才事記

綺想の饗宴

高山宏

青土社 1999

 祇園南海は「趣は奇からしか生まれない」と書いた。その「奇」は「正」や「恒」と闘うものであるとも書いた。注目すべきは、だから奇こそが反俗なのだというくだりだ。
 奇なるものを見いだして案内すること、その奇に入って奇に属することなくそこを出てくる振舞の手法を指南することは、たんに思想をのべることをはるかに超える営みである。この案内と指南の仕方にマニエリスムやレキシコグラフィやニュークリティシズムが生まれた。

 高山宏を褒めすぎて褒めすぎることはない、とぼくはおもっている。そのくらい果たしてくれた役割は、貴い。
 誰もそういう役は勘弁だというならぼくが引き受けてもよいけれど、おそらくはグノーシス主義ゴシック、魔術的ルネサンス、マニエリスム、モダンスペクタクル、アートフル・サイエンス、世紀末幻想、シュルレアリスム、ニュークリティシズム、さらには英文学、探偵文学、キャロル主義者、記号論(いやいや、もっとこれ以上の領域をあげてもいいのだが)、それらにかかわるすべての学徒がこのさい挙って、たとえば「高山さん、ありがとう」を叫ぶべきなのだ。
 それは、高山宏が澁澤龍彦から由良君美をへて中野美代子に及んだ先見に対して、またグスタフ・ルネ・ホッケからウィリー・サイファーをへてバーバラ・スタフォードに至った充当に対して、つまりは自身にヒントを与えてくれた「奇」に分け入った先達たちにつねに配慮し敬意を表し、あまつさえかれら先達たちの案内と指南を継承超越することをもって「奇に出て奇を出る」という執筆の日々を送ってきた高山宏の“仁義”に応えるためにも、ぜひぜひ必要なことなのである。
 しかしながら、これが高山ファンにもできてはいない。理由はわからないが、察するに、高山宏の鋭意と速度が勝ちすぎて、誰もその隙に介入できず、いたずらにそのカルト的な知の乱舞の捕捉をあきらめているということなのだろう。それほどに高山宏の領域に置かれたテーブル=タブロー=タブレットには、すべての案内と指南の脈絡が乗っている。
 しかし、高山宏の知をカルトと呼んで片付けることほど横柄な無礼はない。祇園南海が書いたように、奇は反俗なのである。それゆえ、その知はカルト的なのではなくバルト的であり、デカルト的でなくレトルト的なのだ。おっと、これは洒落。

 さて、こんなふうに言い募ったうえで“一冊の高山宏”を選ぶのは至難であるけれど、ここでは最近の高山節がとくによく見えて、どこか高山による高山案内になっている本書をもって、高山賛歌の一端を担うことにした。
 『綺想の饗宴』とあるように、まさに「奇」や「綺」や「畸」を扱っている。1995年以降の、たぶん依頼されて書いたであろう原稿を約30本ほど集め、これに編集的アラベスクを付与した一冊だ。諸君には『アリス狩り』から一冊ずつ読まれることを勧めたいが、本書自体がアリス狩りシリーズの4弾目として、またマニエリスムの目を縦横に張りめぐらせた『魔の王が見る』の続編にあたるように拵えられている。あとがきには「わくわくするような本をつくりたかった」と珍しく素直に本人は書いているが、わくわくというよりどきどきする。あいかわらずプロローグとエピローグがうまいし、ルビの使い方は達芸である。

 本書の狙い、つまりは高山宏の積年の周到な狙いをとうてい一言では説明できないものの、きっとここを漢字一字でいえば、「露」「憑」「穿」とは何かということなのである。
 「露」は露出すること、何かが内から外へ露れることをいう。夜露や露地がそうであるように、何かに向かって出てきたもので、英語のエクスポーズも「外」(エクス)に「置く」(ポーズ)という組み立てになっている。
 しかし見方を変えれば、そのような露呈がおこるということは、 その突起や流出を余儀なくしたなんらかの内部意思の過飽和があるはずだということで、そこにはすでに外部の事情に共鳴してしまった「憑」がおこっている。ポゼッションである。夜露も勃起も、病気のせいで顔面が蒼白になることも、急に何かを喚きたくなることも、エクスポジションであってポゼッションなのだ。しかもそこには必ずやポゼス(所有・支配)が背後に迫っている。
 このような「露」と「憑」が言語行為や美術行為にもおこっていることを断定してみせたのが、そもそもマニエリスムとその裏腹の関係にあるエンライトメント(啓蒙)というものだった。そこでは知もまた“露憑”という衝動をもつ。
 ようするに「露」とはいえ、ただのストリップティーズではなくて(それも大いにあってよいが)、たとえば病弱によって体の外に兆候があらわれるように、言葉を選んで紡ぐことや林檎を精密に描くことにも、“露憑”がおこっているとみなすわけなのである。そう考えてみると、皮膚の上に施した外的な刺青でさえ、実は身体や意思の内側から何か龍やら薔薇やら秘文字のようなものが、倶利加羅紋紋(ミナザビーム=紋中紋)としてあらわれたとみなすこともできたのだ。

 こんなふうに中から出てきた「露」「憑」を、あえて外からリバース・エンジニアリングすること、つまりは技や知によって再挿入を試みていくこと、それが「穿」あるいは「窄」、また「鑿」ということである。これらのサクは「裂く」「咲く」に通じる。
 グロッタ(洞窟)という言葉から生まれたグロテスクという趣向は、まるで地球の内部が露出してきた様相を呈する洞窟を、そこを通って内奥に入っていくための入口とみなして次々に加飾することをいう。ゴシックな部屋やロココな書斎を異様な書棚で飾り、そこに万巻の書物を配するのは、したがってマニエリスムであってグロテスクであって、しかもその内奥へのそれぞれの無数のアイコンをもつ穿知構造というものなのである。
 この「穿つ」というすぐれて遡及的で遡知的な行為は、同時にそれまで「露」「憑」にとどまっていた他者の知技を「做」にしていくということをもたらしていく。
 となると、たとえば蒐集、聚集、編輯ということもたんなるコレクションではないことが見えてくる。博物学・博覧会がそうであるように、蒐められた異物はつねにワンダーカンマー(驚異陳列)としてわれわれの知識の内外をゆさぶるものなのである。模写や剽窃や滑稽ということも、たんなる表層の技法なんぞではない。それは内部をめくるエクスポーズ行為なのだ。
 これでだいたい見当がつくだろうが「奇」とはエキセントリックなことを意味するけれど、それはエクス(脱)・センター(中心)なのである。かくていっさいはアルス・コンビナトリア(結合術)とフィギュラリズム(象徴術)の裡にある、という結構だ。

 本書ではこういうことを、夥しい研究成果の書物案内・読解指南のフリをしながら穿ってまとめてある。ご他聞にもれず、高山推薦の快著・魔著・驚著の書名が乱舞する。
 ちょっとだけ本書に紹介されている書名をピックアップしておくと、著作順ではないが、ブラウン『エロスとタナトス』、ターナー『儀礼の過程』、ホッケ『迷宮としての世界』『文学におけるマニエリスム』、ロッシ『普遍の鍵』、ブリヨン『幻想芸術』、イエイツ『世界劇場』、カイザー『グロテスクなもの』、ラブジョイ『存在の大いなる連鎖』、スタイナー『脱領域の知性』、プラーツ『記憶の女神ムネモシュネ』『肉体と死と悪魔』『官能の庭』『綺想主義研究』、サイファー『文学とテクノロジー』、アルバース『描写の芸術』、ダイクストラ『倒錯の偶像』、ノイバウアー『アルス・コンビナトリア』あたりがキー本で、次のようなものがそこからの爆発点になる。
 たとえば、カウフマン『自然の征圧』『綺想の帝国』、バクサンドール『影と啓蒙主義』、レイナム『修辞の動機』ペルジーニ『創造的記憶』、カッシュ『地が動く』、ギルマン『健康と病』、ジャンヌレ『食と言語』、ロミ『悪食大全』、アモン『エクスポジション』、スタフォード『ボディ・クリティシズム』、ダストン『驚異と自然の秩序』、コーズ『テクストの中の目』『インターフェランスの芸術』、ジョーダノーヴァ『セクシャル・ヴィジョン』、キルガー『コミュニオンからカニバリズムへ』、などなどといったところ。特徴はいずれも大著だということだ。

 付言追伸。ぼくの高山宏に対するオマージュは『ブック・カーニヴァル』という分厚い本の巻頭にあります。いつかどうぞ。また、現在の高山夫人は編集工学研究所にいたエディターの小野寺由紀でした。お孃ちゃんの名をありすといいます。

参考¶高山宏の著書はデビューの『アリス狩り』(青土社)にはじまって、『目の中の劇場』(青土社)、『ふたつの世紀末』(青土社)、『パラダイム・ヒストリー』(河出書房新社)、『メデューサの知』(青土社)、『黒に染める』(ありな書房)、『世紀末異貌』(三省堂)、『テクスト世紀末』(ポーラ文化研究所)、『ガラスのような幸福』(五柳書院)、『終末のオルガノン』(作品社)、『痙攣する地獄』(作品社)と続く。