才事記

ゼビウスと横須賀功光

ぼくの半生はさまざまな才能に驚いてきたトピックで、髪の生え際から足の親指まで埋まっている。小学校の吉見先生との一緒の遊びや南海ホークスの飯田のファースト守備に驚き、藤沢秀行の碁の打ち方や同志社大学の平尾ラグビーに驚き、電子ゲーム「ゼビウス」のつくりや井上陽水のシンガーソングぶりに驚き、亀田製菓の数々の「サラダあられ」や美山荘の中東吉次の摘草料理に驚き、横須賀功光が撮った写真やコム・デ・ギャルソンの白い男物シャツに驚いた。

ファミコンゲーム《ゼビウス》

いずれも予告なし。ある日突然に出会ってたまげたのだ。これらの代わりにマイルス・デイヴィスを聴いたときとかヴィトゲンシュタインを最初に読んだときとか、そういうものを挙げてもいいのだが、できればナマっぽく体験したことと向き合ったほうがいいので、こんな例にした。

まずは何に驚いたかということが大事なのだが、それにとどまってはいけない。そのときこちらを襲ってきた唐突な感動が、その日その場のシチュエーションや当日の体調や別の記憶との共属関係とともに新たに残響してくることが、もっと大事だ。

われわれは当然のことながら、幼児期には何にでも驚いてきた。子供になってからもアサガオの開花やセミの羽化に出会ったこと、土中の化石やホタルの点滅を初めて見たのは、忘れられない体験だ。ただし、これら植物や動物を相手にした感動はのちにも体験可能になる率が高いけれど、それにくらべて誰かがもたらしてくれるものは、その時その場にかぎられることが多い。

この誰かによる感動とどう付き合えるかということから、世の「才能」というものへの陥入がおこっていく。

感動や共感について心すべきことは、出会って驚いた瞬間の感動というか逆上といったものを、その後どのように保持できる状態にしておけるのか、またその感動をここぞというときに脳裏から自在にリコール(リマインド)できるようにしておけるのかということにある。

感動も共感も誰にだっていろいろの機会におこるものだけれど、それをどこかに転移しても(時と場所とメディアを移しても)、その鮮やかさをそこそこ賞味できるかということが、キモなのである。

たとえば、誰かの講演を聞いて、おおいに痺れたとする。内容にも共感したとする。では、この感動をどのように保持するかなのである。またどのように再生するかなのである。これがけっこう難しい。

驚きをもたらしてくれたものには、当然にそれをあらわした当事者の才能が光っている。横須賀のモノクロ写真や陽水の歌においてはあきらかに格別の「個の才能とスキル」が発揮されたのだし、「ゼビウス」や「サラダおかき」には開発チームの「集団的で統合的な才能」が結実したのである。しかし、その秘密に分け入るには、たくさんの分析や推理が必要だ。

たとえば第1に、その才能が開花するにあたっては、少年少女期や青春期に何をめざしていたのかということがある。栴檀は双葉より芳しと言うけれど、小さいころの能力の芽生えがそのまま開花することは少ない。なんらかの深堀りやエクササイズが生きたはずなのだ。横須賀や陽水はそこをどうしたのか、これは覗きにいく必要がある。

第2に、その才能開花に預かったメンターや技の協力者やチームはどういうものだったのかということがある。ゼビウスはどのようにチームを組んだのか。一人で独創をはたしたかに見える棟方志功だって、実はたくさんのメンターがいた。志功はそのメンターに強く影響されたいと思った。指導者や師や影響者の存在は、メンターの資質に選択肢があるというより、むしろその師に掛けたほうの強度がモノを言う。

のちのちそんな話もしたいと思うけれど、ぼくの場合はいったん選んだ影響者のことを、その後もまったく疑うことがなかった。

また第3に、その才能によってどのように同時代の競争を抜きん出たのか、そこにはどんな時代の水準がわだかまっていたのかということも才能分析の対象になる。セザンヌが人気があったときとカンディンスキーが「青騎士」として登場したときとウォーホルがシルクスクリーンで登場したときとでは、時代のアイコンも驚きの関数も違っていた。そのため、その時々の勝負手がちがってくる。こういうときは、自分で才能を懸崖に立たせる必要がある。イチかバチかに向かう必要がある。

横須賀功光《射》

横須賀功光が颯爽と出現したときは、日本の写真界はキラ星がひしめいていた。ファッション写真や広告写真で腕を磨いた横須賀は、ここで全裸の若者をモデルに『射』というモノクローム作品に挑んだ。若者が壁に向かって跳び移ろうとする肉体を、撮ってみせたのだ。ライティングも絶妙だった。誰も見たことがない写真だった。

第4に、才能開花のためのエクササイズやレッスンや機材はどういうものであったかということがある。棟方志功のように「板と刀」だけが武器だということもあるけれど、多くの場合、才能開花にはいくつもの道具や機材が関与する。レンブラントの版画には日本から取り寄せた和紙が、プレスリーのギターにはマイクやアンプの性能が、アンセル・アダムスのf/64のカメラにはレンズやプリントペーパーの質がかかわっていた。

顔料やコンピュータをどう使うか、録音機やプロジェクターをどうするか、釉薬や鉄材は何を入手するか。テクノロジーは才能の信頼すべき友人なのである。このことも才能にまつわっている。

ぼくは執筆には、いまだにシャープの「書院」を使っている。発売されていないだけでなく、いまや修理ができる工房もない。

第5に、なぜその当事者たちは「ゾーン」に入れたのかということだ。才能に自信がもてるには、どこかでゾーン体験がいる。ゾーンに入るとは、予想を超えるノリに入ったことをいう。俗にエンドルフィンやアドレナリンが溢れることだ。

しかしながら、為末大が言っていたけれど、あるときゾーンに入っていけたとしても、その継続は必ずしもおこらないし、その手前でそうなるとはほぼ気が付かないものなので、そこをどうするか。そのため、アスリートの多くはゾーンを思い描いたイメージ・トレーニングをしたり、ルーチンを確実なものにしていくということをする。

けれども意外なことだろうが、スポーツ以外ならいくらだってゾーン体験は引き寄せることが可能なのである。一番有効なのは誰かとコラボすることだ。スポーツは必ずチームや相手がいてスコアを争っているのだが、他の才能開花は一人で自分の才能の発揮に悩む。そういうときは、誰かとともにその才能を試すのがいい。編集能力の発揮なら、学習仲間とともにさまざまなことを試みたり、メディアを変えたりするといい。

たんに感動したといっても、そこにはざっと以上のようなことが準備されていたり、参集していたのである。これらを無視しては才能は発揮できないし、才能を云々することも叶わない。

しかし、ここまでの話は、ぼくがこのコラムであきらかにしたいことの範疇のうちのまだまだ一端にすぎないのである。どちらかというと、ここまでは才能議論の準備やアプローチに必要なことで、実は序の口の話なのだ。クロート向きとは言えない。
 才能に痺れたのちに重視してみたいのは、驚かされた相手の才能は当方(受容者)にどのように伝播されたのか。その後はどうなっていったのか、ここを抉るということだ。

ラグビーの平尾やシンガソングライターの陽水の才能は、ほおっておけばすぐに「スポーツの才能」とか「音楽の才能」というふうに一般化されてしまう。また他のプレイヤーとの比較分布にマッピングされていく。ジャンクフードや料理の個別の感動は、たちまち無数の「おいしさランク」にいいねボタンとして回収されて、平べったくなっていく。

ゼビウスはその後は無数の電子ゲームが乱舞していったので、おそらくいま遊んでみても当初の感動は色褪せているにちがいない。

愛用の”お古” シャープ《書院》

コム・デ・ギャルソンの黒い紐付きの白シャツはいまでも気にいってはいるけれど(イッセイのスタンドカラーの白シャツなどとともに)、それははっきりいって「お古」なのである。

が、大事なのはこの「お古」との付き合いのうちにも、あのときの感動とそれをもたらした才能とを交差させられるかどうかということなのだ。

そもそもプラトンも人麻呂もバッハもゴッホも複式夢幻能も、これらはすべて「お古」なのである。「お古」だからこそ、何度もプラトンを読みなおしたり能楽を見なおしたりするのだが、そしてそれで少しは自分が感動した才能の位置や重みに気がつくこともあるし、少しは「お古」を脱したと感じるのだけれど、これでは甘いままになる。それよりむしろもっと「お古」を相手に才能と向き合うべきなのである。「お古」をバカにしてはいけない。

これは思うに、感動は転移しつつあるあいだも(AからBに、BからCやDに)それなりの主張をしているはずなのだから、その転移のなかでの様変わりな変容も捉えておいたほうがいいだろうということだ。ぼくが何を一番鍛えてきたかといえば、おそらくはこの「お古」をいつも甦らせる状態で自分の編集力をリマインドしたりリコールできるかということだった。

感動や驚嘆には才能の楽譜やレシピが刻まれている。ぼくの編集力はそのことをヴィヴィッドな状態でホールディングしたり別の場所にキャリングする(移行させる)ことを、試行錯誤をくりかえしながらも何度も試みることで、そこそこ鍛えてきたように思う。ただし、そこにはいろいろの秘伝もある。そのあたりのこと、おいおい話してみたい。

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李白詩選

李白

岩波文庫 1997

[訳]松浦友久

 総合的な詩の技能では杜甫のほうがやや上である。詩の格調も気概も杜甫に軍配が上がる。
 すでに晩唐には詩仙李白と詩聖杜甫を較べるという、誰もがそれこそ一度は試みてみたいだろう李杜優劣比較の禁断の趣向が論じられ、宋の蘇轍や王安石は「李白は人柄に似て駿発豪放、杜甫は道義を好んで志が高かった」と言った。
 明の王世貞は「李白は気をもって主となし、自然をもって宗となし、俊逸にして高暢をもって貴となした」とのべ、杜甫が「意をもって主となし、独創をもって宗となし、沈雄をもって貴となした」ことに、較べてみせた。「杜甫は神なり」とも絶賛した文章も多い。これはもっとも七言律詩の歌行のことである。
 なかなかうまい比較をする者もいる。胡応麟は「李白は才が一代を超え、杜甫は体が一代を兼ねる」と書いた。

 まあ、いろいろの評判がある。ぼくも総合の技量においては杜甫を取りたいし、意志の構成力とでもいうべきものも杜甫に一日の長があると認めたい。
 けれども「調子」ということでは、あの李白の調子にはなんともいえない魅力がある。比較できないものがある。もうひとつはタオの感覚だ。
 調子の魅力とかタオの感覚と言うだけじゃしょうがないから、そこを少しだけ示したい。いったい李白の魅力はどこにあるのか。風泊の魅力というものか。磊放の魅力というものか。

 李白は月をよく詠んだ。その志たるや、本気で月に賭けたといってよいほどだった。まさしく「月に乗じて高台に酔うべし」(『月下独酌』)で、「月に酔うて頻りに聖に中(あた)る」(『孟浩然に贈る』)なのである。
 なにしろ人生の半分を漂泊の旅に費やした人である。人品からいえばどうやら屈託のない人好きではあるが、結局は孤絶に徹した。エピキュリズムを謳歌する一方で、たえずルナティシズムに回帰した。だから夜はたいてい月を見た。田園でも山中でも都会でも、李白の感覚に最初に突き刺さってくるのが「皎」なのだ。
 ぼくは青年の日、『子夜呉歌』の「長安 一片の月 万古 衣を搏つの声」に驚き、この一片の光と一条の音の対比にたまげたことがあった。
 日本とちがって中国の月はあくまで高い夜空の底に張り付いたニッケルのような煌々たる月であって、カリカリと金属ナイフで剥がしたくとも剥がせない。そこは『枕草子』の朧月とはまったくちがっている。そこで月そのものの変容よりも、月光を詠む。それが「皎」である。
 たとえば楽府(がふ)の五言絶句『静夜思』。

   牀前に月光を看る(牀前看月光)
   疑うらくは是れ 地上の霜かと(疑是地上霜)
   頭(こうべ)を挙げて 山月を望み(挙頭望山月)
   頭を低(た)れて 故郷を思う(低頭思故郷)

 短い五言絶句に「月」字が二つ。その二字によって月光が二十字すべてに及ぶ。最初は窓外に霜が降りたかと見まごうばかりの月光を知り、次にふと顔をあげると山の端を離れた月が天を抜くように照っている。
 見下ろした拡張の月光と見上げた焦眉の月照。これを李白の一瞬の「挙頭」と「低頭」という動作が並んで分ける。さすがの表現だ。
 この二句十字の2行を、かつて明の鐘惺は「千古の旅情、此の十字に尽く」と褒めちぎり、胡元瑞は「この月、古今の妙絶」と絶賛したものだった。その一瞬一刻の視線の間(はざま)に胸中の望郷の念が忽然としたのである。
 あとでも言うが、この「牀前」に始まって、「挙頭」「低頭」というふうに動作の視線を一気に巡らすあたりが、李白独自の視線言語の調子である。映画的にいうのなら、月はその視線のダイナミックな逆倒のため、すさまじいスピードで動いたのだ。それもこれも、月皎あってのことである。月なき美空は、李太白においては三文の値打ちもない。せめて「月光 長(とこし)えに金樽の裏を照らさんことを」(『酒を把って月に問う』)でなければならなかった。

 ちょっと漢詩のスタイルとテイストについて挟んでおく。そこから「調子」が出てくるからだ。
 『静夜思』に見られる楽府(がふ)は漢代に始まった歌謡様式で、だいたいは曲がついた。それがしだいに曲が忘れられ、唐代にはその主題だけを偲んで詠む擬古楽府が流行した。これに対して、新たな主題をもちだす新楽府が李白らによって好まれた。
 五言絶句は中国では最も短い定型詩で、スタイルだけからすれば俳句に近い。けれども五言・四句・二十字の絶対的制約があり、1句ずつが起・承・転・結の4段に展開しなければならない。
 漢詩にはそもそも絶句・律詩・古詩があって、それぞれに五言と七言に分かれる。なかで五言絶句が一番難しい。『静夜思』はこの楽府の五言絶句なのである。

 いっときぼくも漢詩を試みていた時期があるけれど、厳密な制約のなかで「和習」を払った五言絶句をつくるのは至難の技だった
 ふつう、漢詩を稽古するには最初に七言絶句を学び、これが身についたところで五言律詩に進んで対句を習う。律詩では対句が決まりになっている。この対句を自在に織りこむ七言は、初心者にはとうてい無理なこと、そこでまずは五言で勉強をするのである。
 これでやっと対句含みの七言律詩に入っていくのだが、以上をとりあえずマスターできたからといって、五言絶句はまだまだ遠い。
 その五言絶句を李白は最も得意とした。いやいや、得意だなんてものではない。李白の五言絶句は神技に近く、これについては杜甫は及ばない。李白は、最短に絞った言葉の走り調子がめっぽう速かったのである。 

 同じく山月を詠んだ『峨眉山月歌』をあげてみる。
 故郷の蜀を離れた25歳の李白が痛切な望郷の念を月の夜舟に託して、やはり名調子になっている。これは七言絶句である。

   峨眉山月 半輪の秋
   影は平羌(へいきょう)江水に入って流る
   夜 清溪を発して三峡に向かう
   君を思えども見えず 渝州(ゆしゅう)に下る

   峨眉山月半輪秋
   影入平羌江水流
   夜発清溪向三峡
   思君不見下渝州

 この月は半輪の月。つまり上弦の秋の月。その半輪の月が放つ月光が平羌江の水に映って、そこを進む舟とともに月影を流す。「皎」が流れたのだ。
 その舟の中に李白は乗っていて、たったいま浴びた月光と月影から元の空天の月を振り仰ぎたいと思いながらも、舟は矢のごとく下って、それも適わない。
 そんな意味の七言絶句だが、やはりここでも視線が天地前後に動いて速く、それが川を下る舟の速度に拮抗する。「君」とはむろん月のことだろう。

 漢詩の意味が律動するかどうかを決めるのは押韻と平仄である。これで意味がリズムを呼び、律動がアーテキュレーションを伴って調子を準備する。またシンコペーションもスウィングも出る
 押韻はたいてい脚韻を踏む。『静夜思』は「光」「霜」「郷」と、『峨眉山月歌』は「秋」「流」「州」と踏んでいる。むろん中国語の音だが、日本語読みでも、韻はわかる。この脚韻の3文字を追うだけで、李白の詩魂が飛び火する。
 漢詩はそこへさらに平仄(ひょうそく)を揃えるという決まり事が加わる。「仄」とは声の「かたむき」のこと、詩人は平声・上声・去声・入声の四声を駆使するものなのである。『峨眉山月歌』では「入・向・下」で平仄が合っている。
 梁の武帝が当時の学者に「お前たちは最近よく四声ということを言うが、何のことだ」と訊いたとき、「天子聖哲がそれでございます」と答えたという話がのこっている。「天・子・聖・哲」のそれぞれが「平・上・去・入」に当たっている文字だというのだ。
 この押韻と平仄を操って初めて漢詩が成立する。『静夜思』は平声陽韻をつかって拗体の五言絶句にした。つまり平仄を少しばかり緩くした。べつだん巧みな技法ではないのだが、この拗体のうちに、しかし李白ならではの視線動転の高調子があらわれる。『峨眉山月歌』は平声尤韻になっている。

 こうした漢詩の決まり事のうえで、李白はさらに数を走らせた。
 これは知る人も多いところ、「岸上の誰が家の 遊冶郎 三三五五 垂楊に映ず」(七言古詩毎解換韻格『採蓮曲』)、「飛流直下三千尺 疑うらくは是れ銀河の九天より落つるかと」(七言絶句平声先韻『廬山の瀑布を望む』)、「千去って一も回(かえ)らず 躯(み)を投じて 豈に生を全うせんや」(五言古詩一韻到底格『古風』)といったふう、もっぱら数を交差させ、数を試韻に飛ばした。
 極め付けは『長干行』だろうか。夫の帰宅を待ち侘びる妻の思いに託して「行」(うた)を詠んだもの、藤圭子の『夢は夜ひらく』ではないが、「十四 君が婦と為り」「十五 始めて眉を展(の)べ」「十六 君 遠く行く」と女の歳を追って、

   門前 遅行の跡
   一一 緑苔(りょくたい)を生ず
   苔深くして掃(はら)う能わず
   落葉 秋風早し
   八月 胡蝶来り
   双(なら)び飛ぶ 西園の草
   此に感じて妾が心を傷ましめ
   坐(そぞ)ろに愁う 紅顔の老ゆるを
   早晩(いつ)か三巴を下らん

、切々たる帰慕の情感を数でたたみかけていった。
 途中、その数が突如として番(つがい)の双(ふたつ)蝶々となって、ひらひらと秋愁の風に乗っていくあたり、まるで人生演戯を操る李白の卓上マジックを見るようだ。14、15、16ときて8月となり、そこへ双蝶の2が舞って、さらに三巴の3となっている。
 以前、ぼくは『外は良寛』で、良寛における数字の詩情に非凡を感じたということを綴ったのだけれど、これはやはり李白のルーツにもふれておかなければならなかったことだった。

 さて、月の李白の話を続けるのなら、ここはやはり『月下独酌』をあげておきたい。いや、この「千夜千冊」での短い李白逍遥ではいくつもの作品を紹介していられないから、この詩にちなんでおおかたのことを話してしまいたい。
 この詩は五言古詩で、四首にわたる。古詩というのは句数は自由、いくら長くともかまわない。李白はこの古詩もなんなくこなした。自由自在に長短を選ばず歌えるというのは、杜甫はどちらかといえば苦手だったが、李白には待ってましたなのである。
 『月下独酌』の四首のうちの一首のみを示しておく。詩体は平声先韻、一韻到底格。李白、絶好調である。

   花間 一壷の酒
   独り酌みて 相い親しむもの無し
   杯を挙げて 明月を迎(激のツクリにシンニョウ)え
   影に対して三人と成る
   月 既に 飲むを解せず
   影 徒らに 我身に随(したが)う
   暫く月と影とを伴って
   行楽 須らく春に及ぶべし
   我歌えば 月 徘徊し
   我舞えば 影 凌乱す
   醒むる時 同(とも)に交歓し
   酔いて後(のち) 各々(おのおの)分散す
   永く無情の遊(ゆう)を結び
   相い期す 遥かなる雲漢に

 花が咲いたから酒を酌み交わしたいが、友がない。やむなく月に杯をあげれば、影と私の3人となった。しかし月は酒を飲まないし、影は私に添うばかり。
 けれどもそれでいいではないか。しばらく月と影と私が交われば、私が歌えば月が徘徊して舞ってくれ、私が舞えば影が踊って凌乱するだろう。それで酔えれば、それでいい。こんな世間離れの交わりをこそ、もともと「遊」というのだから、あとは仙界にでも行って続きをするだけである。
 こんな詩だ。ここでは月と私と影との3人を数えて、李白が悠々と仙界に遊ばんとするタオ好みが謳われている。李白と杜甫を截然と分けるのは、実はこのタオ好みのところなのである。

 天宝三載(744年)のおそらくは初夏、44歳の李白と33歳の杜甫が初めて洛陽で会いまみえた。
 「中国四千年の文学史上、これほど重大で、これほど神聖で、これほど記念すべき邂逅はない」と、聞一多が感慨深く綴った一刻だ。
 すでに李白は故郷を出て16年にわたる遊行(遊侠というべきか)ののち、やっと長安にのぼって玄宗皇帝の翰林供奉(かんりんぐぶ)となったのだが、わずか2年足らずで宮廷を追われ(李白を嵌めたのは宦官の高力士)、いささか傷心、黄河をくだって梁宋に向かっていたところである。
 一方の杜甫は、やはり前後10年ほどの遊歴をへて(とはいえ李白と異なって、杜甫は知友を辿っての道義を重んじる旅だった)、洛陽付近の故郷に戻って仕官の道を求めていた。
 この二人が出会った。すでに李白の名声は聞こえていて、杜甫は、「吐き出した言葉がそのまま平仄押韻を備えた名歌名詩になる」といわれている先輩詩人に、文字通りの敬愛を寄せ、餓虎のごとき個性個風を臆することなく発揮する放埒に、驚きもし、感嘆もした。
 二人は思いもかけず、意気投合する。そこが聞一多がいう中国四千年の文学史上の邂逅なのだ。

 李杜は再会を約して別れたのちもまた出会い、そこに高適を加えて存分な遊蕩に耽り(杜甫はおそらくこんなふうな遊蕩は初めてだったとおもわれる)、高適が南に去ったあとも、王屋山に道士の華蓋君を二人して訪ねた。
 あいにく華蓋君は死んでいたが、李白は次には斉州に赴いて高天師に会いたいと言う。杜甫はここで李白の尋常ならざるタオ好みにやや辟易として、別れる。
 李白が高天師に会いにいったのは、道籤(どうろく)を授かるためだった。ようするに李白は半ば本気でタオイストになりたかったのである。そのためとくに山東の地を好んだ(道士になることが宮廷に近づくための有効な方途だったという説もある)。
 ともかくも、こうして李白はタオイストが隠棲するような土地を次々に訪れ、再度の士官は適わなかったけれど、その仙界への憧憬はふんだんに詩作に導入されていく。これこそ杜甫にはまったく手が出ない感覚だった。
 それでも杜甫は李白の比類ない高揚をいま一度感じたくて、魯郡に会いに行く。ここでしばらく時を過ごしたあと、二人は有名な「石門の別れ」を惜しみあい、二度と交わる機会をもたずに後半生に突入していくことになった。

 月下独酌とは、このような出会いが途絶えたときの、その隙間の一隅で、一瞬にして李白が天に遊んでみせた感興なのである。
 それにしても「永く無情の遊を結び 相い期す 遥かなる雲漢に」とは、すこぶるタオっぽい。ここではまったく紹介できないが、このような詩句は李白の詩にはたえず横溢する。たとえば『月下独酌』の二にも、「已(すで)に聞く 清は聖に比(たぐ)うと 復(ま)た道(い)う 濁は賢の如しと」、あるいは「三杯 大道に通じ 一斗 自然に合(がっ)す」とあって、老荘の詩句に共鳴するものを見せている。

 李白は酒仙であって、詩仙であって(杜甫は詩聖)、また謫仙(たくせん)である。この「謫仙」こそは、今宵のぼくが李白にぜひとも冠したい栄冠だ。
 実は「謫」にはなかなか複雑な字義がある。そもそもは罪を咎められて、位を剥奪されたり、降格をうけることをいう。謫居といえばなんらかの罪で遠方に流されることを、謫所といえばそうした流刑者などのいる辺境を警備するところをさす。
 ところがこれが仙人になると、別の意味をもつ。天界から人界に追放された仙人ということになるのだから、これは人界では比較にならないほどの秀抜な才能や独特の調子を見せる者という意味をもつ。これが謫仙である。李白自身にも、

   青蓮居士 謫仙人
   酒肆に名を蔵す 三十春

ある。「私の雅号は青蓮居士で、徒名をつければ謫仙人とでもなろう。三十年このかた各地を廻ったので、小林旭じゃないけれど、きっと酒場じゃ名が通っているはずだが、ま、御存知なかろうとかまわんよ」という詩である。

 急に私事を挟むことになるが、ぼくの父が死んだとき、知人友人たちが父のための俳句を詠んだ。そのなかで母が選んで葬儀場に飾った短冊があった。永井鹿子が詠んだ「春浅し謫仙天に還りなむ」というものだ。
 地上に追われて時ならぬ才能を発揮した謫仙が、春まだ浅い3月にふたたび天に戻っていったという句意である。
 もうひとつ私事に近いこと。ぼくは自分が好きな人たちと「未詳倶楽部」を主宰しているが、そこでは会員のすべてに俳号を贈っている。なかで牧浦徳昭さんには「放謫」をつけた。おそらくこういう言葉は中国にもないと思うのだが、牧浦さんの居所定まらぬ逆旅(げきりょ)の風情をふと鑑みて、まさにこれに尽きているのではないか思ったのだ。

 ついでに、もうひとつエピソード。
 『月下独酌』の「我歌えば 月 徘徊し 我舞えば 影 凌乱す」は、楽焼十五代の楽吉左衛門さんの茶碗に『我歌えば月徘徊す』と名付けられた傑作を生んでいる。
 この茶碗はぼくが感嘆した名品で、第1回織部賞授賞式に伴って催した舞台茶会に楽さんが持参してくれもした。楽さんはこのときの受賞者だったのだが、この茶碗に上田宗嗣宗匠の点前によって茶が点てられ、これが加藤卓男、エットレ・ソットサス、内田繁、アンドレア・ブランヅィの口元を温めた。
 そこに、李白が現代の楽焼をへて世界の織部たちに放たれたのである。
 その舞台茶会の最後では、ぼくは野村万之丞(やはり第1回織部賞の受賞者だった)に頼んで即興の仕舞を舞ってもらった。万之丞はみごとにこれに応えて、その場の感興を折り込み、ついには「我歌えば月徘徊す」と吟じながら、上田宗箇流に伝った担い茶屋を肩に運んで満場を唸らせたものだった。
 李白とは、このように、秀れた者たちの才気に宿っていっときの試みを後日にもたらす謫仙なのである。

 月の李白に入りきらぬまま、五八七十、ついつい紙数が尽きた。そこで最後に捉月伝説にふれておく。
 いよいよ老境に達した李白は、当途に近い長江の采石機で、月夜に一人舟を浮かべて酒を飲んでいた。そのうち、ゆらゆらと水に映る月をふと捉えたくなって、手をのばし水月に遊んでいたところ、そのままうっかり水死してしまったという伝説だ。ときに62歳になっていた。
 むろん伝説にすぎなかろうが、李白の最期がわかっていない以上は、この捉月の一事は李白の起承転から結への最期を語るにふさわしいものになっている。まるで第781夜のルートヴィヒ2世の月夜の湖での水死事件なのである。
 が、これはむしろ第485夜の梶井基次郎の幻想に近かったともいうべきである。梶井も酒が好きで、月明を追ってKを月の海に昇天させていた。李白にそんな昇天を暗示する詩がないものかと、いっとき探してみたことがあった。そのときは、『金陵城の西楼 月下の吟』を引いてきたように記憶する。こんな詩だ。

   白雲 水に映じて 空城を揺すり

   白露 珠(たま)を垂れて 秋月に滴(したた)る
   月下に沈吟して 久しく帰らず
   古来 相い接(つ)ぐもの 眼中に稀なり

 ルナティック・タオイスト李太白。まさに「古来、相い接ぐもの、眼中に稀なり」だった。

参考¶李白にするか、杜甫にするか、ずいぶん迷った。あるいは李賀にも心が動いていた(岩波文庫『李賀詩選』)。そこでいっそ吉川幸次郎の『唐詩選』(岩波新書)にしようと思ったが、やはり思い直して李白にした。
 李白についてはまことにいろいろの書籍が出ているはずなのだが、実はあまりいいものがない。理由はわからない。ぼくは父の蔵書の青木正児の『漢詩大系』が手元にあったので、これで入ったが、その後、李白詩集の編集ものには多く出会ったものの、なるほどと感じる李白論ともいうべきには出会えなかった。あえて参考になる一冊には、高島俊男の『李白と杜甫』(評論社・講談社学術文庫)をあげておく。この人は『本が好き、悪口言うのはもっと好き』でエッセイ賞をとった人で、この本も“ネアカ李白とネクラ杜甫”の筋が通っている。頷かせるところも少なくなかった。
 それにしてもなぜ李白論には白眉がなかったのか。その理由が、今夜ようやくわかった。李白はまさに批評を拒み、批評を超えていた。ひたすら李白自身に遊んでいた遊行詩人だったのである。仙人を批評するなんて、しょせん出来ない相談だったのだ。