上田利男
夜学
人間の科学社 1998
ISBN:4822601765

 小集団研究所という研究所がある。本書の著者が主宰者で、京都伏見ですでに二五年におよぶ活動や調査をしてきた。『小集団研究辞典』も編集された。その著者が「日本夜学史」にとりくんだ。ここにいう夜学とは文字通り夜間にも学ぶ私塾や夜間学校のことをさしている。車胤が絹袋に入れた蛍の光で、孫康が窓に映える雪の光で貧しくも学びつづけたという故事ではないが、夜陰に入ってひたすら読書や学習に耽るというのは、なぜか心を深まらせるものがある。
 とはいえ文字通りの夜学は特殊なものかとおもっていたが、それが聖徳太子の法華講や藤原時代の勧学会のころからあって、しかも中世近世を通じての特筆すべき傾向だったのではないかという。寺子屋も松下村塾も大江義塾も、である。ほぼ完璧なほどに夜型のぼくとしては、これは溜飲が下がるというよりも、歓喜に堪えないことだ。
 しかし、夜間にしか学べない人たちもいる。九段高校の新聞部をやっていたころ、何度となく「定時制高校生との集い」に出席したことがあったが、そこに行くときはいつもどこか緊張していた憶えがある。定時制という言葉がもっている響きそのものに何か胸のつまるものもあった。本書はそのような夜間中学や夜間学校での学びの流れも扱っている。「夜」にはさまざまな意味が渦巻くのである。
 
 広島の神辺黄葉山近くに菅茶山がいた。医術を和田東郭に、儒学を那波魯堂のもとに西山拙斎とともに学んで、いくたびも仕官を誘われたのだが、断った。その茶山が開いた私塾は初めは「黄葉夕陽村舎」と、のちに「廉塾」といった。茶山が京都の魯堂の塾で学んだ中山子幹・佐々木良斉らと彫琢した陽明学を学ぶための塾である。いっとき頼山陽も塾頭(都講)に招かれた。山陽の父の頼春水と茶山が心友だったからだ。その廉塾に茶山の「冬夜読書」という漢詩が残っている。
 
  雪 山堂を擁して 樹影深し
  檐鈴動かず 夜 沈沈
  閑に乱帙を収めて 疑義を思う
  一穂の青燈 万古の心
 
 こんなぐあいに夜を徹しての学習が進んでいた。文化四年(一八〇七)に広瀬淡窓の縁者にあたる館林萬里が訪れたときも、茶山は『福山志料』の編集に没頭していて、その姿は「夜燈影を分かちて新著をうつす」の風情で、学舎にはただならぬ夜気が漲っていたという。
 その淡窓の「咸宜園」は大分の日田にあった。ここは淡窓がいろいろカリキュラムやシステムに工夫を凝らしていた塾で、七〇名ほどの塾生の成果を「月旦評」で十級位をつけ、毎月一回、線香二本を焚くうちに指示されたお題で二〇〇字の漢文を書き、線香三本では詩文にするという「試業」をし、その成果がまずい者は容赦なく級位が落とされた。日田は昭和の画家、宇治山哲平のふるさとである。哲平はそこで「華厳」シリーズを描いた。
 咸宜園はもっぱら「句読」を重視して音に聞こえていた学習塾であったが、それとはべつに「夜雨寮」と名付けた一室では、しばしば夜話閑遊をも催している。夜にふさわしい伴侶を塾生から選んで、たとえば李白を、たとえば孟子を語りあったらしい。淡窓もやはりのこと夜学が一番だったのである。よく「孜々として」と言う。「たゆまずつとめて」といった意味であるが、この「孜々」といい、茶山の「夜、沈々」といい、夜が更けての塾習を髣髴とさせる。
 淡窓のところへはその名声を慕って文人墨客がよく訪れた。帆足万里・頼山陽・田能村竹田・梁川星巌・貫名海屋・原古処たちである。淡窓の詩名が轟いてもいた。『遠思楼詩鈔』『淡窓詩話』などで、とくに五言絶句が文字を震わせていた。
 
 ぼくは池田草庵を畏敬してきた。いまの兵庫県養父郡の宿南に塾舎をたて、そこを「青谿書院」と名付けた。世に“但馬聖人”とよばれた。草庵は明晰な学習方針をもっていた。ひとつは「掩巻」で、これは書物を少し読んだら、そこでいったんそれを伏せてその内実を味わうようにするという学習法だ。それをよくよく取り組むことが「肄業」であった。今日の読書人にもおおいに勧めたい。
 もうひとつは「慎独」である。自身を慎めという言葉だが、学習的にいうと、他者や書物に教えられたことについて絶対に自分を欺かないで、その感想を披瀝する。そういうプログラムだ。草庵は人を欺くための学習を蔑んでいた。しかしさらに戒めたのは自分を欺く学習だった。他人を欺いていれば、必ず自分を欺くことになる。そこを慎むことが「慎独」である。そのため草庵は、門人に用意や清掃のための時間をできるだけとるように指示した。用意なき者、清掃なき者は、いくら学習をしてもそれを忘却してしまう。自ら受けたものを用意のうちに、また清掃のうちに復生させることを心掛けさせたのだ。
 草庵はこのようなプログラムを「功課」とよび、もっぱら山窓に功課を託せる者(山窓功課)を時をかけて育てようとした。そういえば日野草城に「山風の障子にあたる夜学かな」の句があったが、まさにそんな精神である。草庵にはまた『夜坐』という有名な漢詩があり、「兀兀三更 独り堂に坐す」と結ばれる。三更というのだから、深夜まで何かを瞑目していたのであろう。
 こうして草庵は三二年間にわたって「青谿書院」を営み、六〇〇名の門人を世に送り出した。吉田松陰の「松下村塾」はこの草庵の志にこそ揺さぶられた。
 草庵は十歳で母を失い、十二歳で父を失って寺に預けられ、十七歳の春に但馬に来講した相馬九方の講話を聞いてこの人に従おうと決意、京都に出て九方に仕えた。ここで陽明学を知り、洛西松尾山中で「掩巻」に耽った。三五歳になって許され、ようやく故郷に戻って書院を建てた。そういう生涯だった。
 
 本書は近代以降の夜学校にも多くふれている。なかで、静岡清水の杉山に片平信明が起こした「青年夜学会」の影響が大きい。これは幕末明治の「若衆宿」や「若連中」を私塾化しようとしたもので、その後は全国に広がり、各地で「夜学読本」「夜学教本」がいろいろ工夫された。いまのJC(日本青年会議所)の母型といってよい。当然、働く者たちが中心になったので、まさに夜学塾だった。これらの意を汲んで定時制高校や大学第二部の設置が進んでからは、こうした夜学塾が消えていく。まことに複雑な事情だ。
 ところで、いったい学習や教育を「官」でやるのか「民」でやるのかということは、
なかなか決着のつかない問題である。ぼく自身は小学校から受けた影響を一〇〇分の七〇くらいとすると、公立中学校からは四〇を、都立高校からは一五を受けた程度だったような気がしている。大学からの影響は五以下だった。
 そんなことだったから、ぼくもその後は自省してせめてどのように「学び」の現場やプログラムやスタイルがあればいいのかということを、自分で短期の塾をいろいろ開きつつ、また頼まれつつ、さまざまに“試技”してみるようになった。「遊塾」「空海塾」「ミネルヴァ塾」「半塾」「桑沢デザイン塾」「匙塾」「日本再発見塾・おもかげの国」「時塾」「際塾」「上方伝法塾・いろは日本」「六翔塾」……等々。大小、長期短期あわせるとかなりの数を試みている。そこへイシス編集学校のような昼も夜もないネットワーク上の学校も広がった。
 いまはまた京都での「盲亀塾」、東京での「連塾」というものを準備しているのだが、さてそれが茶山や淡窓や草庵を継ぐものになるのか、どうかはわからない。
 一人がこんなに多様な塾を担当してきたというのも、考えてみればかなり変わったことだろう。ぼく自身はこれらの中身を一度として同じテキストやカリキュラムとはしてこなかった。また、しだいに映像や音などを加えるようにしてきた。しかし、どのような塾がいま待望されているのかについても、本来、学習や読書とはどういうものであるべきかということについても、また「夜」に何をなすべきかということについても、私塾というもの、まだまだどんな可能性の実験も残されているのではないかとおもう。

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