったのだ。
 彼が言いたかったことは、「童心」なのである。そのように文芸や儒学や歴史を見るには、絶対に童心が必要で、それをこそ真の良知とするべきだと考えた。しかしながら、と、李卓吾は書く。童心というのはいつのまにか消えてしまうものである。これをなんとか食い止め、それが爆発するようにしなければならない。
 そしてまた、李卓吾は書く。民衆とは、その童心の爆発を待っているものなのだ、というふうに(!)。

 李卓吾の著作はすべて異端とみなされ、発禁になった。李卓吾はそれ以前からとっくに剃髪して、隠士のような日々を送っていたのだが、いっこうにその非を認めなかったため、75歳で投獄され、そういう世間の反応があまりにばかばかしくて自決した
 結局、陽明学は、こういうふうになったのである。しかし明朝が滅び、異民族が国を支配する清朝になると、陽明学はすべて弾圧され、巷から駆逐されていく。ついに李卓吾が最後の思想の暴徒であったのである。

 かくして、これらの変移と動向をもった陽明学が、朱子学とともに一緒に日本に徳川開府めがけてやってきたわけである。それなら日本儒学は沸くはずなのだ。
 ということで、ここからやっと日本陽明学のことになる。もう少しだけ、今宵の話の翼をのばしたい。ま、キリがないのだけれど‥‥。
 ところで、陽明学という言葉は中国にはなかった。中国では王学や陸王学である。徳川の日本にも陽明学という言い方はない。王学とか「余姚之学」と言った。
 陽明学という呼び方は、明治後期に井上哲次郎が『日本陽明学派之哲学』を著し、大正期に吉本譲・東敬治・石崎東国らが機関紙『陽明学』を刊行してから定着した。その後、戊戌の新法にかかわり五四運動のきっかけをつくった梁啓超が、陽明学を変革の思想というふうに紹介して、中国にもそういう呼称が入った。
 梁啓超の役割はすこぶる重要で、日本から見れば中国人のジャーナリストが日本の幕末維新にふれてそこに陽明学を“発見”してくれたことになるし、中国から見れば日本にかぶれたジャーナリストが本国に陸王学の革命的解釈をもたらしてくれたということになる。
 できればその話もしたいのだが、ま、遠慮しておこう。

 そこで、徳川イデオロギーである。
 一番言っておかなくてはならないことは、日本の社会思想の変遷のなかで、徳川幕府が林羅山に命じて朱子学を導入したことは、よほどのことだったということだ。
 家康が信長秀吉時代のめまぐるしい政権変動にうんざりして、政治体制の絶対化と幕藩社会のための道徳の確立とその範囲での宗教の許容をはかるため、世俗社会の規範や道徳を儒学に借りたのは、残された手がそこにしかなかったからだともいえた。
 もはや仏教では危険すぎた。仏門をほうっておけばまたぞろ一向一揆や本願寺が跳ねまわる。家康は一方で門徒制度で経済的保護を与えつつも、他方で宗門改めや本寺末寺制などによってその勢力を無力化させた。キリシタンではもっと困る。海外侵略さえ招きかねない。これは禁圧するしかなかった。
 こうして儒学イデオロギーの導入に踏み切るのだが、これが日本のその後の社会にもたらしたものは、予想をこえて大きいものだった。
 たとえば幕末維新で王政復古がおこったのは、徳川社会に宗教の軸がなくなっていたことを王政(天皇制)に巧みに移行させたものだったのだし、伊藤博文が明治憲法のために書いた「起草ノ大綱」には、「我国ニ在テハ宗教ナルモノ、其力微弱ニシテ、一モ国家ノ機軸タルベキモノナシ」とあって、天皇制を擬似宗教化したいという意図がはっきり見えていた。
 それほど徳川幕府の宗教政策と儒学導入は大きい意味をもっていたのだが、さて、そこに導入されたのはいわゆる儒教儒学一般ではなくて、朱子学以降の新儒教・新儒学だったのである。
 それも、最初の藤原惺窩は朱子を正統とする朱子学派であったのが、次の林羅山では朱子とともに陸王の学(陸象山と王陽明の学)を同時に入れた。これが日本の近世社会思想をすこぶるややこしくさせたのである。

 この先は、徳川儒学史になっていく。そこには、考えなければならない問題がいっぱい待っている。
 なぜ仁斎・徂徠は朱子学を批判して「古学」を提唱できたのか、中江藤樹はなぜ内村鑑三を感動させるほどに、陽明学を吸ってなお日本的な聖人になったのか。山崎闇斎はどのようにして儒学と神道を交ぜて垂加神道を提案できたのか、儒学を教えた懐徳堂はなぜあれほどに独創者を輩出させられたのか、それらと交差していた国学はなぜ宣長にまで及んだのか‥‥。
 これはやっぱりキリがないので、やめておく。いくら『伝習録』に次のようにあったとしても、である。
 「良知は夜気に在りて発する的(もの)、まさにこれ本体なり。其の物欲の雑(まじ)ることなきを以てなり」。