才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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正法眼蔵

道元

鴻盟社 1952

 道元の言葉は激しくて澄んで、蹲っている。一切同時現成である。
 高速でいて雅量に富んでいる。刀身のようでいてその刀身に月が映じ、さらにその切っ先の動きは悠久の山水の気運に応じたりもする。言葉そのものが透体脱落して、観仏三昧を自在に往来する。漢語が日本語になろうとして躍っているようにも感じる。こういう仏教哲学はほかにはない。
 しかし困ることがある。道元を読みはじめたら類書や欧米の思想書を読む気がしなくなることだ。それほどに、いつも汲めども尽きぬ含蓄と直観が押し寄せてくる。湧いてくる。飛んでくる。深いというよりも、言葉が多層多岐に重畳していて、ちょっとした見方で撥ねかたが異なってくる。水墨画には破墨と潑墨という技法があるのだが、それに近い。墨が墨を破り、墨が墨を撥ねつける。だから、道元の読みかたは2つしかない。よほどに向き合いたくてゆっくりと道元に入っていけるときに読むか、聖書を読むように傍らにおいて呟くように読むか。
 ぼくも、その両方で読んできた。聖書のように読むのには、昭和27年発行の鴻盟社の『本山版正法眼蔵』縮刷本を愛用した。本山版というのは95巻本をいう。これはソフトカバーで手にとりやすく、読みやすい。あれほど大部の『正法眼蔵』が片手に入る。こういうハンドリング感覚というものはアフォーダンスがよいので妙なもの、『正法眼蔵』をコンサイスの辞書のように読んでいると、道元に入るというよりも、自分の前の何かの器に道元のミルクを移し変えているような気分になる。
 ゆっくり読むときは、校注本や訳注本あるいは現代語の訳文がついている対訳本を見る。最初のうちは岩波日本思想大系をベースキャンプにしてきたが、道元の言葉はあたかも複合文様のごとくにいかようにも読めるので、テキストを変えることも多い。また道元には『永平広録』や『永平元禅師語録』も、さらに『正法眼蔵随聞記』もあって、これも見逃せない。良寛が「一夜灯前 涙とまらず 湿し尽す永平古仏録」と感想を書いたのは、おそらく『道元禅師語録』である。そういうものも読む。
 関連書も多い。だから、そのまま研究書や評釈本に進んでしまうこともあるが、それはそれで夢中になれるのだ。二年ほど前には何燕生の『道元と中国禅思想』(法藏館)を読んだばかりだった。道元は中国で如浄に出会えて「眼横鼻直」を問われ「単伝正直」を知り、それなのに「空手還郷」をもって帰朝したのだが、これだけの話ではどうも中国禅との関係が見えきらなかったので、読んでみた。やはり道元は中国禅にあまり詳しくはない。また一年前には山内舜雄の大冊『道元禅と天台本覚法門』(大蔵出版)を読んだのだが、これは失望した。
 こういうぐあいだから、道元を読むといってもいつも右往左往だ。けれども、そこまでしてでも道元にさんざん振り回されることはなによりの快感で、これが親鸞や日蓮ではそうはいかない。明恵、栄西、疎石もこうではない。道元から一休にまで跳ぶ。
 向こうから道元がスタスタ歩いてやってくることもある。
 最近のことでは、かつて現代思潮社の社主として澁澤龍彥とともにサド裁判などでならした石井恭二さんが、1990年代に入って『現代文正法眼蔵』の大翻訳を敢行し、その書評や対談を頼まれたのがきっかけで、道元を現代哲学のように読み返すことが続いていた。そこへ、知人の平盛サヨ子が大谷哲夫『永平の風』(文芸社)のエディトリアル・ライティングを担当して、また道元にふれることになり、さらに大阪の講演会で一緒になった立松和平ともなぜか道元の話になって、さっそく『道元』(小学館)を送ってきた。ある版元から「道元を書きませんか」とも言われている。正直いって、とうてい書けそうもない。なにしろ四十年にわたる密会の恋人なのだ。
 思い返すと、最初に道元を読んだのは学生時代のこと、森本和夫が早稲田での談話会で『正法眼蔵』の話をして刺激をうけたときのことだ。寺田透の校注で、「有時」の一節、「いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり」に惹かれた。
 道元にアランやハイデガーやベルクソンを凌駕する時間哲学があることを知ったのは、ある意味では道元にひそむ現代的な哲学性に入りやすくなったのではあったが、反面、道元の禅者としての格闘を等閑視することになり、その後は、むしろ現代性をとっぱらって、いわば直面あるいはすっぴんで道元を読むほうに傾いた。
 そういうときに大乗禅の師家である秋月龍珉さんがぼくの前にあらわれて、「君の空海論や大拙論は出色だ」と言い出したかとおもうまもなく、なにかにつけては呼び出されるようになるうち、道元と西田幾多郎の読み方のお相手をさせられるようになった。ちょうど秋月さんが、そのころはまだ一般向けがめずらしい『道元入門』(講談社現代新書)を書いたあとだったと憶う。
 
 道元を読むと、そこに浸りたくなる。その峡谷から外に出たくなくなっていく。それを道元は望んでいないともおもえるが、だったらその浸るところはどこかも考えたくなる。似たようなことを感じた人は当然いくらもいるようで、岩田慶治の『道元の見た宇宙』(青土社)のばあいは、“flow”という一語をあげた。そのフローに浸るというか、そこを漂うというか、自身をフローさせつつ道元とともに生の世界像に一身を任せるのが道元を読むことだという主旨になっている。
 寺田透の『透体脱落』(思潮社)は、道元ばかりを扱っているのではないけれど、やはり主旨の中核を道元が占めている。寺田は「僕に残す光それ自体であるやうな虚無、しかし意力の充満した美しい虚無のかんじにさそはれる」と書いた。寺田は道元が放った光に浸った。それが吉田一穂では、自身の脊髄を道元と合わせて極北の軸を自らに突き刺すことをもって道元に浸るのだから、これは苛烈な道元との合体だ。
 みんながみんな、道元を好きに読んできた。それが道元の「逆対応」という魅力であった。そこには禅のもつ魅力もむろん関与しているが、それだけではなく、道元の文才や言葉づかいや独自の用法もあずかっている。すでに井上ひさしが『道元の冒険』でもあきらかにしたことだ。

 さて、このようなことを綴ってばかりでは、いつまでたっても『正法眼蔵』には入れないので、周縁余談はこのへんにして、では、以下にはごくごく僅かな隙間から洩れ零れる道元の裂帛の言葉を案内しておきたいとおもう。もっとも、こんなことをするのは初めてで、やりはじめてみてすぐわかったのだが、もっと早くにこういうノートを何種類も作っておけばよかったと悔やむばかりなのである。

 5年におよんだ入宋の日々を終えた道元は、安貞元年(1227)に帰国すると建仁寺に身を寄せて、『普勧坐禅儀』を書いた。坐禅の心得と作法の一書である。しかしそれが、従来の仏教のいっさいの贅肉を鉞で殺ぐたぐいのものであったため、天台本拠の延暦寺に刃向かう誹謗非難とうけとられ、建仁寺も道元を追い出しにかかった。鎌倉以前の仏教は今日と同様に、贅肉だらけだったのだ。
 やむなく深草極楽寺の安養院に退いた道元は、「激揚の時をまつゆゑに、しばらく雲遊して先哲の風を聞く」という覚悟をするのだが、このとき30歳をこえたばかりの道元はさすがに憤懣やるかたない。
 そこで比叡山を無視して潔く説法を開始してみると、学衆が次々に集まってくる。天福元年(1233)、宇治に道場の興聖寺を作って正式に法話を語ることにした。それが『正法眼蔵』の最初の「現成公按」と「摩訶般若波羅蜜」の2巻になった。以降、年を追って巻立てがふえていく。
 すでに書いたように、この『正法眼蔵』にはいくつかの写本があるのでどれをもって定番とするかは決めがたいのであるが、ここでは75巻本をテキストとして以下に列挙した。ところどころに勝手な解説をつけた。全部を埋めなかったのは、そういうやりかたが道元流であるからだ。

序「辨道話」。
これは『正法眼蔵』本文に序としてついているのではないが、長らく序文のように読まれてきた。「打坐して身心脱落することを得よ」とある。この言葉こそ、『正法眼蔵』全75巻あるいは全95巻の精髄である。

一「現成公按」。
有名な冒頭巻だが、「悟上に得悟する」か、「迷中になお迷う」かを迫られている気になってくる。道元は、仏祖が迷悟を透脱した境涯で自在に遊んだことをもって悟りとみなした。それが「仏道を習ふといふは自己を習うなり、自己を習ふといふは自己を忘るるなり」の名文句に集約される。

二「摩訶般若波羅蜜」。
『正法眼蔵』は般若心経を意識している。しかし道元は「色即是空・空即是色」をあえて解体して、「色是色なり、空是空なり」とした。『正法眼蔵』はあらゆる重要仏典の再編集装置であるといってもいい。

三「仏性」。

四「身心学道」。

五「即心是仏」。

六「行仏威儀」。

七「一顆明珠」。
39歳のときの1巻。道元の好きな「尽十方世界是一顆明珠」にちなんでいる。よく知られる説教「親友に譲るものは最も大切な明珠であるべきだ」というくだりは、仏典の各所にも名高い。ぼくは親友(心友)に何を譲れるのだろうか。

八「心不可得」。

九「古仏心」。

十「大悟」。
いったい何が悟りかと、仏教に遠い者も近い者もそれをばかり訊ねたがる。しかし悟りは意味を問わない。道元は、「仏祖は大悟の辺際を跳出し、大悟は仏祖より向上に跳出する面目なり」と言ってのけた。これでわからなければ、二度と悟りなどという言葉を口にしないほうがいいという意味だ。

十一「坐禅儀」。

十二「坐禅箴」。

十三「海印三昧」。

十四「空華」。
ここは世阿弥の「離見の見」を思い出させるところ。道元はそれを「離却」といった。

十五「光明」。
ここにも「尽十方界無一人不是自己」のフレーズが出てくる。尽十方界に一人としてこれ自己ならざるなし、である。華厳の世界観は十方に理事の法界を見たのだが、道元は十方に無数の自己の法界を見た。

十六「行持」。
「いま」こそを問題にする。「行持のいまは自己に去来出入するにあらず。いまといふ道は、行持よりさきにあるにはあらず。行持現成するをいまといふ」。さらに「ひとり明窓に坐する。たとひ一知半解なくとも、無為の絶学なり、これ行持なるべし」とも書いた。一方、「仏祖の大道、かならず無上の行持あり、道環して断絶せず」は、露伴の連環につながっているところ。

十七「恁麼」。
「いんも」と読む。「そのような、そのように、どのように」というようなまことに不埒で曖昧な言葉だ。これを道元はあえて乱発した。それが凄い。「恁麼なるに、無端に発心するものあり」というように。また「おどろくべからずといふ恁麼あるなり」というふうに。

十八「観音」。

十九「古鏡」。
鏡が出てきたら禅では要注意だ。きっと「君の禅を求める以前の相貌はどこに行ったのか」と問われるに決まっているからだ。

二十「有時」。
道元はつねに「無相の自己」を想定していた。その無相の自己が有るところが有時である。これを、時間はすなわち存在で、存在はすなわち時間であると読めば、ハイデガーやベルクソンそのものになる。

二一「授記」。

二二「全機」。

二三「都機」。
ツキと読む。月である。『正法眼蔵』のなかでは最もルナティックな一巻だ。「諸月の円成すること、前三々のみにあらず、後三々のみにあらず」。道元は法身は水中の月の如しと見た。

二四「画餅」。
ここは寺田透が感心した巻だ。「もし画は実にあらずといはば、万法みな実にあらず。万法みな実にあらずは仏法も実にあらず。仏法もし実になるには、画餅すなはち実なるべし」という、絶対的肯定観が披瀝される。

二五「渓声山色」。
前段に「香巌撃竹」、後段に「霊雲桃花」を配した絶妙な章だ。百丈の弟子の香巌は師が亡くなったので兄弟子の潙山を訪ねるのだが、そこで、「お前が学んできたものはここではいらない。父母未生已前に当たって何かを言ってみよ」と言われて、愕然とする。何も答えられないので、何かヒントがほしいと頼んだが、兄弟子は「教えることを惜しみはしないが、そうすればお前はいつか私や自分を恨むだろう」と突っぱねた。そのまま悄然として庵を結んで竹を植えて暮らしていたところ、ある日、掃除をしているうちに小石が竹に当たって激しい音をたてた。ハッとして香巌は水浴して禅院に向かって祈った。これが禅林に有名な香巌の撃竹である。「霊雲桃花」では、その竹が花になる。

二六「仏向上事」。

二七「夢中説夢」。

二八「礼拝得髄」。
41歳のころの執筆。きわめて独創的な女性論・悪人論・童子論になっている。ぼくも近ごろはやっとこういう気分になってきた。7歳の童子に向けても何かを伝えたいなら礼をもってするべきだというのだ。

二九「山水経」。
ぼくの『山水思想』(五月書房→ちくま学芸文庫)はこの一巻に出所したといってよい。曰く、「而今の山水は古仏の道、現成なり」「空劫已前の消息なるがゆゑに、而今の活計なり」「朕兆未萌の自己なるがゆゑに、現成の透脱なり」。これ以上の何を付け加えるべきか。

三十「看経」。 

三一「諸悪莫作」。
ふつう仏教では「諸悪莫作」を「諸悪、作す莫れ」と読む。道元はこれを「諸悪作ることなし」と読んだ。もともと道元は漢文を勝手に自分流に編集して読み下す名人なのだが、この解読はとりわけ画期的だった。諸悪など作れっこないと言ったのだ。

三二「伝衣」。

三三「道得」。
禅はしばしば「不立文字」「以心伝心」といわれるが、それにひっかかってはいけない。言葉にならずに何がわかるのかというのが道元なのだ。それを「道得」という。道とは「言う」という意味である。

三四「仏教」。
「仏心といふは仏の眼睛なり、破木杓なり、諸法なり」と、三段に解く。道元得意の編集だ。そのうえで「仏教といふは万像森羅なり」とまとめた。ここでは12因縁も説く。

三五「神通」。

三六「阿羅漢」。

三七「春秋」。
しばしば引かれる説法だ。暑さや寒さから逃れるにはどうしたらいいかという愚問に、正面きって暑いときは暑さになり、寒いときは寒さになれと教えた。絶対的相待性なのである。

三八「葛藤」。
かつてここを読んで愕然とした。「葛藤をもて葛藤に嗣続することを知らんや」のところに刮目させられたのだ。煩悩をもって煩悩を切断し、葛藤をもって葛藤を截断するのが仏性というもので、だからこそ仏教とは、葛藤をもって葛藤を継ぐものだというのである!

三九「嗣書」。

四十「栢樹子」。

四一「三界唯心」。

四二「説心説性」。
心性を説く。しかしそこは道元で、1本の棒を持たせて、その棒を持ったとき、縦にしたとき、横にしたとき、放したとき、それぞれを説心説性として自覚せよとした。デザイナーの鉛筆もそうあるべきだった。そこを「性は澄湛にして、相は遷移する」とも綴った。これはまさにアフォーダンス論である。

四三「諸法実相」。

四四「仏道」。

四五「密語」。
密語とは何げない言葉のことをいう。その微妙に隠れるところの意味がわからずには、仏心などとうてい見えてはこないというのだ。たとえば、師が「紙を」と言う。弟子が「はい」と寄ってくる。師が「わかったか」。弟子は「何のことでしょうか」。師「もう、いい」と言う。これが曹洞禅というものである。

四六「無情説法」。

四七「仏経」。

四八「法性」。
道元は34歳で興聖寺をおこしたが、比叡山から睨まれていた。そこで熱心なサポーターの波多野義重の助力によって越前に本拠を移す。そして44歳のとき、この一巻を綴った。「人喫飯、飯喫人」。人が飯を食えば、飯は人を食うというのだ。飯を食わねば人ではいられぬが、人が人でいられるのは飯のせいではない。飯を食えば飯に食われるだけである。道元はこれを書いて越前に立脚した。

四九「陀羅尼」。
陀羅尼の意味を説明するのだが、それを道元は前巻につづけて、寺づくりは「あるがままの造作」でやるべきこと、それこそが陀羅尼だというメタファーを動かした。たいした事業家なのである。

五十「洗面」。

五一「面授」。
いったい何を教えとして受け取るか。結局はそれが問題なのである。いかに師が偉大であろうと、接した者が「親の心子知らず」になることのほうが多いのは当然なのだ。しかし面授は僅かな微妙によって成就もするし失敗もする。道元は問う、諸君は愛惜すべきものと護持すべきものを勘違いしているのではないか。

五二「仏祖」。

五三「梅花」。

五三「梅花」。
「老梅樹、はなはだ無端なり」。老いた老梅が一気に花を咲かせることがある。疲れた者が一挙に活性を取り戻すことがある。「雪裏の梅花只一枝なり」。道元は釈迦が入滅するときに雪中に梅花一枝が咲いた例をあげ、その一花が咲こうとすることが百花繚乱なのだということを言う。すでにここには唐木順三が驚いた道元による「冬の発見」もあった。

五四「洗浄」。

五五「十方」。

五六「見仏」。
自身を透脱するから見仏がある。「法師に親近する」とはそのことだ。相手を好きになるときに自身を解き、相手に好かれるときに禅定に入る。が、それがなかなか難儀なのである。

五七「遍参」。
仏教一般では「遍参」は遍歴修行のことをいう。しかし道元は自己遍参をこそ勧めた。そこに遍参から「同参」への跳躍がある。

五八「眼晴」。

五九「家常」

六十「三十七品菩提分法」。

六一「竜吟」。
「竜吟」。あるときに僧が問うた、「枯木は竜吟を奏でるでしょうか」。師が言った、「わが仏道では髑髏が大いなる法を説いておる」。それだけ。
六二「祖師西来意」。

六三「発菩提心」。
越前に移った道元はいよいよ永平寺を構えるという継続事業に乗り出した。その心得をここに綴って、その事業の出発点を「障壁瓦礫、古仏の心」というふうに肝に銘じた。素材が古かろうとも、そこにあるものを寄せ集めた初心を忘れるなということだ。

六四「優曇華」。

六五「如来全身」。

六六「三昧王三昧」。
仏教が最も本来の三昧とする自受用三昧のことである。道元は三昧を一種としないで、つねに多種化した。

六七「転法輪」。

六八「大修行」。

六九「自証三昧」。
岩田慶治が好んだ「遍参自己」が出てくる。「遍参知識は遍参自己なり」と。先達や師匠のあいだをめぐって得られる知識は、自分をめぐりめぐって得た知識になっているはずなのである。

七十「虚空」。

七一「鉢盂」。
鉄鉢は飯器のようなものだが、禅林ではこれを仏祖の目や知恵の象徴に見立てて、編集稽古する。このときたいてい「什麼」が問われる。「什麼」は「なにか」ということで、この「なにか」には何でもあてはまる。何にでもあてはまるから、何でもいいわけではなくなってくる。その急激な視野狭窄に向かって、道元が「それ以前」を問うのである。

七二「安居」。

七三「他心通」。

七四「王索仙陀婆」。
寛元四年(1246)、大仏寺は日本国越前永平寺となった。開寺にあたって道元は寺衆に言った、「紙衣ばかりでもその日の命を養へば、是の上に望むことなし」と。

七五「出家」。
道元は53歳の八月に入滅した。あれだけの大傑としてはあまりの早死にであろう。芭蕉や漱石の没年に近い。遺偈は「五十四年、第一天を照らし、趺跳を打箇して大千を触破す。咦、渾身もとむる処なく、活きながら黄泉に陥つ」というものだった。