才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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建築における「日本的なもの」

磯崎新

新潮社 2003

 重要な加筆があるものの、本書はすでにぼくが読んできた論文や著書の一部で構成されている。だから著者からの贈本をうけたときも目次を見たままでしばらく頁を繰らなかったのだが、何かが気になってふと読みはじめ、やっぱりこれは「とても大事な問題構制」だという実感を深めた。
 テーマは表題どおりの「建築における日本的なもの」である。それ以外のことは書いてはいない。
 が、そこには、近現代の日本人が外部の目によっても、内部の目によっても、つねに自問自答他問自答自問他答せざるをえなかった「日本的なもの」が、建築思想を踏み破ってあからさまに殴打され、横転している。その「日本的なもの」の痕跡を、著者はあたかも不確定なものを精緻な設計図に移し挑むかのように、徹底して記述する。肯定も否定もしていない。しかし「日本的なもの」の“或る本質”が急速に浮上する。
 なかなか、こういう本はない。日本社会論や日本文化論はそれこそ数えきれないほどあるけれど、桂離宮を語ってイサム・ノグチや岡本太郎から「視線の回避」におよび、日本人の国民的建築様式感覚を覗いて丹下健三から廃墟的迷宮のほうへ思いをいたし、伊勢神宮と西行を論じて「影向」にひそむ隠れる祖型を掬うというような芸当を、一人で同時にやってのけた著書は、かつてなかった。

 磯崎新の著書については、採り上げたい本はいくらもある。最初の『空間へ』は早々とスペースデザインにおける創発的形質の何たるかを暗示していたし、「美術手帖」連載時から無類の輻湊的な仕掛けを感じさせた『建築の解体』は、まさに建築=思想の連動起爆装置として、その後の日本の建築家を(思想家も)脅かしつづけた。ぼくはこの連載でクリストファー・アレグザンダーのセミラティスにぞっこんになったものだった。
 20世紀が「主題の世紀」であったとするなら、21世紀は「方法の時代」であってほしいと思うぼくには、『見立ての手法』(本書の「カツラ」論を含む)や『手法が』は、まことに強力な援軍の登場に見えた。そこには重源とパラッディオと二条良基とイタロ・カルヴィーノが奇蹟のように一緒のベンチから立ち上がっていた。そこにはまた、「闇」と「虚」の対比が日本においては何を意味するのかという秘密が提示されていたし、著者の引用と暗喩をめぐる手のこんだ思索のプロセスには、建築がつねに“歴史的編集”をうけつづけてきたものであることが、明確に宣告されていた。これらの本が書店に並んだときは、なんだか両手を握りしめてガッツポーズをしたくなるような嬉しさがあった。
 一方、建築行為以前の太初に蟠っているはずの造物主デミウルゴスをデザインの現場に召喚した『造物主義論』は、学生のころからプラトンの『ティマイオス』に激しい嫉妬を感じてきたこの建築家が、ついにその内奥の正体を名指ししようとした傑作だった。
 まだまだ、ある。淡路島に首都を移転したらどうか、族議員を役人にしてしまえ、東京国際フォーラムこそゴミの建築だ、といった言葉が飛び交う『磯崎新の仕事術』『磯崎新の発想法』などは、80年代以前の日本なんて新幹線とオリンピックとリクルート疑惑をやったくらいにしか思っていない若い世代には、すこぶるふさわしい磯崎入門書であろう。加えてぼくは『建築家のおくりもの』の追悼文集「あなたはいまどこにいるのか」の声の響きなども、大好きなのだ。

 おそらく磯崎新を読むということは、磯崎新を見るということ以上にすぐれて言語建築的なのである。
 だからこれを追いかけるのは(ぼくは時代ごとに少しずつ読んできたからまだしも)、ふつうはめっぽう大変なことだろう。ボルヘスの作品のように目を使わないで、言葉の目で世界を再構築した文章世界を読むという体験なら、なんとか想像力だけで読めばいいのだが、実在の建築物の文章に被せられた磯崎言語による再構築の思惟経路をひとつずつ読んでいく作業は、想像力だけではまにあわない。
 なぜなら建築とは、その一個一個が現実の社会に突き刺さっていくものであるからだ。
 しかし、今宵は本書に尽きるのだ。本書はぼくが考える「日本的なもの」とは何かということに、その中心軸でまさに交差している、かけがえのない再構築書なのである。

 その感想を書く前に、いささか個人的なことを記しておくが、磯崎さんとは『遊』の初期に出会って以来、何度も話をし、何度か仕事をともにしてきた。いまも織部賞の仕事などで定期的に会う。
 最初は杉浦康平さんに紹介された。何の集まりだったか忘れたが、奈良原一高、栄久庵憲司、海上雅臣さんがいた。磯崎・杉浦コンビが『都市住宅』と『SD』を仕切っていたころ、三島由紀夫が自決し、大阪万博が終わって1年がすぎたころである。そのときぼくはルドゥのことを話した。磯崎さんはルドゥなら自宅に蔵書しているから見にくるといい、でっかい本だよと笑った。矢も盾もたまらなくて、さっそく訪れた。当時のぼくは歴史的な書物に出会うことが仕事だと思っていたせいもある(だから稀覯本を揃えている天理図書館などには何度も行った)。
 行ってみると、夫人の宮脇愛子さんがすばらしい食事を用意していて、一緒に食べようという。酒を飲まないぼくには、夫妻が用意する晩餐を極上のワインを無視して頂戴するのが心苦しかったのだが、玄米ごはんと料理がおいしくて、つい食べすぎた。それからルドゥの建築図集を拝見し、夜明けまで話しこんだ。磯崎さんは口調が大工職人のようで、まったく屈託がない。
 その直後、ぼくは『遊』4号(1972)に「磯崎新の建築術」を特集することを思いつき、そのころの代表作のひとつだった福岡相互銀行をナナメに切り取る切断作図を40枚近く載せながら、16ページにわたるインタビューを構成した。丹下アトリエ時代にダーシー・トムソンの『成長と形態』から受けた影響のこと、空間というものはとびとびの微粒子の軌跡のように見たほうがいいということ、廃墟や違犯や軋轢に興味を寄せていること、情報としての空間を考え始めていることなど、その後の磯崎世界のいくつもの原点が示唆されていた。

 それからあとのことは簡単にすますけれど、磯崎さんが山口昌男や鈴木忠志と一緒に仕事をしている場面と、ぼくが活動をしている場面がしだいに重なってきた。そのひとつが1978年にパリのルーブル装飾美術館で開かれた「間MA展」である。プロデューサーが磯崎さんと武満徹さんで、大当たりの展覧会になった。ぼくも篠山紀信・山田脩二・小杉武久・芦川羊子・白石加代子・田中泯・鈴木明男らの知り合いのアーティストとともに参加した。これは初めて「間」について、また神道空間の本質について考える機会となった。杉浦さんが図録とポスターをデザインし、ぼくは編集構成に丹精こめた。
 本書はその「間MA展」にインスタレーションされパフォーマンスされた「日本的なもの」とは何かという問いを、その後の磯崎さんがどのように消化し、昇華していったかという軸をもっている。そう、ぼくには読める。
 もうひとつ本書についての個人的な経緯を加えると、ぼくは80年代になって磯崎さんや三宅一生さんらに呼びかけて「ジャパネスク委員会」をつくろうとしたことがあるのだが(何の活動もしなかった)、本書はそのころの性急な意図に対しての回答にもなっている。

 さて本書だが、4章構成になっていて、第1章では20世紀日本の建築がどのように「日本的なもの」を受容し、様式化していこうとしたかが、大正昭和の建築様式の“実験”を通して証される。これが大きな展望軸となって、第2章ではカツラが、第3章で一時代だけに出現して消えた重源の大仏様(天竺様)が、第4章では著者がずっと考え続けてきた「始原のもどき」としてのイセが検証されるという構成結構になっている。
 そもそもの問題は、明治初期にフェノロサによって救世観音や狩野派の凄さが先取りされたように、昭和初期にタウトによって桂離宮が機能美の極致だと絶賛され、伊勢神宮がパルテノンの神殿に比肩されて、世界の建築家たちの最終巡礼地にさえ指定されてしまったことに始まった。すでに堀口捨己の茶室の研究や岸田日出刀の日本美抽出の作業があったものの、このタウト・ショックは日本建築および日本美の見方について、あっというまに「ほんもの=オーセンティック=天皇的==桂・伊勢」「いかもの=キッチュ=将軍的=日光」という図式を氾濫させた。
 折しも日本は1930年代になってアジア侵略を始め、八紘一宇にもとづく大東亜共栄圏の構想に突入していった。これはまさに空間と時間の占拠そのものの計画であったから、そこに多くの建造物が巻きこまれた。かくて、多くの「帝冠様式」とよばれるモニュメンタルな建造物が計画され、実行に移されたのだが、そこで著者は、丹下健三が続けさまにコンペで当選した「大東亜記念営造物」(1942)、「日泰文化会館」(1943)、「広島原爆記念公園」(1950)に注目する(いずれも岸田日出刀が審査員)。
 そして、これを批評した浜口隆一がそこから「日本国民建築様式」という新たな概念を引き出したこと、堀口捨己が「建築における日本的なもの」(1934)で西行の和歌をあげつつも、「岡田邸」などでは一本の線の両側に西洋近代と伝統日本を象徴的に並列させる分裂統合的なデザインをしたこと、当時の知識人を糾合させた「近代の超克」議論がこの時期の「日本的なもの」を模索していたこと、やはりそのころから丸山真男が日本政治思想研究にとりくんで西洋政治との決定的な相違の炙り出しを試みていたことなどをあげ、いったい「日本的なもの」は外部の視線がなくては、その内部の組織化がすすまないのか、すなわち「他者」が必要なのかということを問うた。

 堀口捨己が「日本的なもの」の表現の代表例としてあげた西行の和歌は、有名な「何事のおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」である。伊勢神宮を訪れたときのものだ。
 ここには「何事のおはしますかは知らねども」というように、「それが何であるかを指定はできないが‥‥」という留保のような、あえてそこを問うまいとするような、つまりは不確定で未確認な「‥‥」に対する畏敬がうたわれている。
 いったいこの未確認の「‥‥」が「日本」や「日本的なもの」なのだろうか。なんだかこれではとりとめもないが、ひょっとするとあえて取り纏めをしないことが「日本」だったかもしれない。もしそうだとすれば、ここには別の「外部」や「他者」が介在しているとは言えまいか。ここでの「外部」や「他者」は西洋的な実体的な介在者も隣接者や闖入者ではなくて、日本自身がそもそも抱えていた内部的他者のようなものであって、それは「異人」とか「奇遇」とか、あるいは折口信夫がいうような「マレビト」のようなものかもしれないとは言えまいか。
 それならわれわれは、フェノロサやタウトの外部の目に依拠して考えた「日本的なもの」以外の目で、「日本的なもの」を考えなおすべきだということになる。そしてこのことこそ、磯崎新が長らく考えてきたことだったのだ。
 著者は若いころから建築家として次の疑問をもってきた。それは、日本にはそもそも西洋的な「広場」が定義しにくいこと、それをあえて定義するには「界隈」とか「あたり」を持ち出すしかないこと、神も人格神や形象神ではなくて気配のようなものであること、その神が到来するというヒモロギ(神籬)やニワ(斎庭)ですらシメナワ(標縄)で仮に区切ったような結びの場でしかないということ、結局、そうした日本の観念や精神の因ってきたるところを言及しようとすると「ヒ」(霊魂性)とか「チ」(生命性)としか言いようがなく、その表示を具象的な形にしようとすると、「妻入り」や「平入り」や「てりむくり」のような形の組み合わせでしかあらわせないこと、などである。
 こうしてイセやカツラが本格的に検討された。本書はその思索のあとを克明に再現してくれている。話をイセに絞って、著者の辿り着いたところをかいつまんで紹介しておきたい。

 日本の建築界が伊勢神宮に関心を寄せ始めるのは1930年代に入ってからだった。「伊勢神宮こそ全世界で最も偉大な独創的建築である」というタウト・ショックが動いている。天沼俊一・伊東忠太・堀口捨己・太田博太郎・丹下健三・川添登らがイセを論じた。
 著者はしかし、イセにあるものは式年造替に象徴される「始原のもどき」ではないかという興味深い仮説をたてた。論旨を飛ばして紹介する。こう、書いた。

 イセにおいては、実はなかったはずの起源が《隠されている》 からこそ誘惑が発生するのだ。建造物、祭祀、歴史的成立の事実そのすべてが《隠されている》ことこそがイセという問題構制の基本となるというべきなのである。

 いいかえると、地上に建てられているイセの神宮建築そのものは、その始原より以前を《隠す》ために建てられている、と言うべきなのだ。起源を《隠す》ことが図られた。そこに祭られているカミもまた、《隠される》ことを必要とした。そこで《隠す》ための手段が解発されたとみるべきで、それがイセの神宮建築のデザインを決定づけているといえるだろう。

 正殿のデザインがクラとして用いられていた高床の校倉造りであるのは、倉庫こそが隠されることの隠喩であるから、建築型としてまったく適切な祖型たりえている。カミの依代としてのイワクラ、そしてカミを招来する依代を収めるタカクラ、ここでのクラは言葉の字義は倉庫であるが、同時に暗闇でもあり、座でもある。

 なるほど、と唸るような推察だ。著者は、ここには一種のナラティヴを伴う「始原のもどき」があると見た。
 たしかに、そうだ。イセには「始原のもどき」や「始原というモドキのための装置」がある。擬態といえばたしかに擬態だろうが、それは始原を隠すためのモドキ(擬)としての擬態であって、そうすることが「始原が起源を虚像のように浮かばせてしまう装置」だったのである。西行が「何事のおはしますかは知らねども」と言ったのも、そこに感じたものも、これだった。「‥‥」である。
 ではイセでは、なぜ《隠されている》ことが、そこに《あらわれている》ことになるのだろうか。「日本的なもの」とはこのことなのだろうか。イセ的なるものはほかにはないのだろうか。
 おそらくイセ的なものや「始原のもどき」は、日本文化に始終あらわれては消えていったものだったといえるにちがいない。西行だけではない。西行―世阿弥利休―芭蕉の線上には、この「知らねども」や「‥‥」が必ずあったし、藤原隆信の似絵にも道元の禅にも、人形浄瑠璃にも写楽の浮世絵にも、これが出入りした。“これ”とは何かといえば、「始原のもどき」への姿勢にあらわれる日本人の感受性のことである。その姿勢には、世阿弥や道元や芭蕉がのべた「触れるなかれ、なお近寄れ」という閑居の気味があった。
 だから「触れるなかれ、なお近寄れ」は日本人の主義主張なのではない。イデオロギーではない。近代日本では見失ったがゆえに、フェノロサやタウトなどの外圧を借りなければ見えなくなった思想というものでもない。何かを説得しようとはしていないものなのだ。いわば芭蕉のごとく「松のことは松に習え」と言っているだけなのだ。まことに不思議な「触れるなかれ、なお近寄れ」であって、「始原のもどき」なのである。ぼくならばただちに「負の装置」とよびたいものなのだ。

 しかしもう少し突っこんで「始原のもどき」や「負の装置」に出入りするものの正体を求めるなら、そのひとつはおそらくは、ぼくが第483夜の山本健吉の『いのちとかたち』第564夜の丸山真男の『忠誠と反逆』で注目しておいた「イツ」(稜威)ということなのだろうと思われる。
 山本はイツを「よみがえる能力を身にとりこむこと」とか「生きのびる力の根源になる威霊を引きこむこと」と解釈した。それを設定することが、その後の継承を可能にしていくような力のことである。丸山は本居宣長を引きながら、イツを「つぎつぎに・なりゆく・いきおひ」と解釈し、それこそが日本の歴史古層にあるパッソ・オスティナート(持続低音)だとみなした。そして、そのイツが動くとき、あるいはそれに触れようとするとき、近代日本はそれを復古主義や国粋主義として過誤してしまったのだと考えた。
 出入りしたのはイツだけではない。そのほかにウツ(空=充)も出入りしたし、ミツ(満=密)も出入りした。

 いずれにしても、このようなイツ的なるものは、近代の西洋知だけでは光があてにくい。論理や言説のかたちをしりにくい。なぜなら、それは戦争や知識の外圧によって凹んだ影の部分なのではなく、そもそもそのような負所をもとうとして抱えたマイナスのCPUであるからだ。そして、その負の本来に触れようとすると、とたんに国粋主義になってしまったり、ナショナリスティックな追憶に見えたりするものなのである。
 しかし、ときに重源や桂離宮においては、光悦の器や友禅斎の雛型においては、世阿弥の複式夢幻能や近松の浄瑠璃においては、そのイツやウツやミツが「始原のもどき」のモドキとして、《隠れているもの》が《あらわれているもの》になった。こうして「日本的なもの」は建築と器物と芸能を行き来する。

 著者は「あとがき」で、「日本的なもの」という問題構制が成立したのは、日本群島が国境線が海に消える島国のせいだったからだろうと書いている。
 たしかに日本は、都合と場合によって、海の出入り口である港を閉じもでき、開きもできた。その閉じているあいだに、和様化が進み、茶の湯が生まれ、浮世絵がメディアとなって、国学が勃興した。これは島国のメリットとデメリットを最大限にいかした方法とその成果であったのだろう。けれども今後は、もはや閉港はありえない。空港封鎖もおこるまい。まして情報ネットワークの封鎖は不可能である。このようなとき、むしろ日本は、世界の群島化を促進する一部というふうにさえなっていると著者は言う。
 開港で思い出したのだが、『見立ての手法』のなかに「開港した日本の建築」という文章があった。丸山真男が日本にはイエズス会士渡来による開港、明治維新の開港、1945年の敗戦による開港という三度にわたる開港があると言ったことを引きながら、三度目以降はそのまま開港しっぱなしになっている日本のなかで、現代建築がなぜ「日本的なもの」を色濃く残響しているように海外の目からは見えるのかということを問うている文章だった。
 1985年に、ボトンド・ボグナーの日本現代建築調書について述べたときの文章である。その最後で、建築家は日本的なものの解読をつねに先延ばしにしすぎてきたのではないかという指摘をしていた。いま思い返すと、磯崎新はこのときの課題を結局は、その後も自分で全部引き受けたということなのである。
 磯崎さん、日本の建築思想を背負うって大変なことなんですね。今後は、若い世代が、堀口捨己~村野藤吾~磯崎新という解読をしてくれることでしょう。重野哲寛さんも亡くなられたこと、磯崎さんの痛む腰をいたわる医師は、これからは複数に、非線形に拡大するしかありません。

参考¶磯崎新の著作は、いま鹿島出版会から鈴木一誌のエディトリアルデザインによって、ブリコラージュされて発刊されつづけている。これは単なる全集や著作集ではなくて、いままさに“修繕と改修と編集”が進行している言葉の工事現場をへた建造物のようで、日本の出版物としても注目に値する。それにしても磯崎新の旺盛な執筆力と編集力は目を見張るもので、多忙な設計管理業務のどこでこんなに言葉が紡げるのかと思うのだが、本人と会うといっこうにそういう重圧を感じさせない。今宵は「日本的なもの」に絞ったが、現代思想や現代美術の全般についての磯崎思考にも、ぜひ踏み入ることをお勧めしたい。たとえば『いま、見えない都市』(大和書房)とか、『≪建築≫という形式』(新建築社)とか、『人体の影』(鹿島出版会)とか。