才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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過程と実在

アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド

松籟社 1979

Alfred North Whitehead
Process and Reality 1929
[訳]山本誠作(松籟社版) 平林康之(みすず書房版)

 ネクサス(nexus)というのは結合体や系列体のことをいう。ヘンリー・ミラーが英語で同名の小説を書いた。パッセージ(passage)とは推移や通過のことである。ウォルター・ベンヤミンはフランス語で同名(=パッサージュ)の記録を書いた。ぼくもそのことを第649夜と第908夜に書いておいた。
 現代哲学の思潮に不案内な向きには、また、お堅い現代哲学を講義している連中には、さぞかし意外なことだろうが、ホワイトヘッドの有機体哲学には、このネクサスとパッセージが交差しながら脈動している。
 ネクサスとパッセージは見えたり見えなかったりしながら多様にくみあわさって、ホワイトヘッドの宇宙論と世界観の縫い目になったのだ。

 よくあることだし、べつだん責められることでもないけれど、ホワイトヘッドはやたらに難解に読まれるか、まったく知られないままか、そのどちらかばかりの不当な扱いをうけてきた。これは両方ともおかしいし、もったいない。
 道元の宇宙とかカントの宇宙とかホーキングの宇宙という言い方があるように、ホワイトヘッドの宇宙があると見たほうが、いい。その宇宙はコスモロジカル・コスモスで、すぐれて連結的(connected)で、多元的である。
 コスモロジーだから、そこには宇宙や世界の要素になる要素の候補が出てくる。ホワイトヘッドのばあいは、これを「アクチュアル・エンティティ」(actual entities=現実的実質・現実的存在)と名付けている。
 どういうものかはのちにも説明するが、たとえば、一羽の鳥、神経細胞、子供がいだく母親という観念、東京神田小宮山書店、エネルギー量子、自我、ギリシアの歴史、地球の表面、衝突する銀河系、夕方の虹、タルコフスキーの映像、森進一の演歌、松岡正剛の恋人などがふくまれる。
 これらは、このコスモロジーが通過するカメラの目には、一種の「経験のパルス」として映る。またコスモスからすれば、それは「侵入」(ingression)として映る。
 いまあげたアクチュアル・エンティティを、お好みならば数値や記号に絞ることもできるし、メンデレーフが果敢にそうしたように、元素周期律表にすることもできる。第311夜にあげた『理科年表』もアクチュアル・エンティティの可愛らしい表示例なのである。

 哲学というものは、一言でいえば計画である。アリストテレス哲学(291夜)もレーニン哲学(104夜)も、計画を練り、計画を実行に移そうとした。
 そのうちの数理科学を背景にした哲学の計画には、ラッセルやカルナップのような論理的な計画もあれば、ライヘンバッハやトマス・クーンのような、思索の歴史を再構成するような計画もある。多くの哲学書とは、その計画を手帳のスケジュールに書きこむかわりに、使い古された哲学用語で繰り返しの多い言明を、少しずつずらしながら連ねていくことをいう。
 しかし、なかには目が飛び出すほど斬新で、目が眩むほど大胆な計画もある。
 ライプニッツには普遍計画があって、それにもとづいた普遍記号学の構想がその後の数理哲学の体系や特色を次々に産んでいった。ライプニッツは自分で計画を実行に移すより、歴史がその計画を実行することがわかっていたようだ。
 ホワイトヘッドの計画は、最初は記号論理の用語とインクで書かれた計画だったが(それがラッセルとの共著の『プリンキピア・マテマティカ』にあたる)、その後はホワイトヘッドが想定したすぐれて有機的(organic)なコスモスに包まれた計画にした。
 人間がそのコスモスに包まれてプロセス経験するだろうことを、ホワイトヘッド独自の用語とオーガニックなインクをつかって書いた計画書である。
 その計画書はいくつもあったけれど、それらをマスタープランに仕立てたのが『過程と実在』なのである。

 ホワイトヘッドは「ある」(being)と「なる」(becoming)のあいだを歩きつづけた哲人だった。「ある」(有)と「ない」(無)ではなくて、「ある」と「なる」。つねに「ある」から「なる」のほうに歩みつづけた。
 そして、ときどき、その「なる」がいつのまにかに「ある」になってしまったヨーロッパ近代社会の理論的な不幸を鋭く問うた。ときに科学哲学の眼で、ときに歴史哲学の眼で、ときに生命哲学の眼で。ホワイトヘッドはヨーロッパの近代社会と近代科学が「なる」の思想を喪失していったことを嘆くのである。

 そのようなホワイトヘッドの哲学は、もっぱら「有機体の哲学」とか、「プロセスの哲学」とよばれてきた。
 有機体(organism)という言い方は、哲学の歴史のなかでほとんど言挙げされことがなかった言葉だが、『過程と実在』以降、ホワイトヘッドが想定したコスモスの特色を一言でいいあらわすときにつかう最重要概念に、格上げされた。
 有機体哲学は、宇宙や世界の出来事(event)がオーガニック・プロセスの糸で織られているということ、あるいはそのようにオーガニック・プロセスによって世界を見たほうがいいだろうということを、告げている。オーガニック・プロセスそのものが宇宙や世界の構造のふるまいにあたっているということである。
 このことは、『過程と実在』の原題である “Process and Reality” にもよく表象されている。

 ホワイトヘッドのオーガニック・プロセスは、構造であって、かつ方法でもあった。「世界が方法を必要としているのではなく、方法が世界を必要としたのだ」。
 おこがましくもぼくの言い方でいうのなら、「世界が編集されているのではなくて、編集することが世界と呼ばれるようになった」というふうになる。ここには、やはり、「ある」から「なる」への歩みが特色されている。
 しかし、このようなオーガニックな方法をもった哲学や思想が、近代以降の欧米社会に登場したことはない。
 なぜなら、それまでの思想では、世界の形や現象の姿をオーガニックに見るというばあいは、ほとんど生命や生物のメタファーで眺めていたのだし、世界の形や現象の姿をプロセスで見るというばあいは、原因と結果のプロセスに実証の目を介入させることばかりが意図されてきたからだ。
 しかも最近は、オーガニックといえば有機栽培やオーガニック食品をさすようになって、それが宇宙のアクチュアル・エンティティとかかわっていることも、ホワイトヘッド社製であることも、すっかり忘れられている。

 ホワイトヘッドはオーガニック・プロセスの素材と特徴によって世界と現象があらかた記述できると考えた。
 その素材は、さっきも言ったように、アクチュアル・エンティティである。アクチュアル・エンティティは「ある」と「なる」のすべてのプロセスを通過している「経験のパルス」の一つずつをさしている。これをホワイトヘッドは好んで“point-flash” ともよんだ。「点-尖光」というふうに訳される。
 一方、世界と現象をあらわしている特徴は、ホワイトヘッドの考え方によれば、「個体性」と「相互依存性」と「成長」、およびその組み合わせによって記述ができるとみなされていた。個体的な特徴を見ること、それらがどのように相互依存しているかを見ること、そして、結局は何が成長しつつあるのかを見ること、これで大事な特徴がすべてわかるということだ。

 このような計画をもち、その計画を構造として記述できた哲人はいなかった。ライプニッツから飛んで、途中にガウスやヴィーコ(874夜)や、ときにはエミール・ゾラ(707夜)を挟んでもいいのだが、やはりその大きさからいうと、次がホワイトヘッドだった。
 そうなったにはむろん才能も、作業における緻密の発揮も、環境もあるのだが、ホワイトヘッドを稀有の哲人にしている理由がもうひとつあることを、ぼくは以前からおもいついていた。それはホワイトヘッドに“zest” (熱意)があったということだ。
 ホワイトヘッドの宇宙は “zest” でできていて、ホワイトヘッドの教育は “zest”のカリキュラムだったのである。

 さて、今夜はめずらしく英語(英単語)を多用しながら綴っている。そうしたいのではなく、ホワイトヘッドの文章には独特の概念がちりばめられていて、これをある程度のスピードで渉(わた)っていくには、ぼくには翻訳語だけではカバーしきれないからだ。
 たとえば、『過程と実在』を貫く概念のひとつに “concrescence” という言葉があるのだが、これには「合生」という翻訳があてられている。いい翻訳だとはおもうけれど、ホワイトヘッドが合生を語るにあたっては、しばしば「具体化」(concretion)をともなわせて、つかう。合生と具体化は日本語の綴りでは似ていないが、英語では“concrescence” と “concretion” は共鳴しあっている。
 こういうことがピンとくるには、少しは英語の綴りが見えていたほうがいいだろう。

 残念ながら日本では、ホワイトヘッドの有機体哲学はそんなに知られていない。ぼくはたまたま二つのコースで同時にホワイトヘッドをめざしたことがあったため、20代の後半をホワイトヘッド・ブギウギで送れた。
 ひとつは、アインシュタイン宇宙論と量子力学の解読者としてホワイトヘッドを読むことになったもので、ここでは
“Concept of Nature” という原題をもつ『科学的認識の基礎』(理論社)から入った。とくに『科学と近代世界』と『観念の冒険』と『象徴作用』には没入した。
 そのころのぼくは、初期のホワイトヘッドがさかんに強調していた「延長的抽象化」(extensive abstruction)という方法に首ったけで、誰彼なしにそのカッコよさを吹聴していたものだ。それに感応したのが、いまは編集工学研究所の代表をしている澁谷恭子だった。彼女はある年のぼくの誕生日にホワイトヘッド・メッセージを贈ってくれた。

 もうひとつは、コンラッド・ウォディントンの発生学から入ってホワイトヘッドに抜けていったコースだった。そのときはウォディントンがホワイトヘッドの弟子筋だとは知らなくて、気がついたらホワイトヘッド・ループに入っていた。ぼくが思うには、このウォディトンこそがホワイトヘッド有機体哲学の最もラディカルな継承者なのである。
 ちなみに、ホワイトヘッドの弟子筋には多くのミニ哲人がいるけれど、フォン・ベルタランフィ(521夜)とバックミンスター・フラー(354夜)とグレゴリー・ベイトソン(446夜)は、そのうちのとびきり巨きな継承者たちだった。

 それにしてもホワイトヘッドが日本でなじみが薄い理由は、わからない。日本語訳はけっこう早くからおこなわれていたのである。とくに先行者の市井三郎さんは啓蒙者も兼ねていた。
 なかで注目すべきは、マルティン・ブーバー(588夜)の研究者でもあった京大の山本誠作さんによる孤高の翻訳作業で、それこそ“zest”が翻訳を加速させたのではないかというほどの集中と継続だった。それをまた、京都の松籟社が支えつづけていた。松籟社は「ホワイトヘッド著作集」全14巻にも取り組んだ。
 が、如何せん、実売部数はなかなか伸びなかったろうとおもう。ぜひ入手していただきたい。
 というわけで、ここではぼくも、なんとかホワイトヘッド戦線を拡張しようとしているのである。ちなみにここに使う訳語はみすず書房版で平林康之さんが翻訳にあたった『過程と実在』に従った。

 ところで『過程と実在』は、刊行当初から「英語で書かれた哲学書のなかで最も難解な書物」といわれていた。
 抽象性がきわめて高いという意味だろうが、さて、はたして、そうなのか。
 ぼく自身はこういう言い方は大嫌いで、ふだんでさえ「君の話は抽象的でよくわからないよ」という会話を聞くと、このおっさんとは二度と会わないようにしようとおもうのだが、ホワイトヘッドのばあいは、こういうおっさんから抽象的だと言われているのではなくて、世界中の哲学研究者たちが本書の刊行当時、「これは稀にみる難解な書物だ」と音を上げたのだった。
 難解なのではない。あまりに重要なことばかりを書いてるだけなのだ。
 そうなのではあるが、アインシュタインの一般相対性理論の論文がやはり難解だとみなされ、当時、世界でこれがわかるのは3人くらい、勘違いをしたのを入れても5人くらいだろうと言われたように、それと同じで、これはホワイトヘッドの中身に入っていけなかった連中が喚(わめ)いたのだった。が、噂というものは怖い。これがホワイトヘッド戦線に響いてしまったのである。
 ともかくも今夜はそういう理由もあって、ホワイトヘッドの独特の概念の香りを味わってもらうために、あえて英語を交ぜているのだと思われたい。

 さて、ぼくのこれまでの理解では、ホワイトヘッドの思想の記述には、つねに独特の「包む概念」と「分ける概念」と「繋ぐ概念」とが使われている。それをホワイトヘッド・シソーラスのようにして、案内したい。
 世界や出来事や現象を大きく「包む概念」には、すでに紹介してきた「有機体」や「プロセス」や「ネクサス」がある。ホワイトヘッドの時代には「ネットワーク」という用語がほとんど使われていなかったけれど、これらの概念が示すところはすこぶる網目状であり、互いがどちらの原因とも結果ともなるようになっている。
 このような「包み」をあらわすイメージは、このほか、統一性(unity)、延長的連続体(extensive continuum)、客体的不滅性(objective immortality)、さらには存在論的原理(ontlogical principle)、自己超越体(superject)などもあって、記述にあたってはこれらが組み合わされる。

 とくに重要だとおもわれるのは、「抱握」(prehension)である。抱握はすこぶるホワイトヘッドらしい用語で、哲学史上ではデカルトの「思惟」やロックの「観念」を普遍化し中立化するために提案された。ホワイトヘッドとしてはライプニッツのモナド(単子)による世界把握のイメージを、当初はこめたかったようだ。
 しかしやがて抱握は、自然理解を二元分裂(bifurcation)させてしまう哲学や科学の見方に対する異議申し立てに使われるようになり、そのうち、何かの対象や出来事や現象を抱握するとは、そこに主語と述語を分断しないでそれらを包みこんで把握することだというふうに、ダイナミックに発展していった。
 『過程と実在』の第4部では、公共性と私立性のような問題も抱握によって分ける必要がなくなるだろうという“予告” もしていた。
 これでおよその見当がつくように、これらの「包む概念」は、世界を包むとともに、それを感知している自分の意識や経験を包んでいる概念なのである。だから、これは宇宙の風呂敷なのであるが、その風呂敷はわれわれの知覚や経験の模様でつくられるのだ。

 「分ける概念」は、そんなに難しくはない。基本はやはり分割(division)である。
 けれどもホワイトヘッドは二元分裂を本気で嫌ったのだから、何かを分けて見ようとするときは、それを幾つかに分けつつも、その分岐したものたちにくっついているゴム紐を切らないようにするという考え方を、執拗にさぐった。
 ぼくが感心したのは、われわれが分割を怠惰にしてしまうのは、そもそも想像力に分断がおこっていることに気がつかないからで、その想像力の分岐発生の場面をよく観察すれば、その次に発揮され駆動される想像力には、不用な分断はおこらないというところだった。
 『過程と実在』第3部では、想像力には、次のような分断予兆がはたらいているのではないかという仮説がたてられている。

①物的想起(physical recollectin)
②観念的想像(conceptual imagination)
③命題的想像(propositional imagination)
④保留された判断(suspended judgment)

 結局、「分ける」ことが自縄自縛にならないためには、それらが元の関係を保存していたり、新たなアームを出して関係を複合化しているようにすることなのである。これは三浦梅園(993夜)の「一、一即一」の条理学にこそ懸案されていたことだった。『過程と実在』第2章第2節には、意訳すれば「多は一になり、一によって支えられる」というメッセージがあったものである。

 分けるだけではないとすれば、そこで、「繋ぐ概念」が必要になる。ここには、すでに紹介した「合生」があるが、その根底にはあくまで
“becoming” というイメージがある。
 コスモスというものは、本来は自律的に生成消滅をくりかえす自己超越体なのだから、そのどこかで人為的に橋をかけるとか、釣糸をたれるというようなことはしていない。
 それにもかかわらず生命や生物体に自己修復性や自己加害性があることは、ホワイトヘッドにとっては注目すべきことだった。そこにはきっと、自動ミシンのようなものが動いているにちがいない。
 こうして何かと何かを「繋ぐ」と見えたことは、そこに何らかの遷移や通過があったということなのだ。これが、有機体哲学がたえずトランジションやパッセージを重視する理由になっていく。つまりはオーガニック・プロセスの重視なのである。
 こうしてホワイトヘッドは、まずは「延長的抽象化」という方法をもちだし、ついでは述語的形態(predicative pattern)によって分かれ目を繋ぐという見方を提出したのちに、それならいっそ、「関係性」(relatedness)という見方を全面開花したほうが、それまでさんざん使われてきた「性質」「属性」「機能」といった見方よりずっと有効で、しかもそれらをも取りこぼさないということを主張するにいたったのだ。
 ひるがえっていえば、そのような関係性を失わない現実的な出来事こそが、アクチュアル・エンティティであって、その内部には“point-frash” が秘められていたのだった。

 ホワイトヘッド自身が言っていることなのだが、哲学とは自己矯正であるという。
 しかしながら、哲学の自己矯正が社会や学問の自己矯正になるようには、社会も学問もそこまで成長していないというのが、ホワイトヘッドの慚愧に耐えないことだった。そこで、有機体哲学を展開しつつあったちょうど中間期くらいのところにあたるのだが、ホワイトヘッドは当時の社会や学問にはびこっている思考法について、告発をした。
 この告発は『過程と実在』の序文に示されている。なかなか激越なものである。少し言葉を補って紹介する。

①思弁することが重要だということが確信できないでいる。
②言葉は命題を十全に表現できると思いすぎている。
③能力をのばす心理学というものがあって、そのことを開発することには何かの哲学めいたものがひそむと考えすぎている。
④主語-述語がしっかりしていれば、何かが表現できていると思いすぎている。
⑤知覚の問題は知覚論的な言説によってしかアプローチできないと思いこんでいる。
⑥空虚な現実態(vacuous actuality)というものがあると思いこんでいる。
⑦カントがそうだったのだが、純粋に主観的な経験があれば、そこから客観的世界についての理論的な構成ができると思いこんでいる。
⑧不条理や背理法をもちだせば、それで何かの本質的動向を暗示できると考えすぎている。
⑨論理が不整合になっているにもかかわらず、それはその論理に先行する何の規定がまちがっていると反省できないようになっている。

 今日にもそのまま通用できるような、そこまで言っていいのかと心配したくなるような「不信」も指摘されているが、そのことを除けば、これは胸がすく告発だ。
 ホワイトヘッドは過剰な哲学が大嫌いだった。「ちょうどそのぶんだけの思索」をすることをもって、それを組み合わせていく哲学がありうることを、生涯をかけて表示しつづけた。自分自身の初期の過剰な思索の傾向を自己矯正していくような哲学を創造すること(ぼくとしては自己編集といいたいが)、それもまたホワイトヘッド自身のための有機体哲学だったのである。
 とはいえ、こんなにも厳格な自己矯正ができる者がいるのだろうか。これはホワイトヘッドが哲学界と科学界に突き付けた談判状か離縁状のようなものだったのだ。なかなかマネはできそうもない。
 そこで、余計なことだとはおもうけれど、ぼくが上記の9項目をいいかえておくことにした。こういうものだ。

① 考えるべきだ。「そりゃ、考えすぎだよ」という友人や知人の非難を撥ねのけること。
言葉を使い尽くしたほうがいい。そうしたら囚われていた主題から解放される。
③ 能力はスキルアップの鍛練からしか生まれない。心の問題はカンケーない。
④ 「私は」という主語をはずして、述語に入ってしまうほうがいい。
⑤ 感覚や知覚は、モノに託してみるべきだ。買い物で得たモノ以外で、大切にできるモノをつくりなさい。
⑥ 想像しているだけのことが多すぎるので、そんなにも困惑しているのである。
⑦ 何かについて純粋であると思うことは、そのことを純粋から遠のかせるばかりになる。
⑧ 「逆説的に言うとねえ」という言い方をやめなさい。そういうときは何も主張がないだけなのだから。
⑨ 理屈っぽくなったときは、その理屈を途中からではなく、最初から捨てること。

 最後に、アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドの履歴を手短にガイドする。
 ホワイトヘッドが生まれ育った環境は、ホワイトヘッドの思想と地続きだった。イングランドはケント州ラムズゲイトだが、すぐ近くにカンタベリーのアウグスティヌスがイングランド上陸の第一歩をしるした記念碑や、エドワード黒太子の墓碑があった。
 祖父も父親も聖職者で、教育者である。父親もアルフレッド名なので、ホワイトヘッドにはいつもA.N(ノース)がつくのだが、その父親は校長であって、イギリス国教会の祭司を兼ねていた。幼いころのバートランド・ラッセルが地球は球体だということを拒否しているというので(よくまあ、そんな子がいたものだが)、困ったラッセル家がこの子の説得を頼んだのが、ホワイトヘッドの父親だったのである。
 ともかくも古色蒼然の風土と家柄をもって、ホワイトヘッドはイングランドの歴史の中から出身してきたのである。14歳から通った学校もなんと675年の創立で、アルフレッド大王も通っていたというのだから、これは吉備真備や空海や石上宅嗣が通っていた学校そのままのところに、漱石鴎外が通っていたようなものだった。言い忘れたが、1861年の生まれだ。
 大学はケンブリッジのトリニティ・カレッジである。ここが曰くつきのゲイ・カルチャーの巣窟であったことは知る人ぞ知るであろうが、ホワイトヘッドはそこをなんとか凌ぎながら、純粋数学にも応用数学にも傾倒していった。
 24歳でフェローになると、数理物理学と力学の講義を担当して、ハミルトン方程式とブール代数に夢中になった。それから8年をかけて結実したのが『普遍代数論』である。ライプニッツを意識した。

 ホワイトヘッドは最初はカントには甘かったが、そのころ流行のヘーゲルには辛かった。弁証法が科学だとも哲学だとも思えなかったのだ。
 しかし、乗り越えるのならこの二人ともどもだと見たホワイトヘッドは、カントもヘーゲルも批判できるようにするためにも、しだいに数学的思考の統合の枠を広げていった。
 そこへ直弟子のバートランド・ラッセルが共同研究をしたいと言ってきた。いくぶん面倒だったが、話をしてみるとほぼ問題意識が近い。そこで二人は共同で研究執筆をすることにした。これがものすごいものだった。7年間を不眠不休に近くコンをつめ、1910年の『プリンキピア・マテマティカ』の第1巻とした。
 この仕事は20世紀の数理哲学の原点となったものである。が、そのあとは、二人は別々の方向に目を転じていった。ラッセルは言語哲学に向かい、ホワイトヘッドは数理物理学の論理的な基礎づけとしての科学哲学に向かった。大学もケンブリッジからロンドン大学に移った。こうして綴られたのが、『自然認識の諸原理』『科学的認識の基礎』『相対性の原理』の、いわゆる科学哲学3部作である。ぼくはこの3冊を、自分でも驚くほど熟読したものだ。
 これらに書いてあることを一言でいえば、空間や時間や物質やエネルギーを派生させる新しい基本概念として、出来事(事象)を提案して、そこにアクチュアル・エンティティの動向を記述できる拠点をおいたことである。

 1924年、ホワイトヘッドはハーバード大学に招かれる。アメリカにはこんな数理哲学者はいなかったから、寄ってたかってホワイトヘッドの説明を“頂戴” する取り巻きがあっというまに、ふえていった。「ホワイトヘッド家の夕べ」とよばれた有名なサロンには、師に“お返し” をしない者も、しょっちゅう駆けつけた。
 師のほうはそんなことはいっこうに平気で、むしろ雑談で放出した言葉の、奥にひそむ「未発の言葉」(概念)をさがしはじめていた。それが『過程と実在』と『観念の冒険』になる。

 なぜホワイトヘッドがこの時期に “難解な深化” をはたしたかというと、もともとホワイトヘッドには“significance” (意味付け)に熱中することころがあって、この時期は宇宙や自然の内部での相互作用の結節点と縫い目に意味付けをしようとしていたからだとおもわれる。
 とくにその縫い目に意味を与えようとしたことが、ホワイトヘッドをめっぽう深くした。縫い目は役目をはたしたあとは、その上にアイロンをかけられて消えてもかまわなかったのに、事態に裂け目があるときはその接近をとりもつために捨て身のミシン活動をする。そのことに意味付けをしようとしたことが、ホワイトヘッドをニュータイプの哲人にしていったのである。
 こういうことを一人のときにはするのだから、それなら、ふだんのお喋りなどはいくらでも盗まれていってもよかったのである(『ホワイトヘッドの対話』という本もある)。けれども、そういったお喋り泥棒たちに、透徹した思索の凝縮である『過程と実在』は、ちんぷんかんぷんだったのだ。なにしろ師はそんな話を「夕べ」ではしていない。
 こんな事情も手伝って、『過程と実在』が「世界で最も難解な書物」になったのだ。

 その後のホワイトヘッドは、たとえばアメリカの参戦に断固反対したり、子供の教育に大きな関心をもち、教育の基本方針を計画したりするようになる。
 この教育論がまたすばらしい。ここではその計画を伝えることを省いておくが、その中心に何が据えられているかというと、「本当に教育をしたいのなら、難しいことから先に教えるべきなのです」という卓見だった。
 その理由をホワイトヘッドは知り抜いていた。人間というものは、たいてい「空想化」「精緻化」「普遍化」の3段階で何かを知ろうとし、何かを学ぼうとするのだから、その最初の「空想化」の段階こそ最も難解でいいということなのだ。すなわち、子供が一番の“prehension” (抱握)の持ち主だということなのだ。

 最後に、おまけをひとつ加えたい。
 ホワイトヘッドが渾身をこめて提起した「抱握」という方法は、いったい何に近いものかというと、われわれがふだんからおなじみの、あの“feeling” だというのだ。フィーリングとは抱握のことだったのだ。
 つねにネクサスとパッセージを走るオーガニックなフィーリングであろうとすること――。アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドの哲学とは、このことだったのである。