才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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ライト自伝

フランク・ロイド・ライト

中央公論美術出版 1988

Frank Lloyd Wright
An Autobiography 1933・1977
[訳]樋口清

 記憶なライト。

 あれは何歳のことだったのだろうか。おそらく5歳か6歳の冬だったろう。格子縞のトッパーを着ていた。父に連れられて初めて皇居と二重橋を指さされ、ちょこんと拝礼したそのあとで三信ビルのピータースで何かを食べ、その足で帝国ホテルに入った。
 帝国ホテルの中でジュースとかソーダ水とかの何かを飲んだとかという記憶はない(ジュースの記憶は銀座千疋屋、ソーダ水は資生堂パーラー、ついでにシュークリームは京都河原町の志津屋!)。父はただ帝国ホテルを見せたくて、その異様な洞窟のようなアップダウンの多い空間を連れ歩いただけだったのだ。
 こういうことは父ならやりかねないことで、焼ける前の明治座も、いまはない横浜シルクホテルも(ニューグランドホテルやバンドホテルも)、建長寺も祇園長楽館も、そうやって見せられた。そういうときの父はまるで部下にそれを作らせた将軍のように、ほんとうに得意そうだった。

 これがフランク・ロイド・ライトとの最初の出会いである。むろんライトという名前とは結びついていない。父に促され、インカ帝国がつくった時代博物館の薄暗い回廊を巡ったという印象だった。
 それなのに、この感覚はいまでも少しは蘇る。この建物に入ったことが誇らしげに思えたのである。

『Miserable miracl』より

帝国ホテル

 建物に入って、出てくる。この快感と不快というものは、そこを出入りし(最近の例では東京国際フォーラムと六本木ヒルズと品川駅が不快の例)、そこで仕事をし、そこに居住する者にとっては、なかなか言葉にならない名状しがたいものがある。
 だいたい建物というものは、内装や家具ならなんとかなるものの、利用者にはまったくいじれない。そいつは古い着彩絵葉書の名所のように断固とした実在を主張していて、あらかじめ歴史に参加している絶対専制君主のような顔付きをもっている。利用者はそれを甘んじて受け入れるだけなのだ。
 それでも、その建物に入ったとたんに誇りがもてることもあれば、恩着せがましいものに出会って背中がぞわぞわ落ち着かなくなることもある。

 住宅だって、同じことだ。文芸作家たちはそうした家をつねに描いてきた。
 バルザックの『谷間の百合』のモルソフ夫人の邸宅は「城館になりたがっている屋敷」であり、三島由紀夫の『鏡子の家』の四谷東信濃町の洋館は「時代思潮の容器(いれもの)」で、「駅か港みたい」にそこから4人の青年が育っていった。
 四姉妹が住む家でも、オールコットの『若草物語』のマーチ家は老主人には「尼寺」に見え、メグには「至福の館」に思えるのだったし、谷崎潤一郎の『細雪』の蒔岡家はそこに住む者全員を阪神間モダニズムそのものの象徴で染め上げた。
 しかし建築家からすれば、利用者の一人一人の感想などを予想して設計を始めたいとは思っていない。むしろ感想は自分自身の幼年期や少年期にさかのぼる。建築家にだって、父に手を引かれて訪れた建物の記憶があるのだし、『失われた時を求めて』(第935夜)や『スタンド・バイ・ミー』(第827夜)ではないが、隣町で見た異様な建物が目の奥について離れないはずなのだ。
 それをどこまで温存するか、振り払うかが、建築家の裁量なのである。

 ゲイヴなライト。

 子供時代の記憶や遊びがその後の作品や思想にどんな影響を与えているかということは、作家や画家たちにおいては、それを推測するのが作家論や画家論になるほどに重要であるばあいが少なくない。
 ヘッセ(第479夜)や独歩(第655夜)、キリコ(第880夜)やシャガールから、もしその遊びの記憶を除いたら、かれらは“成立”すらしない。それになにより大船の大工さんたちと遊んだイサム・ノグチである(第786夜)。イサムはその大工道具をいじっていて、イサム・ノグチになったのだ。
 建築家においては、子供時代の体験と作風との関係はあまりはっきりしていない。推測もめったに当たらない。本人がその関連を指摘しているならともかくも、評伝者や批評者がそのことを推測するのは、難しい。
 ところが本来は住宅建築家であったライトにあっては、この関連の推測がつく。それは、かの幼稚園の創始者フリードリッヒ・フレーベルが考案した「恩物」(gave)を、母のアンナが少年ライトに与えていたことだ。少年はこの立体遊戯具にそうとうに夢中になっていた。この夢中こそ、まさにのちの建築模型をいじくる遊びに近かった。

 ライトの建築物にはつねに「倫理の制動」が効いている。いくつもの自由な発想をしているようでいて、どこかに「律義なカノン」が調律されて鳴っている。
 ぼくはそれがどこから来たものかと思っていたのだが、『自伝』を読んですぐさまわかったのは、ひとつはライト生来のピュータリニズムが関与しているだろうことだったが、もうひとつは、やはりフレーベル先生の立体遊戯具だったのである。
 それがのちにどんなところにあらわれたかといえば、狭く見るならば、ユニティ・テンプルの型枠の一体性に、ミラード邸あたりから始まったテキスタイル・コンクリートブロックと補強鉄筋構造の関係などに、そしてまたジョンソン・ワックス研究所の片持スラブと樹木型システムなどによく見えるし、広く見るなら、それこそウィンズロウ邸とロビー邸に始まったプレイリーハウス(草原住宅)からカウフマン邸(落水荘)や帝国ホテルまでにあらわれた。
 ちなみにぼくの場合も、子供時代の遊びはかなりの確率でぼくの編集工学的発想に流れこんでいる。

アンリ・ミショー

フレデリック・C・ロビー邸(1906-1909)

 婀娜なライト。

 ライトについては早くから夥しい評伝・評論・賛美・批判・牽強付会・我田引水がひしめいている。
 こんなに議論が尽きない建築家も建築史上少ないだろう。毀誉褒貶も甚だしい。それらを読むのは、苦痛なほどに退屈だ。最近の建築批評というものは、とくに“現代思想”に覆われてからというものは、文学批評とどっこいどっこいというほどに、つまらない。
 ぼくのほうはといえば、毀誉褒貶に次々に見舞われるクリエイターというのは、それだけでも本物だという見方なのだから、こういう批評家と意見が合うはずがない。こんなこと、言うまでもないけれど、クリエイターというものは婀娜(あだ)でなければこそ本物ではないわけなのだ。
 ライトは世の中の毀誉褒貶をまるで吸い取るかのようにその任を引き受けて、それでもあまりある考想と表意の持ち主だった。ぼくが気に入っているのは、そこである。それを一言でいうのなら、近代建築に「婀娜な編集建築」をもちこんだ最初にして最新の建築家だったということだ。

 ライトの作品数は当時としてはべらぼうに多い。そのくせ92歳の長命だったのに、巨匠という印象がない。いつも、あたかも“一人ライト”として編集建築に挑んできた(実際には作業のどこかを助手や弟子に委ねることが多かったとしても)。
 ライト(1867生)は、どんなときもル・コルヴィジェ(1886生)とミース・ファンデル・ローエ(1887生)と並び称されてきたが、これもライトの作品集が1910年にベルリンで発行されたとき、20代前半だったコルヴィジェとミースが貪り見たということを勘定に入れてみると、比較も何もあったものじゃない。
 もっとも、430以上の建築を実現させ、プロジェクトや計画を加えると800をこえたライトの作品群を追いかけるなんてことは、詮方ないことである。どうもライトというとそういうライト・フリークが多いのだけれど、また、かくいうぼくも、かつてはそのうちの100くらいをスケッチブックに貼りつけたことがあったけれど、さいわい、そのまま反故になっている。ライトは全貌になく、その個別がライトなのである。
 それでもぼくはライトの建築作品の大半に、いくつもの自分の好みの組み合わせを発見してきた。それは和歌と茶道具と庭の植栽を取り合わせているような面白さに近く、その数はアンドレア・パラッディオからルイス・カーンまでを、また清水喜助から村野藤吾までを入れても、まだ多いかもしれない。

 アルスなライト。

 ライトの編集建築はそのほとんどが、作品ごとの引用と暗喩を有機的な形態機能によって絞り上げるという方法によって貫かれているといってよい。
 引用や暗喩が、世界各国の民族文化から少しずつ、かつ多様に採用されているのは有名だ。盗作だとわめきたてる批評家たちも少なくない。ライトはそれを認めることを拒否しつづけたけれど、そんなことは見え見えだった。
 けれども、いつも思うのだけれど、いったいどこからどこまでが盗作なのか。世界の建築史なんて盗作の歴史なのである。そうでないというのなら、たとえばコリント式の柱を使うのは? 梁に忍冬唐草をあしらったのは? バルコニーにテラコッタを使うのは? 
 しかしライトにおいて注意すべきなのは、実は引用と暗喩のほうではなくて、ライトがそれらを用いながらも絞りこんだ手口のほうのことなのだ。
 ライトがシカゴのルイス・サリヴァンの建築事務所にいたときに師から教えられたことは、「形態は機能に従う」ということだった。これをライトは「形態は機能である」にまで進めた。ふつう、現代建築史では、これによってライトは師を“脱出”したということになっている。
 はたして、そうだろうか。けれども、ぼくは必ずしもそう見ていない。『自伝』を読めばわかるのだけれど、ライトはサリヴァンの意識の低層に流れていた手口、すなわちアルス・コンビナトリアを受け継いだのである

 この手口、まことによくわかる。おそらくはライトの積木遊びがぼくの何かの性分にとっても近いということなのだろう。それだけではなく、このアルス・コンビナトリアには結合編集術が横溢しきっている。
 この編集感覚を見るには、いったんライトの文章を読むとよい。だいたいライトは文章ものべつ動かしている人だった。『自伝』にしてからが、前後4回にわたって手を入れて別々のエディションが刊行されている。それらをざっと較べてみると、ただちに見えてくることがある。それは内容が変わったのではなく、微妙な文脈が異動したということなのだ。とくに接続詞を変えている。
 この接続詞を次々に変えていくところこそ、建築にも自在に及んだ編集建築感覚だったのである。
 そのアルス・コンビナトリアの内側に、もうひとつ見逃せないものがひそんでいた。それは「神秘という方法」というもので、建築有機的な接続詞はここから出所した。

 サリヴァンは一方ではハーバート・スペンサーの進歩主義やウォルト・ホイットマンの自然主義にもひとかたならぬ関心を寄せていた。しかしながらその意識の低層にあったのは、あきらかにスウェデンボルク由来の神秘的結合術だった。ライトはこのアルスを継承し、そのコンビナトリアを開花させたのである。
 コンテンツ(主題と内実の提示)を開花させたのではない。そうではなくて、それらをコンテキスト(方法による文脈の生成)にばかり使ったのだ。そこにライトの引用と暗喩を「絞り込む」という結合編集術が躍如した。
 ライトにとっては、こういうやりかたは子供時代からの自分の資質にぴったりした方法だったはずである。
 ライトの母親は根っからコンコード派の超絶主義(トランセンデンタリズム)に傾倒していたのだし、最後の妻のオルギヴァンナはグルジェフ(第617夜)の弟子の神秘主義者だった。ライト自身も1931年に、タリアセンを訪れたグルジェフと出会っていた。

『Miserable miracl』より

タリアセン・イーストの仕事部屋でのフランク・ロイド・ライト1956)

 明治なライト。

 ライトはしばしば「最後のアメリカ人」と言われる。ライトが生まれた1867年(慶応3年)のアメリカの人口がわずか3800万人で、ライトが死んだ1959年には1億8000万人になっていたのだから、まさにライトは最後のアメリカ人なのだ。
 アメリカがアメリカであるのもライトまで――。ある意味ではライトはオンリー・イエスタデイなアメリカの失われた記憶そのものなのだ。一言で片付けるなら、とりあえずはそういうことになる。しかしぼくから見ると、ライトはむしろ「明治の人」だったのだ。
 まず簡単な符合をあげておくが、そもそもライトは、子規(第499夜)・漱石(第583夜)・露伴・紅葉(第891夜)と同い歳だった。ついでに伊東忠太(第730夜)とも宮武外骨(第712夜)とも同い歳だった。ダブル・クロニクルでもつくってみればすぐわかるように、ライトの生涯を追うことは、明治・大正・昭和の日本の建築文化がどのようにライトと交差しライトと離れたのか、逆に、ライトが明治・大正・昭和の日本建築文化史にどのように針と糸をもって縫い目をつくっていったのかということにあたっている。
 こういうライトが、日本文化と接触していった経緯を見ていくのは、興味がつきない。とくにこれまでのライトをめぐる議論が「ライトは日本の影響を受けていなかった」派と、「ライトと日本の親和性は高いはずだ」派というふうに、真っ二つに割れているだけに、ライトと日本文化の縒り合わせ具合を見るのは、キリなく面白い。

 ライトが“模造”の日本に出会ったのは、1893年のシカゴ万国博(コロンビア万博)だった。そこにはジャクソン・パークの日本パビリオンとして「鳳凰殿」が出現していて、そのパンフレットを平面図入りで岡倉天心が作っていた。

『アンリ・ミショー画集』

世界コロンビア博覧会 鳳凰殿

 万博建造物の大半はライトを失望させていた。「私にはただちにシカゴの博覧会の建物は悲劇的で滑稽な、作品以下のものとわかった」と書いている。けれども“模造”でありながら「鳳凰殿」にはただならぬ何かを感じたようだった。このパビリオンは平等院鳳凰堂を下敷きに、北翼に寝殿造りを南に銀閣寺を変形させた書院造りを接合したもので、ライトに、或る一冊の書物で知った日本の住宅感覚を呼び覚ましたはずである。
 その一冊の書物とは、3度にわたって日本に滞在したエドワード・モースが図解を含めて綴った『日本住宅とその環境』(1886)だったにちがいない。ライトは『自伝』に、日本の住宅の印象を「最高の排除の習作である」と書いていて、自分が「箱型」のプランを打破するために日本建築がヒントになったことを暗示しているのだが、その最初のヒントはおそらくはこのモースの書物と「鳳凰殿」にあったのだと思われる。
 もしそうだとすれば、そこからプレイリーハウスのフランシス・リトル邸やトーマス・ゲイル邸は一直線なのだ。

 ライトと日本の親和的関連については、気になる人間関係が動いていた。
 話は明治に戻る。モースが東京帝国大学に赴任した。これが大森貝塚の発見につながったのだから、誰もが知っていることだ。この赴任の直後、実はモースは一人のハーバード大学出身の青年を日本の文部省に推薦していた。アーネスト・フェノロサである。
 フェノロサが来日してどうなったのかは、誰でも知っている。それがきっかけでフェロノサに天心が伴走した。東京美術学校と「日本画」をおこすためである。そこまではいい。一方、ライトの最初の雇い主になった男にジョセフ・シルスビーがいた。この男は大金持ちだったことがライトに幸いしたのだが、それ以上にライトに影響を与えることになった。シルスビーはフェロノサの従弟だったのだ。
 この“モース→フェロノサ→シルスビー→ライト”の関係は見逃せない。
 ライトは狷介ではないが、自分が何をどのように思索したかということをめったに明かさない。さきほどあげた引用と暗喩についてはむろん、自分の基本プランの“母型”も明かさない。けれどもそれなのに、作品からも『自伝』からも随所に思索のプロセスが噴き出ているという建築家なのである。
 なかでも日本との関係を言及することにはめっぽう慎重で、そのため「ライトは日本の影響を受けていなかった」派の見方がいまもって根強いのだが、このモースに始まる人間関係が示していることは、ライトはどう見ても“明治なアメリカ人”にどっぷりだったということなのである。
 ただしこのあたりのこと、事情がこみいっているので、詳細は10年ほど前に発表されたケヴィン・ニュートの『フランク・ロイド・ライトと日本文化』(鹿島出版会)に譲りたい。

『Miserable miracl』より

ミッドウェイ・ガーデンズ(1913-1914)

 浮世なライト。

 すでに日本の住宅の本質を射貫いていたライトが、最初に日本に来たのは日露戦争渦中の1905年(明治38)だった。
 このときは施主のウィリッツに誘われての来日だったが、たちまち浮世絵に魅せられて、その後の大量の日本版画コレクションのきっかけとなった。ライトは浮世絵のディーラーにまでなっていく。
 ついで1913年の46歳、ライトは帝国ホテル設計の下打ち合わせのために、ふたたび日本を訪れる。すでにミッドウェイ・ガーデンズを設計しつつあったライトは、このプランの“日本化”を考え始めたようだ。ミッドウェイ・ガーデンズはドイツのビアガーデンを範にして、ゼゼッションやネイティブインディアンの彫塑を加え、そこにマヤともエジプトともつかない浮世をつくりだしている。
 帝国ホテルはその浮世の延長にある。子供のころのぼくがそこにインカ帝国の時代博物館の薄暗い回廊を感じたのは、ライトがあらかじめ入念に仕組んでいたものだったのだ。

『Miserable miracl』より

帝国ホテル設計図

 現代建築は装飾を拒否することで成り立っている。まったくもってアブサードなことだ。しかし、現代建築があのツルツルした衛生的な表面に装飾を復活させたからといって、建築の変貌はおこるまい。もっとくだらないものになる。
 装飾というのは内側から生成するものであり、装飾そのものが構造であるべきなのである。いや、構造は装飾をめざして、そこに本来のルール変更をもたらし、装飾と構造の境界を破っていくものなのだ。
 そういうことは今日の建築家では歯が立つまい。いま、建築家たちの多くはゲーテ(第970夜)の原形態学もダーシー・トムソンの形態成長論もロジェ・カイヨワ(第899夜)の斜線の意味も、考えようともしない。
 ライトはそれを試みて成功した数少ない建築家であった。いくぶん構造と装飾の強引な婚姻というきらいがないわけではないが、ミッドウェイ・ガーデンズや帝国ホテルはその危険な賭けに勝っている。ライトは帝国ホテルでは加工しやすい大谷石をふんだんに使用し、天井の高低差を複雑につけ、つねに装飾が構造の隙間から湧出しているようにつくりあげた。こういうことは、逆立ちしても今日の建築家には適わない。
 しかしそうなると、気になるのは(ぼくは気にならないが)、おそらく帝国ホテルがライトの作品のなかでも最も日本的ではない作品に見えるのはどうしてかということだろう。甚だしくエキゾチックに見えるということだ。
 従来の批評は、ライトが日本からの影響を受けていないことをあえて示すためだったというものなのだが、こんな馬鹿馬鹿しい見方ではライトは浮かばれない。
 ライトは苦界(くがい)に浮かぶ身もある浮世をつくりたかったのだから。

 有機なライト。

 1915年は大正4年になっている。白樺派はセザンヌやロダンを求め、社会はデモクラシーを大正に呼びこもうとしていた。ライトはこの時期に帝国ホテルの第一次設計案をつくりあげるために、ふたたび日本を訪れた。
 ただしこのとき、一人の浮世な遊女が寄り添っていた。彫刻家のミリアム・ノエルである。この遊女の出現には、とんでもない大事件が関与していた。
 前年、ライトが「原郷の創造」をめざして建設したタリアセンの住宅群が、一人の狂人によって焼き払われたのだ。それどころか、チェニー夫人と2人の子供と弟子たち7人が一夜にして殺害された。20世紀建築史上の最も忌まわしい事件だった。
 瞬時に襲ったこの悲劇を前に、ライトは一夜にして総髪を真っ白くさせたかと思われるほどに消沈するのだが、それでも逆境に立ち向かい、タリアセンⅡに着手していた。
 この逆境に亡霊のごとく挑んでいるライトに深く惚れたのがミリアムだった。以降、ライトの日本滞在はミリアムとの日々に重なっていく。

 帝国ホテルは数年後に完成した。それはどんなにエキゾチックに見えようとも、やはり、ライトにとっての日本の浮世なのである。ライトは大正デモクラシーのもと、セザンヌやロダンなどを日比谷に出現させる気はなかったのだ。
 こんなことをわざわざ言わなくてはならないようになっているのは不幸だが、そもそも日本建築が日本的であるのは、そこに異質との統合があらわれるかどうかにかかっている。純正日本などというものが、あるはずがない。たとえば「襖」(第791夜)がそうであり、「てりむくり」(第495夜)がそうだった。日本的なるものは、縄文から禅宗様をへて擬洋風にいたるまで、つねに有機栽培されたものなのだ。
 ライトにとっての民族文化とは、その文化がもっている有機哲学がどこにあるかを見ることにある。モチーフが日本的であるかアイルランド風であるかは、関係がない。
 左欄の写真を見てもらいたいのだが、ライトの弟子となった土浦亀城が谷井邸をつくってライトにその完成写真を送ったときのことである。ライトはただちに「これは日本の建築ではない」と言って切り捨てた。この感覚がライトの日本なのである。有機な日本が見えなくては、ライトは日本建築とは見なさなかったのだ。
 それなら一人の建築家の独創デザインはどうなるかと言いたいだろうが、それをライトにぶつけるのは当たらない。そこがライトが「最後のアメリカ人」で、「明治な人」であるゆえんなのである。

 さて、ぼくはこれまで一度もこんな家に住みたいとか、こんなビルを建てたいとも、こんな茶室をつくりたいとも思ってこなかった。
 が、フランク・ロイド・ライトの家なら(ユソニアン・モードは除いて)、住みたいと思ってきた。あるいはライト以上に、構造と装飾を融合できるデザイナーがいるなら、むろんいまでも何かを委ねたい。
 ぼくも最近は、何かの空間をつくってもいいかなという気分になっている。ただし、自分が住むのではなく(その一角に居住したほうがいいだろうが)、かつてのどんな空間モデルにも合致しないようなものがいい。それでいて、そこからは能に代わる能が、立花に代わる花が、現代美術ギャラリーに代わるギャラリーが、都会なのに農事を引きこめる土間が、山林の中なのに図書館に代わる電子書斎が、芸妓が別の踊りをしなければ話にならないような座敷に代わる座敷が、楚々として、かつ大胆に生まれていくような、そういう空間だ。
 いま、その第一次のプランにこっそり着手しはじめた。パートナーは内藤廣さんである。きっと5年も10年もかかるだろうけれど、そしてその途中にぼくはこの世からいなくなってしまうだろうけれど、せめて着手の痕跡だけは残したい。そこは京都であっても那須であっても、金沢であっても小布施であっても、美濃であっても阿蘇であっても、かまわない。
 嗚呼、それにしても、それにしても、いま、京都駅を見て、「これは京都じゃない」と切り捨てられる者が、はて、どのくらいいるものか。京都に明治な人や、最後の京都人があらわれるのは、いつのことなのか。